k-lazaro’s note

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クリスマスはいつか?

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コレッジョ「キリストの誕生」

 クリスマスとは「キリストのミサ」という意味である。イエス・キリストの誕生を祝う降誕祭ということである。多くのキリスト教宗派では、12月25日がイエス・キリストの誕生日とされ、この日に行われる。ただ、教会暦の上では、正式には24日の夕刻から25日の日没までが25日ということになっており、24日夕刻から一連の行事が行われるところもあるようである。多くの家庭では、24日の夜にクリスマスの晩餐をとり、クリスマスを祝っていることだろう。
 しかし、いずれにしても、この日は本当にイエスの誕生日なのであろうか? 聖書自身に、イエスの誕生の日付がどこにも記録されていないからである。あいにく、聖書以外の記録にも実はイエスの生涯について記したものがなく、歴史学的には、その生年も含め、誕生日は不明のままなのである。
 それが12月25日になったのは、古代における太陽神信仰の重要な祭りで、この日に行われていた冬至祭に由来するというのが一般的な解釈のようである。1年のうち最も日が短くなるこの冬至を境に太陽の力が復活すると考え、ヨーロッパ各地で冬至祭が行われていたことから、これを借用したというのである。
 キリストは太陽霊であるから、確かにこの日というのは、それはそれでふさわしいのだが、歴史的な事実としてはどうだろうか。「二人のイエス」の立場に立てば、二つの誕生日が存在することになり、この問題は更に複雑になる。
 キリスト教界においては、12月25日とは異なる日に降誕祭を行う宗派がある。この日を降誕祭とする風習が定着する以前には、アルメニアギリシアなどで1月6日説が採用されており、現在でもアルメニア使徒教会においては、教会暦上の1月6日を降誕祭の日としているという。かつては、1月6日も、イエス降誕の日として有力な候補であったのである。
 また、この1月6日というのは、同時にヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた、「キリストの洗礼」の記念日でもあった。更には、イエスが東方の3博士の訪問を受けた日ともされている。これらのことから、この日は、カトリック東方教会も含め、エピファニー(公現祭)の日とされている。エピファニーというのはギリシア語が語源で、「出現する」という意味であり、神が人の前に現れたことを祝うのである。
 羊飼い達は12月25日にイエスのもとにやってきて、東方の3博士達は、その後、1月6日にやってきたということになるのだろう。

ここで「二人の子どもイエス」の立場に立ってこれらの日付を考えるととどうなるだろうか。12月25日は、羊飼いの訪問のみ語っているルカ福音書の伝えるイエスの、1月6日は、東方の3博士の訪問のみを語っているマタイ福音書のイエスの誕生日と考えることができるかもしれない。

 では、シュタイナーは、これに関して何と語っているだろうか?
 残念ながら、シュタイナーは、二人の子どもの誕生は同じではなかったが、それほど時が離れてもいなかった、というような表現にとどめており、明確にその日付を語ってはいないのである。このため、人智学派の研究者達は、その日付を特定しようと、その後悪戦苦闘しているのだが、まだ決定的な結論は存在していないようである。
 その探求の手がかりとなるのは、一つは、ヘロデ大王による赤ん坊の虐殺である。ユダヤのメシアの誕生により、自分の地位が脅かされることを恐れたヘロデ大王は、ベツレヘムでイエスと同じ頃に生まれた子ども達をすべて殺すように命じた。マタイ福音書において、イエスの降誕に伴って起きたと述べられている出来事である(イエスの家族は、天使の指示により、これを逃れるためにエジプトへ逃避する)。
 しかし、ルカ福音書には、エジプト逃避も含めこの出来事の記述はない。つまり、ルカのイエスが生まれた時には、既にその危機が去っていた、即ちヘロデ大王の治世は終わっていたと考えられるのである。
 このことから、マタイの子どもが先に生まれ、その後にルカの子どもが生まれたということは言えるのだが、どうも二人の年月日の特定までにはいたっていないのである。

これらのイエスの誕生日を巡る諸説については、機会があればまた語ってみたい。

 ところで、先に触れた1月6日と言う日付であるが、この日をクリスマスとするのは、案外、的はずれではないようである。この日は、イエスヨルダン川で洗礼を受けた日である。それはつまり、以前に触れたように、キリスト霊が、天界から降ってきて、イエスの身体に受肉した日と言うことである。ということは、キリストの地上界における誕生の日である。クリスマスの原義である「キリストの誕生を祝うミサ」にふさわしいと言えよう。

 コレッジョ「キリストの誕生」について

 上に掲げた絵は、ルネサンス期のイタリアの画家コレッジョによるイエス誕生図である。クラウゼ・ツィンマーは、『絵画における二人の子どもイエス』の中で、ルカの子どもの描き方の変遷を語る中でこの絵について触れている。
 ルカの子どもは、まさに天国からきた純粋な存在で、自らが熱や光の存在そのものであったから、ルカの誕生を描いた初期の絵画では、それを強調し、裸のまま地面に置かれていた。何も覆いをかける必要がなかったのである。
 やがて人間的配慮から、地面に直に置くのは忍びがたくなり、麦わらに子どもを寝かせたりするようになるが、それでも、画家達は、子どもに身体の輝き(オーラ)を与えることはやめない。しかし、その表現はますます地上的、世俗的になっていく。
 「彼ら(画家達)は、子どもの裸の身体におむつや布を決してかけていないのである。それらの絵では、愛に満ちたマリアも、生まれたばかりの子どもを守って腕の中に抱くことをせず、その前でひざまずき、祈っているのである。更なる発展と共に、画家達は益々そもそも光輝なしで済ませるようになり-それはとりわけデューラーにも既に見られるが-、あるいは特にコレッジョが始めたように、その輝きは、礼拝者の顔に反射する光の放射へと変わっていった。それは即ち地上的な光に変化したのである。」