k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

光は東方より

アレクサンドル・ドゥーギン

 先日テレビで、あまりにもばからしくて冒頭を見ただけなのだが、プーチンウクライナ侵攻に、ドストエフスキートルストイの影響があるとする「専門家」の分析を放送していた。ロシア人がこの二人の文学者から影響を受けているのは当然のことである。それを今回の軍事侵攻と結びつけるのは、物事の表層しか見れない日本人特有の浅薄な判断としか言い様がない。

 そもそも、マスコミは、真の原因の多くは英米にあるということを無視し、侵攻の責任をロシアに、それもプーチン一人に押しつけているが(ウクライナ侵攻を「プーチンの戦争」とすら呼んでいる)、いくら「独裁者」とは言え、あれだけの国を一人の判断だけで動かせるはずがないだろう。彼を支えている勢力があるはずである。それは、思想を共有するグループという意味である。英米の政府の背後に、ブラザーフッドがあるように。

 このブログでは、以前、「プーチンとは何者か?」で、そのような関係に触れてきた。そこで真にプーチンに影響を与えた人物としてアレクサンドル・ドゥーギンと言う人物に関する記事も紹介した。今回は、このなかでも出てきた、ソ連・ロシアのオカルト的潮流について研究している、人智学派の歴史学者マルクス・オスターリーダの論稿を紹介する。前出の論稿よりまた古いのもののようであるから、そこに出てくる思想グループとプーチンとの関係が、その後変化している可能性はあるだろうが、現在の動きを見る限り、その影響は確かに残っているように思える。

 キーワードは、「ユーラシア主義」である。ユーラシアとは、アジアとヨーロッパを一続きの大陸(ユーラシア大陸)と考えたときの呼称であるが、この場合、ヨーロッパと言っても主に東欧の地域を示す地政学的用語である。

 地政学というと先ずでてくるのが、このブログでも何度も登場するイギリスの地理学者・政治家のハルフォード・マッキンダーであるが、上のユーラシアは、彼の提唱する「ハートランド」(地理的なユーラシアの内陸部とされる)とほぼ重なる。

 彼のハートランド論は、次のように主張する。―①世界は閉鎖された空間となった。②人類の歴史はランドパワーとシーパワーの闘争の歴史である。③これからはランドパワーの時代である。東欧を制するものは世界を制する。

 ランドパワーとは、ハートランドの支配者で、シーパワーとは世界の海洋を支配するもの、つまり英米のことである(日本はこれに従属する)。

 これは、前世紀の理論であるが、現在の状況からも明らかなように、英米の支配層はこれに未だ固執しているようである。なぜなら、この思想の隠れた根源は、このブログの以前の記事にあるように、ブラザーフッドに有るからである。

 このような考えだけを見ると、単なる世界の2大勢力の戦いのように見えるが、秘教的観点からすると、人類の未来を巡る戦いであることは、これまでの記事から理解できるだろう。

 シーパワーは、英米なので「大西洋主義」ということもできるが、これとユーラシア主義との性格的な違いは他にもある。大西洋主義において、支配者はあくまでも英米(その支配層)であり、他国はそれに奉仕する従属国にすぎない。英語を世界言語にしようとするなど、文化的な世界支配をも意図している。これに対して、ユーラシア主義は、総じて、各民族、文化の共存を指向しているように見える(これを利用し一極支配をもくろむ者がいないとも言えないが)。

 今の他民族国家としてのロシアの現状は、(勿論、限られた情報であるが)ユーラシア主義のこうした思想を反映しているのではないだろうか。

 以下の論稿には、「シャンバラ」という言葉が出てくる。ご存じの方も多いと思うが、オカルト界隈では有名な言葉で、「世界の王」が住むという伝説の都市の名である。チベット仏教の経典にも出てくるようで、以下の文章でもロシアとチベットを結びつける役割が指摘されている。

※以下の翻訳では、途中、意味がわかる範囲で文章を適宜省略した。

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東からの光?

ユーラシア帝国としてのロシアとシャンバラの帝国

 

 ソビエト連邦崩壊後の社会は、アイデンティティと意味の危機を経験している。それは、少なくとも古いイデオロギーが残した精神的、文化的、社会的、経済的、生態的な瓦礫によって引き起こされている。偶然とはいえハルフォード・マッキンダー,、サミュエル・ハンチントン、または ズビグネフ・ブレジンスキーの大西洋横断デザインの「負の破壊」のように見えるのである。

 このようなデザインの中心には、「大西洋-西洋」と「ユーラシア-ロシア」(ロシアではない)の存在圏の両極の非互換性があり、絶対的なものとして理解されている。

そうして今日、ロシアでは、この10年間でますます浸透してきた「ユーラシア思想eurasischen Idee」が再認識されつつあるのだ。

 

イラン対トゥランとグレートゲーム

 ロシア帝国が極東、中央アジア、トランスコーカシアに植民地主義的に進出(1806-1884)したため、19世紀半ばからロシアの知識人の間で、ロシアとアジアの関係、ロシアの歴史的役割について議論が起こった。人々は、ツァーリ帝国のシベリアや中央アジアの領土を、新しい視点で見るようになったのだ。特に、ゾロアスター教の神話にある、光の神アフラ・マズダの文化を創造する農民(「イラン」)と、文化を破壊する、闇の王子アーリマンの遊牧民(「トゥラン」)との闘いは、アジアの被支配遊牧民とロシアの関係を特徴づけるために引用された。

【訳注】アフラ・マズダは、古代イランのゾロアスター教最高神、アーリマンは、それに反逆する悪神。アフラ・マズダは、原始的なイラン民族に文明をもたらした神でもある。

 

 ロシアはアジアにおいて「イラン化」する文化的使命を負っているという見方が広まった。「ロシア人はヨーロッパ人であると同時にアジア人でもあるからだ」4。トゥラニア・アジア」は、旧世界の破壊、現況の変革の象徴であった。イラン」と「トゥラン」という言葉は、魂とアイデンティティの対立の象徴的なメタファーとなった。

中央アジアに進出することで、ロシア皇帝大英帝国が自国の利益のために不可欠と考える勢力圏に入ることにもなった。イギリスから見れば、ロシアの進出はインド洋に向けられたものであり、ひいてはインドそのものに向けられたものと思われた。その結果、イギリス人が「グレートゲーム」と名付けた競争が生まれた。

 

シャンバラの王国とラマ教汎仏教

 アジアにおけるロシアの影響力を早くから擁護したのは、ブリヤートモンゴル族に属するシベリアの民族)出身のピョートル・A・バドマエフ(1851-1919)であった。大学を卒業後、外務省アジア局に勤務し、同時期に大学でモンゴル語を教え、チベット医学を学んだ。アレクサンドル3世は、彼が正教に改宗した際の名付け親でもあった。1893年、バドマエフは中国への鉄道延長を提案する覚書をツァーリに提出した。ラマ教の世界では、「白いツァー」はタラ【タラ菩薩か?】の体現者として崇められるており、人々はロシアとその文明に引きつけられるだろう。ロシアのアジア進出は慈悲深いものであり、ジンギス・ハンの7世紀後には、ロシアから「白旗」が出て、モンゴルは「白い皇帝」に服従しなければならないと予言されていたのだ。ロシア解放後は、ロシア人、モンゴル人、中国人が団結して、西欧列強に踏み荒らされた中原の再興に取り組むことになるのである。

 

 数年後の1896年、バドマエフはモンゴルを訪問した際、多くのラマ僧からラマ教中央アジアにおける皇帝の支配拡大要求を聞いたことを皇帝や、若き王位継承者ニコライ2世に伝えた。

 エスパー・ウチュトムスキー侯爵(1861-1921)は、かつて保守派のメスセスキー侯爵の部下で、新聞「ペテルブルグスキヤ・ヴェドモスチ」の編集者だったが、若いニコライ2世と親しく、1890年の東アジアへの旅に同行したことがある。ウチュトムスキーは、神智学とオカルト仏教の信奉者であるイエレナ P. ブラヴァツカヤと知り合った。彼は、ロシアがアジアと本質的に親和しているというテーゼをいち早く提唱し、1904年には、モンゴル民族やアジア全般を含む古代・中世の伝統的な世界帝国思想はすべてロシアに受け継がれているので、「汎モンゴル主義」は決して帝国にとって危険ではない、と記している。大英帝国アジア諸国民を搾取し、法廷で不平等に扱ったのに対し、帝政ロシアの法学は、非ヨーロッパ諸国民に対し、平等の原則に基づき、対抗したのである。

 バドマエフとウチュトムスキーの激しいロビー活動は、第9代パンチェン・ラマ、チェッキー・ニマ(1883-1937)の指導の下、チベットラマ教信者たちが始めた外交攻勢と関係があった。すでにバドマエフと接触していたもう一人のブリヤート出身のラマ・アグヴァン・ドルエフ(Dordziev、1854-1938)は、特にこの点で顕著であった。ドルジエフは幼少の頃、ダライ・ラマ13世にラマ教の神学を指導していた。

 それは、中央アジアと東アジアにおけるロシアの政治的影響力に有利に働き、さらにツァーリ帝国と西ヨーロッパにおけるラマ教思想の普及と定着に有利に働くという、二重の政治的役割を果たした。

 1901年、ドルジエフはパンチェン・ラマから聖なる贈り物、秘密の密教と「シャンバラの祈り」の瞑想を受け取ったが、これはドルジエフの今後の活動にとって決定的な重要性を持つものだった。

 彼は、カラチャクラ仏教に伝わる、チベットの北にある沈んだシャンバラ王国が、ある種のメシア的な黄金時代に輝くカルキ王によって支配されているという神話を利用して、北シャンバラを新しく体現するのはロシアであると、皇帝とその政治家たちを説得するために行ったのである。というのは、ロマノフ家はシャンバラ・スチャンドラ王朝の子孫であり、ブリヤート人からモンゴル人、中国人からチベット人までのユーラシア民族のラマ教・仏教連合体を、未来のカルキとして支配するように託されたからである。

【訳注】ヒンズー教ヴィシュヌ神は、カリユガ(暗黒の時代)が終わるとき、カルキというメシアとして地上に現われる。白馬に乗った騎士、又は馬頭の巨人として登場し、世界の悪を滅ぼすという伝承がある。ヒンズー教では、ブッダヴィシュヌ神の化身であったとされており、カルキの予言は、一部の仏教にも存在したのであろう。

 

 ユーラシア主義のメシア的使命感の台頭にとって、シャンバラ神話の意義は決して軽微なものではないのだ。カラチャクラ体系では、シャンバラの軍隊の勝利によって仏教が全地球に広がり、未来の弥勒菩薩が現れる新しい世界時代が到来すると説いているが、この神話的・神秘的な期待は、ロシア正教の終末思想と、あるいはキリスト教の多くの宗派の終末思想、ロシアのシーア派のマフディー教、初期のボルシェビキ共産主義の「明るい未来」の実現に向けた千年王国的な希望とも親和的なものである。このように、シャンバラの神話は、特別なものとして理解され、この地域のすべての宗教を受け入れ、統合することができるユーラシアの霊性の実際の基盤を今もなお形成しているのである。

 ドルジエフは、1920-1924年に社会革命的、解放的な「無神論の宗教」として仏教を語った。「仏教の教義」は「現在の共産主義の伝統とほぼ適合する」ものだった。

また、いわば元祖ボルシェビキもいうべき釈迦の精神が、レーニンの中に新たに生きていたのである。ボルシェビキ支配下で、ロシアは「至高の地」の名にふさわしい共産主義帝国を築き上げることができた。

【訳注】「釈迦が元祖ボルシェビキ」というのは、いきすぎた表現であり、著者としてはウイットのつもりかもしれないが、いわゆる万民が平等であるという思想で共通するということであろう。共産主義は、本来、その様な社会を目指す思想であるが、過渡的に「労働者独裁」が認められており、結局その弊害が修正されないうちに、終焉を迎えたのである。労働者階級の「開放」から万民平等の社会が未来に実現するという歴史観は、「メシアによる救済」に通じる思想であったのである。

 

 画家で詩人のニコライ・コンスタンチノビッチ・リョーリフ(1874〜1947)は、1909年以降、師であり指導者でもあったドルジエフの努力を引き継いで最も成功した人物である。神智学に接近したリョーリフは、妻サポスニコワとともにラマ教を基礎とする独自のオカルト・エソテリック体系を構築し、「アグニ・ヨーガ」と名付けた。この体系では、再興されたシャンバラ王国神話が、ユーラシア「大仏教連合」の思想的結集点として教義の中心をなしている。リョーリフもまた、ボルシェビキの間で自分の精神的・神秘的な信念を広めることに何の問題も感じていなかったようだ。

 ドルジエフ同様、リョーリフは、レーニンはまだシャンバラ・カルキの化身ではないかもしれないが、少なくとも「燃えるような菩薩」であるとの確信を表明した。

いずれにしても、仏教と共産主義は「同じもの」であり、ブッダレーニンも、「仏教とレーニン主義の結合によって、ヨーロッパはその根底から揺らぐ 」という世界平和と兄弟愛の教義を宣言していたのである。

 在ウルムチ(新彊)ソ連総領事アレクサンドル・ビストロフ・ザポルスキーは、リョーリフのプロジェクトについていろいろと興味深いことを話している。その話によると、「彼らは仏教を学び、マハトマとつながり、マハトマから何をすべきかの指示を受けることが多いということであった。

【訳注】マハトマあるいはマスターは、表舞台に立つことのない隠れた人類の指導者である。神智学のブラバツキーもマハトマから指導を受けていたとされる。リョーリフについても同じような状況であるが、このマハトマの真の正体については、また別の項目で触れることになるだろう。

 

 また、同志シチェリンとスターリンに関するマハトマの手紙もあった。マハトマに課せられた使命は、仏教と共産主義の結びつきを確立し、共和国からなる東方大連合を作ることであった。チベットやインドの仏教徒の間では、ロシアからの赤軍(北方赤軍シャンバラ)だけで、外国人のくびきから解放されるという信仰(予言)があった。リョーリフはこの種の予言をモスクワに持ち込むだろう・・・。[パンチェン・ラマとともに]イギリスからチベットを解放するための精神的な旅に出たいと考えている。」

 しかし、リョーリフは、以前のドルジエフのように、ダライ・ラマとその汎仏教・ユーラシア的なビジョンから離れ、ダライ・ラマとにチベット仏教の衰退の責任があるとした。

 しかし、ボルシェビキとの協力は、彼らの協力ではシャンバラのプロジェクトが実現できないことが明らかになったため、保留されることになった。1930年代初頭、リョーリフは神智学に熱心なアメリカ農務長官ヘンリー・ウォレスを通じて、フランクリン・D・ルーズベルトの政治的・経済的支援を求めた。ルーズベルトは、シベリア、カザフスタン、中国西部の国境地帯であるアルタイ山脈に、パンチェン・ラマの指導によるシャンバラ・コロニーのモデルを実現するために協力することにした。ラマ教の宗教、マルクス・レーニン主義の社会的な教え、そしてアメリカの資本が、この地で記念すべき実験を行うことになったのである15。

 

「ユーラシア」運動

 このような背景のもと、1920年ブルガリアユーゴスラビアからの移民の間でユーラシア運動が起こった。その主要な代表者のうち、ピョートル・サヴィツキーと、後にアメリカのイェール大学で働く歴史家ゲオルギー・ヴェルナドスキーの少なくとも二人は、ニコライ・リョーリフと何年も連絡をとり、彼の基本思想の一部を「科学化」した。ユーラシア主義者は、ロシアの十月革命を、深刻な内的疾患、すなわち初歩的な「存在の基本的文化形態の変化」の結果であると解釈していたのである。

 革命は、ヨーロッパ化の過程とヨーロッパ文化の崩壊に対するロシアの反応であった。革命は、ロシアがヨーロッパにもアジアにも属さず、あるいは両者の混合でもなく、スラブ、イラン、トルコの要素を包含する独自の有機的に自己完結した文化世界を形成しているという考えを明らかにしたのである。このユーラシアとは、ヨーロッパの東部とアジアの北部を指し、基本的にはツァーリ帝国と後のソビエト連邦の政治的境界線に含まれる地域である。

 ユーラシアのテーゼは、ロシアの宗教、文化、政治、社会生活は、東洋、アジアの文化と密接に結びついており、彼らとともにしかその歴史的成就を見出せないというものであった。一方、西スラブ人も参加したヨーロッパの文化は、ルサンチマンの本質からすると異質であり、有害でさえあった。その合理性は、ヨーロッパ人を最も露骨な物質主義に導き、「物体崇拝」に走らせたのだ。したがって、ロシアをヨーロッパ化する試みは、10月革命の破局に終わらざるをえなかったのである。

 ユーラシア史観を最も完璧に定式化したのは、アメリカのイェール大学教授だったゲオルギー・V・ヴェルナドスキー(1887-1973)である。ヴェルナドスキーは、ロシアの歴史を年代順に見るだけでなく、空間的、地政学的に見るべきであると、友人のサヴィッキーと意見が一致した。ヴェルナドスキーはこれを「空間開発(mestorazvitije)」という言葉で表現していた。ロシアはユーラシア大陸で天寿を全うしなければならなかったのだ。外来の要素(カトリックの信仰、ヨーロッパの文化的影響)は、ロシアに深刻な内乱と衰退をもたらすだけであった。したがって、ロシアの東方への進出は、「帝国主義」ではなく、発展の歴史が課した運命の成就とみなすべきものであこのユーラシア思想の歴史的・理論的正当化は、主に 1920 年代に行われたが、ペレストロイカの時代には、ピョートル・サヴィツキーや ゲオルギー・ヴェルナドスキーの著作から本質的刺激を受けた、ニコラジ・グミルヨフ(1912-1992)と アンナ・アフマトヴァの夫婦の息子で民族学者のレフ・ニコラエヴィッチ・グミルヨフ(1912-1992)の著作によって復活した

 

ネオユーラシア主義

 1989年以降、アイデンティティと自分自身の社会の存続に関する最も深い不確実性の段階において、新ユーラシア運動が、大国としてのロシアの国家権力の非共産主義的統合を新たに目指す愛国的勢力の結集運動であり、同時に超民族、国家-地理的なアイデンティティを再定義しなければならないという目的を持った、ほとんどが反西洋的な「民族-愛国的野党」の中に現れた。このような前提のもと、1990年代前半にロシア連邦で形成され始めた新ユーラシア運動は、その最もカリスマ的存在であるアレクサンドル・ゲリエヴィッチ・ドゥーギンが、生命体の「有機的階層性」という見方をとっている。

 それは、さらに、西ヨーロッパの秘教的・霊的伝統主義の代表者たち(ジュリアス・エヴォラ、ルネ・ゲノン、ヘンリー・コービン、ジョルジュ・デュメジール、ミルチャ・エリアデ、ヴァレンティン・トムバーグ)が説いた、精神エリートやカーストの形成と崩壊、「精神の貴さ」についての見解に知的基盤を見出すことができる。 ヨーロッパ大陸の伝統主義や「新右翼」の代表者とのさまざまな接触によって、ドゥーギンのような新ユーラシア主義者は、「西洋文明」全体を全面的に非難することから離れ、代わりに、伝統文化と地理的位置から見て、中立で統合可能な要素としてユーラシア大陸に確実に近いロマン・ゲルマン系大陸ヨーロッパと、孤立または海洋性の英米圏を区別するようになったのだ。この海洋の英米圏は、ユーラシアの生活世界の実際の、マッキンダーの意味での「永遠の」対立者として、対応する地政学的目標と見解をもつ「大西洋」反対極として同定されている。

【訳注】従来のように、西洋全体を批判すべきものとしてみるのではなく、同じ西洋でも、ユーラシアに統合、連携が可能な西・中央ヨーロッパの大陸の国々と、ユーラシアとあくまでも対立する英米とを区別したのである。マッキンダー地政学にこだわり、英米自身が、ユーラシアを従属させるべき相手と見ているからであろう。

 

 さらに、「宇宙の循環」や「聖なる地理」が本質的な役割を果たすという空間志向の歴史観形而上学的側面は、ヨーロッパ大陸の秘教的・霊的伝統主義から取り入れたものである。空間的に循環的に発展するユーラシア、「伝統の世界」は、時間的に直線的に発展するイギリス系の西洋、特に経済分野においてグローバル化の助けを借りて世界支配を達成する傾向を持つ(ネガティブに破壊的な)モデルの世界と対照をなしている。

【訳注】ヨーロッパ大陸の秘教的・霊的伝統に、現代に続くロシア文明期を説くシュタイナーの思想が含まれるのかはわからない。著者が、人智学派であることから、実際にそうであればそのことに触れそうではあるが、ここでは語られていない。しかし、直接シュタイナーからの影響がないにしても、他の霊的潮流においても共通の秘教的歴史認識をもってはいただろう。英米ブラザーフッドがそうであるように。以下の文章はそれを示唆している。

 

 1990年代初頭に書かれた著書『Konspirologija』では、ドゥーギンの地政学的思考の「形而上学的」な背景を概説している。その中で、「大西洋主義者の秩序」と「ユーラシア主義者の秩序」のオカルト的な地政学的戦争のシナリオが展開されたのである。ドゥーギンは『コンシュポロジー』26号で、彼の地政学的思考の「形而上学的」背景を概略しており、二つの対立するオカルトパワーの間の闘争であり、その不倶戴天の対立が世界史の論理を決定していると語っている。

 ドゥーギンは、地政学的な主要著作である『Üsnovi Geopolitiki』(1999年)において、同じ理論的アプローチでありながら、やや冷静なアプローチをとっている。これは、サミュエル・ハンチントンズビグネフ・ブレジンスキーが提唱したアメリカの覇権主義的な考え方に対する一種の対案といえるものである。その中でドゥーギンは、マハンとマッキンダーの理論から、「積極的なグローバル化という形で大西洋主義者が繰り広げるランドパワーとシーパワーの間の永遠の闘争は、ロシアにイデオロギーの前提に至るまで、根本的に反西欧的に振舞うことを要求する」という結論を導き出した。「・・・ロシア国民の戦略的利益は、ロシア文明のアイデンティティを保持するという必要から生じる反西洋でなければならず、かつ文明の拡張可能という観点から、そのような戦略的利益となるのだ。」

 したがって、ロシアは、帝国的大陸的ユーラシア空間の中でしか生存できない。同盟は、大西洋の主要勢力、アメリカの世界的な戦略的支配を拒否するという共通の利益に基づいて締結されなければならないだろう。このため、ドゥーギンはモスクワ-テヘラン軸の重要性を強調すると同時に、カスピ海周辺のイラン勢力圏を提唱し、近隣の弱小国がその保護下に置かれるようにすることを主張している。また、中欧を大西洋の影響から守るためのモスクワ・ベルリンの戦略的関係の発展や、潜在的なライバルである中国を封じ込める汎アジア同盟の前提としてのモスクワ・東京の軸を主張している。このような同盟は、「多くの帝国の中の帝国」をつくることで、ロシアの野心を受け入れることができるのである

【訳注】冒頭の写真の背景の地図を見ると、ドゥーギンのユーラシアは、東欧と、日本を含むアジア全域を含めた地域を考えているようだ。「中国を封じ込める」とは、秘教的歴史観によれば、ヨーロッパの最大の対抗勢力はアジア、現代では特に中国であり、それとの戦争の可能性も考えられており、逆にアジアとの連携が人類の未来を左右するということが背景にあるのだろうか。日本は、大西洋主義者にとって、アジア大陸支配の橋頭堡として重視されてきたが、だからこそか、ユーラシア主義にとっても連携すべき対象のようだ。プーチンが、現在はさすがに違うだろうが、日本にシンパシーをもっていたのは、こうした背景もあるのだろうか?

 

アレクサンドル・ドゥーギンとプーチン政権下の外交政策

 近年、ドゥギーンの「無名の神秘主義陰謀論者」から「ユーラシアのハンチントンまたはブレジンスキー」と呼ばれる大統領半公式顧問への止まらぬ上昇は、一時的にクライマックスに達した。1998年以降、ドゥーギンは政治的に過激で革命的なシーンからますます距離を置き、国家を支援し、政府を重視する人物としてのイメージを作り上げようとしている。有力な外交防衛政策会議のメンバーでさえ、ドゥギン流の新ユーラシア主義を支持する発言をするようになり、国家の崩壊に対抗し、その国際的重要性を回復するための唯一の手段だと考えている。

 2001年4月21日、汎ロシア的な社会運動「エブラジヤ」が発足した。エブラジヤ運動は、マニフェストの中で、「大西洋主義の共通の敵」に対するヨーロッパとロシアの結束の必要性を明確に指摘し、ロシアを通じて「世界悪」の源であるアメリカのくびきからヨーロッパを解放することまで語っている。1999 年 12 月にロシア連邦大統領に就任したウラジーミル・プーチン外交政策には、何よりもユーラシア主義の軌跡が見られるが、プーチンは、公にはそれに関わっていないのが巧みである。アナトリー・クバイのような西側から尊敬されているロシアの「リベラル派」の側からも、「自由資本主義」は軍事力や新帝国主義と結びついてのみ実現されると考える声が次第に聞かれるようになっているからである。これは、ジョージ・W・ブッシュ政権下のアメリカの新保守主義指導部の関連プロジェクトにたいする対極的対応である。

 プーチンが、2000 年にカザフスタンのアスタナにあるレフ・グミリョフ大学を訪問した際、壁にはドゥーギンの著作のスローガンが飾られていた。また、2000 年 11 月に論説で彼は「ロシアは常に自らをユーラシア国家と考えてきた」と書いた。それゆえドゥーギンが、この言葉を「ロシア政策の東への転換」として賞賛し、プーチン大統領が「ロシアの東への転換」の創立大会で講演したのも不思議はない。

 2001 年 4 月 21 日にモスクワで開催されたユーラシア・ムーブメントで、ドゥーギンは、エブラジヤ運動もプーチンの「ロシアは大国として存在すべきか、そうでないか」という発言を肯定していると指摘した。ドゥギーンにとってプーチンは「政治家らしい愛国者であり、ロシアのルーツに忠実な正教徒だが、他の宗派には寛容」であるという。また、ロシアの地政学的同質性の強化を優先し、新興富裕層のオリガルヒに反対し、分離主義と戦うことから、大統領の内政を支持している。

 

プーチン外交政策とニコライ・リョーリフの影響力

 しかし、プーチンのユーラシア思想への「転向」は、進取の気性に富むアレクサンドル・ドゥーギンによる影響だけではない。アンドロポフ、ゴルバチョフ、プリマコフ、プリンなど、旧ソ連諜報機関の内部にいた人物たちの出自と、彼らが提唱する団体や思想の間には、政治的な統一だけでなく、精神的な統一を促進する関係もあるからだ。

 ユーラシア地域の統一は議論の余地がない。ソ連時代には、ユーラシア思想は主に軍部とKGB界隈で流布していた。特に、ユーリ・アンドロポフの下で1974年に悪名高いKGB第7部の一部として設立された対テロ特別部隊アルファ・グルッパ(またはスペックグルッパA)には、ユーラシア思想が流布していたのである。アルファグルッパのメンバーの多くは、1990年代にユーラシア運動に参加することになった。ドゥーギン自身は KGB の将校の息子であり、ドゥーギンの片腕であるピョートル・ススロフは元外国警備局 SVR(Sluzba Vnesnej Razvedki)長官である。また、ユーラシア運動は今日の国家保安局 FSB(連邦保安局)からかなりの資金を得ているという話が繰り返されている

 興味深いことに、1993年、共産主義時代を生き抜いたユーラシア主義者の秘密組織「アガルタ」の核が軍事機密機関GRU(Glavnoje Razvedyvatel'noje Upravlenije)にあるという陰謀論的な噂を流したのはドゥーギンであった。ゴルバチョフも、プーチンと同じように、すでにその使者となっていた。形而上学的な見解に対するこの教団の開放性は、秘密情報部が行った数々の超心理学的実験の例にも表れている

【訳注】ソ連は、いわゆる超能力に関する研究を公に行なっていた。ちなみに、米軍も、一時期遠隔透視の部隊を設立し、訓練とその実践的運用を行なっていた。

 

 第一次イェリン政権において、リョーリフ財団は、大統領府の文化代表であるセルゲイ・J・リョーリフに支持された。

 プリマコフもまた、ゴルバチョフやその亡き妻ライサと同様に、ニコライ・リョーリフの仕事を公に支援した。

 1998年から1999年までFSB長官を務めたプーチンは、就任後、13年前のミハイル・ゴルバコフと同様に、少なくとも中央アジアインド亜大陸におけるリョーリフの名声を、リョーリフの実際の秘教思想に何らかの形で近かったかどうかはともかく、アジア地域におけるロシアの長期的地政学的目標を固めるための一手段として利用した

 2000年10月初旬、『India Today』と『The Russia Journal』の2誌の編集者との50分間のインタビューの中で、プーチン大統領は、インドとの関わりを尋ねられたとき、まず、その人生はすべての民族を結びつける精神の親密さの驚くべき例となったオカルティストのニコライ・リョーリフの名を挙げた。

 そして、プーチンが2002年12月4日にニューデリーでロシアとインドの諜報機関や特殊部隊の協力に関する会議を開いている間、妻のリュドミラ・プチナは「ヒマラヤのサガ」と題する巨匠リョーリフの絵画展を開いた。

 インドの元首相ラジーヴ・ガンジーの家族と親交のある著名な東洋学者・インド学者アレクサンドル・M・カダキン大使は、インタビューで、インドの将来について、また、アフガニスタンでの出来事はハンチントンのいう文明の衝突なのか、という記者の質問に対して、次のように述べている。「ロシア、中国、インドというアジアの3巨頭には、素晴らしい未来があることは間違いない」と、ユーラシアのメシアニズムという意味で全く明瞭な答えであった。「東方で夜が明ける」というのは正しい表現である。

 ユーラシアの思想は、新しいロシアのアイデンティティを定義する要因のひとつとなり、連邦の地政学的・戦略的計画の柱となることが期待される。その支持者や代表者たちは、ユーラシア主義を、ユーラシア空間に新たな文化的・政治的目標を与える原動力とみなしている。ユーラシア主義は、そのアンチテーゼである大西洋主義と言う悪魔を、対極化の助けを借りて、常に呼びだすことにより、自身の霊的精神的価値を決定し定義しようとするからである。

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 ウクライナ侵攻後、プーチンやラブロフ外相は、米英の一極支配の弊害を述べ、それは過去のものになりつつあるというような主張をしている。どうやら、米英支配の構造から脱却する構想を持っているようで、そのために、西側とは一線を画する経済的な諸国連合を築いてきている。それは、アメリカのドル支配の終わりを意味し、アメリカの没落の始まりとなるものとの指摘もある。
 これも、米英に対抗するユーラシア主義的発想のように見る。

 今後の世界の趨勢は、前世紀の地政学者の予見の通り、ランドパワーとシーパワーの闘争により決着するのだろうか?