k-lazaro’s note

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シュタイナーの学際的天文学 ②

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 「シュタイナーの学際的天文学」の2回目である。

 シュタイナーは、天文学では、観測に基づき仮説が造られるが、「この仮説の作成、つまり、ある明確な宇宙論の設定に至る過程では、理論を提唱する人々の心の中にある先入観が強く反映されるため、多くの恣意性が支配的となるのである」という。

 近代科学の思考様式全体には、「哲学の法則」と呼ぶべきものがあり、それは、「現実のある領域で明確な原因に帰着したものは、他の領域でも同じ原因に帰着るべきである」というものである。例えば、木片の発火はヨーロッパでもアメリカでも同じ原因があるはずだ、と言うことであるが、ろうそくと太陽がともに光を放っているとしたら、ろうそくの光と太陽の光の根底には同じ原因があるに違いないと言うことにもなる。

 ニュートン万有引力の法則は、まさに石が地球に落ち、月が地球の周りを回っているとしたら、石の動きと月の動きの根底には同じ原因があるはずだ、ということである。

 この「哲学の法則」というのは、先入観に過ぎないと、シュタイナーはいう

 従って、天文学は、コペルニクスケプラーガリレオニュートンといった思想家たちが、比較的少ない観測結果から導き出した結論から、連続的に発展してきたのであるが、「このような理論の歴史的展開には、やはりこの分野の天才的な頭脳による誘導と、その後の作者の特別な好みが含まれた推論とがある」という。現代の天文学的認識は先入観に基づいているというのである。

 次に、話しは、「ケプラーの第三法則」へと移る。

 それは、「異なる惑星において、公転周期の二乗は、半径ベクトル(楕円の長半径)の三乗に比例する」というものである。数式化すれば、惑星の公転周期をT、楕円の長半径をaとした時、T2/a3=K(K=一定)となる。

 しかしこれもまた、ある種のイメージであり、その描くものは、「実は現実を抽象化したもので、どこまで現実に即しているかは確定していない」という

「惑星は偏心した軌道を描いている、つまり楕円を描いている。その焦点のひとつは太陽である。この楕円は、半径 - ベクトルが等しい面積を等しい周期で記述するという法則に従って記述される。

 第二に、惑星はそれぞれ固有の軌道面を持っているという考え方である惑星は、いわば互いに隣り合って進化しているが、それぞれの惑星には、太陽の赤道面に対して多かれ少なかれ傾いた軌道面が存在するのである。これを太陽の赤道面とすると(図1)、惑星の軌道面はこのようになり、太陽の赤道面とは全く一致しないことになる。

図. 1

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 これらは、観察された事実から形成される、非常に重要な2つの心象風景であるが、現実の世界の絵の中に、いわば反抗するものがあることに注意しなければならない。彗星の動きも考慮に入れると、困難な状況に陥ることになるのである

 惑星の軌道面が太陽の赤道面に近接していること、軌道が偏心楕円であること、この二つの思考図に基づいて、カント、ラプラスとその後継者たちは星雲仮説を構築したのである。それは、太陽系の起源を想像する方法である。しかし、こうして構築された天文システムには、彗星天体が果たす役割について満足のいく説明がない。彗星は常に理論から外れているのだ。このように、科学史の過程で形成された理論と彗星の不一致は、彗星の生命が、全体からではなく、全体の一部からだけ形成された概念に何らかの反抗をしていることを証明している。また、彗星の軌道は、しばしば他の天体の軌道と重なり、彗星と関連することによって、まさに謎を呈している。それは流星群であり、その軌道は彗星の軌道と非常に頻繁に-おそらく常に-一致する。・・・(この天文学システムは)彗星や流星群の一見不規則で、ほとんど恣意的な軌道を正当に評価することはできない。」

 「星雲仮説」とは、1755年にカントが唱え、96年にラプラスが補説した、太陽系の起源についての説で、緩やかに回転する高温の星雲状ガス塊が、冷却収縮するにつれて回転を速めて環を生じ、環は球状にまとまって惑星となり、中心に残ったガスが太陽になったというものである。

 現在の多くの惑星誕生の説はこれに基づいたものが主流であるが、シュタイナーは、しばしばこの説を批判した。そもそもその運動を創り出したものの存在を無視しているからである。この部分での批判は、各惑星はそれぞれ太陽を中心とする同心円の軌道で交差することがないのに、彗星の軌道が惑星の軌道と交差することから、同じ回転するガス塊から彗星が生まれたと考えるのは不都合であるからである。

 

 このように批判しつつ、シュタイナーは、現実に立ち戻れという。「惑星は楕円で動くというような概念を作って、すぐにこの概念の上に理論を構築し始めるのは、すでに少なからぬ危険がある」からである。

 実際、「楕円はより円形であったり、より楕円であったりとさまざま」であるのだ。時間の経過とともに、楕円はより膨らみ、より円に近くなり、そしてまた楕円に近くなる。だから、「惑星は楕円」というだけでは、決して現実のすべてを含んでいることにはならない、というのである。

 実際に、「惑星同士の間に働く万有引力を無視して太陽と惑星の間にのみ引力が働くモデルを考え、さらに理想化を加えると、惑星の軌道はケプラーの楕円軌道となり、この理想化されたモデルでは楕円軌道の形や向きは永遠に不変である。現実には、惑星はつねにケプラーの楕円軌道にほぼ沿っているが、楕円の形や向きは時間の経過につれてゆっくりと変化していく」(ウィキペディア「惑星軌道の永年変化」)のである。

 更に指摘は続く。惑星の軌道の平面は、太陽の赤道面に対して傾いており、惑星がその軌道の交点(黄道)を上向きまたは下向きに横切る場合、それらは節(ノード)を形成すると言われる。2つの節点を結ぶ線(図1のK-K 1)は、変化する。「平面同士の傾きも同様で、これらの傾きも一つの概念で表現しようとすると、硬直した概念になり、現実を前にして直ちに修正しなければならない」と言うのである。

 このように現実を直視すると、そこに「「乱れ」があり、現実は我々の概念で「おおよそ」しか把握できていない」ことがわかる。

 

 「偏心軌道や軌道面の相互傾斜が変化することは、何らかの形で惑星系全体の生命、あるいはその継続的な活動と関連しているに違いないと考えるのは容易であるそれは、惑星系全体の生きた活動と何らかの形でつながっているに違いない。」

 

 現実の惑星の動きは常に変動しているようである。しかし、それを最後まで追求するとどうなるだろうか。「まさにその論理的思考の結果として、存在し続けることが不可能な惑星系が出来上がるのである特にノードが変動することによって生じる乱れの総和によって、惑星系はそれ自身の究極の死と硬直に向かって進むことになる」と、シュタイナーは語る。

 この意味は解しがたいが、長い時間で考えると、惑星軌道の変動はつもり重なって、いずれ太陽系の惑星の公転システムを破壊することになると言うことだろう。

 しかし、現在そうなっていないのはなぜか。シュタイナーは、次のように説明する。

 「擾乱--ノードなどの変動--の影響下でシステムが実際に硬直しなかった理由は、惑星の回転周期の比率が通約可能(割り切れる数)ではないからであることが判明するそれらは割り切れない量であり、小数点以下が無限にある数である。したがって、我々はこう言わなければならない。ケプラーの第三法則の意味で惑星の公転周期を比較する場合、これらの公転周期の比は整数でも有限の分数でも与えられず、割り切れない数でしか与えられないのであるケプラーの第三法則にある、いくつかの惑星間の公転周期の比が割り切れないことが、惑星系の継続的な運動に寄与しているのである。そうでなければ、とっくの昔に停止しているに違いない。」

 これもまた難解であるが、惑星の公転周期の比が割り切れると言うことは、例えば、定期的に惑星の直列が起きると言えるだろう。もし全惑星が一列に正確に直列する現象が幾度も繰り返されるとすると、惑星間の偏った引力の作用により、惑星の軌道は確かに乱れるように思われる。そうなれば、いずれ太陽系のシステムは安定を失うというようなことが考えられるだろうか。

 

 以上のことから、「私たちは惑星系についての考えを、結局は把握しきれない数字に基づかざるを得ない」ことがわかる。

 「私たちは、科学的発展の必要性から、惑星系を数学的に考えるように導かれ、その数学的結果は、もはや通約不可能なものとなっている。私たちは、数学的なプロセスそのものが、不可分な数に到達する場所にいるのだ。私たちは、その数は放置されなければならない。確かに小数で書くことはできるが、ある場所までしか書けない。しかし、それは、ある場所までで、それ以後は、その場所から離れなければならない。(数学の必然的な停止)

 それは、別な見方をすれば、誰もが好きなように終えることができるということであるー不可分の数ではこのようなことはできないが。ここでは、プロセスはある方向に続いていると言うことはできても、これからどんな数字がやってくるのか、それを想像することはできないのだ。重要なのは、まさに天文学の分野で、私たちは矛盾に導かれていることだ。私たちは天文学によって、数学の限界まで追い込まれる。現実は私たちから逃れ、それ以外には何も言えない。現実は私たちの把握から逃れられるだ

 このことは何を意味するのか?それは,我々の科学の中で最も安全な数学というものを天体の現象に適用し,最後の手段で天体の現象が従わない,つまり,天体の現象が我々から逃れる瞬間が来るということである。まさに天体の生命に到達しようとするところで、天体は割り切ることができない領域に逃げ込む。ここで現実の把握はある地点で終わりを告げ、カオスに移行する。」

 そして、その領域は、「それは間違いなく、生命を維持する力に関係している」という。

 天文学の分野は確かに数学によって記述される。しかしそれは、結局、概算でしかないのだ。現実の宇宙は、小数点以下が無限の世界に逃げて行ってしまうのである。

 実は、素粒子論的には、この物質世界自体が、確率的にしか記述できないとされている。実際には、私の前に机が存在しているし、月や火星にロケットを飛ばすこともできる。日常生活を送るのに不自由はない。しかし、その背後には、曖昧さが横たわっているのである。

 

 ここで議論は、生物学・生理学に飛ぶ。

 「生理学的に追っていけば、3ヶ月か4ヶ月の胎児か別の生き物のであれ、胚の発達のどの時点からでも始めることができる。近代科学の手段を用いれば、どこまでもその発生を遡ることができる。・・・ある時点まで遡ることができるが、そこから先、卵子-つまり受精した卵-の切り離しから先には遡ることはできない。・・・さらに遡ろうと思えば、母体全体という不確定な領域に入ることになる。つまり、遡るということは、一種のカオスに入るということだ。・・・今日の外的科学では、生殖細胞と母性器官との関連については、ほとんど推測の域を出ていないのだ。」

 ここで言われているのは、胚の発生を遡るとカオスに至るということらしい。①で触れたが、植物の種子と同様に、動物の胚もその本質はカオスにあるということだろう。厳密に言えば、受精直後の卵子=受精卵、分割を始めた受精卵=胚ということらしいので、この場合、卵子がカオスということになる。精子の役割は、男性のDNAを持ち込んで、卵子の生命活動のスイッチをオンにすることのみということなので、やはり卵子の方が重要のようである。

 受精した卵子は分割を始めて胚となり、一定の形を持ち始める。

 「そして、発達のある時点で、この胚は非常に明確な形で、少なくとも数学的、あるいは幾何学的な手段でおおよそ把握できる形で現れる。ある時点から先は、図式化することができる。・・・そこで人は、幾何学的な方法で発生をイメージし始める。ここで私たちは、ある意味、天文学とは逆の現実を追っていることになる。そこでは、認識プロセスで現実を追求し、不可分に行き着いた。全体は、知識のプロセスそのものによってカオスに陥っている。発生学では、カオスから抜け出す。ある瞬間から、純粋に幾何学的な形を通して、カオスから出現したものを把握することができるのだ。・・・天文学において数学を用いるとき、私たちはある時点でカオスの中に入っていく。発生学では、純粋に観察すると、ある時点で目の前にはカオスしかなく、最初はすべてがカオスに見え、観察は不可能である。そして、カオスから幾何学の領域へと入っていくのだ。成長する胚を単に自然主義的に図解するだけでなく、幾何学的図形の根底にある法則と同様の、何らかの固有の法則に従って形態を構築するのだ。これは正当な理念だ。」

 結論的に言うと、「発生学において、観察によって実際のプロセスを追跡しようとするとき、私たちは、私たちの理解にとって、不可分な数の彼方にあるものと同じくらい近いところにある領域から出てくる。一方、天文学では、私たちの理解をもって、もはや数学的に追うことができないところまで進む。一方、発生学では、ある時点から理解が始まり、そこで初めて幾何学に似たものを扱うことができるようになる」ということになる。

 一方は数学、他方は幾何学におけるカオスであるが、「もし数学において不可分に達したら、つまり、現実がもはや完全な形で示すことのできる数によって表されない地点に達したら、数学的分析の場合と同じことが幾何学的形でも起こらないかどうかを問い始めるべきだろう。・・・数学的な解析が,不可分の数に到達したときと同じようなものだろうかと。天体の研究、つまり惑星の研究では、もはや幾何学的な形を説明の手段として使うことはできない、事実はもはや幾何学的な形では把握できない、と認めざるを得ない境界線に到達しないだろうか?ちょうど、通約可能な数の領域を離れなければならないように、・・・幾何学においても、私たちは不可分な領域に入っていくはずだ。・・・カオスから発生する発生学的現象を捉え始めた瞬間に、幾何学がかなり強くその存在を示すようになる・・・ここで私たちが扱っているのは、確かに不可分な数ではなく、不可分から可分な形に移行する傾向のあるものである。」

 このように、生物の胚の成長を探求すると、カオス(形のないもの)から形あるものへ移行し、天体においては、数学的解析を進めるとカオス(不可分の領域)に至るのであり、数学と幾何学は、現象を異なる側面で捕らえる二つの方法として考えることができる。

 「このように、私たちは現実を二つの極で捉えようとしてきました。一方では、認識のプロセスが分析を通じて不可分なものへと導き、他方では、観察が混沌から、より通時的な形態での現実の把握へと導くのである。」

 

 ここに、数学を現象の説明に利用する場合の問題が露わになってくる。

 宇宙現象を数学の立場からアプローチすると、「数学者は、ある時点で、純粋に形式的な数学の中で限界に突き当たると思われる。この領域における私たちの考え方の根底には、何かがある。それはおそらく、常に「明白」という仮面をかぶっているために気づかれず、そのために問題に直面することがないのだ。・・・それを現実に適用するのだが、その際、私たちが実際にはある仮説に基づいてそうしているという事実を考えることはない。しかし、今日、数学はある前提の上にのみ外側の現実に適用されることを理解するのに十分な根拠がすでにある。このことは、数学をある限界を超えて継続しようとするとき、明らかになる。まず、ある法則が生まれる。それは、たとえばケプラーの法則のように、外的事実から得られるのではなく、数学的プロセスそのものから得られる法則である。それは、数学の中で展開される帰納的法則である。そして、その法則は演繹的に利用され、非常に精巧な数学的理論がその上に構築される。

 ・・・私たちは、これらの法則にしがみつこうとする非常に強い傾向を持っている。私たちは現実に近づき、それに適合しないものはすべて私たちの観察から逃れようとする。」

 

 一方にカオス(形のないもの、不可分の領域)があり、他方に形をもった現象世界がある。おそらく、この両者を備えたモノが、生成・変化を本質とする生物であろう。だが、神秘学やシュタイナーの立場では、宇宙や地球も生命を持っている。やはり生成・変化していくのだ。それに対して、固定した変化のない物質世界を対象とする数学や幾何学では、生物や宇宙の真実の姿を把握するのに限界があるのである。

 

 正直に言って、シュタイナーのこの講座は私の能力では手に負えないので、これ以上深く、分け入ることはできないが、最後に、太陽系の太陽及び地球や他の惑星の軌道に関する問題について触れたい。

 一般的には、太陽が中心にあって、各惑星はその周りを楕円軌道で動いていると考えられているだろう。そして、その場合、太陽自体は不動のイメージである。

 しかし、実際はどうであろうか。実は、どうもそう単純ではないのである。宇宙航空研究開発機構JAXA)の惑星科学者、ジェームズ・オドノヒュー(James O'Donoghue)氏によると、太陽系の星は、目に見えない一点、太陽系の「共通重心」を中心に回っているというのである。共通重心とは、物体が完全にバランスを取ることができ、その質量がすべての方向に均等に分布している点のことで、重心とも言う。宇宙の2つ以上の物質の間にも重心が存在し、それを共通重心という。太陽系では、共通重心が太陽の中心に重なることはほとんどなく、太陽自体もこの共通重心の周りを回っているというのである。

 これをわかりやすく図示すると次のアニメとなる。

 

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 しかし話しはこれで終わりではない。太陽は銀河系の周辺部に位置しているが、銀河系内の星も銀河の中心の周りを回転しているのである。太陽は、回旋しながら(螺旋軌道)銀河の周辺部を移動しているという。すると、太陽の周りの各惑星も太陽と一緒に移動することとなるが、太陽の周りを公転しつつなので、それはまた螺旋軌道となるのである。

 これをわかりやすく図示すると次のアニメとなる。

 

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 ※下段のビデオは上段の改良版のようである。

 

 そしてまた、銀河系自体も移動している・・・

 宇宙はこのように、常に運動・変化の中に存在している。それはまさに命あるものの特徴ではなかろうか?

 

 さて、それではシュタイナーは、このようなことに関して、どのように語っているだろうか。各惑星はまさに螺旋軌道で移動しているとしているのである。

 だが、シュタイナーの言うそれはまた更に複雑である。彼は、上に紹介した一連の講演の中で、次のように図示しているのである。

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 これは非常に奇妙な図である。シュタイナーの説明あがっても、この図を理解すること自体が難しい。さすがにこれには首をかしげるのが大多数であろう。

 しかし、これをもとに、シュタイナーの考えを探求し、本にまとめた者がいる。それは、ローランド・シュラップRoland Schrapp という方で、その本は、“レムニスカート的軌道システム:ルドルフ・シュタイナーの惑星運動についての発言とスケッチに基づくコペルニクス的世界観の発展 The Lemniscatory Path System: An evolution of the Copernican worldview based on statements and sketches by Rudolf Steiner on the planetary movement”という題名である。

 シュラップ氏は、シュタイナーの説により、現時点で認められているコペルニクスによる説明と矛盾することなく、太陽系の動きを説明できると主張する。地球から見れば、どちらの見方であっても、太陽、惑星の軌道をそれにより説明可能であるというのだ。

 実は、私は途中まで読んだのだが、理解困難でまだ読了に至っていない。この本は、勿論購入もできるが、ネットからPDFで入手することもできるようである(無料)。どなたか、専門的知識のある方に、読んで、平易に解説してもらえないかと思っているところである。できればアニメーションにして。

 

 結局、シュタイナーの言うことは、マクロコスモスとミクロコスモス(人間)として宇宙と人間を捉えるということかと思う。

 一見、宇宙は単なる物質の乱雑な集合体のように思えるが、そもそも単独で存在している天体はなく、すべてが影響を及ぼし合っており、つながっている。そしてすべてが運動しているのだ。そして真空ですら、そこにはエネルギーが存在しているというのが、現代の先端科学の考えである。宇宙は、常に生成・変化を続けているのだ。宇宙は、全体として一種の有機体ととらえることもできるだろう。そこに働くエネルギーや規則性は、おそらく人間と共通なのであろう(例えば、螺旋や渦の動き)。

 宇宙論には、人間原理というものもある。宇宙は人間を生み出すように発展してきた、人間なくして宇宙は存在しないというような考えである。これは、まさに秘教やシュタイナーの説くところである。ミクロコスモスとしての人間は、主格未分化の始原の存在から生まれ、主体と客体が分離して生成してきた宇宙を、その認識により自らの内に統合(主客の再統一)する存在なのである。

 

 以上で、今回のシュタイナーの宇宙論に関するシリーズは、一旦、終わりとしたい。