k-lazaro’s note

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「二人の子どもイエス」とは ⑲

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アントニオのコイン

ヨルダン川洗礼とキリストの誕生-蟹の象徴-

 「二人の子どもイエスとは⑮」で、蟹座が、魂が地上へ誕生するときの玄関、入り口であることに触れた。それは、後のキリスト教哲学とシンボリズムに深い影響を与えた、3世紀のエジプト人秘教者ポルフィリオスの考えによるものであった。
 このことについてデヴィッド・オーヴァソンの『二人の子ども』から更に引用しよう。

 ポルフィリオスは、天と地の間の二つの偉大な宇宙の門について述べている。霊界へと(通常は死に際して)物質世界を去る霊は、山羊宮の戸口を通っていく。それらの、誕生に際しての、物質世界への降下は、反対方向にある巨蟹宮の戸口を通ってくる。ポルフィリオスは、次のように述べている。
神学者は従ってこの二つの門は山羊宮と巨蟹宮だとしている。しかしプラトンは、それらを入り口と呼んでいる。そして神学者は、そのうち巨蟹宮はそれを通してそれらが降ってくる門、山羊宮はそれを通して登って行く門と語っている。」
 ポルフィリオスは、獣帯の用語を使っているが、彼の頭にあるのは、月の船の形である。巨蟹宮は魂が人生へと下船する港、山羊宮は魂が乗船する港である。
 初期キリスト教時代に一般的であった占星術は、現代の形と同じように、獣帯の巨蟹宮の惑星は月であり、その象徴はカニであった。この連想の合流がおそらく見られるのは、アントニウス・ピウスのために鋳造された2世紀のローマのコイン(上図)で、巨蟹宮と月、8つの光線をもつ星のイメージを刻んでいた。この古代のシンボリズムは、変わることなく中世の芸術に引き継がれた。」

 地上に受肉する魂は、月の船に乗ってやってくるのである。

 「誕生についての秘教的見解によれば、魂は巨蟹宮の門を通って、月が支配する月下の領域(訳注:月から地球までの領域。秘教的世界観は天動説であり、人の魂は天上界から次第に地球に降りてくるとする。地球に至る直前の領域は月となる)に降ってくる。即ち、誕生とは月自身の影響下で起きる物質的形質への降下である。これが、月の女神の多くが誕生の守り神であることの説明を助ける。異教的イメージの月の女神の頭についている三日月(例えば前掲のミトラ教的イメージ)は、・・月のような三日月形に反映している。おそらく、中世の、聖処女と子供の多くの図像における巨大な三日月(誕生の門を表すもの)の存在を説明するのはこの同じ観念である。

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聖母子(中世の木版画

 さて、以上のことを踏まえて、イエスヨルダン川における洗礼者ヨハネによる洗礼を描いた古いモザイク画を見てみよう。このヨルダン川のイメージは、ラヴェンナアリウス派宗徒の洗礼堂にある5世紀後期のモザイク画である。

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ヨルダン川での洗礼(アリウス派宗徒の洗礼堂)

 中央にイエスがおり、その真上に神の霊を象徴する鳩が降りてきている。当時の洗礼は全身を川の水に浸けるものであり、イエスは、その半身が川の水に覆われている。右にいるのが、洗礼者ヨハネである。そして、その左には?
 何か神的・霊的な存在であろうか? とりあえず天使ではないようである。その頭をよく見ると、何と蟹の王冠をしているのである。蟹の化身あるいは蟹の精霊のようであるが、これは、おそらくヨルダン川を表す人物(擬人化)であると、オーヴァソンは述べている。
 聖書にこのような記述はない。ヨルダン川は魚が豊富であり、そこからその水が流れ出すガリラヤ湖は聖書時代において特にその漁師により有名であった。そこからとれた魚の大量の話を聞いても、多くの蟹が取れたという話は聞かない。あえて蟹が描かれているのはなぜだろうか? イエスの洗礼と何か関わるのだろうか?

 初期のキリスト教芸術では、ヨルダン川の擬人化は、魚と貝のような関連するイメージの付属物により示されていた。これを前提とすると、おそらく我々の疑問は、なぜヨルダン川カニに関係するのかというよりも、甲殻類が彼の頭にあるのかということである。カニのはさみは、「古代の海の神性風な」古典的シンボリズムの形式を示していると論じることはできるが、カニのシンボリズムは、キリスト教芸術では異なる意味を持っている。
 洗礼の文脈では、頭の頂は非常に重要な場所である。洗礼の時に聖油が注がれるのはこの部分である。-おそらくこれが、洗礼者ヨハネが彼の右手をイエスの頭に置いていることの理由である。聖霊は、イエスの頭の中央にむけて直接、天から垂直に降りてきている。なぜ川の擬人化した人物の同じような場所を蟹の二つのはさみが占めているのだろうか。実際、なぜこのシンボリズムは500年頃に採用され、我々が扱っているキリスト教の伝統に意味深く関連することが可能であったのか。驚くべきことに-あるいはそうではない-、この疑問に対する答えは、老人、ヨルダン川の本質にではなく、洗礼の本質に、あるいは秘教的意味で洗礼は何を意味しているのかに関わっている。
 秘教的意味で洗礼の秘跡は、個人(普通は新生児)を、その個人は物質的身体に住んでいるが、キリスト教人生に捧げるという意味である。古代の密儀を研究した者は皆、全ての洗礼において、我々がエレウシスにおいてThalassusの言葉で見た、古代密儀の残響が存在することを認識するだろう。原型として、洗礼は、秘儀参入者を汚れのない海、存在の無垢の状態に戻すことである。
 Thalassusの原型としての秘教的観念を無視しても、洗礼は、いわば、受肉、あるいは物質的身体への降下を完成する秘跡と認められる。この場合、その目的は、新たに肉体に封じられた子供がキリスト教の倫理的道を歩むことを助けることである。奇妙なカニのシンボルは、初期のキリスト教時代では、肉体の生活への受肉というこの観念に関連していた。それは古代のシンボリズムで、プラトンが人類を殻に幽閉された多くのカキになぞらえた時(パイドロス)、すでに古いものであった。
 むしろそのままの意味で、カニの堅い殻は、霊が誕生時に入り込む堅い物質体にふさわしいたとえと見ることができる。しかし蟹のシンボルはそのままの意味にとどまらない。初期のキリスト教時代、それは受肉と再受肉の本質についての最も進んだ秘教的見解に関連している。

 カニの甲羅は、まさに魂が受肉する肉体を象徴すると考えられるが、このイエスの洗礼の図の場合、秘教的キリスト教による解釈では、前段で触れたように、誕生そのものを意味すると考える必要がある。引き続きオーヴァソンの解説を引用しよう。

 モザイク画の中央は、イエスのへそ-誕生の本質を絵画的に描くには最も適した場所である-にある。カニのはさみからへそを通って先に進めると、それはヨハネの足の10本の指に触れる。このシンボリズムは明らかである-それは宇宙的カニヨハネがその上に乗っている岩との関連を示している。足は双魚宮-魚の獣帯のサイン。それは、中世のキリスト教徒で認識しそこなう者は、わずかしかいないシンボルである-を表していることが思い出される。象徴のレベルでは、水の巨蟹宮と水の双魚宮の間-物質への誕生という観念とキリストの間-のラインによって関連が示されている。ヨハネが立つ岩は、受肉により霊が降下する物質を表し、カニはこの降下がそれを通ってなされる宇宙的門戸を表している。・・・
 キリスト教芸術で、ヨルダン川で起きた最も重要な出来事はイエスの洗礼である。しかしラヴェンナの堂に付けられたシンボリズムを探求するほど、それが新しい生命の始まりを表していることを認識するようになる。実際、カニ、へそ、そして足という隠された方向性は、あることのみを示している-誕生、あるいは物質への受肉を。

 人体と獣帯の12宮の相関関係という観念において、双魚宮は足に割り当てられていた。そしてまた、魚はキリストを象徴するものでもあった。
 つまり、この図は、イエスの洗礼を表すと同時に、その時、キリストがイエスの身体に降り、地上世界に誕生したことを密かに伝えているのである。
 イエスとキリストが異なる存在であり、神的キリストがイエスに降ったとする認識は、公会議で正式に異端とされる前には、キリスト教の一派の中に確かに存在していたのである(例えばアリウス派)。そしてまた秘教的キリスト教もそのように考えているのである。

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