人智学を創始したシュタイナーの、霊界(神界)から与えられた本来の任務は、西洋において再受肉(輪廻転生)の教えを復活させることであったとされる。人智学や精神科学(霊学)を発展させることは、実は別の人物に期待された任務であったが、それがうまくいかなかったことから、シュタイナーがそれを引き受けることになったようなのである。
輪廻の思想は勿論、人智学の中にそもそも含まれているのだが、輪廻を理解する前提として霊的な事柄に関する理解が必要であり、輪廻の具体的な教えと霊学はそれぞれ別々の人間に使命として与えられていたのだが、結局、シュタイナーが一人で担うことになったのだ。
このようなことから、初期においてもカルマや輪廻について語ることはあったが、シュタイナーがそれについて本格的・集中的に語り始めたのは、晩年になってからであった。それは、具体的な歴史上の人物の具体的事例をも含むものであった。
さて、輪廻転生とは、「魂」(実際には霊的個我)が地上で再受肉を繰り返すことである。そして、地上でどのような生を送るかを決めるのがカルマ(業)である。
人は、睡眠において肉体を抜け出し霊界に参入し(自我とアストラル体が肉体とエーテル体から抜けていく)、また肉体に戻って目覚める。これと同じように、人は死ぬと霊界に行き(この場合、エーテル体も肉体を離れるので肉体は滅びる)、一定の期間、魂の浄化を経て、霊界で過ごした後、また地上に自分に適した肉外(それを取り巻く状況も関係する)を見つけて受肉するという行為を繰り返している。
再受肉していくのは、人が霊的に進化していくためには、一度きりの人生ではそれをなしえないからである。未熟な人間は過ちを犯す。これを修正し、よりよき存在へと変化していかなければならないのだ。そのためにも、犯した過ちは償わなければならない。こうして霊的に進化していくことが人には課せられており、これを実現できるように働くのがカルマ-因果応報-の法則なのである。
こうした輪廻やカルマの思想は東洋に特有なものと思われるかもしれないが、西洋にも存在した。古代ギリシアでは、オルフェウス教やピタゴラス派で説かれ、プラトンなども霊魂の不滅と転生を語っている。
その後、キリスト教の時代になると、この教えは消えていった。553年の第2コンスタンティノポリス公会議において輪廻の思想は否定されることとなり、むしろ、それは異端的教説となったのである。ということはしかし、キリスト教にも、初期には、輪廻を説く教派も存在したということである。
また聖書自体にもそれを示唆する記述が存在する。
マタイ福音書に、洗礼者ヨハネを巡って、彼が、メシア(キリスト)の前に現れるとされるエリヤではないかという、キリストと弟子達の次のような問答が述べられている。
「しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでにきたのだ。しかし人々は彼を認めず、自分かってに彼をあしらった。人の子もまた、そのように彼らから苦しみを受けることになろう」。そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った。(マタイ福音書17:12-13)
このように、キリストは、洗礼者ヨハネが再受肉したエリヤであると認めているのである。
輪廻思想が人々から遠ざけられたのも、実は、人の意識の進化の上で要請されたものであった。中世から近代にかけて、人は、自らの内に核となる個我を成長させなければならなかったのだが、そのためには、人は物質世界に向き合う必要があり、輪廻の思想がむしろ障害となる恐れがあったのである。
だが、時代は変化した。今は、人類が再び霊性を取り戻さなければならない時代となっている。それが人類の進化の道であり、そのために再び輪廻とカルマの思想が語られなければならないのだ。シュタイナーの大きな使命の1つはここにあったのである。