k-lazaro’s note

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「二人の子どもイエス」とは ⑬

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エスの誕生(ミュンスター大聖堂)

 引き続き、クラウゼ・ツィンマーの『絵画における二人の子どもイエス』から、クリスマス(イエスの誕生)の場面を描いた絵を見てみよう。それは、バーゼル〔スイス〕のミュンスター大聖堂の地下聖堂の大変素朴な絵である。しかし、よく観察すると・・・

入念にかつ正確に定められた相違が見られる。ルカの誕生では、小屋が見られる。それは、家具がなく、遮蔽物もほとんどなく、情景の質素さを表している。牛とロバは、編んで作った飼い葉桶の緑の草を噛んでいる。青いマントで全身を覆われているマリアは、ヨセフと動物の間に座っている。彼女のドレスは、淡い黄色がかった赤色で、胸の部分だけが見えている。子どもは、(ルカの言葉によると〔ルカ2:7〕)オムツにすごくぴったりと首までくるまれており、手足を動かすことはできない。それは当時の習慣に従い布を巻かれた新生児である。彼の光輪には十字架が見える。ヨセフは緑色の服を着てその脇に物思いにふけっているように座っている。屋根の上には、植物の飾りのような形のものが見える。しかし星は“ない”。
 もう一つの光景では、マリアは石造りで工作された椅子に堂々と座っている。それだけで家の中であることを示している。そこが具体的にどのような場所なのかを考えるには、マタイもただ家とだけ述べて、更に詳しい説明をしていないことから、手掛かりがないままである。マリアは、膝の上にオムツの布を敷き、その上に裸の子ども-布で巻かれた赤ん坊のようではない-を抱いている。子どもは、この光景では通常そうであるように、マリアに背を向けている。彼は、ひざまずいている髭のある王が彼に手渡そうとしている聖杯に関心を向けている。王達の頭は、子どもの高さまで段々と低くなっている。同じように、マリアの頭からのラインは、より急で短いが、子どもを通り聖杯に下っている。この儀式の中心は、この捧げ物である。その上で、星が天使によって保持されている。従って、その星は地上世界の星のように単にそこにあるのではない。二人の歩いている王達は、彼らをこれまで導いた星について、まなざしと仕草で意味ありげな会話をしている。
 二つの絵を比較すると、二つの本質的な違いが明らかになる。ルカの子どもは、光輪に十字架を持っているが、彼の母親は王冠を持っていない。マタイのマリアにおいては、光輪の中の王冠が目に付く。しかし彼女の子どもの光輪には十字架が描かれていないのである! 僅かな語彙であるが、簡潔で、明瞭な理由に基づいている-ここではすべてが何と適切に表現されていることか-。馬小屋と星の〔訳注:ルカとマタイの誕生物語〕の 混同はない。
 両方の絵とも、雰囲気は真摯である。ルカの光景では、特に母と子の視線は相互に向き合ってはいないことによって。子どもは、そこでは下から仰ぎ見るようになる地面の上にも飼い葉桶の中にも横たわっていないが、一方、母親は、敬虔深く子どもに身体を傾けている。3人の人物とも視線を下に向けている。マリアは、腕の中の子どもに、真剣で意味ありげな視線を向けており、その子どもは、もの悲し気で真剣な顔を前に向けている。二人の頭は少しお互いの方に傾いており、それにより光輪が少し交差している。ここでは母と子どもの間の親密さと、そして同時に距離が支配している。マリアは、天上から彼女に贈られた贈り物のように、その厳しい運命を予感しながら、あるいはまた、そのような存在だけが誕生をとおして運んでくる犠牲を共に感じながら、その子どもを抱いている。ヨセフは、外見上、柱によって隔てられている。明るく何もない背景は、これらの人物の周りを人のいない静けさが支配している印象を与える。また控えめに黄色・青・緑に強調された色彩は、クリスマスの歓喜を呼び起こすものではない。
 星の代わりに装飾的な、命の木〔訳注:創世記で、神がアダムに禁じた命の木は、またルカ・イエスの魂の象徴でもある〕の形の物が、印として、天上から下に垂れ下がっているのは、見事である。
 注意深い観察者は、それらの描写が厳密に区別されていると感じるだろう。彼は、環境が変化した、つまり馬小屋から家に移った-しかしそれは本来、二様の性格付けを与えるものではない-と言えば十分な〔二つの〕描写の間に違いを認識するだろう。そのような描写からは、確かに、ルカとマタイの誕生の描き方の違いをその画家は意識しており、それを真剣に受け止めているということが推察できる-しかし、その根底に、二つの異なる家族がいたという考えがあったということには必ずしもなりえないが-。そのような描写の多くは、むしろその不一致を、時間を追って起きたこととして解決しようとしたという印象を与える。その底には、羊飼いの訪問が先に、その後で王の訪問があり、その間にむしろより良い家屋が聖なる夫婦に与えられた、あるいは王の訪問の時には少なくとも屋根のある場所に招かれたという考えがあった。

 このように、この絵でも、注意深く見れば二つの異なる家族が描かれていることがわかる。それは、これまで何度も述べてきたように、ルカ福音書が伝えている家族とマタイ福音書が伝えている家族である。
 福音書とは、新約聖書の中の、イエスの生涯を描いた書物で、他にはマルコとヨハネ福音書があるが、これらはイエスの子ども時代を伝えてはいない。これに対して、ルカ福音書ではその第2章で、マタイ福音書では、第1章と2章で記述しているのだが、その内容には違いがある。
 ルカ福音書では、イエスの誕生の前に、その親戚となる洗礼者ヨハネの誕生が先ず第1章で描かれ、その後、第2章でイエスの誕生が続く。それは、ローマ皇帝の住民登録の命により、身重のマリアとヨセフが、今住んでいるナザレから「自分の町」であるベツレヘムに旅することから始まる。しかし、そこには宿が無く、マリアは、月が満ちて、産んだ子どもを「飼い葉桶に寝かせた」と語られ、「馬小屋」のようなところでイエスが生まれたことが示唆される。そして、天使からイエスの誕生を告げられた羊飼いが、イエスを探してやってくる。その後、幾日かがたち、神殿でのイエスの「奉献」が終わると、聖家族はまたナザレに戻っていくこととなる。
 これに対してマタイ福音書におけるイエスの誕生の物語は次のようである。第1章では、マリアとヨセフの結婚が語られ、イエスが生まれたとされる。次に第2章で、「ユダヤ人の王」が生まれたことを星により知ったという占星術の学者達(「マギ」とも「王」とも呼ばれることがある)が、ヘロデ大王のところに来て、その場所を訪ねる。予言によりそれがベツレヘムであることを聞き、学者達はベツレヘムに向かい、星によりその生まれた「家」を知り、イエスと会い、イエスに宝物を捧げる。その後、ヨセフは天使の指示により、家族を連れエジプトへ逃げる。ヘロデが、イエスにより王位を奪われるのを心配し、その町の幼子を殺すように命じたからである。

 このように、ルカとマタイのこの二つの物語は、明らかにそれぞれ独自に完結しており、それらが交わることはないように見える。ルカでは学者やヘロデはでてこず、マタイでは、羊飼いはいない。ルカでは、誕生後にエジプトに逃げることもない。細かく見ると、両者の記述には矛盾も存在している。ルカは、イエスが生まれた場所を「馬小屋」(洞窟という伝承もあるが、いずれにしても普通の家ではない)と示唆しているが、マタイは、はっきりと「家」と語っているのである。
 確かに、それでも、それぞれの記述が互いの欠落を埋めているとして、例えば、上で述べられているように、羊飼いの後に学者達がやってきたと考えることは可能であり、それが一般的な認識となっている。
 それにしても、ルカとマタイがそれぞれに伝える物語は、その性格が真逆にあるようにも見える。ルカは、牧歌的であり、心暖かい雰囲気がするが、マタイは、子ども殺しの記述に端的に表れているように、ドラマティックで命の危険も伴う深刻な雰囲気を持っている。これは、解決できない矛盾である。
 しかし、両者の違いは、初めから異なる二つの家族をそれぞれ描いていると考えれば、素直に解決するのである。

 二人の子どもイエスという考え(あるいは事実)は、秘められてきた伝承であるが、聖書自身と矛盾はしない。聖書をつぶさに見れば、むしろそこにその根拠を発見することができるのである。実は、両福音書には、この他に、二人の子どもイエスの存在を示す決定的な記述が存在する。それは、項目を改めて説明しよう。