k-lazaro’s note

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星座の秘教的起源 ②

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 前回に続きローランド・シュラップ氏の『獣帯の力の人類の文化史への影響』から紹介する。

 地球には、宇宙から12の形成力が送られてくる。宇宙を古代の人々が見たとき、天界にはその力を表すイメージが浮かんだのである。しかし、それらを見ることができる霊視力は、時代と共に次第に薄れていった。そのようなことから、それらの力がそれぞれどの方角から来るかを示す目印として星座(獣帯の12宮)は生まれた。

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イメージの色あせ

 原ペルシャ文化の双子宮の時代の後に、金牛宮の時代が続く。紀元前2907年以来、春分点の太陽は、2160年間にわたり、原始の人間の魂に、その力が雄牛のイメージで現れる天界の方角の前に現れた。それに相対するイメージは、大きな鷲のような鳥であった。雄牛の時代が進む中で、鷲は、ハゲタカ、死の鳥へと変容し、更に後には、死をもたらすサソリとなった。人々に、天界のその方角から、霊と死後の生命の力が、それと向き合っている雄牛の領域から、物質と地上の生命の力が流れ込んだ。アンク、エジプトの取っ手付き十字生命の力の最も重要なシンボルとなり、人々は、天界の雄牛を神的アピスとして崇拝した。壁画は、いかに太陽がその光線により地上の存在に生命を送っているかを示している。

 同時に、外界に一層向き合うようになるにつれ、古代の霊視能力は薄れていった。魂的・霊的世界での生まれる前と死後の存在については知られていたが、そのような感覚は著しく不明瞭になり、影のようになっていった。死後の生活への不安から、贅沢な死者崇拝が生まれた。密儀所で修練したごくわずかな人間だけが、天界の様々な方角を見て、そこに内的なイメージを体験することができた。それが、後世、12の獣帯のイメージとして伝わったのである。

 その後、12の力の方角の境界について知識を保つために、天界に目に見える印を置くようになった。この目的のために、天界の太陽の道の近くにある、すべての人が物質的に見ることができる星々が、12のグループ、元々の霊視により見られたイメージの名で今日も呼ぶことのできる12の星座にまとめられたのである。シュタイナーは、これらは、当時、獣帯のイメージの空間及び力の領域を示しておらず、すべての星座は、イマジネーションで見られた二つの獣帯のイメージの境界がある方向だけを伝えていた、と語っている。

 「我々の見える世界は分割できることを知らなければならない。当該の領域はただこの分割の印にすぎない。獣帯の当該の星座は、ただその方向で空間を区切る印であるとみるべきである。」

 従って、星座は大きく広がりのあるマークなので、境界は、伝統的な占星術が見なしているように、物質的に見ることのできる星座の間にあるのではなく、その内側の領域のどこかにあるのである。この知識は後に失われた。占星術天文学が発展するにつれて、様々な、霊視的、イマジネーション的に見られた獣帯のイメージあるいはエーテル的力の領域の間の境界は、物質的に見ることのできる星座の境界と同じであるという理解が造られていった。その際、境界が必ずしも明確でないという問題が生まれた。目に見える星座のいくつかは、その前後のものの領域に入り込んでおり、オーバラップしているからである。

 二つの要素が合わさって、ついに、本来のエーテル的な力の領域の空間における場所の設定がずらされることとなった。既に古代ギリシア天文学において、それらは、天体のグループ、獣帯の印と一致しなくなった。

 

古代ギリシア天文学

 紀元前747年、春分点は後方に移動し、その方角を見ると、以前の人間の魂には、子羊、雄牛のイメージが浮かんだ力の領域に入った。そのような天界のイメージを見ることができる能力は、既に雄牛の時代が経過する中で広く失われていった。しかしこのイメージについての知識はまだ生き生きとしていた。新しい時代にも記憶が保たれたのである。文明の要素となったのである。人は、意識の中で、以前よりも強く、自分を取り巻く世界から自分を区別するようになった。

 巨蟹宮の方角からの力が、人の注意を、自分の魂的内面世界に向けさせた。双子宮からの力により、人は、外的物質世界を、まだ生き生きとしていた魂的霊的内面世界と同じような強さで知覚できるようになった。エジプト・カルデア時代の人間にとって、外界の知覚が、薄れ行く魂の内面のイメージより優勢となっていた。

 雄牛という地の印の力の影響の下で、人々は、地の本質を好むことを学んだ。すべての土地が測量され、石により巨大な建造物が建設された。原ペルシア文明の天界の教えが伝えられたバビロンでも、聖書でバビロンの塔として語られるような、巨大な石造りの物見の塔が建造された。関心が持たれたのは、何よりも世界と民族の共同体についてであり、個々人についてではなかった。

 春分点が新しい天界の方角に移ったとき、ようやく個々人の注意は自分自身に向けられるようになった。今や、始めて個人及び自我の意識が発展した。しかし、人は宇宙、魂的・霊的世界から地上にやってきており、人間の形姿は、12の天界の方角からの力の調和のとれた作用によりできているという記憶は保持された。個人の人格の外的表現としての身体は、関心の中心となった。

 シュタイナーは、次のように解説している。

 「古い雄羊の像を見ると、それは、自然のままの物質的な表現ではないことに気づく。それの特徴的なのは、常に、雄羊が振り返っていることであり、その姿勢がポイントである。この振り返りは、人が自分自身を振り返ること、自分の内に生きている宇宙へのこの振り返りの内に置かれている。雄羊を、単に、ありのままに物質的に見ていたのではない。その姿を写したのではなく、振り返るという身振りが重要なのである。」

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霊視的に見られた白羊宮に対するシュタイナーのスケッチ


 「太陽が雄羊の星座に移ったとき、民族の伝説と神話においても、雄羊は重要なものとなった。イアソンは、コルキスから羊毛[黄金の羊毛]を持ってきた。イエス・キリスト自身が、自身を神の子羊と呼び、キリスト教の最初期には、彼は、象徴的に十字架の足下の子羊として描かれた。

 更にキリストは、子羊つまり雄羊時代の人間を導く牧者として描かれた。同時に、彼は、人間が個人の不正な行いにより引き起こしたものすべてに均衡をもたらす救世主として体験された。人々は今やまた、自己の行為を振り返り、公教のいかに益したかあるいは害を与えたかを検分することにより自己判断する能力を発展させなければならない。この十分に吟味する能力は、天界の、雄羊のイメージの領域に正確に相対して存在している、あの空間領域から人に流れてきている。それは、前時代の人の魂に、天秤というイマジネーション像で現れている。そこで、次第に良心が、内面の声として現れてきたのである。良心を表す言葉は、雄羊時代になり、ギリシア語において始めて存在するようになったのである。

 「詩芸術においてどのようにして良心が獲得されたかについて、まさにつかみ取ることができる。偉大な詩人、アイスキュロス[bc525-456]は、まだ良心について語っていないが、エウリピデス[bc480-406]は、既に語っている。これを見ると、人間の思考、地上の知がなぜ良心という概念にゆっくりと至ったかを理解することができる。ギリシア人において働いていた力は、古代世界においても働いていたが、そこでは、人の行為の結果を示すイメージは霊私的な観照に現れていたのである。」

 復讐をするフリア(復讐の女神)のイメージの代わりに、今や、良心が現れたのである。しかし天秤座の力は、人間の姿を最高に美しく調和のとれたものにする力を人間に与えた。古代エジプト、バビロン、カルデアの硬直した人物彫刻に対して、ギリシアのそれはとても生き生きとしまた自然である。それに対して、魂の霊的観照により得られた、宇宙と12の天界の方角からの力についての、最初はまだ生命を持っていた知識は、単なる伝承へと固まった。

 紀元前2世紀に、プトレマイオス天文学の著作を著わしたとき、エーテル的な獣帯のイメージをイマジネーションとして見ることはもはやできなくなっていた。観照の代わりに、悟性的な世界把握が出現した。そこで、ギリシア・ローマ文明には、もともとイマジネーション的観照に基づいていたイメージや伝承に悟性を貫き、抽象的な形に加工することが課題となった。人は、次のものとして、悟性魂を発展させなければならなかった。

 プトレマイオスは、彼の数百年前になくなっていたニケアのヒッパルコス(BC190-120)のの書物を基礎とした。ヒッパルコスは、明らかに、包括的な星のカタログを作成した最初のギリシア人である。ギリシア人は、紀元前2世紀に初めて学問的な天文学を始めた。このため、彼等は、それぞれの位置を明確に詩、再び見いだせるようにするために、個々の星々を線でつないだ。

 当時既に存在していた伝統に従って、人々は、数千年の間、イマジネーション的に観照されていたイメージを、この観照が不可能になった後に、純粋に思考と悟性に基づく観察により、戯画的な線描に移し替えたのである。その際には、様々な見解があった。例えば、プトレマイオスは、おひつじ座アルファ星の位置についてヒッパルコスとは別の見解を持っていた。

 従って、現代天文学の、古代人は空想的な像を天界に投影したと言う批判は、少なくとも部分的には正しい。しかしそれは、もはやイマジネーション的な獣帯のイメージを直接観照することができなくなった時代についてである。当時、ギリシア人は、獣帯以外の星の集まりに、アンドロメダヘラクレスなどの、自分たちの神話の多くの登場人物を当てはめ、また個々の星にもギリシアの英雄の名を与えた。彼等は、隣り合う明るい星に双子の兄弟、カストルとプルクスの名を与えることにより、本来、イマジネーション的に観照された一組の人間の獣帯のイメージが、ギリシア語のディデュモス(ラテン語ジェミニ)の名を得ることに貢献した。このようにして、古い知識の多くが変えられ、ギシリシア人の表象世界に適合させられたのである。

 春分点の移動に関しては、人々はまだ非常に曖昧であった。ヒッパルコスは、黄道上の星座は真正な恒星ではなく、動くものであると想定した。彼は、春分点は不動であり、代わりに獣帯の星が前に動くので、見かけ上後退すると考えた。

 古代の占星術天文学がひどく不確実なものであったことは明らかである。獣帯のイメージを見る、過去の霊視的な魂の内的観照とそれに加え、これまで過ぎ去った年月の間に、いかに春分点が獣帯の星座を逆行してきたかという原初の知識が失われていき、当時の占星術天文学には大きな不確実性がもたらされたのである。結局、人々が基づくことができたのは、不完全な伝承と、天界上の移動を説明できない伝統であった。新しい知識が先ず、形成されなければならなかった。

 アルマゲストで、プトレマイオスは、光の弱い魚座のPiピシウムの近くの春分点の位置から出発している。これは、魚と名付けられた星座に数えられるが、プトレマイオスは、黄道上は白羊宮の0°10‘に置いている。彼は、この星が、その黄道上の経度においては、隣の白羊宮の場所にあるとみたのである。黄道上の目に見える物質的星座は、互いにオーバーラップしているから、それは異例なことではなかった。星座は大きさが様々であり、従って、30度の幅のある、伝統的な占星術の獣帯記号(の領域)と全く同じではなかった。

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イマジネーション的に見られた白羊宮(Widder)の領域(双魚宮の領域にまでかかっている)


 シュタイナーによれば、紀元前747年の春の始まりに、太陽は、その力が魂には牡羊座のイメージで見られた天界の領域に現れた。太陽は当時、牡羊座α星、白羊宮の頭の近くで登ったのである。つまり金牛宮0度あるいは白羊宮30度の近くで。従って、この星は、金牛宮と白羊宮の間の天界の目に見える境界のマークとして用いられたのである。プトレマイオスは、牡羊座α星の位置を、アルマゲストで白羊宮10°40‘に置いている。従って、彼は、この星に関して、シュタイナーと20度異なることになる。

 プトレマイオスは、紀元後およそ100年から160年の間生きた。アルマゲストを欠いたのは50年頃とされる。10年早かったとしても、春分点が1度移動するのに72年かかるので、プトレマイオスの生存期間に対しては意味をなさない。紀元前747年の白羊宮の始まりから紀元150年まで、897年ある。この数字を72で割ると、春分点が、雄羊のイマジネーション的観照のイメージにあった白羊宮の初め以来、紀元150年までに後退した度数が得られるそれは、12.4583°である。イマジネーション的観照金牛宮から白羊宮に後退してきたので、この数字を白羊宮の30度から引くと、白羊宮の17.5417,あるいは17°32‘が紀元150年の春分点の位置として得られる。プトレマイオスは、アルマゲストで、この場所に近いπピシウム星とοピシウム星に白羊宮0°10’と0°30‘。を与えた。彼の主張は、シュタイナーに基づく位置と、獣帯の宮の半分以上異なる。シュタイナーによると、白羊宮の耳朶に先行する金牛宮の時代が始まった紀元前2907年の春分点の位置を定めると、当時、春の初めの太陽が、明るく輝くアルデブランあるいはαタウリの上の黄道-物質的な牡牛座の主星-で昇った。この星は、双子宮と金牛宮の力の領域の間の、目に見える境界のマークである。

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アルデブラの上にある春分点の太陽(Sonne)


 それぞれ2160年の歩む春分点の位置を、全獣帯において計算すると、双子宮と巨蟹宮の時代の始まりには、双子座と蟹座の明るい星で、たまたま近いものはない。ギリシア人が、カストルとポラックスと名付けた双子座の最も明るい星は、星座の全く端にあり、蟹座のは全く目立つ明るい星がないのである。

これに対して、隣の獅子座には、明るく輝く獅子座α星がある。紀元前9387年の春分に、その星と一緒に、近接して、太陽が昇った。レグルスは、先行するイマジネーション的獣帯のイメージ、処女宮に対する境界を示した。

 同じように、目立つ星は、人馬宮天蝎宮の境界に明るいアンタレスあるいはさそり座α星が、磨羯宮と人馬宮天蝎宮の境界にいて座ε星、宝瓶宮と磨羯宮の間に、隣接するやぎ座αとβ星、双魚宮宝瓶宮の間にみずがめ座α星がある。明らかにこれらの星は、牡羊座α星と牡牛座α星のように、古い霊視次第に薄れていった、先行するエジプト・バビロニア時代の人々が、獣帯の力の領域の次の領域への移行を印しづけるために用いた、天界の目に見える境界のマークであった。

 乙女座では、天秤宮処女宮の、イマジネーション的天界のイメージと力の領域の境界が、始まりの領域(おとめ座η星の近く)の方にあるのに対して、明るく輝くスピカ(乙女座α星)は、星の集団に終わりの領域の方にある。この集団は非常に長く伸びているので、天秤宮の天界のイメージの天蝎宮に対する境界は、まだ乙女座の領域にある。それは、乙女座ι星の近くにあり、天秤座の集団の最初の星よりスピカの近くなっている。

 双魚宮のイマジネーション的観照のイメージには、先行する白羊宮の力の領域に対する境界のマークとして、あまり目立たない魚座δ星とω星の間にあるとして既に述べた(図4)。2020年に、春分点は、魚座ι星の近くまで動いてきていた。

まとめると、白羊宮、金牛宮獅子宮天蝎宮人馬宮、磨羯宮、宝甁宮は、それぞれ先行する宮との境界のマークとして、明るい星を持っている。双子宮、巨蟹宮処女宮天秤宮双魚宮の力の領域においては、そのようなものはない。7つの明るい星と5つの暗い星があるのである。この関係は、宇宙の光と闇の関係は7:5であるとする秘教の法則に対応する。獣帯においては、また別な方法でそれは表されている。シュタイナーは、次のように語っている。

 

「白羊宮、金牛宮、双子宮、巨蟹宮獅子宮処女宮天秤宮の7つの天界の宮は、明の側にあり、天蝎宮人馬宮、磨羯宮、宝甁宮、双魚宮は暗の側にある。昼と夜である。」

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 上に出てきた、シュタイナーの白羊宮(牡羊)のスケッチに該当する図を探したところ、次のような図が見つかった。

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 この図は、エジプトのプトレマイオス朝時代のデンデラ・ハトホル神殿の天体図(紀元前50年頃)のスケッチである。近藤二郎氏の『星座の起源』によると、黄道12宮の起源は、古代メソポタミアに遡るらしく、この天体図はその伝統をも継承して作成されているという。
 右中央付近の1番の番号がふられている羊の絵がそれである。名称はHIRED MAN(雇われた男)となっている。近藤氏によると、「ムル・アピン」と呼ばれる粘土文書(新アッシリア時代)では、「雇夫」と記されており、「男」と「羊」を表す語がともにル(LU)と発音することに由来するという。
 この名称はともかく、シュタイナーのいうように、古代には振り返る羊が描かれていたようだ。

 さて、獣帯(黄道)12宮のそれぞれの方角からの影響は、春分点の移動と共に、各時代にそれぞれの影響を与え、その時代を特徴づけている。シュラップ氏は、この本で、更にこうした考察を続けていくのだが、今シリーズはひとまず今回で終わりとし、機会があればまた紹介することにしたい。

 

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