k-lazaro’s note

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人間の見えない体

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ボッティチェリ「ヴェヌスとマルス

 現代の科学的常識では、人は肉体しか有していないとする考えが優勢である。しかし、かつて、人が目に見えない別の「構成体」を有しているとする考えは、普通であった。
 以前、人が体・魂・霊の3つの要素からなるという考えを紹介した。これは、人性3分説(trichotomy トリコトミー)という。キリスト教により異端説として排斥されるまでは認められていた考えであり、シュタイナーを初め秘教学派はこの立場をとっている。体は肉体、物質的身体であり、魂は、個人的な感情や思考などの心理的活動の場、霊は精神とも言われるが、客観的でより根源的な性質を持っている。
 客観的、根源的とはどういうことかというと、例えば、思考は個人の心理(精神)活動であるが、三角形という図形を考えるとすると、それはすべての人で、「同一直線上にない3点と、それらを結ぶ3つの線分からなる多角形」となるはずで、ここに人間の恣意が入る余地はない。即ち客観的・普遍的なのである。それは精神世界、霊界にその本源が存在するからである。そして、それがむしろ物質世界の元となっているのである。
 (古代ギリシアプラトンらもこのような思想でをもっていたが、かつて、中世キリスト教神学においては、普遍的な概念(イデー)が個別の事物よりも先に存在するか否かの論争があった。トマス・アクィナスは、それが先に存在するとしたが、その後の歴史はそれを否定する流れとなり、現代に至っている。人の頭が作った考えにすぎないということである。)
 人の心理(精神)活動には、こうして霊界の働きが入り込んでいるのだが、それは人が霊界と同じ実質(即ち霊あるいは精神)を備えているからである。
 現代人の意識では、魂や心魂、精神、霊等の言葉の間にあまり区別がない。実は、これを論じる者においても、これらを表現する言葉が統一されておらず、このため混乱が生まれることもある。現代人は、先ず、魂と霊を区別すると言うことに慣れていないのだが、その違いは一見微妙でもあり、理解が難しいのは確かである。
 更にややこしいことに、シュタイナーは、この3分説を基本としつつも、いくつかのバリエーションを説いており、更に複雑さが増すことになる。つまり、人性4分説、7分説、9分節もあるのである。
 先ず4分説ではどうなるかというと、体・魂・霊ではなく、身体・エーテル体・アストラル体そして自我となる。エーテル体とは、身体に生命を与えている精妙な実質で、植物も有している。目には見えないが、3分説でいうと体に属すと考えて良いだろう。アストラル体は、体というが、心理活動の場であり、魂に対応し、動物も有している。自我は、「私」という意識であるが、地上的存在では、人間のみが有している。実は、これも複雑で、本来、自我は霊に属すのだが、日常的な自我は、心理活動の主体としてむしろ魂に近いようだ。よく「高次の自我」、「真我」などという言葉を聞くが、これも、日常の自我と本来の霊的自我を区別する意識から出た言葉であろう。(自我については、別に項目を立てて論じたい。)
 次に7分説である。これは、今の4分説を、更に霊の部分で膨らませたものと言える。自我は、身体・エーテル体・アストラル体に働きかけて、それらを霊的構成要素に高めるという。これによりアストラル体は霊我、エーテル体は生命霊、身体は霊体というものになるのである。そしてこのように下位の構成要素を自我により高位の構成要素へと霊化していくというのが、人類が今後歩むべき進化の道なのである。その順序は、今述べたとおりで、自我に最も近いアストラル体から遠い身体の変容へと進むこととなる。
 最後に、9分説である。これにおいは、自我は、背景に退き(数に入らない)、魂の部分がより細分化される。アストラル体への働きかけにより感覚魂が形成され、同じくエーテル体が悟性魂に、身体が意識魂に変容するとされる。この場合、アストラル体は、魂の原基というか、自我が働きかける前の、動物と共通するものというような位置づけと考えれば良いだろうか。その本体が霊である自我が文字通り意識されるようになるのは、このうちの意識魂によってとされる。逆に言えば、人類の意識の進化を見ると、歴史の初めから、人は自我を意識していたのではないのである。
 シュタイナーによれば、これらの人の構成要素は、この物質世界で一度に最初から完成して存在しているのではない。身体から始まり、順次形成されてきたのである。そして、今は、意識魂が誕生し、成長している時代にあるという。意識魂は、霊的な本来の自我が生きる場である。つまり、今、霊界への扉が開かれてきていると言えるのである。

 さて、冒頭に掲載した絵であるが、これは、ルネサンス期を代表する画家の一人であるボッティチェリの絵である。ヴェヌスとは、ギリシアローマ神話の愛と美の神、マルスとは戦争の神であり、この絵は、一般には平和と戦争を象徴する寓意画であると解釈されている。これも解釈の一つとして成り立つのだろうが、フレッド・ゲッティングズは、別の視点で解釈している。以下、彼の『オカルトの図像学』(阿部秀典訳、青土社刊)から引用する。

 この絵に正しくアプローチするには、中世のオカルトの教義体系で、すべてを備えた人間からすると肉体はその一部にすぎない-人間は肉体の他にいくつかの霊体を有する-と考えられていたことを思いださなければならない。
 今のオカルティズムでは、肉体にもっとも縁のふかい霊体を「エーテル体」と呼ぶ。だが中世には、ウェゲタビリス Vegetabilis (生気をあたえる、植物性の)とかエンス・ウェネーニ Ens veneni(毒因)といったラテン名をはじめ、これにはけっこう異名もあった。また時代がくだってからの錬金術では、伝統的に「生気体」と呼ばれている。・・エーテル体は生命体なのである。したがってこれを、高次の「アストラル体」と混同してはならない。 こちらは感情体である。なお中世のオカルティストは、エーテル体をこんなふうに思いえがいていた。それは凡人の目には見えないものの、うねうねとした光体で、肉体とは反対の性からなると。
 ・・・ボッティチェリエーテル体と肉体の関係を描きだすことに関心があったとしてみよう。そして彼は、肉体が眠りにつけば、ェーテル体はそれまでよりずっと自由になり、さほど肉体に釘づけでいる必要がないというオカルトの公理を聞きおよんでいたと仮定してみよう。ただエーテル体には、肉体を生かしておくという目的がある。だからそれは、肉体からはさほど離れず、そのそばにとどまって用心ぶかく目を光らせながら、よく気を配っているというわけだ。
 さてそうなるとボッティチェリは、おのが女性のエーテル体にガードされて眠っている人間の肉体を描いたらしい。また肉体がいわば殻のようなものだと強調する点については、よろいというものに表現されている。よろいとうのは、からだを取りまく防御用の金属の殼にほかならないし、それもまた肉体と同じく生命がないからだ。さらによろいで遊ぶ四人の若いサテュロス(山野の精)も、いずれ劣らぬオカルトのシンボルで、四大元素をそれぞれ象徴している。すなわち、よろいをおもちゃがわりにしているサテュロスは、「地」を表わす。・・・四大元素は、あらゆる肉体や物体の形の基本になるといわれているからだ。そして第五元素「精髄」が、こうした四大元素をつなぎあわせるのだが、オカルト界ではよく、エーテル体は第五元素でできているといわれる。第五元素は、人間の目には見えないが、強力な光と生気の波動だと考えられているのである。・・・この女性像の動きのなめらかさと人体の深い昏睡状態は、まったく対照的だ。あるいは・・・その女性の油断おこたりない表情のなかに、エーテル体は肉体を恋しているという神秘的な概念、肉体というのはじつは「生気体」が時空に勢いよく押しだされてできたものにほかならないという概念を示そうとしているのである。・・・

 フレッド・ゲッティングズは、このように、一般に流布されている解釈と異なる、この絵に密かに隠された秘教的意味を解説している。彼によれば、中世やルネサンス期のいくつかの絵は、秘教的知識がなければその真の意味を理解することができないのである。
 彼がどこからこのような知識を得たのかはわからないが、隠されてきた伝統に触れる機会があったのではなかろうか。
 シュタイナーもまた、こうした秘教的知識を公開した秘儀参入者であった。それは、意識魂の時代において、来る霊性が開花する時代-キリストのエーテル界への出現にも関係する-を準備するためであった、と言えるだろう。