k-lazaro’s note

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太陽は空洞 ②

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"The Sun" ゲオルク・ブラットマン著

 前回は、現代物理学のプラズマ宇宙論に基づく「太陽空洞説」を紹介した。
 では、シュタイナーは、この関連で、どのように語ってるだろうか? 次のような言葉が残っている。

 太陽は、物理学者が今日想像しているものとは非常に異なっている。彼らがそれに近づくなら、とても驚くだろう。そこに炎の球体は存在しない。そこにあるのは、地上的物質を吸引し、それらがそこで消失するあるものである。太陽は、吸引を引き起こす空虚な空間である。それは、炎の球体ではなく、宇宙の真珠に似ている。そこには何もない吸引する球体である。

 あるいは、

 太陽の内部は、「空間以下」というようなもの。そこでは空間自体が取り去られた領域である。・・・太陽の内部は、むしろ吸引の領域と考える必要がある。それは、ネガティブの空間、空虚より空虚な空間である。

 シュタイナーは、太陽は空虚な(空虚より空虚な)空間であると考えているようである。しかし、空虚より空虚とは? 
 勿論、現代物理学ではそのような言葉は出てこない。シュタイナーは、この世界は、物質世界だけでなく、それを超えた(あるいはその背後にある)世界、超感覚的世界ー例えばエーテル界ーがあるとしている。物質的に何もない空間は真空であるが、それを更に超えると「反空間」に至ると考えることができるのではなかろうか。
 前回、エリック・ドラードやニコラ・テスラの関連で。「カウンタースペース」、「エーテル」という言葉が出てきたが、シュタイナーの考えもこれらに関連するようである。

 シュタイナーの考えに基づき太陽についての論考を出版した人に、人智学系のキリスト教団体である「キリスト者共同体」の司祭であったゲオルク・ブラットマンという方がいる。ブラットマン氏のその本は、『太陽ー古代の密議と新しい物理学』という。原書はドイツ語であるが、主に英語版に基づいて少し紹介したい。
 ブラットマン氏は、もともとは大学で物理学と天文学を学んだ科学者であった。この表題が表しているように、ブラットマン氏は司祭であると同時に科学者でもあり、両方にまたがる関心がこの本を生んだようである。シュタイナーによれば、キリストは太陽神である。その神の体とも言える太陽を、シュタイナーの考えをふまえて神学及び物理学・天文学の知見から論じたのである。

 以下、その本から関連部分の要点を紹介する。

1.13 空洞の太陽

 太陽の表層を越えたところにある状態に立ち入ることができないというのが、太陽の表層の特徴である。
 「太陽の表層より深い層については視覚的観察によってのみ観察できるだけで、望遠鏡ではより深く探求できる可能性は低い。」カール・オットー・キーペンホイアー(1957)。それは、我々の近くに関する限り、空洞である。
 この限界において、通常のコンセプトを用い続けることができるだろうか?他にふさわしい探求法を求めるべきではないだろうか?

 要約
  ・内側と外側が裏返し
  ・母なる星の力強い放射光の体の中を惑星が動いている
  ・中央には、地上的アプローチを拒絶する空虚な空間のシンボリックな絵がある

※太陽の表面温度は6000度とされているが、太陽コロナの温度はその位置によっては200万度にもなる。つまり太陽表面から離れるほど、温度が高くなっているのである。これは、太陽のエネルギーを核融合とする説とは矛盾するパラドックスであるように思われる。太陽を理解するのに、地球において当てはまる原理を用いることは適当ではないようである。著者によれば、太陽のコロナが太陽の周りを幅広く取り囲んでいるが、それは太陽の翼である(上の本の表紙の写真がそれを表している)。また太陽風が各惑星に達しているように、太陽の実質は全太陽系に広がっている。むしろ、太陽系そのものが「太陽の内側」と考えられるというのである。我々は、太陽の「中」にいるのである。

1.14 浮かぶ真珠

 (シュタイナーが太陽について語っているような)空虚な空間は見えるだろうか? 太陽のまばゆい表面は、その背後に、堅固な実質があり、爆裂するほど空間を膨らませているという印象を与えるほど、引き締まっている。空虚な球体なら堅く、金属のように輝くべきではなく、透明であるべきだろう。
 答えは、簡単な実験で発見できる。必要なのは、ソーダ水の瓶である。液体のなかには、銀色の輝く真珠がある。瓶を開けると、真珠は泡立ち、増えていく。
 初めて見ると、それはおとぎ話の浮かぶ真珠のようである。輝く個体のように見えるのは、幾分密度の劣る成分が周りを囲んでいるのである。

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 それぞれの泡は、一種の空洞の空間で、その中でガス物質が液体の中で自身を保っている。水の中の泡を見ると、密度の高い物質を通して、より密度の低い物質を見ていることになる。空洞の空間は、まばゆい銀の皮に包み込まれており、それは、内部を見るのを妨げており、それを金属の物体のように見せているのである。あるいは、液体の内部から、外側の境界の表面を見ているというべきだろうか?
 いずれにせよ、これは、より密度の高い媒体を通してより密度の低い対象を見ると、それらを分ける界面は、それ自体は不透明な反射鏡として見えるという自然法則を示している。
 太陽を見るということは、光に満ちた宇宙の体の内側から、中心の球体を見ているのである。我々の視野は、明るく反射し、その先の空洞を見通すのを妨げる被膜にとどまっているのである。太陽の球体は、太陽の海の流れる光に浮かぶ高貴な真珠である。輝く殻が目をくらますほどまばゆいのは、界面が密度の違いを分けるだけでなく、全く異なる空間の状態に移行するからだろうか? 

1.15 宇宙の渦巻き

コップの中の液体をかき混ぜるとき、より早くするほど、中心のろうとは深くなる。コップの縁に近いほど液体の回転は遅く、中心に行くほど早くなる。中心では、液体がもはや、そこにできた聴力の下では自己を維持できなくなり、分裂するほどのスピードで回転する。その物質の構造は、この緊張に耐えられず、中心の渦から離れていく。裂け目が開く。これが、脇から見える、そこまで掘り進んだ「幹」である。勿論、この吸引チューブは、真空があれがどこでも入り込む空気で満ちている。
 空気がない真空で渦巻きができるとき、何が生じるだろうか? すべての物質の内で最も希薄なものが渦巻くとき、そこに入り込む他の物質が何もないとき、何が入ってくるのか? 反物質の絵がここにあるのではなかろうか?
 物理学で渦は、rv=cで表される。rは半径、回転の中心からの距離、vは回転のスピード、cは定数である。Rが0の時、スピードは無限になる。圧力pを探ると、rが0の時、pは無限となる。必然的に、ネガティブの圧力に導かれる。真空より低い圧力である。ネガティブの圧力とは張力にほかならない。同じことが液体に適用されるが、一般的に、液体の構造はこれに達する前に、バラバラにならざるを得ない。
 テオドール・シュヴェンクは、多くの自然の関係に渦を考察した。
 「外側が遅く、内側が早いという異なるスピードを持った渦は、太陽系の運動によく似ている。細部は別にして、それは、ケプラーの惑星の運動の第2原則に従っている。その運動法則にある渦は、惑星システムのミニチュアのイメージである。太陽自体は、渦の中心に対応する。
 次のようにも言える。渦は、全惑星システムを包含する光線の体のレプリカであり、中央の吸引チューブは、太陽の中心の空虚な空間に対応する。
 この中心の物理的状態は、すべての測定を超えて、物質を維持する能力を超えている。最も希薄な媒体は、そのような計り知れない巨大な吸引、異常なストレスに耐えられない。物理的存在は粉々になるだろう。絶対的な真空が口を開くのである。
 ここで我々は、こちらの側とあちらの側(純粋な霊的存在あるいはアンチ物質、エーテル?)の境界における荒々しい戦いの一端を見るのである。その表面は、肉眼ではすべすべと輝いているが、望遠鏡では、泡立ち、沸き立つ大釜のようで、荒々しい。境界面で起きているのは、物質とアンチ物質の対立する世界の揉み合い、永遠の、和解し得ない対立状態にある衝突と分裂である。

(ここまで)

 銀河系もまたまさに渦巻きであるが、生物・無生物を問わず、渦巻きは自然のそこら中に見ることができる。物質世界は渦巻きが基本の形態にようである。その渦巻きの尖端は別の世界に達しているのだろうか? 
 著者は、物質世界と反物質世界を理解するために、「射影幾何学」を用いて論じていく。「射影幾何学」はシュタイナー派にとって、重要なツールのようである。
 これらについては、別に紹介していきたい。