k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

二人の子どもイエスー神殿の出来事 ①

 

エクステルンシュタインの磔刑レリーフ

 このブログでは「二人の子どもイエス」のテーマが、主要なテーマの1つとなっている。私がこのテーマを初めて知ったのは、大学生の時で、先にシュタイナーに出会って、彼に関連する本を色々物色しているときに見つけた、これまで紹介してきたヘラ・クラウゼ=ツインマー氏の本によってであった。

 同じテーマを扱っている本を出しているデイビッド・オーヴァソン氏に出会ったのは、それから何年も後のことである。

 二人に共通するのは、絵画などの芸術作品の中に密かに込められた「二人の子どもイエス」の秘密を解明していることである。二人の違いは、クラウゼ=ツインマー氏は、人智学派であり、当然、シュタイナーの主張をもとに論じているが、オーヴァソン氏は、シュタイナーを評価しているものの、人智学派ではなく、独立した研究者であることである。独自の研究、あるいはシュタイナーとは別の秘教的源泉から知識を得ているようなのである。
 二人は共通する主張をしているが、二人の源泉は異なっている。それは、その主張の正しさを傍証しているように思われるのである。

 さて、このブログでは、二人の本からいくつかの絵を紹介してきた。それらは、主に性格の異なる二つのタイプの聖母子の絵や、一人の聖母マリアに二人の子どもが一緒に描かれた絵であった。そこに二人の子どもイエスが描かれているというのであった。

 ところで、「二人のイエス」と言わず、あえて「二人の”子ども”イエス」と述べているのには、理由がある。キリストを受け入れる人間イエスは当然一人である。つまり、大人のイエスは一人であり、イエスが二人いたのは子ども時代に限定されるのである。

 二人の子どもイエスとは、一人は、マタイ福音書の伝えるイエスであり、もう一人は、ルカ福音書の伝えるイエスである。この両福音書を詳しく読めば、それぞれの描くイエスに性格の違いがあることや、福音書間でその記述に矛盾が存在することがわかる。最も端的なのは、イエス系図の違いである。特に、ダヴィデ王に続く子どもから2つの系図は全く別の名前を挙げているのである。実は、聖書自身が、イエスは二人いたと正確に語っているのだ。

 では、二人いた子どものイエスは、どうして一人になったのか。今回のシリーズでは、このことを今後、解説していくこととする。なお、従来の表題「二人の子どもイエスとは」を改め、今後は、適宜内容に合った表題を付けることとする。

 

 先ず、今回は、導入部として、オーヴァソン氏の『二人の子ども』から引用する。

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〔「第5章 神殿の出来事」より〕

 ドイツのデトモルト近くのエクステルンシュタインの古代の遺跡はまさに有名である。ここでは、異教の密儀とキリスト教に関係する図像が並んでいるのを見ることができる、世界でも残存する数少ない古代の場所である。・・・

 エクステルンシュタイン自身は、教会、階段、独居房そして秘儀参入のための部屋が掘られた岩の巨大な露出岩よりなっている。2000年以上にわたり、巨大な岩の表面に自然の渦巻きから北方の異教のオーディンの苦悶の形を表すものまで人の手により彫られている。・・・

 この巨大な人物像の北に、やはり木につるされた他の人物を彫った他の岩面がある。これはおそらく12世紀に造られたキリスト教の彫刻である。それは十字架から降ろされているキリストを表している。

(冒頭の写真の左上部の線描画)


 十字架の骨組みの上に父なる神の像がある。彫刻家が異教のオーディン像を救済しようと試みていることが確かだと思わせるのは、おそらく十字架のキリストよりもこの主要な像である。何故ならチュートン人の神は、彼らの信者から「全‐父Allfather」と呼ばれていたからである。後の時代の方のイメージでは、父なる神は、キリストの魂を彼の左手で保護し(注)、腕を下に延ばして右手で死せるイエスを祝福している。

 

 (注) キリストの姿は、今はひどく腐食している。アリマタヤのヨセフは曲がったイルメンサル(異教の聖なる木)の上に立ち身体を支えている。ニコデモスは死んだ身体を支えている。(今は頭を失っている)マリアの像は、泣いている太陽を擬人化した存在の下におり、一方聖ヨハネは、嘆き悲しんでいる月を擬人化したものの下にいる。。

 (訳注) 線描画の中心に描かれているのが父なる神で、その左腕の子どもがキリストである。そして、イエスの遺骸は、その下にあり、父なる神はそのイエスを祝福しているのである。

 私は言葉を注意深く選んだ。神は、キリストが受肉したイエスの死せる身体を祝福しているのである。十字架から降ろされている体躯は「キリストではなくイエスの身体」である。彫刻が明瞭に示しているように、キリストは神の腕にしっかりと保たれている。 

 これはキリスト教の偉大な神秘である。即ち、イエスはキリストという宇宙的霊の人間の器なのである。後に見るのだが、この結合は、キリストが(よりよい言葉が見つからないのだが)イエスの身体に生まれた洗礼の時になされた。磔刑の時、キリストは十字架上で死に、3年間住んだイエスの苦しみの身体から去ったのである。

 

(訳注)キリストは宇宙霊(ロゴス)であり、イエスが30歳の時に行なわれたヨルダン川での洗礼に際してイエスの体に降り、33歳の時の磔刑によりイエスが亡くなるとその体を去ったのである。(「「二人の子どもイエス」とは⑲」参照)

 

 もしこれが磔刑の時に起きたことの筋の通った見解であるなら、それは福音書を新たな視点で見るように我々を導く。もしイエス・キリストが十字架で死んだなら、二人のうちどちらのイエスがこの運命に向き合ったのかを知るために、福音書を探求しなければならない。福音書には、二人の子供イエスが幼年期を終わった時に起きたことについて何らかのヒントがあるのだろうか

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 「二人の子供イエスが幼年期を終わった時に起きたこと」とは何か。それは、ルカ福音書に書かれている「神殿の出来事」である。それは、イエスが12歳のときの出来事であった。(以下②に続く)