k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

エーテル界を巡る戦い


 感覚によって捉えられる物質的世界だけが世界ではない。物質的世界の他に目に見えない世界が存在しており、真実の世界は、それら多重の世界が入り交じっている。目に見えない世界とは、大きく言えば、物質界の「上に」エーテル界、アストラル界、霊界が存在し、その「下に」もエレメンタル的な世界がある。
 人類は、これまで霊界から物質的世界に下降してきたが、未来においては、再び上昇していかなければならない(実際には既に始まっているが)。シュタイナーによれば、キリストはエーテル界に再出現するのであるが、そのキリストを、人類は自然の進化の中で得た能力により体験できるようになるという。人類は、かつて古代の人間がもっていたが、物質的世界により深く入り込むことに伴い失っていった霊的認識力を再び獲得していくのである。
 エーテル界への上昇、その認識が第一段階である。次の時代は、エーテル界が焦点となってくるのである。

 悪の霊は、こうした人類と宇宙の進化を阻止しようとしており、当然、これに対抗した策略を進めている。エーテル界を人間に認識させず、言わば簒奪することが悪の霊の狙いなのである。その一つの手段がトランスヒューマニズムであるようである。

 今回は、エーテル界を巡るトランスヒューマニズムなどの問題について見てみたい。著者は、アンドリュー・リンネル氏で、彼は、コンピュータ科学者、講師として働いており、米国マサチューセッツ州ハドソンに住んでいる。アメリカの地区の人智学協会の役員などもされているようである。(なお、彼には、「二人の子どもイエス」に関する論稿もあるので、いずれそちらも紹介したいと思っている。)
 今回の論稿は2015年のものであるが、ここに書かれていることが、現時点において具体化してきているようにも見える。それらは、人間のあるべき未来として主張され、それを無批判に受け入れ当然視する状況がある。物質的世界しか存在しないと思わされているからである。

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エーテル界に立ち向かうテクノロー 堕落したエーテルの力を使って新しい世界を構築する

Technology confronts the etheric realm  Constructing a New World Using the Fallen Etheric Forces

アンドリュー・リンネル Linnell Andrew 著

 -Tuesday 29 December 2015.

 

 ルドルフ・シュタイナーが「アーリマン」と呼ぶこの存在は、いったい何者なのだろうか。アーリマンは、唯物論の王であるだけでなく、この世界における嘘と幻想の源であり、人類を支配し、真の自由を否定しようとするすべてのものの源であると言えるかもしれない。シュタイナーは、こうした非物質的な霊の領域の研究から、アーリマンはエーテル(生命の力の領域)におけるキリストの存在を認識しており、人類がそれを認識するのを妨げようと決意していると述べている(訳注)。彼がこれを達成する一つの方法は、堕落(fallen)したエーテルの力を利用して、テクノロジーによってアクセス可能なエーテルの鏡像を作り出すことである。彼は、この新しい幻想、この新しいイリュージョンによって、人類が霊的衝動を満たすように誘惑しようとしているのだ。シュタイナーは、人類がその運命を成功裏に果たすためには、アーリマンと対決し、この存在から、現在の地球の進化に続く未来の世界システムの共同創造者として人類が参加するために必要なことを学ばなければならないとしている。しかし、バランスを保つためには、この堕落したエーテルの領域(シュタイナーはこれを亜自然sub-natureとも呼んだ)に深く入り込むと同時に、超自然(エーテル、そしてその先にある自然の創造源)へと上昇しなければならないのである

 

(訳注)シュタイナーによれば、20世紀からキリストはエーテル界に再出現しているとされる。そしてそれを実際に体験している人々も出てきているようである。

 未来。時は2020年。またもや産油国の埋蔵量が枯渇し、原油価格は1バレル=600ドルを超えている。世界の指導者たちは、インターネットの仮想現実アプリケーションの普及により、従業員が自宅で仕事をすることを認めるよう、企業に働きかけている。かつては高価だった3D高精細バーチャルリアリティボディスーツ(VRBS)が、実質的に過去10年間のノートパソコンに取って代わったとして、税制上の優遇措置がとられる。ナノテクノロジーによって価格が下がり、昨年末のショッピング・シーズンで注目の商品となった。タッチ・エニウェア™・フォグレット技術を搭載した新モデルは、すぐに売り切れた。今年後半には、16種類から256種類の匂いをブレンドして、驚くほど感覚に近い体験を提供する技術がハイエンドモデルに搭載される予定だ。また、メンズとレディースのVRBSに大人用のMP7を用意しているJON社は、予想以上の売れ行きだった。先進国の多くの公立学校では、PREVENT(PRivate Education's Virtual Experience NeTwork)やGoogleMAYAA(Metropolitan Area Youth Advancement Association)が実現した仮想教室の開催が試みられている。しかし、7年程前から子供たちに見られるようになった肥満症は、VRBSに使われているナノ粒子を長時間浴びることが原因ではないかという声も聞かれる。最近、業界が資金を提供したある研究では、調査したすべてのVRBSのどこにもウイルスや細菌が見つからなかったと発表している。どうやら、これらの微生物の害虫はナノ粒子を好まないようだ。伝統的な家庭の母親の中には、自分の子供が裏庭で遊ぶより、インターネットで24時間利用できる『MAYAA』の仮想遊び場で遊ぶのを好むと断じる人もいる。ほとんどの児童心理学者は、MAYAAが子どもたちに安全で健康的な環境を提供し、感染症の心配がなく、世界中のすべての子どもたちが人種、民族、宗教、性別に起因する敵意なく遊び、交流することができる、という点で一致している。2年前にいじめ検知ソフトを導入して以来、教育関係者からのMAYAAに対する苦情はほぼなくなった。

 

 このようなシナリオは可能なのだろうか?レイ・カーツワイルの論文『人類の再発明Reinventing Humanity』で描かれている未来と同じくらい可能性があることは確かだ。レイ・カーツワイルは、次のように語っている。

 

 「シンギュラリティとは、技術革新のスピードがあまりにも速く、広範囲に及ぶため、この地球上の人間の存在が不可逆的に変化してしまう未来の時代である。私たちの脳力、つまり私たちを人間たらしめている知識、技能、性格の癖をコンピュータの能力と組み合わせることで、現在では考えもつかないような方法で思考、推論、コミュニケーション、創造することができるようになるのだ。このような人間と機械の融合は、機械知能の爆発的な増加、遺伝子研究やナノテクノロジーにおける急速な技術革新と相まって、生物と機械、物理と仮想現実の区別がない世界をもたらすだろう。これらの技術革命によって、私たちはあらゆる制限のあるか弱い肉体を超越することができるようになる。私たちが知っているような病気は根絶されるだろう。ナノテクノロジーによって、私たちはほとんどすべての物理的製品を要求に応じて製造できるようになり、世界の飢餓と貧困は解決され、公害は消滅するだろう。人類は飛躍的な進化を遂げ、私たちは、好きなだけ長く生きることができるようになる。このような世界が実現することこそが、シンギュラリティなのだ。」

 

 レイ・カーツワイルは、このシンギュラリティが早ければ2045年に訪れると予測している。もしそうなら、このカーツワイルのフロンティアは、時間的にも近く、インターネットの将来の生活への影響を心配することは、家が火事になっているときに明日のピクニックの天気を心配するようなものである。むしろ、レイ・カーツワイルが「GNR」と呼ぶ、遺伝学、ナノテクノロジー、ロボット工学の方を心配すべきなのだ私たちのすべきことは、この研究を止めるための行動ではなく、それに、健全な人間の発展のために何が正しいかを確立できる道徳的理解を浸透させることだ

 

 ナノテクノロジーは、自動車部品からスキンケアまで、すでに多くの製品に利用されている。衣料品業界では、生地がさまざまなナノテックポリマーでコーティングされ、革命を起こしつつある。理由はまだ完全に解明されていないが、ナノテクポリマーで処理された布地では微生物が生存できない。このため、衣服は汗や汚れを「振り払う」ことができる。寝具の中のダニがいなくなる。家のペンキにカビが生えることもない。問題は、ナノ粒子の存在下で生命体が死滅する理由がよく分かっていないことであるもっと言えば、生命とは何かが解明されていないのである。そして、ナノ粒子を私たちの環境に導入することは、1940年代から1970年代にかけて、自然界に存在するアスベストを熱吸収のために使用したのと同じくらい愚かなことのように思われる要するに、この産業は、以前のアスベスト産業と同様に、規制も環境影響調査もなく、長期的な影響に関する調査も必要ないのである。しかし、ナノテクノロジーが生命と対するとき、生命は後退していくように見える。

 

 巨大農業企業モンサントは、「システム農業」というコンセプトを推進するために、多くの作物を遺伝子操作で変えてきたモンサント社は、除草剤であるラウンドアップを使用しても害のない遺伝子組み換え作物を提供している。こうすることで、農家は作物を植えた後、畑に散布してすべての雑草を駆除し、作物は無傷のまま残すことができる。そうすれば、農家の生活はずっと楽になり、裕福になるとモンサント社は主張している。モンサント社によれば、雑草を取らないので、人件費が大幅に削減され、収穫量も多くなるので、利益も多くなるという。遺伝子操作によって、植物は発芽できなくなる。

 新たに挿入された形質は、数世代で遺伝子プールから消失してしまう。つまり、このように処理された植物から将来作られる種子は、種子を作らないか、発芽しないかのどちらかであるモンサント社はこれを経済的な利点として利用した。農家は毎年モンサント社から種子を購入しなければならず、代わりに前回の収穫物の種子を次の栽培シーズンに向けて保管しておかなければならないからだ。しかし、すべてが順調というわけではない。2005年、ブタクサはラウンドアップ™に耐性を持つように自己変容を行った。現在、アメリカのノースカロライナ州の農家では、復活したブタクサに作物を圧倒された畑を放棄しているのだ。しかし、モンサントは、遺伝学よりももっと高い次元で働いている力があることに、もう気づいているはずだ。しかし、もしそうだとしたら、彼らはこのことを公表しないに違いない。シュタイナーが「エーテル」と呼ぶ、植物だけでなく動物や人間にも存在する「生命力」を操る方法を見つけようとしているのだろう。生命力を使いこなす者には、間違いなく大きな富が待っている。

 

 ナノテクノロジーは、分子レベルで物質を操作するもので、「物理的な世界、私たちの体、そして脳を、分子の断片ごとに、そして潜在的には原子の断片ごとに作り直すための道具を約束します」。今後25年以内に、100兆個の神経細胞間結合を、体内に埋め込まれたコンピュータへの高速接続で増強する方法を、我々は習得すると主張されている。サイバーキネティクス社(Cyberkineticsvi)のようないくつかの会社は、すでに、このようなインプラントを埋め込んだ麻痺患者が、脳波と眉毛を使って外部のロボットを制御し、簡単な家事や食事ができると主張している。最終的には、脳がインターネットだけでなく、何百万台もの高度なコンピューターに直接アクセスして、複雑な問題をほぼ瞬時に解決できるようになると、これらの科学者は予想している。その時、私たちの脳そのものが、この未来のワイヤレスネットワーク、つまり未来のインターネットの一部となるのだ

 

 ナノ医療は、ナノテクノロジーと医学を組み合わせたものである。その目的は

-生きている細胞の分子レベルの構成要素、すなわちナノマシン定量的に特徴づけること

 -生きている細胞内のこれらの分子集合体を正確に制御・操作して、人の健康を改善すること

 この分野では、ナノボットを使うことで、細胞を破壊する毒を全身に浴びせるのではなく、必要な場所に直接薬を届けられるようになることが期待されている。そうすれば、化学療法は腫瘍だけを狙い、現在のように全身に影響を及ぼすことはなくなる。ナノボットはがん細胞や病原体を破壊するだけでなく、DNAを変化させることもできるようになる。妊娠中の親は、奇形が現れる前に、その奇形を変えることができるようになるだろう。最終的には、胚の遺伝子を改変して、特定の望ましい形質を確保し、望ましくない形質を排除することが当たり前になるであろう。ロバート・フレイタスという研究者は、医学的に予防可能な状態の50%を除去すれば、人間の寿命は150年まで延びると推定している。自然に発生する医学的問題の99%を防ぐことができれば、人間は1,000歳以上まで生きられることになる。この分野では、生命体、つまりシュタイナーが言うところのエーテル体が、いかにして人体の完全性を維持し、肉体と魂の仲立ちをしているのか、生命の力そのものに対する真の理解が欠けていることが、一見崇高な目標の明示によって分かる

 私たちは地球上で物質世界に縛られた不死を獲得するのだろうか?それとも、生と死のサイクルを支えているエーテル界を理解するのだろうか?このようなことを考えるだけでも、人類の発展は遥か未来へと続く道であることは明らかだが、その未来、つまり私たちの運命は、今、この時代にまで及んでいるのだ。私たちは、エーテルのための戦い」が今、繰り広げられていることに気づかされるのである

 

 イギリスの科学者でアントロポゾフィストのニック・トーマスは、エーテル領域の戦い』(The Battle for the Etheric Realmvii)の中で、これは実際に進行中で、世界の大部分はその中で心地よく眠っていると主張している1907年の時点で、シュタイナーはこの戦いが我々の時代にやってくると予言していた、とトーマスは述べている。トーマスは、エーテル体の柔軟性がますます失われていることを指摘し、ステレオタイプ化の習慣、他人(特にメディア)に自分のために考えることを許す怠惰な思考、意味のないフレーズの使用、政治家や宗教狂信者、さらには医療従事者や科学者が取る一方的なアプローチなど、さまざまな症状を見ている。トーマスは2つの主な原因を考えている。それは、真実から遠ざかることと、限られたモデルで満足することだ(今日の科学のほとんどは、提案された理論を説明するためのモデルの作成を要求する。そのモデルは、ほとんどすべての既知のデータに対して機能し、また新しいデータを予測できるものでなければならない)、そして、私たちの生活を生きたリズムではなく、機械的な繰り返しに合わせていることである。彼は、これらの原因から生じる問題が現れるのは、私たちの環境などの物理的な地平であると述べている。真理でないものが支配するところでは、結局、物理的な世界に問題が生じるのである。したがって、真実に忠実であることが、アーリマンが物質主義を通じてエーテルを攻撃することに対する解毒剤になると彼は主張する。アーリマンは、もっともらしく見える嘘や不真実を生み出そうと努力し、それが科学の諸分野に強く現れている。

 

 シュタイナーは、ここで何が問題になっているかを理解するのに役立つ多くの考えや想像を与えてくれた。人が嘘をつくと、エーテル界にその痕跡が残る。というのも、嘘をつくのは私たちの魂だからだ。魂の基盤は、精神科学が「アストラル体」と呼ぶもので、そこには私たちの感情、欲望、情熱、そして正常な意識の座が存在する。エーテル体は、いわば人間のアストラル体と肉体の間の仲介役である。アストラル体が嘘をつくと、それがエーテル体に印象づけられ、エーテル体が変化する。これがエーテル体の暗黒化であり、その暗黒化した部分が、魂と肉体の間のエーテル体の適切な仲介を阻害しているとも言えるここでは説明しきれないが、このことが、健康問題など、肉体そのものに問題を引き起こすのだ。エーテル界を生命力の流動的な世界と想像するならば、その中で暗くなったものは、その流動性が濃くなり、ついには凝固して固まり、エーテル界から析出するとたとえることができる(シュタイナーは、電気、磁気、核力の「亜自然」は、この堕落(下降)し暗くなったエーテル「実質」で構成されていると述べている)。人間は、これらの亜自然の力に意識的に対処し、その救済に向かう宇宙的な責任を負っている。これは、私たちが避けることのできることではない。亜自然にどう対処するかで、未来は大きく変わるのだ。

 シュタイナーの研究を受け継いだ精神科学は、考えるという魂の活動が、実はエーテル体で行われていることを明らかにした。脳の中ではないのか?視覚にとって目のように、脳は、意識にとっての目なのだ。脳が考えるというのは、アーリマンの嘘の一つである。そうではなく、魂が脳に思考を刻印することで、魂が自分の思考を意識できるようになるのだこれとは対照的なのが、レイ・カーツワイル「我々の文明の知性のほとんどは、最終的には非生物学的なものになり、今世紀末には人間の知性の何兆倍もの力を持つようになるだろう」というコンセプトである。カーツウェイ派と精神科学者の間に橋渡しはできるのだろうか?先ず、シュタイナーによれば、思考の実体は、光のエーテル力と光の堕落したエーテル力、すなわち電気との間に思考を置いている「凝固した電気」である、という。シュタイナーは、さらに深く、霊の観点から、原子もまた凝固した電気であると述べている(科学者は、クォークレプトンですでにこれを発見しているのだろうか)。

 

 しかし、科学者が機械に魂の資質を与えるとき、より深い調和の問題が生じる。ノーベル賞受賞者フランシス・クリックは、その著書『驚異の仮説』の中で次のように書いている。「私たちの喜びや悲しみ、記憶、野心、個人的なアイデンティティーの感覚、自由意志は、膨大な数の神経細胞とそれに関連する分子の振る舞いに過ぎないのだ」と。そして、多くの科学者は、MITのマーヴィン・ミンスキーのように、精神的なものを単に否定するだけだ。彼は、「多くの思想家は、機械は決して我々のような考えを持つことはないと固く信じている。彼らはこの本質を感覚、意識、精神、魂のような様々な名前で呼んでいる。哲学者たちは、この欠乏のために、機械は人間がするようなことを感じたり理解したりすることは決してできないことを証明するために、一冊の本を書き上げるのである。しかし、そのような本に書かれているすべての証明は、何らかの形で、証明しようとするもの、つまり検出可能な特性を持たない魔法の輝きの存在を仮定することによって、欠陥があるのだ。私はこのような議論に我慢がならない。私たちは、たった一つの欠落した部品を探すべきではない」。意識と脳の研究が進めば進むほど、精神科学の真理が見えてくるというのが著者の考えである。しかし、この真理を不正確な脳モデルで覆い隠す方法も見つかるだろう

 

 スピリチュアルな道を歩む多くの人々は、善良な神が舞い降りてきて、悪を行う者(通常、科学者は悪を行う者のリストに含まれない)をすべて一掃し、私たちが平和で道徳的で豊かで快適な生活を、今日と同じように明日も送ることができるようにと願っている。このような考え方は、聖書原理主義者とほとんど変わらない。イエスが雲に乗って降りてきて、敵をすべて倒した後、この地上に王国を樹立する時が来ると考えているのである。そして、その後に待っているのは、必要なものはすべて提供される、良い生活である。私たちのエゴイズムは、私たちが善であり、悪は「外」にあり、私たちはその後に続く、報われた良い人生のために選ばれた者の一部になることを想定しているのである。

 いや、それはすべての人の人生を豊かで楽なものにし、時間を立ち止まらせることができる大きな悪であろう。類の最も深い使命は、真の自由と愛を発見することだ。それを達成するために、私たちは天と地、光と闇の混合体であり、これらの違いを理解し、最終的には意識的な選択をしなければならない私たちは神が意図したこの混合物であるため、私たちの意識が超自然に意識を上昇させながら亜自然に浸透するとき、バランスを保たなければならない

 

 亜自然領域からどんどん力が人間に働きかけ、私たちの意志の力(私たちが世界で行動し、物事を行うことを可能にする力)と相互作用して、もし私たちが意識しなければ、来るべきものに適切に対処するための力を欠いてしまうように、私たちを弱体化させるだろう。この領域は、電気、磁気、核の力、つまりこれらの堕落したエーテルの力を持ち、恐ろしい破壊力を持つので、シュタイナーは、核の力が発見されたときに、人類の道徳心が特にそれに対処できるほど強くなることを望んでいると述べている。これらの亜自然の力や存在に対処するとき、私たちの道徳的な発達が要求される。

 これらの存在、そして事実上、元素(エレメンタル)の世界全体に対処するために、私たちはより高度な思考を必要とする。物事を部分的に分けて理解するのではなく、物事がどのように組み合わされて全体として成り立っているかを追求するのだ。そのような強化された思考は、洞察のためにリズムを使用する-それは、 私たちが "頭から抜け出る "ところに生命を与える形態である。私たちは、思考に非生物学的な補助を加えるのと同じように、ハート(心臓)が思考に参加し始めるところで、思考を高めなければならない。人類が亜自然に真っ逆さまに落ち込むのを防ぐために、ハートが考え始めるだろうというのではない。むしろハートが考え始めなければならないのだ。

 

 もちろん、いわゆる脳のリバース・エンジニアリング(人間と同じように機能する思考マシンを作ること)を目指している人たちにとっては、この「強化された」思考はナンセンスなことだろう。しかし、「考える」機械を作ろうとすることは、実は、真の人間の思考には、機械にはない生命的な特性があることに気づくことにつながるのではないかと期待している。機械にできるのは、死んだ思考プロセスの再実行だけなのだ

 多くの人は、ハートで考えることを身につけるためには、テクノロジーやそれを使う人たちから離れなければならないと感じるかもしれない。しかし、それでは、これらのテクノロジーの力と闘わなければならない他の人類に何をもたらすのだろうか。IBMGoogle、Genetechなどが存在するこれらの分野のすべてに入り込み、働いている力の本質を発見し、健康的で治療的な対応を見出すべきだというのは、確かにそうだ。なぜなら、芸術を通してこそ、深い真理をより広い人類社会に伝えることができるからだ。

 

 精神科学は、進化の過程で、人間はいつの日か霊的ヒエラルキーと共同創造することになるだろうと述べている。奇妙なことに、多くの科学者が今日、「私たちは神である」と強く感じているようだ。カーネギーメロン大学のロボット工学研究所のハンス・モラベック教授は、「DNAに基づく生物学をいかにうまく調整しても、生命の動作原理を完全に理解した後の工学には、生物学は到底及ばないだろう。」と語っている。言い換えれば、これらの科学者たちは、私たちは、私たちがエンジニアリングできるようになるものよりも常に劣っていると考えているのだレイ・カーツワイルは、ナノテクノロジー革命によって、生物学の「限界」をはるかに超えて、私たちの身体や脳、そして私たちが関わる世界を、分子単位で設計し直し、再構築することが可能になると予測している。

 レイ・カーツワイルの『Futurist』誌への寄稿を読むと、まるでシュタイナーが見たものを予見して、それをすべて唯物論的な観点に置き換えたかのように聞こえる。レイは、私たちの意識を高め、想像力を解き放つことについて雄弁に語っている。そして、私たちの発明が悪夢とならないように、道徳的な資質を高めることが必要だと警告している。次のQ&Aでは、彼の意欲的な考えを聞くことができたが、霊な知識は全くないままである。

 

Q:神はシンギュラリティのどこに位置づけられるのでしょうか?

A: 宗教の違いにより、神についての概念は多少異なりますが、共通しているのは、神は知性、知識、創造性、美、そして愛の無限の無限大のレベルを表すということです。生物学や技術を通じてシステムが進化するにつれ、より複雑で、より知的になることが分かっています。より複雑に、より美しくなり、愛などのより高い感情を持つようになります。つまり、知性、知識、創造性、美、そして愛という、人間が神に求めるすべての資質が指数関数的に増大するのです。進化は、これらの属性が文字通り無限のレベルに達するわけではありませんが、より高いレベルに向かって加速していくので、進化はこの理想にますます近づいていくスピリチュアルなプロセスであると考えることができます。シンギュラリティは、このような高次の複雑性の爆発的な上昇を意味するのです。

 

Q: つまり、あなたは神を演じようとしているのですか?

A:実は、私は人間を演じようとしているのです。人間が得意なこと、つまり問題を解決することをやろうとしているのです。

 

Q: しかし、このような変化の後でも、私たちは人間でいられるのでしょうか?

 A:それは、あなたが人間をどう定義するかによります。ある観察者は、私たちの限界に基づいて人間を定義します。私は、限界を超えることを追求し、成功する種として人間を定義したいのです。

 

 レイは、多くの科学者がそうであるように、私たちの記憶が何らかの形で脳にコード化されていることを期待している。しかし、すべての物理的な物質は6、7年で変化するのに、私たちの記憶は残っているので、記憶は肉体の中にあるはずがない。エーテル体は、私たちの人生の記憶のために必要なのだシュタイナーは、肉体は空間体であり、エーテル体は時間体であることを指摘した。臨死体験をした人たちが、自分の人生のパノラマを目撃したことは、今ではよく知られている。「時間体」であるエーテルは、映画のように時間の流れに依存するのではなく、むしろパノラマとして、すべての出来事が探せるように完全に存在し、自分の人生を明らかにしているのである。

 

 エーテル界の証拠は、今日、私たちの前にはっきりと現れている。しかし、アーリマンは私たちにそれを悟らせることを望んでいない。シュタイナーはさらなる懸念を私たちの前に突きつけた。彼は、エーテル界の働きと流れに存在する元素(エレメンタル)霊は、人間かアーリマン的「存在」のどちらかに同調しなければならない時期に来ていると述べている。[この「存在」という概念は難しいが、「意識の点」と考えると分かりやすいかもしれない。] 人類がエーテル領域を「見て」、そこに存在する元素的存在を認識する時間は、今、絶望的に短くなってきている。そうしなければ、これらの元素的存在はアーリマン的存在と同調し、私たちの将来の仕事をより困難なものにしてしまうだろう。アーリマンに立ち向かうだけでなく、アーリマンが意図した形ではなく、正しい未来の形を作るために必要なことをアーリマンから学ぶことが私たちの仕事なのだ。なぜそんなことを気にするのか?どうせ私はその時にはこの世にいないのだから」と言うかもしれない。このような考え方は不道徳であるだけでなく、輪廻転生とカルマが正しければ、人を破滅させることになる。

 

 バーチャルリアリティはすでに実現しているが、80年代のインターネットが経済的に正当化されるのを待っていたように、VRも経済的に正当化され、一般化されるのを待っているのだ。VRは、まさに現実の錯覚、現代の幻想(マーヤ)を提供している。もし私たちがエーテル界への真のアクセスを得れば、誕生と死の間にこの地球上で生きているマーヤに目覚めることができる。生まれる前のスピリチュアルな存在として、私たちの思考は生きていた。ある意味、私たちの肉体は、誕生前の思考の墓場なのだ私たちの日常的な意識は、主に死んだ思考、以前の思考の単なる繰り返し、パターン認識を含んでいる。現代は、ハートを伴う新しい「リビング・シンキング」が可能になっている。次のように言えるだろう。コンピュータ・プログラミングは、日常的な意識にとって、リビング・シンキングにとっての日常的な意識と同じである。

 エーテル技術の可能性を研究しているスピリチュアルな科学者もいる。このテクノロジーは、エーテル体に愛が反映されることのうちに開示されるだろう。愛がエーテル領域に輝くとき、その反射によって、エーテル技術の驚異が明らかになるだろう月が太陽を反射するように、エーテルアストラル体の光を反射する。愛が魂から輝くとき、エーテル体はその宝物を現す。記憶と同じように、愛は機械にプログラムできるような脳の機能ではない。

 

 アーリマンは、超自然界にある真の純粋なエーテル体を、亜自然界に鏡像として作り出している。人間として、私たちはこの「亜自然」に踏み込まなければならないが、「超自然」に踏み込むこととバランスを取りながら踏み込まなければならない。これが私たちの使命である。愛によって、私たちは亜自然と超自然に "広がり "ながらも、統合された存在であり続けることができるのだ

  アーリマンが亜自然にエーテルのイメージを構築しているという証拠はあるのだろうか?すでに人は自分の人生のすべてを本質的に記録することができる。仮想現実の会議では、私たちは同時に複数の場所で体験することができる。エーテルと同じように、電気の交流は絶え間なく動き続けている。アーリマンが人間をエーテル領域から遠ざけようとしている証拠に、「トランス・スピリット」のような組織がある。「それはスピリチュアルな現象の完全な科学的理解を目指す自然科学の一分野であると主張する、その理解に基づいて、「霊的体験」を自在に誘発するための技術やテクニックを開発しようとしている。トランス・スピリットは、人間が宗教的・霊的規範を信じ、それに従って行動するための物理的メカニズムにもっぱら焦点を当てることを目的としている」。

 

 シュタイナーは、近い将来、誰もが守護天使のような「第二の」存在を傍らに持って生まれてくると述べているこの存在だけが、守護天使とは異なって、霊的世界の実在を語る者の愚かさを私たちに囁くだろう。(訳注)やがて、一部の科学者が提案するように、新生児の脳にコンピューター回路を挿入し始めれば、この存在は「招き入れ」られるかもしれない。

 

(訳注)シュタイナーの講演によると、アーリマンの働きにより、物質主義が強まると、人のエーテル体を粗くし、干からびさせ、アーリマンの力が、第二の性質のように、人に付着するということのようである。それにより、霊界について語ることが愚かなことであると思ってしまうのである。物心が付く頃から既に唯物論者になっていくということである。

 

 なぜアーリマンはこのようなことをするのだろうか。明らかに、彼は自分の受肉を準備している—受肉後、人間の問題に対する彼の影響力は非常に大きくなる--そのことについて、シュタイナーは多くの洞察を示している。アーリマンが、このような存在を私たちに近づけることができればできるほど、人間に霊の探求と信仰を捨てさせ、物質だけの存在に加わるよう説得して、彼の受肉がより成功することになるのであるエーテル体の中から、彼は魂-精神と肉体を分離することができる。アーリマンは人間の知性を自分の知性と同じにしようとする。つまり、繁栄と善を同一視し、物質が唯一の現実であると主張する、冷たくて魂のない宇宙的な衝動であるxvi。

 

 「エーテル体は、人間が自分の側に立つ存在の本質を十分に認識して、正しい位置に立つことができるようにするために、速められなければならない。もし、この第二の存在の本質を理解していなければ、彼は彼に呪縛され、彼に束縛されることになる。私たちの時代には、霊的世界の知識と探査、すなわち霊的科学からしか生まれない知恵でエゴを豊かにすることによって、アーリマンに勝たなければならないのである。」

 

 ルドルフ・シュタイナーは『未来への平静』と題する詩の中で、次のような言葉を述べている。

 

「私たちは、未来から人間に向かってくるものに対するあらゆる恐れと恐怖を魂から根絶しなければなりません。未来に対するあらゆる感情や感覚を平静にしなければならない。

 私たちは、来るかもしれないすべてのものに対して、絶対的な平静さをもって前を向いていなければならない。そして、何が来ても、それは知恵に満ちた世界の導きによって与えられたものだとだけ思わなければならない。」

 

 それは、この時代に私たちが学ばなければならないことの一部である。つまり、存在に何の保証もなく、純粋な信頼から生きること、つまり、常に存在する霊界の助けを信頼することなのだ。

 

 産業革命に始まった人間と機械との関係の問題は、今や人間性とは何かという我々の感覚の変化に緊急に直面していることを見てきた。唯物論は、人間を機械に還元しようとした。唯物論は、脳が機械化されたとき、機械も人間になることができる、即ち精神をもった機械となるという真実でない説を唱えている。このテクノロジーの声は、霊的な説明をあざ笑う一方で、私たちの霊的な願望に対して、バーチャルリアリティの中でエーテルの模造品を提供し、私たちがエーテルの中で真実を追求する意志を欠くように仕向けているのだシュタイナーは、キリストがこの領域で活動し、「見る」ことができることを示したとき、この領域における深遠な発展を明らかにした。これは実際には、エーテルがその勝利者のものとなる、人間の魂の中で繰り広げられるアーリマンとキリストの対決である。この対決には、人類が強さだけでなく、人類と地球の両方の運命を適切に果たすための知恵と愛を見出すという目的がある。誠実な霊的科学によってのみ、人間と機械の正しい関係を見出すことができるのだ。これは長く、困難で、痛みを伴うプロセスである。しかし

 

「アーリマン霊がもたらした悪は、カルマの過程で洗い流すことができます。善良な霊は、最終的に、アーリマンの力を阻止し、悪を善にするカルマの働きを可能にしたのです。」R.S

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 機械的技術はアーリマンの勢力圏にある。IT技術は、人間の精神を支配し、あるいはそれに代わろうとしている。一方、その危険性故に、人智学者の中には、ネットから遠ざかろうとする人たちもいるようだ。
 リンネル氏は、「それに、健全な人間の発展のために何が正しいかを確立できる道徳的理解を浸透させる」ことが必要だとする。機械的技術の発展は、ある面で、アーリマンの働きの結果なのであるが、アーリマンあるいは悪自体が、実は、人間の霊的進化のために必要とされて生まれたように、完全に排除することはできないように思う。
 技術にも、道徳的、倫理的視点をもって相対することが必要ということだが、人智学の立場においては、それは単なる心情的な問題ではない。道徳的観念は現実的な力をもっているのだ。言わば未来の地球を造る推進力となるのである。シュタイナーは、エーテルの背後に道徳的エレメントがあると語っているのである。このテーマについては別の機会に譲ろう。