k-lazaro’s note

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「二人の子どもイエス」とは ⑫

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  ズルデルノのフレスコ画(上が全体、下がその一部)

 ⑪で「キリスト・ロゴスと密接に結びついたイエス」について触れた。歴史上のイエスは、「イエス・キリスト」と一般に呼ばれるが、実は、以前にも述べたように、イエスとキリストは別々の存在である。このイエスとキリストの関係に触れて、クラウゼ・ツィンマーは、『絵画における二人の子どもイエス』で、非常に珍しいという上の絵について次のように解説している。

エスとキリストのこの相違とそして同時に両者の関係の驚くべき表現が、ズルデルノSluderno(南チロル、ヴィントシュガウ)〔イタリア・トレンティーノ=アルト・アディジェ州、独語Schluderns〕、の小教区教会〔訳注1〕のフレスコ画にある。その北の壁の一部はマリアの生涯に捧げられている。3つの描写-〔マリアの〕死、昇天、戴冠-が合わさって中央部分を構成している。この主要テーマは、薄い赤色のバラの花輪に縁取りされた8つの丸い絵-それらは、聖霊降臨に至るマリアの生涯の各段階を示している-に囲まれている。しかしそれは、どこから始まるのだろうか。受胎告知からではない。それは第2の場面である。最初の丸絵は、天界の青の中に、地上世界の上そして外側に置かれている。それは4人の人物を描いている。左に父なる神が座っている。黄金の地球が膝の上にあり、その上にある十字架は、父があらかじめこの地球に定めた運命を示している。
 静かに添えられた左手は地球をしっかり押さえているが、右手は動いており、十字架の高さで、対面にいる人物を指し示している。その眼差しと共に、前に突き出た白い髭は、明らかにこのもう一人の人物に対して、ここで語られるべき言葉-「これはキリストである」-を投げかけている。彼は、父の方を向いて、両手を胸のところで軽く交差させている。彼は、謙虚にまた威厳をもって、ここで与えられた使命を受け入れている。それは従者としてではなく、自分の意志が父の意志と一つである子として、である。
 二人の間、あるいはその前に-すっかり前景にいる―、見る者に背を向け て、一人の女性がひざまずいている。彼女の水色の衣装には、露わになった黄金の髪がかかっている。彼女はこの絵のすべての人物と同じ光輪を頭に持っている。マリアの生涯が描かれているので、それはマリアに違いない。彼女は、その顔と掲げた両手を(肩越しに左手が見える)父なる神に向けている。ここで語られている言葉、ここで与えられた使命は、彼女にも関係しており、彼女は開かれた魂でそれに同意している。
 彼女の反対側に、円環を完成するものとして、父と子なる神の間に、年齢でいえば、例えば12歳の子どもを描く時のような歳の子どもがいる。彼は肩まで伸びた髪の毛を見せており、見る者に正面を向けている。彼の衣装はキリストに似ており、ただ色が淡い-淡い桃色がかった赤色-だけである。
 使命を授ける父の言葉は、この子どもの傍を通ってキリストに投げかけられている。彼は、両者の間で同じ高さにいるので、彼はそもそもその会話の中身であるかのようである。彼は、両手を胸の前で合わせており、指の先は軽く触れ、内側に向いている-彼は、自分に結びつけ、内面化している-。彼もまた、その使命の自分に関わるものを引き受けている。
 地上での受胎告知の前のこの天上の会議は、これに密接にかかわる者を表している。その出来事の時期を自身の意識によって決める父なる神、それに賛同するキリスト、そしてその受肉がここで明らかにされた、天的・アポロ的なイエスである〔訳注2〕。ただマリアだけが、この高みにある円環の中でひざまずいている。それは、救済の行いに自身を捧げる人間の魂であり、あるいはまた人類の魂でもある。視線を、今や地上で受胎告知をする天使がマリアを訪れている次の絵に向けると、彼女は、その根底の本質においては驚いていないことが分かる。彼女の魂の奥底には、既に彼女の使命についての知識があったのである。そして彼女は既に同意しているのである。彼女は、その同意を今や地上の意識の中で新たにしなければならならず、そしてそれは、またある瞬間に彼女の地上の人格によって驚きとして急に現われるのである。しかし、彼女の内なる耳はその知らせに対して既に準備ができているので、基本的に彼女は、そもそも今はただ天使の知らせを耳に入れるのみである。
 この画家は、その繊細なフレスコ画によって沢山の重要な事柄を語っている。つまり、大いなる出来事は、霊界の準備なくして生じないということ。更に言えば、人の魂は、自身に犠牲を負わせる出来事を自ら担う準備ができているかどうかを、その人格の深みにおいて、あらかじめ問われていることを。何故なら、犠牲というものは自身の意志に基づいてのみ行うものであるからである。そして3番目には、すぐに受肉するイエスはキリストではなく、これらは〔異なる〕二つの存在であるということを、である。
 この光景で取りあげられている、そしてイエスとキリストの受肉の前に霊界において生じた出来事に関わるこのテーマは、これ以外ではほとんど絵画において現れたことはない。コンラート・ヴィッツ〔ドイツの画家。1400年~1410年生、1445か1446年に死去〕は、(ベルリンのダーレムの)祭壇の絵でこれと似たものを描いている。父なる神は、彼の前で祈りながら立っているキリストに対して使命を与えている。二人の間には子羊が大きな本の前にいる。その上には鳩が飛んでいる。人はそれを「神の思し召し」と呼んでいる。ズルデルノの絵を特別なものとしているマリアと子どもは描かれていない。

 〔訳注1〕著者は、他の著作『キリスト教の年祝祭の明かなる秘密-絵画考察論集Ⅰ』において、「これについての文書は残っておらず、北壁の尖頭アーチ部のマリアの生涯は、1540年頃の制作との解説があるのみである。」としている。この教会は、この地の、15世紀に創建された聖カタリナ教会St. Katharinaであると思われる。
 〔訳注2〕シュタイナーによれば、ギリシア神話のアポロはキリストに貫かれた天使的存在であり、後にナタン・イエスとして現れたとされる(『シュタイナー用語辞典』西川隆範)。このことから、天的・アポロ的イエスとは、受肉前のナタン・イエスのことを指しているものと思われる。

 キリストはロゴス、即ち世界の創造に関わる神的存在であるが、イエスはあくまでも人間である。だが、神的存在をその体に担うというようなことは、通常の人間にはなしえない。やはり特別な人間でなければ不可能なことである。そしてその魂は、生まれる以前に既に霊界においてキリストとの密接な関係をもっていたのである。またそれは、聖母マリアにおいても同様であった。

 この世の出来事はすべて、霊界・神界において予め定められているのである。