k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

ドッペルゲンガーと電気

  以前掲載した「古代メキシコの秘密とアメリカ」外の記事を拝借した、カール・シュテッグマン Carl Stegmann氏の本、『もうひとつのアメリカDas Andere Amerika』から、別の章を紹介する。

 今度はドッペルゲンガー(ヒューマンダブル)の話である。これについては、「ブラザーフッドとダブル①」で少し解説したので下に再掲する。

 ここでいう「ダブル」とは、ドイツ語のドッペルゲンガーという言葉でよく知られているものである。「分身」、「二重身」等と訳されているようである。自分とそっくりな存在としてそれを見る人がおり(ゲーテも友人のどれを見たと伝わっている)、伝承や小説(ポー、ドストエフスキーなど)にもでてくるが、現代でも実際にその様な体験をする人がいるらしく、病気の症状として捉えられ、精神医学のテーマともなっているようである。シュタイナーによれば、死後、唯物的傾向のために霊界に長くとどまれず、前世のアストラル体が解消されないので(それは前世のネガティブなアストラル体である)、それが新たに生まれ変わる時に、新たなアストラル体と結合することとなる(そしてエーテル体の大部分を占める)。それに、アーリマン的霊が、人の誕生前に入り込み、体の電気的力と結びついて、人間の形態を与え、人の無意識に居座ることとなる。これがダブルである。

  シュテッグマン氏は、このドッペルゲンガーについてまた新たな見方を示している。 

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西方の人々にとってのドッペルゲンガー(ダブル)の危険性

 

 シュタイナーによれば、全ての人は、その人の全人生を共にし、死の直前に離れるある存在に、地上に生まれる直前に侵入される。「この存在(ドッペルゲンガー)は、人が生まれる前に人の体に入り込むことができる。そして意識下において、我々に同伴している。彼らは、人の死には耐えられない。従って、死の前に、去らねばならない。彼らは、死後も人間の体に留まりたいと思っているので、それは、常に大変な失望である。」この存在は、人が今の意識では入っていけない、人間の体の無意識の部分と結びついている。人は、実際には霊的存在であり、その故郷は霊界であるので、自身の本来の故郷に対立する、闇、病気や死が支配する国で生きて行くには、助けが必要なのである。ドッペルゲンガーは、人を地上に結びつけ、その思考、感情、意志を硬化させ、それにより超感覚的世界の影響を鈍麻させ、地上の使命への扉を開くのである。これが本来の、ドッペルゲンガーの意味である。しかし、今日、それは、アーリマンに完全に貫かれており、地球の下層の力に人間を結合させ、体を硬化し、人間の下層部分を彼に奉仕させようとしている

 ヴェルナー・クリスチャン・シモニス医師は、次のように書いている。「注意深い観察者は、死の直前にドッペルゲンガーが立ち去るのを体験できる。ある人は、重い病気を煩い、その症状に苦しみ、身を震わせている。すると突然静寂が訪れる。そこで、快方に向かう希望が生まれる。そして患者は3日後に亡くなるのである。この出来事の意味は、人間の中でのドッペルゲンガーの働きが終わったと言うことである。」シュタイナーによれば、「ドッペルゲンガーは、それがいたいと望むところに存在できるように、人間自身をもちいることにより生きている。これらは、特別に高度な知性と強力な意志を持っているが、感情を持っていない。」このことから現在の文明を考えると、ドッペルゲンガーは、そのイメージに沿って文明を形成することに成功していることに気づく。現代人は、高度な知性と、自分の考えに従って地上の生活を形作る強い意志を持っている。15,16世紀、特に19世紀後半以来、文明が発展するほど、人間の中間要素、律動人間の力[感情に関係する]が衰弱してきた。暖かいハートの力だけでなく、中間人間に結びついた魂の創造的な力もである。それと共に、芸術的力、道徳的宗教的力、社会的力も長く病んでいる。人類において心情が死んでいるのである。我々の時代は、ドッペルゲンガーの性質を現わしている! それらによって、アーリマンが今日の文明の支配者になっているのだ。

 ドッペルゲンガーの本性はアーリマン的である。人間を、知性と地上を指向する意志をとおして、地上の下層の力に結びつけようとする。シュタイナーは、西方において新しい霊性に向かうのを妨害する3つの異なる種類の存在について語っている。第1の種類は、「地球のエレメントの力に惹かれる霊である。」エレメンタルな力は、地球からその力を得ている存在からやってくる。それらは、自身の自我を持たない魂的存在である。ドッペルゲンガーもこの種類のものである。この霊は、自己の自我ではなく、外から働きかける霊的存在あるいはその代理のものにより導かれる知性ある魂的存在へと引き下げようとしている。その結果は、特に西方社会において大きい

 ドッペルゲンガーは、人間自身が直接地上の力に開かれるようにする。それは、無意識の魂の深層で起きる。人は、そうあるべき以上に、地球の、大地の下層の力に縛られる。人は、世界を物質的地球の観点から、即ち、唯物主義的に見るようになり、血と種族の中に強く生きるようになり、外的なものの人間への影響を過大評価するようになる。魂の深みで、ドッペルゲンガーは、人間の無意識の意志的部分、衝動、本能、破壊的傾向に対して非常に大きな支配力を得る。故に人間は、全く異なる2つの方向に自らを開くことができる。自分の正統な本性を生きることはできるが、自分の中に同時に生きている全く別な本性を生きることもできる。ドッペルゲンガーは、人が意識できないが、ドッペルゲンガーが意識している源泉から、人に行為を起こさせることができるのである。それが、R.L.スティーブンソンが「ジキルとハイド」で描いたことである

 ドッペルゲンガーは、人の中で、人を通して様々に働く。アメリカのカルト指導者のチャールズ・マンソンによる事件にも見ることができる。これについて多くの本が書かれているが、その深層は、地上的側面からでは解明できないのだ。

 ドッペルゲンガーが努力しているように、人が、その表象や感情を完全に物質的感覚的世界で生きると、特別な結果が生じる。シュタイナーによれば、「現代においては、地上に結びついた悟性で、感覚世界から得られる表象をもっぱら物質的次元でのみ受け入れる者は、感覚世界のことしか知ろうとせず、その様な人間は、死後、生前に過ごした物質的、地上的領域になお強く入り込んでいる周辺環境に言わば縛られる。すると、物質的体のその命により、死後も長く地上の物質世界に縛り付けられている、その様な人間によって、物質世界には破壊的な力が作り出されるのである。

 シュタイナーは、次のようにも語っている。「自分の単なる物質的意識によって、自分で物質的世界にとどまることを決めた者は、人間の生命と世界の生命で生じるものを破壊する力の中心となる。」

 我々は、体の中にいる限り、単なる感覚的思考を持つことができる。体が防御となっているのである。しかし、人は、単に物質的な表象をもって霊界に入ると、破壊の中心となるのである。」この数年、人々の破壊的力が地上において強力になっていることを体験すると、死後に、地上世界に対する破壊の中心となるようにドッペルゲンガーによって準備された人々の働きをそこに見るだろう。彼らは、地上に作用するからである。アメリカにおける暴力犯罪の増加を考えてみよ。

 ドッペルゲンガーは、世界中でどこでも同じように働くのではない。「このアーリマン的存在(ドッペルゲンガー)は、特別な味覚を持っている。そのため、東半球、ヨーロッパ、アジア、アフリカを好む様な存在が存在する。それらは、その体を使うために、そこで生まれた人間を選ぶのである。その他のドッペルゲンガーは、西半球、アメリカで生まれた人間を選ぶ。」それは、より深いレベルの地理的条件に関係する。ロシアについて、シュタイナーは、次のように語っている。「東ヨーロッパにおいては、純粋に地上世界から流れてくるものによる傾向は比較的少ない。ロシアの性質は、まさに大地に内的に結びついているのだが、彼らが受け取る大地からの力は全く特別のもので、地上世界から来るものではないからである。」従って、ドッペルゲンガーは、地球上の様々な地域で様々な働きをしている。アメリカにおける特徴は、人間を、地上世界からのみくる力に結びつけ、貫くことである。

 それは一方では、機械化する力であるアメリカが努めているものは、全てを機械化することに向かっているからである。」それは、西方の人間は新陳代謝・四肢組織人間で有ることに関係する。シュタイナーは、次のように語っている。「人は、ある地上の力に結びついている。その力の方に、自分の有機組織を向けるためである。人は、直立し歩くことを学ぶ。腕と手で、地上の力と均衡することを学ぶ。この力は、宇宙から来るものではなく、単なる地上の力である。人は、機械的な法則性を語る。それを自然の関係の中から抽出しなければならないと信じている。しかしそれはその様なものではない。人が、純粋に機械的な法則について魂の中で体験するものはすべて、地上世界への人の位置関係(直立、歩行等)において内的に経験して学んだものなのである。しかしそれにより、機械的なものは、純粋に地上的なものとみなすことができる。」この地上的力が、宇宙的力により釣り合いを保つようになると、それは、人間に奉仕するようになる。人がその力の虜になると、人は均衡を失い、それは、人間を地上世界の下層の自然に縛り付ける。「それは、自然ではなく、下層自然[自然以下の世界]である。自然から下方に解き放たれた世界である。」

 西方の人間の電気と地磁気に対する関係は、別なものである。既に、アメリカの建国の父ベンジャミン・フランクリンは、電気現象を長年研究し様々な発見をしていた。シュタイナーは、電気について次のように語っている。「19世紀に、自然科学は、神経を電気が通っていることを発見した。それは正しい。しかし、我々の表象生活の基礎である、我々に属する神経の力が、何か神経を通っている電流に関係していると信じるなら、それは誤りである。電気の流れというものは、私が今述べたものが、我々の存在に入り込ませたもの、我々の存在には全く属さない力であるからである。」科学が人間の神経に見いだした電気の流れに生きているのはドッペルゲンガーである。それを通して、この存在は、全ての電磁気的な力と関係を持っている。我々は、電気をその外的な作用においてのみ知っているだけで、その本質は隠れたままである。地上の全ての力が魂的霊的側面を持っているように、電磁気的力も持っている。電気の中には、魂的なものの影のような模造が生きている。同様に我々の抽象的な思考は、生命をもった思考に対して影のようになっている。それは影のようなものであるにもかかわらず、これを通して、人間の魂を圧縮させるこの力が、人を霊から切り離し、人々を分断し、反社会的にする力が働いているのである。我々の理知的な思考の、圧縮する力と電気には内的な関連がある。神経感覚システムは、思考の担い手であり、科学は、そこに電気が流れていることを確認している。電気は自然の力であるが、魂的なものの影のようなものであるというのとはまた異なる側面を持っている。それは、悪の性格である。「電気には、もちろん、道徳的インパルス、自然のインパルスが流れている。しかしそれは、不道徳的なもの、悪の本能である。

 ゲーテの時代には、電線、電気機械、電灯などはなかった。当時はまだ、人々は、自然の霊、霊的なもの一般と魂において関係を持っていた。今日、人々は、極端に霊から引き離され、唯物主義に貫かれている。

 人は、強く電磁気的な地上の力にさらされると、真の霊的世界との関係を失う。自分の真の霊的本質を認識する能力を失い、完全に地上世界に従属してしまう。ベルトホルト・ヴルフは、次のように語っている。「魂的なものの影響下に、対極的に構築されている各器官は、電気的なもの、魂の影の担い手である。これは、特に神経組織に当てはまると言われている。神経組織にとって、電気との類似性を示す物質は特に重要である。それはリンである。電気とリンはともに、濃縮化の傾向を持ち、他方、光を発する。神経組織は、リンを含むタンパク質からなっている。その実質から既に、神経形成は、光を、のみならずその灰である電気を伝える素因を持っているのである。」ゆえに、人間を圧縮する、魂を硬化する力が、全ての電磁的なものから流れ出ているのである。

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 ドッペルゲンガーは、本来は、霊的存在である人間が物質的世界で生きていけるように霊界の意識を鈍らせる存在であるようだ。しかし、今は、それが人間の霊的進化に敵対するアーリマン的性質を持っているのである。よく悪行を行なった者には「魔がさした」などと言うが、実は、既に全ての人間にはこうした霊的存在が憑いているのだ。
 ここでも、唯物主義的観念のみを保持した魂が地上世界に破壊をもたらしていることが語られている。唯物主義的思考の増大が、自然と人間精神の荒廃の真の原因なのである。風水害をもたらしているのは、CO2ではないが、「人為」がその根底にあるという意味では、人為的原因説も正しいようだ。

 さて、以前載せた「栄養の真実の基礎②」でプファイファー氏は、現代文明の電気、磁気や他の「エネルギーの本質が、分解、崩壊にしかつながらない」と語っているが、これを読んだときは、現代文明はなるほど確かに現象的には自然破壊や人間の健康の破壊をもたらしており、そうした言い方も可能だくらいにしか思っていなかったが、上の記述によると、それは、電気(磁気)の本質そのものの問題であるようである。
 一方、現代文明は、生活の全ての領域を電磁気で埋め尽くそうとしている。家や職場の中は勿論だが、今や、電気自動車が主流になろうとしており(自動車の安全装置はもっと開発されてもいいだろうが、どうして自動運転がそんなに必要なのか、私にはそもろも理解できないのだが)、生活の24時間すべてにおいて電磁気に曝露させられようとしている。それにより人間を霊界から完全に切り離そうというのが、対抗勢力の真の意図なのであろう。
 とはいえ、現代社会では、電気なしでは何もできないのも確かである。その「恩恵」をすべて捨て去ることは現時点では極めて困難である。ただありきたりな表現であるが、便利さの影で失われるものがあることを理解することが重要なのである。何でも全自動にすることに、遠隔操作できるようにすることに、実際にはどれほどの価値があるのだろうか。現代の「便利」の多くは、本当は不要なものではないのだろうか。むしろそもそもその様なものにエネルギーを使っていることの方が無駄であり、地球に優しくないのである(人智学的観点を別にしても)。
 一方で無駄な「電気化」を推進しながら、他方で「地球に優しい行動を」と主張することは欺瞞に他ならない。そこに隠された意図を見抜く必要がある。