k-lazaro’s note

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心臓はポンプではない ⑧

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 トマス・コーワン博士の『人間の心臓、宇宙の心臓』を紹介する最後の回である。哲学的な話しとなっているが、人と心臓の本質に関わる内容と言える。

愛と心臓

 Paul Pearsall 博士は、神経心理学で、心臓移植患者のカウンセルを行っていた。1999年の本『心臓のコード』で、彼は、新しい心臓が持つ意味深い効果について記している。移植を受けた患者の多くが、人格-存在のエッセンス-の重要なまた説明できない変化を経験していた。ショッキングなのは、この新しいエッセンスは、しばしば心臓のドナーのエッセンスを反映していたのである。

 心臓移植が恐怖をもたらしたり、移植手術を通して強力な医療行為、薬品が用いられるので、それらが短期、長期の心理的影響を与えたというような説明も可能だろう。
 だがこれらは、Pearsall 博士が患者から聞いた強烈な変化を十分には説明できない。彼は本の中で、白人の中年男性の話を記している。彼は、人生のすべてを工場で働き、人種差別を支持しており、オペラやクラッシック音楽等の上流の文化には縁がなかった。その彼が、心臓移植を受けた後、妻に言わせれば、ほとんど新しい人物となっていたのである。彼は、アフリカ系アメリカ人がよく行く場所に出かけるようになった。以前遠ざけていたアフリカ系アメリカ人とも友達になった。歩き方も変わり、クラシック音楽を聞くようになったのである。
 初めこの変化を彼は隠していたが、やがて甘受するようになった。彼が、自分のドナーを探したところ、それは若いアフリカ系アメリカ人であった。その若者は、クラシック音楽の学校に行く途中に、撃たれて亡くなったのである。

 このような話しは多い。また、ドナーは、健康だが突然の死に遭遇するケースが多いので、その死の当日の出来事についての、移植を受けた人たちの詳しい知識により、警察による犯罪の解決に役だった例もある。勿論、移植を受けた人たちが、そこにいたり、聞いたりしたのではないが、詳細を語ることができたのである。

 このような変化は、腎臓や肺の移植では起きない。そしてこの新しい人格は、拒絶するか受け入れるかの選択ができる。何人かの人々は、それを押しとどめるが、しばしば、その後の人生は、大きな苦労と葛藤に見舞われる。他の人々は、それを受け入れ、その流れに乗る。
 この現象は、心臓移植者の中で最も劇的なものであるが、私たちの中で、このような体験をする者はいないだろうか? しばしば、病気や事故のような、悲劇的で、トラウマをもたらす、あるいは恐ろしい体験の後で、人生の岐路に立ち、既知の人生-親しみがあり安楽であるが、もはやその人にふさわしくない-にしがみ付くか、あるいは、驚きをもたらすが、わくわくするような信念の飛躍-そこでは、あなたの中にある何かパワフルなもの、あなたの心臓にあるような、あなたに未知の方向に、恐れなく前進させる勇気を与える何かに導かれるーをとるかの選択に直面する。

 人が妻に会ったときは、新しい心臓を得たような感じを覚えるだろう。それは、何かあるものからの贈り物であった。人は、それを選択したのである。この選択をする勇気を我々に与えるものは、愛だと思う。愛を見いだすところでは、心臓を見いだすのである。それは、我々の存在の核であり、我々のエッセンスを保持するものである。

 心臓は愛とどのように関係するのだろうか? 心臓学者によれば、おそらく何もないだろう。心臓は、繊細に神経が張り巡らされた特別な肉の塊である。太陽中心説的な現代科学は、心臓と愛には関係がないという。しかし、時代や文化を越えて、多くの人々は、愛を体験し、それを心臓と結びつけてきたのである。

 愛は、他の感情よりも、私たちの本質的な自己を含んでいる。私たちの本質的な自己とは何か? 物質的には、常に細胞が入れ替わるので、体は、その年齢年齢において異なる。子ども時代と老人の時では、同じものは何もない。
 しかし、我々は皆、人生のそれぞれの時期を通して続いている糸、エッセンスがあることを知っている。このエッセンスは、誕生まで、あるいはその前まで達し、また死の日まで続いている。自分自身を指す時に、指差すのは足や生殖器、頭ではない。心臓を指すだろう。そこに自分が住んでいると感じているのだ。
 他の人とつなぎ会いたいとき、自分の足やお尻に向けて抱き寄せるだろうか?そうではない。人は、愛する人を、心臓に向かって抱き寄せるのだ。
 私たちは、堅い信念を伝えたいとき、しばしば握りしめた拳-心臓とほぼ同じサイズと形である-を心臓の前に掲げる。

 愛は、必然的に、私たちの存在の最も深い部分、エッセンスを含んでいる。「私の足を持ってあなたを愛する」「私の脳が愛している」とは言わない。

 エッセンスと同様に、自由も愛の定義の不可欠な部分である。愛する人と過ごしたり、戦ったり、守ったりするのは、自由な選択に基づく。銃を突きつけられて、あるいは経済的理由で愛するのではない。愛には、選択が存在しなければならない。もっと正確には、変えられない関係性の中に、選択がなければならない。世界は、人に可能性を提示しているように見えるが、その道に従うように強いられているかのようである。それは、あなた自身の中の力強い何かが、あなたを導いているのである-あなたの脳が何を言おうとも。

※本文は以上となる。次は後書きの部分である。

心臓をケアする方法

・良い食べ物、良い食べ物だけを食べること。伝統的に栄養があるとされているものから始めること。

・良い水のみを飲むこと。純粋で、ミネラル化しており構造水となっている水を。

・できる限り陽光に当たること-焼かない程度に。

・できる限り裸足で歩くこと-特に、浜辺、湖、川そして海で。水とたわむれること。

・できるだけ多くの生き物の健康を回復するように努めること。生き物とは、植物、動物、山や野原、川、関係性、そして他の人々を含む。私たちの周りのすべてのものは生きている。責任を持ってケアする生き物を見つけ、それらを慈しむこと。それらを愛し、守り、それらのために戦うこと。

 自分が聞いてきたことではなく、自分の心臓が真実であると知っているものは何かを自分自身に問うことである。知ると言うことは心臓から来るのである。

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 以上が『人間の心臓、宇宙の心臓』の最後の章と後書きの要点である。
 ここに心臓臓移植により人格が変わった(心臓のドナーの人格が現れた)という話が出てくるが、骨髄移植を受けた人では、その人の DNA が 100%、ドナーのDNAに置換されるそうで、人格も変わるという話があるようである。心臓と骨髄に共通するのは血液であり、シュタイナーによれば、血はその人の自我の現れであるから、そのようなことになるのだろうか?
 また、ここでコーワン博士は、結局、人のエッセンスは心臓にあるということを語っている。英語のHeartは心という意味でもあるし、日本語でも、心臓は、心の臓器である。心臓は、一見筋肉の塊にすぎないように見えるが、人間の中心、核であるらしい。
 人智学派では、脳で考えるのに対して、心臓で考えるという概念がある。後者に移行していくべきであると言われる。また心臓から頭にエーテルが流れており、それにより脳が認識器官になっているとされる。さらには、未来においては、心臓は新たな器官に変容し、心臓は随意筋をもつようになるとされているようである。
 古来、心臓は太陽や金との関係が認識されていた。単なるポンプではないのである。

 ところで、⑦の記事において書き忘れたことがあるので、ここに記したい。⑦の中で、人の反応速度は、神経伝達物質による伝達では説明できないほど早い、むしろ超伝導性をもつ金のORMEが関係しているというようなことが書かれていた。ここで、コーワン博士は、音を聞いて、それが脳に達し、今度は、脳から例えば指の筋肉を動かすような指令が神経をとおって指に伝達されるというような一般的常識に基づいた話をしているのだが、実は、シュタイナーは、いわゆる運動神経はないと語っている。すべて感覚神経ということである。動かすのは「自我」の意志であり、いわゆる運動神経とは、体を動かすときに新陳代謝において起こっていることを知覚する感覚神経に他ならないといっているようなのだ。
 また、人の意識、こころは、もともと身体とは独立しており、脳の中に局在しているのではない。従って、こころは、神経を通さずに働けるのであり、コーワン博士がここで取り上げている例については、こころの独立を証明するものであるとする者もいる。
 いくつかこのテーマの本もでているので、いずれこのようなことも紹介したいと思う。
 「心臓はポンプではない」のテーマについては、更に他の方の本も出ているので、今回で終了とせず、今後に継続することとする。