k-lazaro’s note

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ウクライナ危機の深層

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ノルドストリーム2

 ウクライナ情勢は、一旦、緊張緩和に向かったかのように見えたが、いよいよ緊迫してきたようである。英米の支配層は、あくまで戦争を望んでいるかのようだ。
 勿論、それは、ロシアがウクライナを「侵略」しようとしているからではない。
 最近、「マスコミに載らない海外記事」というブログで興味ある記事を拝見した。「ノルド・ストリーム:ドイツを「押さえつけ」ロシアを「締め出し」ウクライナの不安定を維持する地政学」という題で、アラステア・クルック、2022年2月14日、Strategic Culture Foundationとある。

 次のような内容である。

 

 中国がはっきり言っているのは、ひときわ目立つ。権威ある環球時報が、論説で、軍事ブロックの統制を強化し、アメリカが率いる組織にヨーロッパ国家を囲い戻すため、ウクライナアメリカが対立を扇動しているのだと警告している。ヨーロッパをアメリカと、中国をバリケードで包囲し、国境内に封じ込めるという最新の課題のために共同戦線が必要なアメリカの次の段階に向かってを導く上で、ウクライナは格好の転換点なのだと中国が理解しているのは確実だ。

 だからヨーロッパの将来を決める重要な決定が今行われているのだ。一方で(ペペ・エスコバールが約二年前に述べた通り)「ロシアと中国の政策目標は、ユーラシア大陸を、マッキンダー風に、史上最大の地政学的提携で三大国をまとめ、アングロサクソンの海軍力に対し、世界権力を三国同盟の優位にすべく、ドイツを取り込むことだ」。

 他方、NATOは、そもそもの発端から英米によるヨーロッパ支配の手段、より正確には(欧米戦略家の古い原則で)ドイツを「押さえつけ」ロシアを「閉め出して」おくため考え出されたのだ。NATO最初の事務総長ヘイスティングス卿(ライオネル・イズメイ)がNATOは「ソ連を締め出し、アメリカを入れ、ドイツを押さえつけるため」作られたと言ったことは良く知られている。

 

 つまり、一方に、ロシア・中国・ドイツの連携に向かう構想、他方に英米が中心となり、ドイツとロシアを分断する構想があるのである。

 そして現在その焦点となっているのが、ノルドストリーム2というロシアからドイツに伸びる天然ガスのパイプラインであるらしいのだ。

 そして、この点を更に論じた論考を読むことができた。「【覚え書き】自分のためのメモ&情報収集」というブログで見つけたのだが、ウクライナの危機は、ウクライナについてではない。ドイツに関する事だ」(2022年2月16日(水) 記入者: ニュース編集部)という記事である。

 

 ウクライナ危機はウクライナとは関係ない。ドイツと、特にノルドストリーム2というドイツとロシアを結ぶパイプラインの問題だ。
 米国は、このパイプラインを欧州に於ける自国の優位性を脅かすものと考え、事有る毎にこのプロジェクトを妨害しようとして来た。それでもノルドストリームは推進され、現在では完全に稼働し、準備が整っている。
 ドイツの規制当局が最終的な認証を与えれば、ガスの供給が開始される。ドイツの家庭や企業は、クリーンで安価なエネルギー源を手に入れ、ロシアはガス収入を大幅に増やす事ができる。両者にとってWin-Winの関係である。

 米国の外交政策は、この様な動きを快く思っていない。何故なら、商業は信頼を築き、信頼は貿易の拡大に繋がるからだ。関係がより温かくなれば、貿易障壁は更に取り除かれ、規制は緩和され、旅行や観光が増加し、新しい安全保障構造が展開される。
 ドイツとロシアが友人であり、貿易パートナーである世界では、米軍基地も、高価な米国製兵器やミサイルシステムも、NATOも不要である。又、エネルギー取引を米ドルで行う必要も、収支を合わせる為に米国債を備蓄する必要も無い。
 ビジネスパートナー間の取引は自国通貨で行う事ができ、ドルの価値の急激な低下と経済力の劇的なシフトを引き起こすに違いない。これがバイデン政権がNord Streamに反対する理由である。

 それは、欧州とアジアが巨大な自由貿易圏へと接近し、相互のパワーと繁栄を増大させる一方で、米国は外野に追いやられるという未来への窓なのである。ドイツとロシアの関係強化は、米国が過去75年間支配してきた「一極集中」的な世界秩序に終止符を打つものである。
 ドイツとロシアの同盟は、現在、奈落の底に近付きつつある超大国の衰退を早める恐れがある。だからこそワシントンは、ノルドストリームを妨害し、ドイツをその軌道に乗せる為に、あらゆる手段を講じようと決意しているのである。

 それは生き残りの為である。

 そこで登場するのがウクライナだ。ウクライナは『Nord Stream』を妨害し、ドイツとロシアの間に楔を打ち込む為のワシントンの「選択兵器」である。この戦略は、米国の外交政策ハンドブックの1ページ目から引用されている。「分断と支配」である。
 ワシントンは、ロシアが欧州に安全保障上の脅威を与えていると云う認識を植え付ける必要がある。それが目標だ。

 プーチンは血に飢えた侵略者であり、気性が荒く、信頼できないことを示す必要がある。その為に、メディアは「ロシアはウクライナに侵攻する積りだ」と、何度も繰り返し伝える事を任されている。
 しかし、ロシアはソ連邦崩壊後一度も侵略していない事、米国は同じ期間に50カ国以上に侵略し、政権を転覆させている事、米国は世界各国に800以上の軍事基地を保有して居る事等が語られないままになっているのである。

 メディアは、これらの事を一切報道せず、代わりに「悪のプーチン」に焦点を当てている。彼は、ウクライナの国境沿いに推定10万人の軍隊を集結させ、欧州全体を再び流血の戦争に巻き込むと脅しているのだ。
 ヒステリックな戦争プロパガンダは全て、ロシアを孤立させ、悪者にし、最終的には小さな単位に分割する為に利用できる危機を作り出そうという意図で作られたものである。

 しかし、本当の標的はロシアではなく、ドイツである。アンズ・レビューのマイケル・ハドソンによる記事からの抜粋をご覧ください。
 米国の外交官が欧州の購入を阻止する為に残された唯一の方法は、ロシアを煽って軍事的な反応を起こさせ、この反応に復讐する事が純粋な国家経済的利益を上回ると主張する事である。

 ドイツは現在、原子力発電所を廃止しており、そのエネルギー不足を補う為に天然ガスを必要としている。又、経済制裁の脅威は、外国からの干渉の表れと見るドイツ人にとって「嫌なもの」なのだ。「何故、米国が我々のエネルギーの決定に干渉してくるのか」と、平均的なドイツ人は問う。「米国は自分の事だけ考えて、我々の事には口を出すな」と。これこそ、合理的な人なら誰でもが期待する反応である。

 詰り、世論はノルドストリームを強固に支持しているのであり、ワシントンが新たなアプローチに踏み切った理由を説明する一助となっている。

 制裁は上手く行かないので、アンクルサムはプランBに切り替えた。

 ドイツがパイプラインの開通を阻止せざるを得ない様な大きな外的脅威を作り出すのだ。
 正直な処、この戦略は自暴自棄になっている様に観得るが、ワシントンの忍耐強さには感心せざるを得ない。9回裏に5点差まで追い上げられたが、未だタオルを投げてはいない。最後のチャンスに挑み、少しでも前進できるか否かを見極めようとしているのだ。

 月曜日、バイデン大統領はホワイトハウスでドイツのショルツ首相と初めて共同記者会見を行った。【以下略】

 

 つまり、ウクライナ危機とは、ドイツを巡り、アメリカの覇権をかけて仕掛けられた世界的危機なのである。世界的というのは、一方の当事者がNATOで、他方がロシアとすると、ロシアに連携する中国や他の世界各国に波及する可能性があるからである。

 まさか「世界大戦」にはならないだろうと思うだろうか? 勿論、そうあってはならない。しかし、かつて人類はそうした悲劇を経験している。第1次世界大戦である。初め、当時の各国の指導者の多くは、そのような世界戦争になるとは思っていなかったという。しかし、それを望む勢力が存在したのである。

 以前にも触れたが、そしてこの時も、ドイツ(中欧)とロシアの関係を巡る問題が背後に存在していたのである。

 ここに、少し古くなるが、テリー・ボードマン氏の、2014年の時のウクライナ危機を巡る論考を紹介する。

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第一次世界大戦ウクライナ危機:1914年~2014年

投稿者:Terry Boardman 投稿日:2014年5月10日 カテゴリ:第一次世界大戦, 最新情報

(この記事は、雑誌「New View」71号(2014年4月~6月)に掲載されたものです。)

 1914年に勃発した世界の大惨事と、100年後の現在のウクライナの危機との間には、どのような関係があるのだろうか。この問いに答えるには、まず南欧、北欧、東欧の3つの大きな文化集団、すなわちラテン民族(ロマンス系)、ゲルマン民族スラブ民族の関係を考察することから始めることができる。8世紀。紀元前8世紀、北欧のゲルマン人南欧の文明人から "野蛮人 "と呼ばれていた。その後1000年以上にわたって、南ヨーロッパと地中海沿岸はヨーロッパ文明の最前線にあった。北ヨーロッパ中央ヨーロッパの人々(もちろんアングル人とサクソン人も含まれる)は、長い間、ドイツの森とスカンジナビアで「待機モード」だったのである。彼らはまだ知らないが、自分たちが際立つ「時」はまだ来ていなかった。4世紀以降、南欧の文化(ローマ帝国、そしてローマ教会)と密接な関係を築いた彼らは、15世紀以降、徐々に世界の注目を浴びるようになる。ルネサンス以降、「近代」が始まったとされるこの時期に、北・中央ヨーロッパに住んでいたゲルマン民族は、ある意味で「現代」の民族と言える。一方、東欧のスラブ人は「未来」の民族であり、近代という時代において、これまで「待機モード」であったと言える。ルネサンス以降、ヨーロッパの文化のバトンは、いわば南の地中海民族から北のゲルマン民族に渡され、将来は東の民族、スラブ民族に渡されることになる。このことを自覚し、特定の民族に感情移入しなければ、ゲルマン文化とスラブ文化の健全な結合をはかり、スラブ人がゲルマン文化の長所を享受し、将来、自分たちにしかできない貢献ができるように努力することができるのだ

 しかし,このような歴史的経過に気づかず,ゲルマン民族の一員として,スウェーデン人,オランダ人,ドイツ人,イギリス人として,自分の民族と感情的に結びつき,心理的に,おそらくかなり微妙にでも固着しているとすれば,自分の民族の衝動が無限に続くことを望んでしまうかもしれない。たとえば、イギリスの外務大臣ローズベリー卿は、1893年3月1日にこう言っている。

 

 「われわれは、今何を望むかではなく、将来何を望むかを考えなければならない。そして、われわれが形成しうる限りにおいて、世界がアングロサクソン的な性格を持ち、それ以外の性格を持たないように注意することが、われわれの責任であり、遺産であることを忘れてはならない」。

 

 また、歴史的過程を知っていながら、意識的にそれを操作しようとすることもありえる。つまり、現在の西洋の人々がスラブ人を訓練して、彼らが西洋の人々のようになり、将来、彼らスラブ人が独自にもたらすのに適したものをもたらすことができなくなるようにしようとするのだ。では、彼らがもたらすことができるものとは何だろうか。 個人がみんなと競争しようと躍起になることもなく、常に自分の自立と個人の自己肯定を求め、階級がないので階級的な同情も反感もないような文化を想像してみよう。個人が自己実現した自由な思想家になって、個人としての自分を知り、しかも同じく自己実現した他者と意識的に共同することを選択した、それが普通の文化なのだ。私たちは、北欧や中央ヨーロッパの民族が支配する文化から600年しか経っていないため、このような文化を想像するのは難しい。

しかし、もし私たちの意識の進化がすべてうまくいったとしたら、この時点が私たちの文化の立つ位置となる。そのとき私たちは、いわば個人的な疎外感、反感、皮肉という現代の砂漠を通過し、現代の私たちには想像もつかないような共同生活の新しい世界に入る準備ができているだろう。たとえば、紀元前146年にもっと進んだ魂でさえ、2014年に意識がどうなっているか想像しにくいと思ったのと同じである。

 

 しかし、スラブ人もまた、この危機的な「ゲルマン」あるいは北ヨーロッパの時代の砂漠を、スラブ人としての性質をまだ何とか保って通過したならば、ゲルマン文化のバトンを受け継ぎ、その新しい未来の時代に、真の兄弟愛の理想と実践をもって人類を鼓舞する存在となるのであろう共産主義は、スラブ人ではなく、ゲルマン人セム人由来の思想的産物である(英国の経済的実践の文脈におけるマルクスエンゲルスの思想)。 ゲーテの『緑の蛇と美しいユリの童話』(1795年)は、ルドルフ・シュタイナーが精神科学者として公的な活動を始めるきっかけとなった作品であり、1900年のミハエル祭の日に、後に彼が「人智学」あるいは精神科学と呼ぶものの原種となるこの童話について講演を行った。この童話では、「最初は骨髄がなく、麻痺しているように見える」(1)青年(シュタイナーはこれをロシアの青年と見ている)が目覚め、永遠の女性であるユリ(ソフィア)への道を見つけ、彼女と一体となれるように、緑の蛇がすべての人々のために自分を神殿への橋として犠牲にする方法を見いだすのです。ルドルフ・シュタイナーにとって、このことは、中央ヨーロッパのゲルマン文化が東ヨーロッパに提供できるサービスと関係がある。

 

 「他のヨーロッパの人々にとっては、(思考の)骨格は自然科学によって提供される......彼らはこの手段によって思考を訓練できる......しかし、科学はロシア人に思考の枠組みを与えてはくれないだろう。それは彼らにとっては毒である。ロシアに骨格を与えることができるのは精神科学だけです。そしてゲーテ主義、つまりゲーテが自然を見る方法、ゲーテの自然に対する知識こそが、それに至る道なのです。」 (R.S)

 

 だからこそ、ルドルフ・シュタイナーは「人類の進歩のための真の利益は、ある集団の中で、中欧と東欧の間に調和のとれた関係が築かれる場合にのみ生じる」(1915.1.17)と述べているのである。シュタイナーはここで、現在と未来の時代の間に築かれるべき精神的・文化的な橋渡しについて言及しているからである。西ヨーロッパは、この橋の建設を妨げてはならないし、ヨーロッパの中央部が東ヨーロッパに貢献すべきことを回避して、東ヨーロッパと独自の直接的関係を築こうとしてはならない。そうでなければ、中央ヨーロッパゲーテ的衝動は東ヨーロッパでは受け入れられず、スラブ文化生活の「骨格」は健全に形成されないだろう、と彼は考えている。もちろん、「ロシア人」と「スラブ人」は同義ではなく、ロシア人以外にもさまざまなスラブ民族がいるが、たとえば西スラブ人のチェコ人やスロヴェニア人は、長い間、ゲルマン文化にずっと近いところで生活していたのである。もし、中欧と東欧の間にこの橋が架けられなければ、スラブ人の未来への共同体的衝動は正しく健全に結実せず、人類は疎外された自己主張と自己中心的な独善主義の砂漠に留まり続ける危険性があるのだ

 

帝国の動機

 この砂漠からの風は、3月に発表された英国のジョージ・オズボーン財務相の5回目の予算発表の言葉からも聞こえてきた。下院で彼はこう言った。「私は、英国が世界の他の国々と競争し、出し抜くと確信している」-英国の「ライバル」だけでなく、全世界の「ライバル」である。オズボーンはまた、友人であるデービッド・キャメロン首相がしばしば口にする、英国が「グローバル競争」に勝つために戦うという言葉を念頭に置いていたことは間違いないだろう。キャメロン首相の、英国の将来について、経済的なスポーツ大会と国家間の剣闘士のコンテストへ参加するという見方は、2012年のロンドン・オリンピックの期間中とその後に顕著になった。そのジャンボリーの公式ソングが、ロックバンドMUSEの「Survival」である。この曲は、豊かで叙情的だが、むしろ病的で豪華なストリングスから始まり、デジタル・ビートへと変化し、最後に執拗に爆撃的な軍国主義ジャガーノートへと変化していく。主催者がイギリスから世界へ向けて鳴り響かせたかったと思われる言葉は、次のようなものである。

 

レースだ、人生はレースだ                           

そして私は勝つ                               

♪ Yes, I am gonna win                      

そして、私は導火線に火をつける

絶対に負けない

そして、私は生き残ることを選択する

先を越されることはない

私はペースを維持する

どんなことでも

 

そして、私の強さを明らかにする

全人類のために

はい、覚悟はできています。                                  

生き続けるために                                       

そして、許さない。                         

復讐するは我にあり           

そして、私は屈しない                                        

なぜなら、私は成功することを選ぶから                              

そうだ、俺は勝つぞ!

レース、それはレース

そして私は勝つ

Yes, I'm gonna win

どんなことでも

そして、私は導火線に火をつける

私は決して負けません

そして、私は生き残ることを選択する

ファイト!ファイト!戦え!ファイト!

勝って!勝って!勝って! 勝って!

そうだ......勝つんだ!                                                    

                                               

 このような残忍な感情を、ロンドンオリンピックの主催者は、今日のイギリスを代表する「スポーツ」という旗印のもとに、世界に示したのである。これこそ、社会ダーウィニズムの精神である。動物の暴力と生存のための闘いを、人間の社会的・文化的生活に適用することである。社会ダーウィニズムは、ダーウィンの画期的な著書『種の起源』(1859年)の出版後、英国で発展し、19世紀末の思想のもう一つの弊害である帝国主義を発展させる重要な一因となった。1840年代、50年代、60年代に生まれた新しい世代、すなわちウェールズ公(後のエドワード7世)、セシル・ローズ、ローズベリー卿、十字軍のジャーナリスト、W・T・ステッド、アルフレッド(後のロード)・ミルナーラドヤード・キップリング地政学者のハーフォード・マッキンダーなどは、若い頃、社会ダーウィン主義の人種差別の誇り、帝国、社会の「効率化」といった新しい膨れ上がった考え方に胸をときめかせたものであった。彼らは、イギリス文明と大英帝国こそが新ローマであり、法、正義、秩序、文明、真の信仰、そしてあらゆる善きものの発信源であると感じ、19世紀後半には、大英帝国は太陽が沈まない帝国となり、そしてこれからも沈まないことが敬虔に願われていたのである。しかし、1880年代になると、彼らはロシアやアメリカといった大陸の大国に、これからの世紀におけるイギリスの覇権に対する主要な挑戦者を見出す傾向にあった。そこで、1884年にローズベリー卿を筆頭に始まった英語圏諸国民の帝国連邦化運動が始まった。これは、イギリス人(英語圏の人々)という一つの帝国民族からなる世界的な連邦共同体を形成し、その共同体の一員であるインドなどの肌の色の黒い人々を「育成」し「教育」することを義務にしようというものであった。

 

 英語圏の人々のエネルギーを結集した真のグローバル・コミュニティがあってこそ、英国は将来、ロシアやアメリカのような巨大国家に対抗していくことができると考えられていたのである。このような帝国連邦運動と、それを後押しする感情は、1914年の第一次世界大戦への道を準備する重要な要素であった。ローズベリー卿の言葉を借りれば、「世界は、我々によって形成され得る限り、アングロサクソン的性格を持ち、他の性格は持たないようにする」決意があり、このような考えを持つ政治家たちは、イギリスの王冠の宝石であるインドをロシアの進出によって失ってはならない、という決意も同様に持っていたのである。なぜなら、そうなればユーラシアと世界に「ドイツの頭脳とロシアの腕力」という権力の結びつきが生まれ、戦艦を持つイギリスはそれに対処することができないからである。ハルフォード・マッキンダーは、1904 年 1 月 25 日に王立地理学会で行った有名な講演「The Geographical Pivot of History」の中で次のように述べている。

 

 独・ソ同盟か日・清帝国(ロシア領を征服)のいずれかが、「グレート大陸の資源」に「海洋の間口」を加えることで世界覇権を争うことができ、(これにより)艦隊建造のための広大な大陸資源が使用可能となり、世界の帝国は目前となる」のである。

 

 この背景にある戦略的思考を解明するために、グイド・G・プレパラータ教授は次のように書いている。

 

 「イギリスは、大陸に有力な国家的中核が出現し、その周囲に臣下の同盟国を集めて、やがて、イギリスが主導する封鎖に抵抗し、最終的には完全に従わせることができる、対抗する帝国となる可能性を恐れていた......。マッキンダーは、ユーラシアに対する組織的で容赦のない嫌がらせの政策を提案した。 これらの「プラットフォーム」は、(ユーラシアの)原住民に対する多かれ少なかれ耐久性のある侵略のための発射台、すなわち陸橋と見なされるものであった。このような政策は、現在でも、英国の完全かつ献身的な後援を受けた米国の政策である」[というよりも、英国のエリートたちのものと言ってもよい。]

 

 それにもかかわらず、もしそのような露独関係が生まれたら、イギリス帝国 のエリートは、イギリスは米国と手を組まなければならないと考えていた。19世紀後半以降、西欧諸国には、自分たちの文化に対する内面的な愛着から自由になれず、英語圏の人々の衝動、すなわち自己中心的な人格の衝動、あるいは自己中心的な集団の衝動を世界情勢の中で永続させようとする有力者たちがいた英語圏の人々を優位に立たせるという目的を達成するために、これらの有力者たちは、100年前も、そして現在も、中欧と東欧の間の有意義なつながりを阻もうと模索しているのである。 1880 年代後半以降、英国では皇太子、セシル家のネットワーク、セシル・ローズとその 盟友を中心とする界隈が、それまでドイツ、オーストリア、トルコに傾いていた英国の伝統的な外交政策を、かつての帝国の敵であるフランスとロシアにもっと近い関係-実際には同盟に近いもの-へと転換させようと、水面下で動いていた。ロシアに接近することによってのみ、イギリスはロシアの進攻からインドを守ることができる、というわけである。そして、エドワード朝時代の最も著名な人物の一人であるカーゾン卿は、1900年に次のように言っている。インドを支配している限り、われわれは世界最大の国である。もし、インドを失えば、われわれはすぐに三流の国に転落するだろう。

(中略)

 英国の歴史家は、第一次世界大戦の原因を探る際、圧倒的にベルリンとウィーンに焦点を当てる傾向があり、今年、英国のメディアでは、歴史家やメディアの専門家たちが、1914年と1919年に行われた議論を繰り返し、ドイツに非難の指をさすプロパガンダが行われた。 しかし近年、他の研究者が他の国や要因に焦点を当てるようになっている。アメリカの歴史家ショーン・マクミキン の最近の著書によれば、ロシアは 1914 年初めに深刻な問題を抱えていた。彼は、ロシアの「パートナー」であるはずのイギリスの軍需企業(ヴィッカースやア ームストロング・ホイットワースなど)が、ロシアの敵であるオスマントルコに売るために、 最新の超弩級戦艦やその他の艦艇を建造していたことを詳細に述べている。1914 年 8 月と 9 月までに完成し、ロシアの全黒海艦隊を時代遅れにするこれらの艦船によって、 トルコは黒海を支配し(1914 年までにロシアの農産物輸出のほぼ 50%を占める重要な水路) 、ロシアが何十年も前から計画していた水陸両用攻撃によるコンスタンティノープルの押収(最近では、2 月 21 日の戦争評議会で決定)を阻止できるようになるであろう。ロシアの敵であり、長年の犠牲者であったトルコにイギリスの最新鋭戦艦を売却したというこの要因は、第一次世界大戦の原因をめぐる今年のイギリスでのメディアの議論ではまったく回避されてい る。もちろん、イギリスの自由党政府は、「純粋に商業的なもの」と言われたこの取引には何の関係もないと主張した。しかし、それにもかかわらず、このイギリスの行動が、その年にロシアがトルコに対して行動を起こそうとするきっかけとなり、トルコ人をヨーロッパ本土に残っている領土から追い出すためにバルカン半島での戦争が必要となったのであった。いずれにせよ、エドワード朝時代のエリートたちの「クラブ活動的」で親密な世界では、ビジネスと政治は簡単に肩を並べることができた

 

 1914年1月6日、ロシア外相のサゾノフは閣僚会議に参加し、オスマン帝国を加盟国の間で解体し、ロシアのために海峡の支配権を獲得するためにヨーロッパ戦争を引き起こすことを議論した。 陸軍大臣スホムリノフは、ロシアは「オーストリアとの決闘は言うに及ばず、ドイツとの決闘にも完全に備えることができる」と閣議で発言している。サゾノフは、退任するフランス大使デルカッセの言葉「フランスはロシアの望むところまでは行くだろう」を理事会に報告した。デルカッセの後任のモーリス・パレオログは、デルカッセと同様に戦争推進派で、戦争につながる7月危機で重要な役割を果たすことになる。 実際、アメリカの外交官ジョージ・P・ケナンは、1892 年から 1917 年の仏露同盟を研究した『運命の同盟』の中で、同盟の軍事条項の文言は、「ロシアの目的に合うようなときにはいつでもヨーロッパの大規模な戦争を引き起こす力をロシアの手に大きく委ねることになる」と書いてい る。これは、そもそもフランスが同盟を締結した目的であり、フランスが単独ではできないアルザス・ロレーヌをドイツから奪回するためにロシアを利用することであった。ウッドロウ・ウィルソン米大統領が自分の分身と呼んだ E.M.House 大佐は、1914 年 5 月にヨーロッパの首都を訪れ、自らの目で状況を確認し、ウィルソン大統領に「イギリスが同意すればいつでも、フランスとロシアはドイツとオーストリアに接近する」(14) (強調)と返信している。フランスの目標は、アルザス=ロレーヌを回復し、1871 年の恥を消し、ドイツの力を弱めるという非常に短期のものであった。それは、中欧と東欧のつながりを断ち、後述する「社会主義的実験」をドイツ、特にロシアに注入することで、ドイツを大幅に衰退させることであった。

 

 1914 年 2 月 21 日、サンクトペテルブルクでサゾノフを議長とする特別会議が開かれ、 コンスタンチノープルへの水陸両用攻撃を計画した(15) 5 月 14 日、英国内閣はロシア側と希望の英露海軍協定に関する秘密会談を認可したが、この事実 は 6 月 11 日の下院でグレーによって隠され(16) 、ロンドンのロシア大使館のドイツのスパイがこの「秘密」会談を漏 らしていたのだった。当然のことながら、ドイツ人はこの協定を、長年疑っていた独 占国家によるドイツ包囲網の最後の一歩と見なした。ハウス大佐が正しく認識していたように、フランスとロシアは互い抜きにはドイツと戦争することはなかっただろうし、イギリスの後ろ盾がなければ戦争に踏み切ることもできなかっただろう。著者のドハティとマクレガーはこう書いている。「1912年11月にブルガリアのロシア大使からイズボルスキー(パリのロシア大使で、故エドワード7世に寵愛された人物 - TB)宛の電報には、タイムズ紙の代表者(J.D. Bourchier, The Times Balkan correspondent - TB] が、「イギリスでは非常に多くの人々が、ドイツ艦隊とドイツ貿易の破壊につながる戦争を引き起こすために、ヨーロッパ(バルカン半島)の複雑さを強調するように動いている」と主張している(17) 2ヶ月前、ロシア大使のサゾノフは第一次バルカン戦争が始まる2週間前にスコットランドのバルモラル城で6日間、エドワード・グレー卿とジョージ5世の会談に臨んでいる。この会談に関するイギリスの公式記録は残っていないが、バルモラル会談後にサゾノフがニコライ2世に送った電報から、「フランスとイギリスの間には、ドイツと戦争になった場合、イギリスがフランスに対して海上だけでなく陸上でも軍隊を上陸させて支援する義務を負うという合意が存在する」ことが分かっている。国王は同じ問題に触れ、大臣よりもさらに強く自分の意見を述べた...彼は「我々は手に入れたドイツの商船を一隻残らず沈めるだろう」と言ったのである。 (18) エドワード・グレイ卿のバルモラル会談に関する回想録は、バルカン半島での戦争勃発が差し迫って いたにもかかわらず、バルカン半島について沈黙しているが、彼は在露イギリス大使サー・ジョージ・ブ カナンへの私信で、「事実、彼(サゾノフ)はバルモラルで、バルカン諸国の同盟を煽り、 バルコーリアの炎に大いに心を痛めていたのだ」と書いている。バルカン半島はその時、確かに議論されていたのだ!

 

 このプロセスは、(少なくとも筆者にとっては)1887 年にセシル家(20) の当主で当時のイギリス首相であったソールズベリー卿が、旧友のチョードルディ伯爵(21) を通じてフランスに秘密裏に初期アプローチを行ったときにまでさかのぼることができるものだった。) 中央アジアにおける最近のロシアの動きに非常に心を痛めていたソールズベリーは、英国が従来の親トルコ・反ロシア政策をやめるべきときが来たと確信し、フランス経由でロシアとの融和に向け密かに動くことを決意したのである。しかし、彼は常にロシアが実際にコンスタンチノープルを領有することがあってはならないと考えており、イギリスの「ロシア問題」に対する答えは、いずれ革命、イスラム復興、対独戦争という形でもたらされるかもしれないと思っていた。彼は、ロシアの「財政的困窮」をアキレス腱と考え、こう言った。「もし、われわれがロシアの慢性的な敵になるなら、われわれの努力はその弱点に向けられたものでなければならない。ロシアが財政難と革命に直面するのは、1914 年の対独戦争がきっかけであり、その結末は、レーニントロツキーが率いるボルシェビキの手に委ねられることになったのである。レーニンは、有名な話だが、ドイツ軍によってスイスの亡命先からロシアへの通過が許された。後に赤軍の内戦を組織して勝利する重要な役割を果たすことになるトロツキーが、イギリスによってアメリカからロシアへの渡航を許されたことはあまり知られていない。トロツキーは、MI5の明白な命令によってカナダで拘束されたが、その後MI6の命令によって釈放された!(23)

 

 私はまず、地中海民族、ゲルマン民族スラブ民族が関与した歴史的プロセスについて書いた。1893年、C.G.ハリソンという名の無名の英国秘教学者によって、この過程が秘教的な角度から説明された。彼は、英国国教会の中の「高教会」、すなわち「アングロ・カトリック」秘教の流れに関係していた。ハリソンが1893年に行った6つの非常に深い講義は、すぐにルドルフ・シュタイナーの旧友フリードリヒ・エクスタインによって注目され、ドイツ語に翻訳され、シュタイナーがその内容を知るきっかけとなった。その講義の中でハリソンは、ローマ帝国の末期まで、ローマ人がゲルマン民族の「乳母」であり「家庭教師」であったこと、彼らがローマ教皇庁のもとで彼の言う「幼児期」から「児童期」へと移行したことを述べている。スラブ人は現在乳児期であるが、幼年期へと移行している。彼の明確な含意は、現在成熟期にある西側のゲルマン人(もちろん彼にとってはイギリス人のこと)がスラブ人の乳母であったが、今度は彼らの「家庭教師」「保護者」となり、その変化は再び帝国の終焉によって示され、彼は別の種類の教皇の下で彼らの家庭教師をすることになる、と言っていることである。明らかに、今回は「西洋の教皇庁」、あるいは西洋によって「注入された」スラブ教皇庁であろう。 1893年、彼は「ロシア帝国は、ロシア人が生きるために死ななければならない」と述べた。彼らの国民性は、「西ヨーロッパに無数の困難をもたらすであろう社会主義、政治、経済の実験を実行することを可能にする」ものである。スラブ人の運命は、「彼ら自身のより高い文明を発展させること」であると彼は言った。しかし、今日のゲルマン民族の上流階級の文明が、「イギリスにおけるローマ文明と同様に、外国からの成長」であるように、スラブ人の将来の文明も、実際には外国からの成長、すなわちゲルマン(=イギリス)文化の輸入であることを示唆したのであった。つまり、スラブ人は自分たちの文明を発展させるのではなく、前時代の文明、すなわち現在の文明を継承するのである1903年にロンドンでボルシェビキが出現する(ロシア社会民主労働党内の分裂の結果)10年前に、同じくロンドンで、伝統的で保守的な秘教の流れにつながるイギリスの秘教主義者が、「次の大きなヨーロッパ戦争」の結果としてロシアでの社会主義の実験を予言していたわけである。

 

ウクライナ、ロシア、西側

 ハリソンが言った大戦争で、ロシアは実際に混乱に陥り、その後、ボルシェビキによる占領後の数十年間に、社会主義の実験が本格的に始まったのである。ロシア内戦期の混乱の中で、短期間の独立したウクライナ共和国が誕生したが、1919年にボルシェビキに制圧された。ウクライナが「正しく」独立するのは1991年になってからである。民族と宗教の多様性、農業、工業、文化の豊かさといった長い歴史から、ロシア、ポーランドオーストリア、ドイツ、あるいは現在のようにアメリカやEU/NATOといった不誠実な隣人や外国人にとって、この地域は利用しやすいことが分かっている。ウクライナという国名は「国境地帯」を意味する。ウクライナの国旗の2つの色は、この国の広大な青空と同じく広大な黄金の小麦畑を表しており、第一次世界大戦(それは第二次世界大戦へと不可避的につながっていった)と現在のウクライナを思い起こせば、中央・東ヨーロッパの二つの文化の間に楔を打つために数世紀に渡って行われてきた努力が思い出され、その矢面に立たされたことが何度もあったが、今日再びそれが行われているかのようである

 

 第一次世界大戦の勃発から99年後の2013年秋、「東方パートナーシップ」と呼ばれる取り決めのもと、連合協定によってウクライナEUNATOに引き込もうとする試みがなされたこれは、旧ソ連邦諸国(ウクライナグルジアモルドバベラルーシ)を西側の軌道に引き込むために、2009年にポーランド政府とスウェーデン政府によって考案されたものである。このスウェーデンポーランドの構想は、おそらくポーランドアメリカ人のズビグニュー・ブレジンスキーに触発されたものだろう。彼は、何十年にもわたってロシアの将来に深く関わってきたアメリカ人エリートの一人である。1970年代、ジミー・カーター大統領の国家安全保障顧問(1977-81年)として、彼は「ロシアにおけるマルクス主義の実験」と呼ぶものを終わらせ、ロシアとスラブに対する西側の操作を次の段階(ハリソンの言葉を借りれば「子供時代」と「教皇時代」)に進ませる上で重要な役割を担った

 

 1978年以降、アフガニスタンで彼が「ロシアのベトナム」と呼んだものを実現させ、ワシントンとソリダルノスク(連帯)となった新生ポーランド労働組合運動と、1978年9月29日未明にローマ法王ヨハネパウロ1世の怪死を受けて法王となったポーランド法王の間につながりを作る手助けをして、彼はこれを実現したのだ。 ブレジンスキーが 1997 年に出版した地政学に関する非常に重要な書物『グランド・チェスボード』は、 100 年前のハリソンの重要な思想と、英国の「地政学の父」ハルフォード・マッキンダーの影響を反映している。ブレジンスキーの著書『ユーラシアのチェス盤』(P38)の中で引用されている。「東欧を支配する者はハートランド(すなわち中央アジア)を支配し、ハートランドを支配する者は世界の島(すなわちユーラシア)を支配し、世界の島を支配する者は世界を支配する。」 つまり、バルカン半島は、ユーラシア大陸の中心地である中央アジアへの作戦のための重要な橋頭堡、ジャンプポイントなのだ。つまり、世界のパワーは、東ヨーロッパを表向きまたは裏向きで支配することから始まるのであるマッキンダーに倣って、ブレジンスキーは『グランド・チェスボード』の中でこう書いている。「ヨーロッパは、ユーラシア大陸におけるアメリカの重要な地政学的橋頭堡である(p.59)。ヨーロッパにおけるアメリカの地政学的目標の中心は、より真の大西洋横断パートナーシップを通じて、大陸におけるアメリカの橋頭堡を強化し、拡大するヨーロッパがユーラシアに国際民主・協調秩序を投影するより有力な踏み台になるようにすることである」。(p.86)... 「2010年までには、約2億3000万人が関与する、仏・独・ポーランドウクライナの協力関係が、ヨーロッパの地政学的深度を高めるパートナーシップに発展しうる」 (p.85) というのは、ブレジンスキーが実際に言いたいのは、アメリカの中央アジアへの地政学的進出、マッキンダーの「ハートランド」なのである。2月20日キエフに赴き、ヤヌコビッチ大統領とマイダン広場の反対勢力との間の合意を取り付けようとしたEU外相のトロイカを思い出すことができる。彼らはフランス、ドイツ、ポーランドの大臣で、ブレジンスキーがこの本の中でEUの「軸」またはバックボーンと見なしている国々である。

 この本の中でロシアは、C.G.ハリソンによって概説されたロシアに対する意図の操作的な精神で完全に考えられているロシアには、地政学的に危険な孤立を避けるために、「拡大するEUNATOの大西洋横断ヨーロッパ」に加わるという地政学的な選択肢が一つしかないとされている(118頁)...「西側、特にアメリカにとっては、ロシアにとって一つの選択肢というジレンマを永続させる政策を追求することが同様に重要だ」(120頁)そして今、ロシアは西側のメディアで毎日のように何を突きつけられたのだろうか?「孤立」の危機である

 

 ウクライナアゼルバイジャンウズベキスタンブレジンスキーにとって地政学的な要の三国であり、ウクライナは彼のユーラシア戦略全体の中で最も重要な国として位置づけられている。彼はウクライナを次のように書いている。

 

 「ウクライナ地政学的な要であり、その独立国としての存在そのものがロシアの変容を促すからであるウクライナなしでは、ロシアはユーラシア帝国でなくなるウクライナのないロシアは、まだ帝国の地位を求めて努力することはできるが、アジア主体の帝国国家となり、覚醒した中央アジアとの衰弱した紛争に巻き込まれる可能性が高くなる...[誰に覚醒したのか?と問うことができる。ブレジンスキー自身がこの分野ですでに「形」をもっている!- TB] 。しかし、モスクワがウクライナの支配を維持すれば、ロシアは自動的に再びヨーロッパとアジアにまたがる強力な帝国国家となる資力を取り戻す。ウクライナの独立喪失は中欧に直ちに影響を及ぼし、ポーランドを統一ヨーロッパの東の辺境に位置する地政学的な要に変貌させるだろう。」 (p.46) 「ウクライナのヨーロッパとの関係は、ロシア自身にとっての転機となりうる。しかし、それはまた、ロシアのヨーロッパとの関係における決定的瞬間がまだしばらく先であることを意味している。ヨーロッパを支持するウクライナの選択は、ロシアの歴史の次の段階に関する決断をもたらすという意味で「決定的」である:ヨーロッパの一部にもなること、あるいは真のヨーロッパでもアジアでもなく、その「近隣国」の紛争のぬかるみにはまったユーラシアののけ者になること、だ。」(p.46) 「2005年から2010年のどこかで、ウクライナは...EUNATOの両方と真剣に交渉する準備ができるはずだ」(p.84) [N.b. the Eastern Partnership concept emergished in 2009 - TB].

 

 1914年、連合国は超国家主義者のテロリストによるサラエボでの暗殺事件をすぐに忘れ、代わりにオーストリアセルビアに出した最後通牒に注目した。ロシアはこれを好戦的な脅しの口実にし、大国間の危険な対立を引き起こした。2014年、西側諸国は2013年12月から2014年2月にかけてキエフで起こった恐ろしい暴力事件をすぐに忘れてしまったが、その多くは、多くのインターネット動画からわかるように、超国家主義者によって行われたものである西側諸国は、代わりにロシアのクリミア再占領に焦点を当て、それを好戦的な脅しと大国間の危険な立ち回りの口実にしたのだウクライナの青い空と金色の麦畑の旗と並んで、キエフの街頭での恐ろしい暴力の先頭に立ち、現在その指導者がウクライナ暫定政府にいる、よく訓練された「右翼セクター」の赤い血と黒い土の旗が翻っていた。ブレジンスキーによれば、ロシアがウクライナEUNATOへの加盟を受け入れることは「ロシアも本当にヨーロッパの一部となるという決定をすることになるだろう」という。ロシアがこれを拒否することは、ヨーロッパを拒否し、孤独な「ユーラシア」のアイデンティティと存在を支持することと同じである。つまり、ロシアには「両方」の道はなく、「どちらか一方」しか許されないのだ。ブレジンスキーは、ロシアは東か西のどちらかを選ばなければならないという。今日のウクライナで見られることは、西側がウクライナの悲しい出来事を利用して、ロシアに東を選ばせているように見える。

 

 21 世紀におけるこの選択の帰結は、1992 年の『エコノミスト』誌と 1997 年のブレジンスキー の著書によって、すでにロシアに示されていた。それは、ロシアの東の隣国との紛争と戦争、そして最終的にはウラル山脈以東のすべての領土の喪失であるブレジンスキーは「興奮した中央アジアとの衰弱した紛争」 と述べている)。そのとき、ロシアに残されたものは、他のスラブ民族がすでにEUの一部として同化して久しい大西洋横断同盟の「国際民主協力秩序」への編入を懇願することが予想される。こうして、もしこの西側の戦略が成功すれば、ハリソンの言うロシア人民の「子供時代」は、英国圏の支配的文化の価値観による「訓練と指導」に徹底的に服従することになる。もちろん、ブレジンスキーとその仲間たちは、そうした価値観を「法の支配」、「民主主義」、「自由」という言葉で捉えているが、実際のところ、(レトリックとは異なる)本当の精神的価値観に左右されない西側の経済生活モデルの根底にあるものは、個人の自己主張と自分中心主義であり、MUSEの「Survival」という曲の「価値」なのである。これらの「価値観」は、1919年にルドルフ・シュタイナーによって、「真の精神性」が「経済帝国」に持ち込まれない限り、物質主義、破壊、病気の力として説明された。ヨーロッパとアジアの架け橋となる文化としてのロシアが破壊された結果、21世紀後半には、北半球で二つの巨大なシステムが対峙することになる。ジョージ・オーウェルの「1984」のイメージを使えば、アメリカが主導する「オセアニア」と中国が主導する「東アジア」が競い、そして南半球の大部分の支配を争うことになるのだろうオーウェルが描いた第3の超大国「ユーラシア」は消滅しているだろう。つまり、21世紀は20世紀とあまり変わらず、東西の二元的な地政学的対立が世界を支配することになるのである。

 

結論

 物質面では、二元論的な極性が物事の秩序を支配することは理解できるし、「自然」である(膨張と収縮、ジェンダーと遺伝、電気など)。しかし、キリストはこう言った。「私の王国はこの世のものではない」と言い、主の祈りの中で祈られた。「このように、二元論的な極性を超えた力が人間界に入り込む可能性を示しているのである。しかし、英語圏の世俗的な文化は、ますます硬化した物質主義に支配されている。しかし、人間は肉体と精神、理性と本能の二元的存在ではなく、肉体、魂、精神の三位一体の存在であるズビグニュー・ブレジンスキーと彼の西側の同志や先達は、100年以上前から、ヨーロッパの社会的・文化的生活の本質的な三重性を否定し、それ自体の価値の文化的源泉としての中欧を根絶し、ヨーロッパを、ヨーロッパ全域からウクライナや東欧、さらにユーラシアへと、西洋の「大西洋横断」思想や製品を通すための単純で単色、均質の高速道路にしようとしてきたのであるその結果、来るべき第6の時代に人類を導く真のスラブ的な衝動は、何一つ残らないことになる。文化的価値の源泉としての中央ヨーロッパと東ヨーロッパの両方が打ち消されてしまうのである。ルドルフ・シュタイナーは、「人類の進歩のための真の利益は、ある集団の中で、中欧と東欧の間に調和のとれた関係が築かれる場合にのみ生じる」と考えている。ゲーテの童話「緑の蛇と美しいユリ」の中の「緑の蛇と若者」のように、個人が精神存在としての自分、精神への道を模索し、共同体のために自分を捧げるという200年前から中欧で培われている理想の姿は、このように見えるのである。

 

 キエフは、多くの樹木があり、緑の都市として知られている。青と黄の間に緑は生まれないのだろうか。そして、ウクライナのもう一つのシンボルはトリズブ、三叉路ではないだろうか?独立広場の真ん中、赤い炎とタイヤの燃える黒煙の上に、スラブ系の大地の女神ベレヒナが細長い白い柱の上にそびえ立っていた。広場の反対側にあるアーチの上には、キエフの守護神である大天使ミカエルの像が立っている。

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 危機の背後には、危機を創り出す者がいる。ウクライナ危機の背後にあるのは、アメリカの覇権を巡る思惑であるが、さらにその奥には、人類の未来を巡る思惑が存在しているようである。そのような動きを決して認めてはいけない。