k-lazaro’s note

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「二人の子どもイエス」とは ⑰

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羊飼いと王の礼拝(ヴァレリア城、シオン)

 引き続き、『絵画における二人の子どもイエス』から1枚の絵に二組の聖家族が描かれている絵を考察する。

 その絵は、シオン(ドイツ語名はジッテン。スイス)のヴァレリア城にあるカテリーナ教会に掛けられた、15世紀後半と推定される作者不詳の絵である。

 この絵では、両方の聖家族が同時に、しかも互いに接して、前景に大きく描かれている。右手の聖母マリアは、到来した王の一行を迎えており、左の聖母マリアは自分の子どもの礼拝に沈潜している。羊飼いへの告知は馬小屋の上で起きているが、しかし礼拝自体には、まだ羊飼いは現れていない。
 王達は、その従者と共に絵の右の半分全体を占めている。彼らの姿は、山と谷の上で不釣り合いに大きく描かれている。彼らの行程は次のように表されている。先ず、それぞれの王が自分の従者と別々の集団として風景の中に現れる。次に前景に、再び王達が見られる。ここでは、彼らは子どもに贈り物を差し出している。その時、彼らの従者のそれぞれ一人だけがその近くに控えている。
 従って、私たちは、この絵を時間の経過の中で読み取らなければならないだろう。  
 王達について見ると、上の中ほどから右側を通って下の中ほどに至るカーブの動きである。これに対応して、絵の左半分は、上の左(羊飼いへの告知)から馬小屋の誕生を通り、王達の礼拝に至るというように把握されなければならない。
 このように、絵の物語の二つの流れは、それぞれに向き合って進んで行き、中心の集団で合流するようである。それは確かによくあるというものではない。いずれにしても、それを見る者の、純粋な感覚的また心理的印象にとって、二つの家族という二重性は風変りなままである。頭に大きな光輪をもった二人のマリアは-一方は左に、他方は右に頭を傾けており、どちらにおいても同じタイプのヨセフが肩の上から見つめている-、双子のペアあるいは鏡像のようである。ただ子どもの描き方が状況を強く変えている。
 左の子どもは裸で地面に横たわっている。彼の頭は、円盤状の黄金の光輪に囲まれているが、その全身は、対称的ではなく、丸まるような動きをしている曲がりくねった先をもった、波状の燃えるような黄金の光線に包まれている。この炎のオーラは、まさに東洋的印象を与え、仏像やインドの神像が時々囲まれている光背を思い出させる。この“踊るような”オーラは、この絵に、強い生命性と動きを与えている。それは、地上に贈られたばかりの子どもを囲んで照らしている。全く裸ではあるが、子どもは、この神的被いに神々しく包まれて横になっている。ネルケンマイスターの祭壇のように、ここでもマリアと子どもの視線は向き合い、互いに見つめている。 

 絵の上の部分は、純粋な黄金地である。地上世界の岸が、町と木々のシルエットと共に霊の海に直接、接している。そこでは、父なる神が、ルカの誕生の光景の真っすぐ上で祝福している。神は、同時に、天の黄金の充溢の中から、幼子イエスに光線のベッドを送っている。彼に並んで、羊飼い達の方を向いて告知している天使が浮かんでいる。ここでも誕生の光景への“神の参与”が示されているのに対して、絵の右半分の黄金地の天界は、馬に乗った王達の集団の旗と兜飾りで溢れている。
 目を右の子どもに向けると、彼は母親の膝の上に立っている。彼は地面に接しておらず、腰には薄いベールが掛けられている。彼の眼は、ひざまずいている王に向けられている。彼の頭の光輪によって、彼は、別の子どもの兄弟のように似せられているが、体全体を包んでいる黄金の炎の舌は見られない。しかし、黄金地の天界から型抜きされたかのような星が、天使によって持たれ、子どもの上の絵の中央部分で輝いている。この星の彫刻されたような精緻さと規則性を左の子どもの周りの炎の動きと比較すると、一層〔天から〕直接もたらされたその力を人は感じる。
 両家族の背景にある馬小屋は、同じような屋根の張り出しを持っていて同じもののように見えるが、馬小屋の中の動物はどちらにもいるのではない。雄牛とロバは、驚いたように真っすぐ王達の拝礼の方を向いている。雄牛たちは、こちらには何の用もない、と言えるかもしれない。マタイは、家について語っているが馬小屋については語っていない。それは、ルドルフ・シュタイナーによれば、実際に、ソロモン系統の両親が生活し、ベツレヘムで日頃住んでいた住居であった。これに対してルカの両親は、ただ人口調査のためにナザレからやって来ていただけなのである。
 雄牛とロバについては特別な事情がある。聖書のどこにもそれらについて述べられていないが、他の画家の王の礼拝においてもそれらはしばしば登場する。私達の画家は、どうやら何か他の意図を持っているようである。彼は、左の子どもを、樹木が周りを取り囲んでいる草むらの中に置いているのを、私たちは見る。汚れがなく、命が芽生える自然の生命が充溢した植物界が、子どもを取り囲んでいる。その上の屋根で天使たちが歌っている。
 しかし、右の子どもを見ているのはロバと牛だけではない-ここでは動物界がまた別な仕方で強調されている-。マリアの、マントの下に垣間見える金の衣装には高価な首輪をしたやや褐色がかった犬(グレーハウンド)、又は鹿も見られる。動物のモチーフは、中央の王の着衣にも見られる。向き合ったウサギと犬のつがいが黄金色にほのかに煌めいている。
 これに対してムーア人〔黒人〕の王は、彼のマントに、赤い光線をもった黄金の日輪のモチーフを幾つも織り込んでおり、ひざまずいている王の衣装は、紋章のような装飾で飾られているように見える。残念ながら、破損によって、もはや全てを明瞭に見ることはできない。馬達の飼い馴らされた世界が、前景の犬を伴って、右の子どもの世界に押し入っている。子ども自身は、しかし、マリアの黄金の衣装の、天国の平和的光景の前で鎌首をもち上げている黒い蛇をつかもうと、そのしっかりした手を出している。
 左では、無垢な植物的“エーテル”世界が、右では心魂に満ち、星々を超えたところにあるアストラル世界が、二人の子どもに属しており、そして私たちは、この「付属物」は交換できないものであることを明瞭に感じる。
 ここで驚くべき仕方で動物-しかしそれは首輪をつけており、従って人間に服従し、人間により制御されうるので、それにより従順性を示している-の飾りが織り込まれているマリアの衣服は、私たちに思考の飛躍のきっかけを与える。(注:左のマリアも黄金の衣服を着けているが、今日においては汚損がひどく、そこに元々模様があったのかどうかは判別ができない。)
 それは、一方では遠く前キリスト教時代に遡り、他方ではようやく15世紀にキリスト教的な意味で拠りどころを得た。私たちは、「黄金の羊毛」のイメージにまで遡る。ルドルフ・シュタイナーが「エジプトの神話と密儀」で述べているように、それは、ギリシア時代より“前に”、エジプトの密儀において根付いた概念である。黄金の羊毛により理解されているのは、アストラル体、即ち、そこに人の感情と感覚、そして欲求や衝動が現れる人間の構成領域の、神から与えられた純粋性である。堕罪以前の原初において、このアストラル体は純粋で、輝いており、神の働きを曇りなく受け入れることができたが、「蛇」の誘惑以来、エゴイズムが人間の魂的実体に入り込み、「純粋な黄金の羊毛」に影を与えた。全ての密儀、即ち人が自己の本性の純化、神性との再結合に努める全ての場所では、エゴイズムの克服、「純粋な黄金の羊毛」の再獲得がなされなければならなかった。それは、黄金の羊毛へのアルゴナウタイ遠征と呼ばれたのである(しかし歴史的なアルゴナウタイ行もあった。「外的事象は、内的事象が外的に表れたもの」であるからである)。人間の本性において「動物」を飼いならすことは、常に闘い取られなければならない目標なのである。
 それに対応した力は、星々(獣帯)の神的法則の下に置かれなければならない。それは人間本性において働かなければならなかったのであるが、そこからは破壊的な利己心が取り除かれなければならなかったのである。

   マタイ福音書は、第1章でイエスの誕生について、第2章でマギの礼拝について述べており、占星術の学者達(マギ)が、「家に入ると、幼子は母マリアと共におられた」としている(2:11)。これに対して、ルカ福音書は、イエスの誕生について次のように述べている。「人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダヴィデの家に属し、その血筋であったので、・・ナザレから、・・ベツレヘム・・へ上っていった。」また、「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼の泊まる場所がなかったからである。」(2:3~7)

 馬小屋には通常、牛や馬やロバが描かれているが、著者が述べるように、そこには重要な意味が隠されている。デイヴィッド・オーヴァソンも『二人の子ども』で雄牛とロバについて議論している。正典には触れられていない雄牛達が生誕図に現れるのは、聖書外典に根拠をもつものであるが、キリスト教以前の密儀の伝統とも関係している。例えば、ミトラ教と牛は密接な関係にあるなど、牛とロバはキリスト教以前の密儀を象徴するものと言える。キリスト教により乗り越えられることとなる古代の密儀を代表するものとして、彼らはイエスの誕生に参与している、というのである。
 なお、オーヴァソンは、『二人の子ども(第2部第3章)』の中で、シオンのこの絵が、アンジェリコ・リッピの「マギの礼拝」と「興味深い対照をなしている」と指摘している。

 シュタイナーによれば、人は、目に見える身体のほかに、生命現象の基盤となるエーテル体と、感情、感覚、欲求等の担い手であるアストラル体(アストラルとは本来「星」の意味)と、人に「我あり」と言うことを可能にする主体的根拠である自我の4つの構成体から成るという。身体は鉱物と、エーテル体は植物と、アストラル体は動物と共通する部分であり、自我は、人のみが所有する、人を人たらしめているものである。また自我により人の下位の体に働きかけてそれを霊化し、より高次の体を形成していくことが、今後の人類に求められている進化の道である。

「純粋な黄金の羊毛に影を与えた」というのは、旧約聖書「創世記」に述べられているアダムとエヴァの原罪の物語の秘教的解釈である。神に創造された時の、魂の純粋さが汚されたというのである。秘儀参入者の道は、その純粋さを取り戻す道である。

 「アルゴナウタイ」とは、ギリシア神話で、英雄イアソンがギリシアの他の英雄たちとアルゴーという名の船に乗り、金色の羊皮を探す冒険をする物語である。

 最後に「獣帯」という言葉が出てくるが、アストラル体は、その名の通り星界に源をもつとされ、星界は神的霊的存在者達の住むところで、特に、獣帯(黄道12宮)という言葉で代表される恒星界は上位の神的霊的存在者達の住むところであるとされる。このようなことが、この表現の背景にあると思われる。