k-lazaro’s note

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EUの背後にあるもの

EU

 ウクライナEUの加盟候補国になったという。一方で、ジョージアは、今回は落選した。報道では、「政治的二極化の緩和、司法の独立性の強化、自由なメディアの保護」などが進んでいないのがジョージア落選の理由ということであるが、ウクライナがこれらを達成しているようには決して見えない。日本でウクライナの国内の実情はほとんど報道されていないが、実は、ひどく腐敗した国で、上のような問題を抱えていることはもともと有名であった。ロシアの侵攻後それは改善するどころかむしろ悪化しているように見えるからである。どうしてそれでウクライナが候補国になれたのか? 勿論、対ロシア対策であろうが、これはEUの明らかなダブルスタンダードである。
 このことが示しているのは、EUは決して自由や民主主義を代表するような組織ではないということである。政治的な目的のためには、その様な理念を踏みにじることも躊躇しない組織ということだ。そもそも、その組織形態が問題で、国民から選出されないEUの官僚達が支配する「独裁的組織」になってしまっているともいわれているのだ。
 国連やWHO等も同様だが、その理念は良いものの、それはカモフラージュとなっており、その実態には深刻な問題があるのである。

 今回紹介するのは、そうしたEUの実態の一端が窺える『ヨーロッパ人』の記事である。表題に「黙示録の聖母(処女)」とあるが、このことは、実は既に紹介した「世界にはびこり続ける「ナイラ証言(嘘)」でも取り上げられていた。今回の記事により、その問題がより理解できるだろう。

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黙示録的な聖母とEUカトリック的精神

驚くべき矛盾

『ヨーロッパ人』Nr.3 Januar 1997

 

 「青地に12の星は、母なる神のシンボルである。そして、私、ヨーロッパにとっても。」この明確な宣言は、最近、皇帝カール1世の孫でオットー・フォン・ハプスブルグの息子であるカール・ハプスブルグによってなされた(Basler Zeitung, 28 September 1996)。カール・ハプスブルク氏は、昨年10月からオーストリア欧州議会議員を務めている。彼のヨーロッパに対する「マリア」観は、今日のEUの制度的な前身あるいは兄弟に40年以上の歴史があるのだから、根拠がある。そして、この示唆に富む歴史は、いかにすべてのヨーロッパの政治家たちが、ヨーロッパを経済的あるいは単に政治的に統一するだけでなく、この大陸の人々を精神的な絆で結びつけるべきヨーロッパを望んでおり、そのためにカトリック教会の古くからの世界的な力に訴えていることをよく示しているのである1。

   1950年代半ば、欧州評議会は、第二次世界大戦で破壊されたストラスブール大聖堂の後陣に、ステンドグラスの窓を設置することを依頼した。欧州評議会が青地に黄色の12個の星を紋章とすることを決定した直後のことである

 欧州評議会の機関誌である『フォーラム』(現在は旧版で廃刊)は、転換の年である1989年の12月号で、この窓の寄贈について報じている。

 「欧州評議会は、(破壊された窓の)修復のために、マックス・イングランの制作した作品をフランスに寄贈することを決定した。「ヨハネの黙示録」第12章に登場する幻影<太陽と月を足の下にまとい、頭には12個の星の冠をかぶった女がいた>を描いたものだ。」

 イングランの構図は、残念ながら純粋に芸術的な観点から見れば、我々の目には特に重要ということはないが、青地に黄色い12の星が、聖母の頭上にはっきりと見えるように配置されている。このように、欧州評議会は、今日のEUのシンボルが終末の聖母と関連づけられることに配慮しているのである。それだけでも驚くべきことである。

 しかし、この問題には前史もあり、EUのシンボルに関連した「マリア」への関心も明らかにされている2。1955年12月にシンボルマークが最終決定されるまでの5年間に、将来の欧州評議会や現在のEUのシンボルマークについて100以上の提案がなされた。最終的に、12点のデザインが最終選考に残った。背景色の青は、アフリカが黒、アジアが黄、アメリカが赤、オーストラリアが緑ということで、比較的早く決まった。しかし、星のマークは?

 星の前には、十字架、ストラスブールの紋章、文化的シンボルとしての三角形が提案された。この十字架は、すぐにトルコ人社会主義者の反対に遭った。そして星が現われた。最初は15だった-当時、欧州評議会の加盟国は、ドイツが反発したザール自治州も含めた加盟国数。逆に、フランスとザール地方は14の星に異議を唱えた。13は不吉な数字だった、などなど。そして星は捨てられた。そして少しの間議論があり、最後に、当時の欧州評議会事務総長レオン・マルシャルが、議会で「12個にしよう、これには意味がないから、反対はないだろう」と、これまた星の提案をした。

 しかし、この会談の後、レオン・マルシャルは、ある親しい人に少し違ったコメントをしている。当時情報局長だったポール・レヴィが報告している。

「私たちが帰ろうとすると、事務総長が私にささやいた:<すばらしい、マリアの被昇天の新しいミサのイントロイト[最初の賛美歌]を見つけたぞ、それは終末の聖母の12の星の花輪だ!>と。」4

 さて、シンボルの選択は、まだ閣僚会議の委員会で決定されたものではなかった。そのために3日間が設けられることになった。1955年12月9日は、その決定の日であるはずだった。その中で、マルシャルはポール・レヴィに対して、もう一つ極めて明解な発言をしている。欧州評議会のシンボルについて、彼は次の様に語った。「もし大臣代理達が、無原罪の聖母[マリア]の祝日である12月8日の前夜にその採択を決定したならば!」と。

 12月、無原罪の聖母の記念日!5  そしてそれは起こった!  ある人は、適切だ!と言うかもしれないが- 12月8日はまた、 1869年12月8日に宣言された、カトリック教会の最も馬鹿げたドグマである教皇の無謬性(むびゅうせい)がカテドラ宣言によって宣言されたのと同じであった。そして、同じ教皇が、"無謬性 "以前にも、"マリアの無原罪懐胎 "をエクレシアのドグマに引き上げたのである。(訳注)

(訳注)教皇の無謬性とは、ローマ教皇の宣言は、無謬、つまり誤りがないとすること。マリアの無原罪懐胎 とは、イエスの母マリアもまたイエスのように母 アンナ の胎内に宿った時から原罪を免れていたとする教義。これについてはキリスト教界において古くから賛否両論であったが、「おもにスペインなどラテン地域で”無原罪の御宿り”の信心は一般的になっていき、特にイエズス会の擁護が強く1854年12月8日教皇ピウス9世の回勅 Ineffabilis Deus によって、無原罪の御宿りの教義は公認された。」(ウィキペディアTH.マイヤー氏らは、これを批判的に見ている。これらの問題については、また改めて論じることとする。

 このような前史で、マリアの窓は、1年弱後にポール・レヴィの主導により造られたのである。

 ストラスブールで開催された「ユーロパの窓」の開幕式には、ヨーロッパの政治的、精神的なセレブリティが印象的に集まった。ストラスブール司教のほか、例えばベルギーの元首相ヴァン・ゼーラント氏も出席していた。しかし、それ以上に印象的なのは、「ヨーロッパの窓委員会」の一員であった人物の名前のリストであろう。私たちはその中で、特に次のようなことを見つける。リチャード・クーデンホーブ・カレルギ、アルシド・ド・ガスペリ、ジャン・モネ、ロバート・シューマン、ポール・ヘンリ・スパークである。これらの政治家や外交官はみな、(程度の差こそあれ)ある種の「精神性が付加された」ヨーロッパを望んでいることを表明している。それはしかし、教会が提唱し続けるドグマ的霊性を超えようとはしないものである。

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 ここで、もしかしたら人はこう問うかもしれない。統一ヨーロッパの政治家たちが、教会の教義と象徴の中心人物であるヨハネの黙示録の聖母に敬意を払わないわけがない。問題なのは、もちろん、そのような敬意を払うことではなく、それは結局のところ、個人の信仰の問題である。
 そうではない。問題は、それが人類の発展における最も重要な現実的な象徴の一つに、現実には、生成中のヨーロッパの、現在のカトリック精神が完全にそれと矛盾している象徴的イメージに関係していることである。これは、このイメージを精神科学的に考察することで得られる結果である。

 ルドルフ・シュタイナー1924年9月16日、司祭への黙示録の講義で、黙示録の第12章からこの絵に関連して次のように述べた:「近い将来、人々はアトランティスの物質的事象に存在していたものを振り返るだろう( ... )。あたかも、太陽をまとった女性が、ドラゴンを足下に置いて子供を産むというこのイメージは、一種の霊的望遠鏡、一種のレンズを通してのように、物質的地上的なものが超地上的宇宙的なものと関係していた、はるか昔の時代を指し示すのである。」

 このレンズを通して、アトランティス時代の神官たちが太陽に視線を向けたときに経験したこと、すなわち太陽的存在(女性)から宇宙的キリスト(子)が誕生するのを見ることができる。黙示録の中心にある黙示録的処女のイメージは、アトランティス時代の真ん中、つまり地球全体の発展の真ん中で起こった実際のプロセスを指しているのだ!。「これは、当時、実際に超自然的な、天で起きた出来事に相当するものである。太陽をまとった女が、子供を産んだのである。」ゴルゴダの秘儀を経て、以前は他の[存在の形態]を経ていた同じ存在である赤ん坊が誕生したことが、黙示録によって正しく描写されているのだ

 しかし、それは複雑な変容であり、その時、アトランティス時代に誕生したのである。太陽がどのように男性的なもの、息子的なものを生んだかを、人は見ることができたのである。 シュタイナーは、そのように、この決定的なプロセスを、太陽界、すなわちエロヒム(訳注)の領域から誕生し、ゴルゴダで完成した宇宙的キリスト存在との関連で説明している。

(訳注)エロヒムとは、天使存在であり、7柱いる。旧約聖書天地創造の神で、人間に自我の実質を与えた。その内の1柱がエホバ(ヤハウェ)である。

 そして、このプロセスが人間にとってどのような意味を持つのか、次のように説明している。「さて、これは地球にとってどういう意味を持つのか?アトランティス時代の中頃、人々は当然、太陽の下にいることに対して、今とはまったく違う感情を抱いていた。今日、人は太陽を噴火口や燃えさかる炎の塊のように見ている。それは、今日の物理学者が表現するおぞましい光景である。しかし、当時は今述べたような、太陽をまとった赤ちゃんを産む女、足下の竜を本当に見ることができたのだ

 天にとって、これはキリストの誕生であり、私たちにとって、これは自我の誕生である。たとえ、この自我が人間の内面に入り込むのがずっと後であったとしても。

 キリストの自我の誕生、人間の自我の誕生、この二つの側面が、アトランティス時代中期に起こったエポックメイキングなのである。なぜなら、精神科学的な観点から見ると、地球は、キリストの自我そのものに衝き動かされた人間が、個人化された自我にならなければならない「場所」、あるいはその発達の状態だからだ。

 すべての人間の中にある、宇宙から生まれた真の自我存在は、いかなる力も介入し得ない真に神聖な存在である。この「自我」を自分の中に把握した人が、本当の意味での共同体を作ることができるのだ。いわゆる「エゴイスティック」な「自分」と混同してはいけないのだ。しかし、カトリック教会は、キリスト教の宇宙的側面を否定し、「無謬性」の教義より1000年も前の869年に、人間の個人的精神や自我の核を「廃止」したことによって(訳注)、この混乱を大きく助長してきたのである。

(訳注)869年に、シュタイナーがしばしば言及した第4コンスタンティノポリス公会議が開催された。この時、人間の霊性の存在が否定された。シュタイナーは、これに、太陽の悪魔ソラトの働きを見ている。

 この「真の自我」から行動することを学ぶ者は、自分の永遠の存在から行動するのである。例えばルドルフ・シュタイナーは、『神智学』の中でこのことを提示している。これはまた、倫理的個人主義を最も過激な方法で提示する、彼の自由哲学全体の基礎でもある。真の個人主義とは、エゴイズムのように反社会的な効果を持つことは決してなく、この宇宙的な自我性に立脚していなければならず、それは黙示録的な絵に表現されている。したがって、将来、このイメージは、人間の中に霊的な私が生まれたことをますます思い起こさせ、真の個人主義の形成を鼓舞することができるだろう。それなくして、真のキリスト教共同体はありえない。この個人主義は、まず認識の分野で活躍することになる。精神的な力による認識面での干渉を厳しく否定しなければならない。そして、そのような力による倫理的な干渉も、もちろん徐々に終わらせなければならないだろう。

 このように、黙示録的な処女のイメージは、真に精神を中心とした真の個人主義を支持するために、地上と精神の権威的な力をすべて克服するという壮大な呼びかけを暗黙のうちに含んでいるのである。

 この黙示録の中心的なビジョンに関連する霊的に照らされた事実をざっとでも見る者は、今日のEUに吹き荒れる「キリスト教」精神を判断するための重要な基準を得ることができるだろう。統一された大EUの権威ある「キリスト教」の代表者は、精神科学的な観点から見て、深い意味を持つシンボルの意味で、動いているのだろうか?

 一つの顕著な例を挙げれば、ヨハネ・パウロ 11 世がサンティアゴ・デ・コンポステラから二度(1982 年と 1989 年)それを行ったように、カトリックキリスト教の指導の下にヨーロッパの統一を求めながら、同時に、マリアの終末像の、隠れた衝動を人の行動の基準として用いることはできないのだ。この点で、現在のEUのシンボルのマリア的側面の深い内容は、今日の教会の権力的願望と最も過激な形で矛盾しているのである。

 真の個人主義に基づく真に自由な精神生活が花開くヨーロッパでなければ、今日のEUのシンボルの「マリア的」な背景を正当に評価し始めることはできないだろう。カトリック教会のような、そして、もちろん、それ以外の共同体が保持しているような、 権威的で、反個人的な霊性のあらゆる形態のものは、現実には、マリアの終末的イメージの深い象徴的内容をあざけっているにちがいない。

 選ばれた少数者によって多くの人が権威的にコントロールされる精神生活では、ストラスブールの「ヨーロッパの窓」にある終末的な聖母は、必然的に嘘やフレーズのままでなければならない。EUのシンボルである「マリア」の意味で行動するということは、今日のヨーロッパにおけるカトリック教会の力を、真に自由な精神生活への憧れ、真の個人主義への憧れに置き換えることを意味するだろう。

 

1 この「古さ」は世界史的な意味を持つ。 しかし、このことは、Leon Marchal、Robert Schuman、Richard Coudenhove-Kalergi、Otto and Kar! Habsburg、その他ストラスブールの「ヨーロッパの窓」やカトリック「ヨーロッパ思想」を賞賛する多くの人々が考えていたことでも、今日彼らが考えていることでもないだろう。

しかし、今日、EUのマリア的象徴が、真に自由な精神生活を拒絶して賛美されるほど、カトリックヨーロッパと黙示録の聖母の「幻」の深い内容との不適合そのものが明らかになるのである。

2 1986年から。

3 Paul LE~vy, "Douze Etoiles qui resteront douze>>, in: Bulletin du cercleArtet Histoire, 1993, No 2, p. 14. 筆者によるドイツ語。

4 A. a. 0 ., p. 15.

5 参照:「ストラスブールの欧州鉄道」(Librairie Sainte社)。

Odile, Strasbourg 1957.

6 R. Steiner, Apokalypse und Priesterwirken, lecture of 16 September 1924. Dornach 1995 (Rudolf Steiner Gesamtausgabe, Bibliography No. 346).12。

視点は意味した。カトリック教会の任務は、後アトランティス第四文化期(紀元前747年〜紀元1413年)の終わりとともに、世界史の中で失効したのである。今日、個人で知識を得る努力よりも、超越的な世界との信仰の関係を好むすべての人々にとって、もちろん、今日も将来も一定の意味を持ち続けるだろう。ただ、人類の最も近代的な発展努力において、主導的な役割を果たすことが求められなくなっただけなのだ。

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 意味がないから12にしようというのは、普通はあり得ないように思われる。古来、数秘術というものもあり、ヨーロッパの教養人なら数字に特定の意味があることは自明である。数字を適当に選ぶことなどあり得ないのである。
 マイヤー氏らの立場からすれば、黙示録の処女(それは実際にはその子どもとセットである)は、人間の自由の主体である霊的自我を象徴する。EUがあえてこれを用いるというのは、この本来の意味に対する嘲笑(冒涜)なのである。
 一方で、カトリック精神が背景にあるとする文章から、神への冒涜というのは、腑に落ちない読者もいるだろう。
 問題は、人間の霊的進化の問題である。進化の方向性としては、人間一人一人が霊的自我を確立して、他者から支配されることなく、単独で神的存在に向き合うようにならなければならないのである。自我がまだ誕生していなかったあるいは未熟であった時代には、宗教的指導者、神官、僧侶達は必要であったが、これからは、上からの権威により、指導・指示する存在は不要となるのである。シュタイナー派の立場では、宗教組織はその様に変わって行かなければならないのである。

 残念ながら、ローマ教皇を権威の頂点とするカトリック教会は、この点において問題を抱えているというのがマイヤー氏らの考えなのである。
 ただし、断っておくが、シュタイナーは、宗教自体を否定したのではない。あくまで組織としての宗教団体の問題である。このため、既製の教会に代わるキリスト教の組織として、「キリスト者共同体」がシュタイナーの指導の下に創設されている。
 実際には、キリスト教界にも多数の教派が存在する。カトリックにおいても様々な立場が存在する。問題は、霊的進化に対抗し、利己的目的を追求しているかどうかなのである。教会組織の中に霊的進化に対抗することを意識している者達がいて、教会を、そしてまた世界をそのように誘導してきたというのがマイヤー氏らの主張なのである。