k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

岩石と鉱物は生あるものから生まれてきた ②

f:id:k-lazaro:20220124113852p:plain

  引き続き、シュタイナーの教えに基づき、岩石の起源を原初の生命に求めるヴァルター・クルース氏の『生きている地球』を紹介する。以下は、この本の第2章の部分である。

ーーーーーーーーーーーーーー

2 生きている世界の以前の諸段階

 シュタイナーに従い、まず生命が存在し、鉱物は、死のプロセスの部分として、脱ぎ捨てられたものであるとすると、生命はどこからきたのかという問いが生じる。

 エルンスト・ヘッケルは、個々の有機体の発展は、全体としての世界の発展を繰り返す、と主張した。

※これは生物学では「反復説」と言われており、個体発生は系統発生を繰り返す」とも表現される。例えば、人間の胎児は、魚類、両生類、爬虫類、原始哺乳類という進化の諸段階を繰り返す。現在、「反復説」に対しては、否定論と肯定論があるようである。

 地球の前史は、植物、動物、人間の胎児的な発展において繰り返されている。特に、人間の生理学を通してこの過去の地球の発展の秘密を発見することは、未来の課題である。

※シュタイナーは、地球の発展過程に人間の胎児との類似を指摘している。

 しかし、鉱物界において、それは異なる。その形は、実際、生命の脱ぎ捨てられたものであり、そこで扱われるのは、終わったもの、生成の過程にある何かではない。しかし、地球の過去の生命プロセスのなにがしらを伝えるイメージをそこに見いだすことはできる。

 鉱物界で見られるのは、堆積岩のより若い層では、動物の生命プロセスの遺物が優勢であり、古い層では、植物の生命プロセスの遺物(石炭)が主である。最も古い岩石では、すべての生命プロセルの痕跡が完全になくなる。

 しかしこれは、生命体のあるものが十分に厚く残って保持されていることを伝えているだけで、他の形の生命プロセスがなかったと言うことを意味しない。原初の岩石に生命が全く存在しないと言うことは、後の時代の生命の表れとして知られるものがないというにすぎない。地球の最初期の生命プロセスが後の岩石とどのようにつながるかについては、動物や人間で、一方に新陳代謝があり、他方で、このプロセスの最終的な産物として骨、神経、脳等が後に残されたていることを観察すると、いくらかアイデアを得ることができる。後者のものは、腎臓、肝臓、肺などの組織と比較して、最小限の生命しか備わっていない。例えば、障害を受けた神経や脳は、再生能力がないのである。

 植物界に、花と種に対して木部と根という比較できる対象がある。花と種の形成は新陳代謝に、木部と根の形成は骨、神経と脳に対応する。

 人と動物がその骨,神経と脳を形成し、植物がその木の幹を作っているように、発展の中で、植物、動物と人間は、鉱物界を脱ぎ捨てていったのである。

 ルドルフ・シュタイナーは、次のようなメモを残している。

 

   斑岩の中で、世界-植物-動物が息絶える

   そして、片岩の中で、植物自然が、

   また石灰岩の中で、動物自然が、

   塩の中で、普遍的人間存在が消える。

   その対極は、そこで鉱物が燃え、消尽される硫黄である

   

   鉱物は、硫黄の中で消尽される

   植物は、片岩の中の層に熱を広げる

   植物-動物は、斑岩に感情を浸透させる

   動物は、石灰岩の中で形をとどめる

   人は、塩に思考を圧縮する

 

   炎の硫黄により、人は、地球に入ってくる

   片理のある層の中で、人は、地上の安楽を得る

   (斑岩のような)目覚めた感情により、人は、自己の四肢を見つけ、

   石灰岩の中で自分を人にして、塩を排出する中で思考の基盤を造る

   

 これらの中の、世界-植物-動物、植物自然、人間存在などの言葉は、これらの自然の世界(領域)を含んだ何か普遍的なものであり、個々に分化したものではない。この「存在」は、その生命が地球全体を形成しているという意味で、全体を包含するものである。地球自身は、かつて世界-植物-動物であり、全体が植物存在、動物存在、人間存在であったのである。この始原の全包含的実質が死に、消滅すると、そこに後に岩石、そして植物、動物と人間の個別の形が現れたのである

 この原初の地球は、惑星の天球にまで拡張した円周を持つ地球として描かれる。シュタイナーは、それが土星の(軌道の)大きさをもっていたと語っている。地球は圧倒的に縮み、干上がり、しおれ、以前の生命は死んだのである。元々は、この生命は周辺にまで活動していた。この死滅と退縮の過程で、その生命の残滓が、周辺から雨のように下に落ちて、後に圧縮し、岩石に固まったのである

 ルドルフ・シュタイナーの語る土星期、太陽期、月期の状態は、空間的には今日の土星木星、火星にまで広がっていた。この縮小の過程で、各惑星が分離されていったのである。古土星期の熱でできたガス状の原初の本体は、縮小し、古太陽期のガス状の本体になり、これが更に縮小し、古月期の液体状の本体となった。それぞれの新しい発展の前には、地球のそれ以前の段階が繰り返された。

 現在の地球期の始まりには、これらの段階が繰り返され、この地球期に特有なものが現れて、ついに、固い鉱物の形成へと至ったのである。そこにあるのは、過去よりも高次のレベルでの繰り返しであるリズミカルなプロセスである。

 地球の最初の始まりは、純粋な熱の現象である。ヒエラルキーの犠牲により生まれた熱実質は、古土星期の物質的発展の起源である。この発展の結果が、個別の生命に分化していない実質の形にある人間の胚的段階の出現である。その生命は、古太陽期に組み入れられた。同時に、熱が濃縮しまた希薄化した。光とガスが出現した。次の古月期に、人間は、感覚を与えられ、ガスは液体の状態となり、他方で音が出現した。地球期にようやく、人間は、個人的意識を発展させ始まることとなり、個体が液体から分離された。更に、個体の物質を形成できる形態原理が、音から生まれて、出現した。 

 原初の熱実質が、後の個体の鉱物の始まりであり、それは、第2段階で生命を吹き込まれる。植物界が受胎したのである。第3段階で、これが感覚を受け取り、動物界の最初の始まりとなった。ようやく第4の段階、地球期に、この実質は、意識的思考を持つようになり、人間存在が出現したのである。

 シュタイナーがメモの中で植物、動物と人間の集団的存在の死滅を語るとき、それは、そのすべてを満たしている、生命を持った植物から、個別の植物が、また感覚を持った動物が出現し始めたことを意味している。

 人の場合、ルドルフ・シュタイナーは、死滅したというような言葉を使わず、消失と言う言葉を使っている。これは、人間では、消失したものは、また火が付けられることを示唆している。完全に目覚めた意識の中で、誕生の前と死の後に、その中で人が生きた本質的な実態を地球にもたらすことが人間の使命だからである。シュタイナーのメモのこの文章は、ノヴァーリスの「霊が死ぬとき、人は生まれる。人が死ぬとき、霊が生まれる」という断片を思い出させる。

 シュタイナーは、「人は宇宙の市民であり、地上(地球)の隠遁者である」と語った。人は、実際、誕生の前と死の後に、自分の真のエレメントの中にいる。それ以前、全宇宙に埋め込まれていた人間存在は、地上に生まれることにより、消失する。しかし、地球において、人は、自己の意識の中で、誕生前に体験し、死後に体験するであろうものを再び獲得することを試みることができるのである。人は、自分自身の中に自己の真の存在に点火することができる。本来、人は、永遠に全宇宙の生命の中に埋め込まれていた。誕生の現象が始まったとき-人が誕生前に胎内で体験する浮かんでいる状態から出現する様に-個体の物質的形態で出現した。同時に、岩石と塩は、液体の地球から固体として現れたのである。

 実体の、ある集団が実際に生命を備えたときに、いくつかの状態が存在した。実体は、液体であり、熱に満たされて、空気と光であった。これは、原初のタンパク質の大気であった。後に、岩石へと硬化する実体は、この原初のタンパク質の中に溶けていた。世界-植物-動物の生命から、それの死の過程で、鉱物の実体として沈殿したものは、斑岩となった。地球全体を覆う植物的自然から沈殿したものは、薄層状の岩石(片岩、スレートなど)となった。動物的自然から沈殿したものが石灰岩となった。これらのすべての鉱物実体が卵の白身のようなタンパク質からすべて沈殿し、それらの真の存在が死んでからようやく、今日生あるものの様々な形が出現したのである。

 最後に、人間が出現することにより、「宇宙液体」から塩が沈殿した。そして、まだ柔らかかった岩石が硬くなり始めたのである。この宇宙液体、原初のタンパク質の大気、の残った名残が、塩を多く含んだ海である。その他のものは、人と動物が誕生前にその中に浮いている羊水-この液体は、相当な糖とタンパク質と同様に海の水に似た塩を含んでいる-である。

※タケダライフサイエンスリサーチセンター・疾病予防センター所長木村美恵子氏は、「海水中ミネラル濃度分布はヒトの体液(血清)中ミネラルバランスと正の相関関係がみられます。種の起源は海水からといわれているように、私たち人間の羊水はやはり海の水でしょう。私たちが産まれる前にお母さんのお腹の中で羊水に浮かんで暮らしているわけです。生まれてきて初めて水の中から出てくる。」と述べておられる。

 人と動物は、血液の中にこの原初のタンパク質のなにがしらを取り込んだのである。血液の塩は海のそれに似ている。より高次の有機体は、地球における過去の発展期の原初の生命及び感覚的実体の幾分かを、それを自分たちの感覚と意識的生命の基盤とするために保持したのである。

 シュタイナーの言う「硫黄」は、鉱物の硫黄とはあまり関係がない。「硫黄」は、古い錬金術で熱とか炎を意味している。熱において生じるプロセスのことである。例えば、植物が花を咲かすことに、生きている「硫黄」を見ることができる。シュタイナーは、この言葉を、鉱物を消尽する生きている炎を示すために用いている。

 これは、生きている熱のプロセスを通して、シリカ、アルミニウム、マグネシウムなどの鉱物が、固い輪郭を持った具体的な実体として、原初のタンパク質から分離されることを意味している。

 この燃えるプロセスにおいて、後の鉱物、特に花崗岩と緑色岩に見られるものの最初の起源が現れる。シュタイナーは、この燃えるプロセスを、全地球を包含する花咲くプロセスとして語っている。鉱物-植物の世界は、地球の発展の以前の段階を繰り返すものであるとされる。

 この燃え上がる花と植物の自然は、今も、ある岩石においてイメージ的に見ることができる。

 この鉱物-植物の世界は、非常に古く、既に古月の段階で存在していた。その時、それはまだ生きていた。今、地球で繰り返されるときに、それは死に、花崗岩と緑色岩、私たちの地球の固い基盤を形成したのである。 

ーーーーーーーーーーーー

 クルース氏は、このように地球と生物、岩石の生成を概説し、この後の章でさらに具体的事例を示して論じていくが、それについては、機会があればまた紹介しよう(実はまだ呼んでいない)。
 シュタイナーによれば、地球と人間の発展は不可分のものである。この世界は、初めから人間を生み出すように発展してきており、また人間がそこで活動できるように物質的基盤(地球)を形成したのである。現代科学で言えば、宇宙論の「人間原理」が同じ立場にあると言えるかもしれない。人間が進化の「花」であることは間違いないだろう。
 しかし、このような一見宗教的観念は、近代科学の発展の中で否定され、人に特別の価値を認める考えはむしろ異端(非科学的)とされてきている(実は、それはこの地球の特別さを否定することでもある)。それは、実際には、地球と人間の本質を見失うことである。そこに現代社会の抱える病弊の真因を求める考えもあるのだが・・・