k-lazaro’s note

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「二人の子どもイエス」とは ⑱

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 前に、「二人のイエス」の秘密は、聖書自体に根拠を見い出すことができると述べた。今回は、それについて触れていきたい。
 上の写真は、現在はフライヴルクの近くのドナウエッシンゲンにある13世紀の美しいイラストのある「詩篇歌集」のものである。
 デヴィッド・オーヴァソンによれば、これ(左の図)に「キリスト教の最も偉大な秘密の一つは、保存されている。」という。『二人の子ども』から引用する。

 「イラストは、ソロモン王が丸窓から子供イエスを抱いた優しいマリアの姿を覗き込んでいる様子を描いている。それは愉快な場面である。マリアとイエスの肖像は、センチメンタルな感じはない。母は子供の顎に優美に触れ、子どもは左腕を母親の首にまわして彼女の抱擁を受け入れている。写本の底には、眠っているイエスの姿があり、彼から、イエスがその系統をひく幹(あるいは系図)が出ている。
 この絵は中世の芸術に浸透していた主題-イエッセの樹-の一例である。それはイエッセ(ダヴィデの父、ダヴィデはバトシェバにソロモンを産ませる)からイエスに至る系統を描いている。イエスをソロモン王に結び付けている系統樹のこの重要な部分は、名前を連ねて、マタイ伝の最初に記述されている。このイラストはこの系図の源泉について明確である。なぜなら一番上に位置する二つの丸窓は、右側のソロモン(彼の名前は絵の角に書かれている)だけでなく、彼の父であるダヴィデが左側に描かれており、ソロモンの名前がイエスに終わる系図に出てくるのはマタイ伝だけであるからである。

 イエスがイエッセを祖としていることから、イエッセの身体からでた樹木がイエス系統樹系図)を表している。上の丸窓のダヴィデとソロモンは、イエッセとイエスの間に位置するイエスの先祖である。
 こうした関係がわかるのは、福音書にイエス系図が載せられているからである。イエス系図が述べられているのは、マタイ福音書とルカ福音書である。ここで特記すべきは、ソロモンという名前は、マタイ福音書にしか出てこないということである。

 正典にあるキリストの他の唯一の系図は、ルカ伝3章にある。しかしこの系図でソロモンはイエスの先祖として触れられていない。それはどうして可能なのであろうか?

 同じイエス系図であるなら、片方にのみソロモンの名が出てくるのは、おかしなことであろう。単なる誤りであろうか? 確かに、聖書の一字一句が間違いなく伝承されてきたとは考えにくい。しかし、これは、ユダヤ人達においては最も重要であった系図の記載である。しかもソロモンは、歴史的にも有名なユダヤ人の王である。どのように解釈すべきか? 実は、違いはソロモンのみではない!

 さて、一方の系図はもう一つの系図より長いことは事実である。マタイ伝は先祖をアブラハムに遡るだけであるのに対して、ルカ伝はアダムにまで遡っている。この違いをおくと、しかし少なくともアブラハムの名前を挙げた以降は両者が一致すると期待するだろう。不幸にして伝統的な聖書の釈義にとって、これは問題ではない。リストには同じ部分より相違の方が多いのであるが。
 二人の福音書記者は血統の一部にのみ賛同する-アブラハムからダヴィデで終わる13世代についてである。しかしこのユダヤの偉大な王から二つのリストは分かれ、一致は終わる。既に見たように、マタイ伝は、ソロモン王(ダヴィデの息子)に由来する先祖の系列を記している。これに対して、ルカ伝は、ナタン(ダヴィデの他の息子)に由来する先祖の系列を記している。両者は共にイエスの父であるヨセフの名を挙げて終わっている。ルカは、既に見たように、イエスはヨセフの子供と「言われている」と述べて、限定的に表現しているが。
 この二つの系図を真摯にとるならば、二つの先祖の系統は、共にイエスという名の子供を持つ「二人の」ヨセフに関連しているとする、居心地の悪い結論に至らざるを得ない。この結論は、可能な限りシンプルに聖書の証拠を解釈しようという我々の試みから必然的に結果するのである。

 このように二つの系図は、ダヴィデの二人の子ども(ソロモンとナタン)から異なる二つの系譜となるのである。であれば、ここに述べられている系図は、異なる二つの系図と考えることの方が自然である。更に分析は続く・・

 さしあたり簡便さのために、二人の福音書記者が全く異なる血統を述べていることを示すために、マタイとルカが記している最後の7世代を記そう。

         マタイ        ルカ
        アアキム        ヨナ
        エリウド        メルキ
        エレアザル       レヴィ
        マタン         マタト
        ヤコブ         ヘリ
        ヨセフ         ヨセフ
        イエス         イエス

 この二つのリストには、イエスの先祖の名前の他にも異なる点がある。マタイのリストはアブラハムに始まり、時代を下っていってイエスまで42人(名目上、少なくとも)を数える。このリストは、ヤコブから生まれる聖家族の名前で終わる。ヤコブは「マリアの夫であるヨセフをもうけた。このマリアからキリスト(メシア)と呼ばれるイエスが生まれた」。
 (これに対して)ルカの系図は時間を遡る。それは、「ヨセフの子」イエスの先祖の75世代を経てアダムまで遡る。既に見たように、ルカ伝ではイエスの血統は、「ヘリの子であるヨセフの息子(と思われている)」と記されている。「と思われている」という奇妙な表現でルカが正確には何を語ろうとしたのかについてはひろく議論されてきた。75世代も記そうとした者が、その最初にへまをしたとは思えない。彼は、処女の胎から生まれたとされるイエス誕生の奇跡の性質を強調するために、この言葉を挿入したのだろうか。処女生誕について馴染みのない者達によって、名目上の父であるヨセフは、イエスの父であると「思われた」のであろうか。しかし、もしそうなら、イエスがそれによって身体を得た男性の血筋を追跡する必要は実際にはないのではなかろうか。ルカは他の3人の福音書記者と同じように、救済という全キリスト教のメッセージにはイエスが血と肉から生まれたということが必要であること、そのため物質的世代が必要であることに気づいていたようである。この後見ていくこととなるが、更なる探求は、キリスト教の秘密の内で最も偉大な秘密の一つに関わる興味深いこの疑問に見通しを開くこととなる。実際、ルカ伝のこの「ως ενομιЅέτο思われているように」という一見無害な表現は、キリスト教の歴史の背後にある偉大な秘密の一つに導くものである。

 マタイとルカの系図の描き方が異なっていることが述べられているが、実は、そこにも深い意味が存在する。ルカが、ヨセフは、イエスの父であると「思われた」というような表現を使っていることにも、重大な意味があるのである。

 ルカが、その読者に、処女生誕ということと並んで、血統という事実によって何を示そうとしたのかを考えてみよう。ルカは、イエスが神の子ではないなら、いかなるキリスト教のメッセージも、真性なキリスト教も存在しないということを認識していた。価値あるメッセージであるためには、キリストは十字架で死ななければならなかったのである。そして彼が死ねるということは、物質的身体に生まれることによってのみ可能となる。言い換えればキリスト教の全秘密は、イエスが我々の世界に生まれ、彼自身が肉と血の肉体をまとったという事実にかかっているのである。十字架に釘で打ち付けられた身体は、人間の身体でなければならず、それによって身体の復活は、人類の男女に真の希望を与えるのである。もしその身体が肉と血によってできていないなら、復活は人類にとって何の意味も持たないのである。
 いわゆるドケティスト(訳注:イエスの身体性を否定する異端的教説)のような初期のキリスト教異端が、実際にキリストの身体は肉と血からなっているという事実を拒否することに拠っているのは偶然ではない。もし肉の身体でないなら、キリストの身体はファントムにすぎず、十字架で苦しまなかったというドケティストの主張は正しいであろう。しかし、キリスト教護教論者はドケティストを拒絶し、キリストの身体は肉と血からなると主張した。二人の福音書記者が、彼らの聖なる文書においてイスラエルの最も力強い王、ダヴィデ王を通る血筋を書きとめ、彼ら自身でイエスの血統を記録したのは、このキリスト教の真実を肯定するものであった。 

 キリストが生身の身体を、「肉と血からなっている」身体を持っていたということが、人類の救済にとって決定的なことなのである。神が人間になり、そして復活したという事実が、救いの根拠であるからである。それはまた、先祖の血を父と母から受け継いだということになる(ユダヤ民族的には父の方が重要であろうが)。そうでなければ、そもそもその血筋(系図)を述べる意味はない。
 しかし、またイエスは神の子である。ルカにおいて、イエス系図が、神の子であるアダムにまで遡っていることに示されている。
 キリスト教では、この側面が強調され、イエスは処女から生まれたという、「処女懐胎」の概念が生まれる。通常の「自然の行為」により受胎したのではないので、イエスもマリアも汚れがないというのである。そしてこれもある面で正しい。だがここにも秘密が隠されている。それについてシュタイナーは解説しているが、これは項を改めることにしよう。
 ルカのイエスも確かにヨセフの血、その先祖達からの血を引いている。しかし、またイエスの誕生は、普通の人間のそれとは異なっており、それゆえ、まさに神の子でもあった。こうしたこともあり、ルカは、イエスを「ヨセフの子である」と直接的に表現しなかったのである。