前回、左道のオカルト・ロッジの背後にある霊的存在の話を紹介した。今回は、その配下にいて、実際にそのロッジを支配している者達の話である。これも、前回と同様にエルトムート・ヨハネス・グロッセ氏の『自我のない人々は存在するか?』に基づく。
この本の表題が示すように、もともとこの本は、人間の自我の問題、そして自我のない人が存在するという問題を扱っており、西洋のオカルト・ロッジの指導者の中には、その様な通常と異なる「人間」がいるというのである。
ここで人間の成り立ちについて説明しておく。シュタイナーによれば、人間は、肉体の他に目に見えない霊的体をもっている。それはエーテル体、アストラル体であり、これら3つの体と、本来霊的な存在である自我により、人間は構成されているのだ。そして、更に自我の働きにより、新たな霊的構成要素が作られていくのだが、現在は、その内の最下層にある「霊的自我(霊我)」が形成されているという。それが、人間の進化の道である。
これらの人間の構成要素は、相互に浸透し合っているが、独立したものでもある。そのため、それらが、ある人から抜け出したり、逆に外から新たに入ってくるといことがありうるのである。イエスが宇宙霊・ロゴスであるキリストを受け入れて、イエス・キリストになったように。
また、人の本来の自我は、その人のカルマを担い、輪廻転生していく主体である。前世の過ち、不足する部分を次の生で補うというのがカルマの働きであり、そのため、それに適した体を自ら形成するのだ(その原基となる体は両親から与えられるが)。
しかし、このような本来の自我とは異なる存在が入り込んでいる人間が存在するというのである。
なお、以下の文章で、西(方)・中央・東(方)という言葉が出てくるが、この場合、西とは主にイギリスとアメリカ、東とはロシアなどの東欧とアジア、そして中央とはドイツなどの中欧を指すようである。
また以下の訳は、要点をまとめたものとなっている。
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西・中央・東の人々の異なる本性と自我のない人々の出現
社会三層 化運動を憎み破壊する意図との関係で、シュタイナーは、自我のない人々について語っている。
「新時代の霊的、知的な発展にあるもののすべては、個人の人格を促進する傾向がある。西では、西のやり方で、商業的なやり方で、中央では、今や時代遅れになった、国家-政治-軍隊的やり方で、東では、時代遅れで退廃した古い霊性のやり方で。これは、霊界によって進められなければならない。西方と東方では、それは、非常に重要で奇妙な現象の出現によって進められている。通常の再受肉のコースを示していない比較的多くの人が生まれているのである。その概観だけが、地上の生を繰り返す個人的主体であるように見える人々に会うことがあるのである。彼らは、肉体、エーテル体、アストラル体では人間であるが、この個人を利用する存在達がそこに入り込んでいるのである。例えば、西方には、基本的には、真っ直ぐに再受肉した人間ではなく、実際には、人間の形にはもっと後の進化段階で現れるべき、進化の時期尚早なコースを示している存在を担っている人々が多数いる。」
時期尚早で人間ではない、とはどのような意味だろうか。時期尚早な出現とは、世界カルマによって、この種の存在は、進化のもっと後の時代に現れるべきで、今日彼らが活動するのは異常であるということだろうか?また彼らは、アーリマン的存在であり、また自分が人間でないことを知っているのだろうか?
シュタイナーによれば、それは、アーリマン的存在のようである。
「これらの存在は、西方の個人の全組織ではなく、メタボリック組織を主に使う。それを通して、物質界に働きかけるのである。これにより、大きな影響を持つアングロサクソンの秘密結社のメンバーは、そのような早熟な存在を担っているのである。あるセクトの指導者達、特に、西方に多くの支持者を持っている世界中に広がっているセクトの大多数は、そのような人間からなっている。従って、今日の人類には、全く種類の違う霊性が働いているのだ。」
これらの存在は、人間の体を、正常な進化から逸脱するあるものをなすために用いている。これらのグループは、非人間の目的をなす目的を持った、非人間種の存在に支配されているのである。
シュタイナーによれば、西方には、人間の体を利用している3種類の存在がいる。
「最初の種類は、地球のエレメンタル的力に引きつけられる霊達である。彼らは、地球の気候と他の自然条件に応じて、特定の場所でどのように植民できるかについて、あるいは、そこでどのように交易を結べるかについて知覚することができる。」
第2の種類は、特に律動[心肺]組織で働く。シュタイナーは、はっきりこれを述べていないが、文脈から理解できる。彼らは、他の人々の意識魂を抑圧し、これらの人々が、彼らの行動の真の動機を気づかないようする、一種の中毒的無視をもたらしている。これは、浅薄さ、空虚な紋切り型の言葉、そして不正直へと導く。
第3の種類は、人の神経組織に入り込みそれを利用する。それらは、個々人が、霊界から、また前世から持ってきた個別の能力を忘れさせる。その能力は、それにより、その人の民族や国家性のステレオタイプなありきたりなものになってしまう。それらは、人が個別の霊性に至るのを妨げることをその使命としている。
それらの本性のため、これら3つのグループが他の人に及ぼす効果により、勧誘されていく信奉者や弟子は、伝染病的に増えていく。
彼らは何をしようとしているのだろうか?
「彼らの目的は、全生命を、単なる経済的生命のままにし、知性と霊的的生命である他の部分を次第に絶滅させ、最も活動的なところで、しかしピューリタニズムの抽象性へと縮こまっているところで、霊的生命を根絶やしにし、次第に政治と国家の生命を衰弱させ、経済的生命によりすべてを飲み込むことである。彼らは、社会三層化運動の真の敵、対抗者である。」
霊的歴史的視点では、西方は、経済生命を発展させる、経済の重要性を把握する思考様式を発展させ、その知識を実践に向けることという使命を持っている。
シュタイナーが経済的思考様式と言うのは、それにより意識魂が発展できるものという意味である。それが発展するのは、人が日常生活から学ぶよう自分を訓練することによってである。それにより、我々は、過剰となりやすい意志の本性の傾向にバランスをもたらすことができる、日常生活の事実への客観的な基本的態度を確立するのだ。その思考様式には、意志の力の発展、強化も結びついている。起業家であると言うことは、計画を理解し、その過程に状況を適合させる能力があるということである。意志の力は、このようにして発展できる自我の力でもある。今述べている自我のない人々は、強い影響力を持った自我パワーをもっているが、しかし人間ではないのである。それは、これらの人々が事実から学ぶことができないということに見ることができる。彼らは、指針に堅くこだわり、プログラムやイデオロギーを実現したいのである。彼らには、意識魂の発展はない。社会三層化運動で求められる経済生命における友愛的態度に至るには、その様に働く人が、一般生活で求められる以上に強く意識魂を発展させなければならない。その経済活動に、利己的利益を超える考え方を発展させなければならない。それは、西方が今まで発展させてこなかった、深いキリスト教的なものとなるだろう。
逆のことが起きている。西方の市場経済のイデオロギーは、世界中に広まり、人々を休みない競争に駆り立てている。結果して、西方の自我のない人々が指導権を握り、彼らのイデオロギーを暗示的力で教養・文化に押しつけている。現代のリーダー達は、あまり学ぶ意欲がない。そしてそれは、霊的なそして新しい方向性が固められる前に、巨大な、特に経済的なカタストロフィを引き寄せるだろう。
2008年のリーマン・ブラザーズの世界的経済破綻は、我々を待つカタストロフィの穏やか前兆にすぎないのかもしれない。
同じ講演で、シュタイナーは、東方に目を向けている。「東方はかつて卓越した霊的生をもっていた。人智学で求められている、あるいは新しい形を取ろうとするもの以外、基本的に東方の伝統である。しかしこの生得のものは、東方の人にとって障害でもある。それは、本来の霊的高みになく、退廃しているからである。その効果により、東方の人々は、容易に、霊媒的状態に陥り、東方の存在は、人々が睡眠中に人々に影響を与えることができる。東方の人々-アジア人とロシア人-は、体によりゆるく入り込んでいることから、容易に霊感を受け取る。これらは、西方と異なり、人間の体に受肉せずに、夢の中で影響を与える存在から発する。社会三層化運動に対抗するのは、また3つのグループの霊である。
第1のタイプは、人々が自分の肉内に浸透し、完全に所有するのを妨げる。これにより、人は、経済的生命あるいは周りの公的生活で起きていることに結びつくことができない。これらの霊は、東方で、経済生活が良く機能し、組織化されるのを妨げるのだ。
第2の種類は、人々が、「非利己的利己主義」を発展させるように働く。これらの人々は、「完全に良くありたいと思う。誰でもなり得る限り良くありたいと。これもまた、利己的な感情である。これは、パラドックスであるが、イメージされた無私により造り出された利己主義である。」次の生で快適な生をおくれるように、良くありたいと思うなら、それは二重の利己主義である。次の生で褒美を受けるために、倫理的であろうとするのだ。この態度は、法律と権利の領域を破壊する。
なぜなら、法がどのように機能するかを霊的観点から見る者は、様々な能力、環境にある人々は、法の前では、平等に扱われなければならない-そうでなければ、正義は精義でなくなるから-ことを受け入れているからである。
「非利己的利己主義」の自己像は、自分一人の切り離された存在を彼は求めているので、霊的な法の前には存在しえない。
第3の種類によって、霊的生命は、曖昧な神秘的雰囲気により窒息させられる。うだるような熱を持った神秘主義は、主に東方でなじみのものであり、詩人に良く書かれている。
東方の霊は、以前の時代に完成の段階を通ったが、今日後退的になっている、「発展を止められた霊」と言われる。彼らは、ルチファー的存在である。
シュタイナーは、この西方と東方の霊を、社会三層化運動との関連で述べている。彼は、超感覚的レベルからくる、社会三層化運動に対する敵意に注意を向けている。我々のテーマの観点では、現代の人類の状況を診断するのに、自我のない人々が特別な役割をはたしているので、彼の語っていることは鍵となる。
中央の人々は、西方と東方両方の存在の化身(受肉)により、危険にさらされている。彼らは、目覚めているときは、西方の霊の、眠っているときは東方の霊の影響を受けている。しかし、彼らはその影響にあまり敏感ではない。
今や、問題は、自我のない人はどのようにして認識されるかと言うことである。
一つの例は、ヒットラーである。彼は、周囲に対する暗示的影響をもっており、ドイツの人々に心理的エピデミックを引き起こした。
エリザ・フォン・モルトケ(1859-1932)の、シュタイナーとの次のような体験が記録されている。
「他の時、シュタイナーとモルトケは、街路を一緒に歩いているとき、誰かが運転しているのを見た。すると、シュタイナーは、次のように語ったという。「あの人は、この生を完成するのに十分な自我の力を持っていない。まして次の生に対しても。」その見解により、現代における、自我の消滅のようなことが存在することが示されている。
自我のない人々は、何よりも運命の動機をもっていないことで、区別される。彼らは、カルマのない異邦人であるが、その異質性は、彼らは周りにすぐ適合するので、すぐには明らかにならない。
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上で、西のロッジのメンバー等に入り込んでいるのは、「人間の形にはもっと後の進化段階で現れるべき、進化の時期尚早なコースを示している存在」とあるが、これがどのような存在であるのかは、よくわからない。
シュタイナーによれば、天使達も以前は、人間の段階を経ているというので、本来は、我々が人間である今の時代の次の進化の時代に、人間段階を経る(人間より下位に位置する)存在ということなのか、あるいは、あくまでも今の人間と同じ存在であるが、本来は、もっと後に、地上に受肉するように予定されている存在ということなのかいろいろ考えられる。
これについて、ロシアの人智学者G.Aボンダレフの『善と悪の間の人智学のインパルス』に関連する記述があった。やはりシュタイナーの講演を引用し次のように述べている。
「これらの存在は、『不規則的な仕方で人間の体を用いるように、進んできてしまった。それらは、自分たちの再受肉の段階に至っておらず、現在の人間よりも、本来、後の発展段階で出現すべきであった。従って、それらは、人間より進んでいるが、現代の真のインパルスである、社会有機体の3層化のインパルスに対抗するために、ある関心のもとに、人間に受肉したのである。』
彼らは従って、骨の髄までアーリマン的である。結果、彼らは、非常に知的であるが、同時に、アーリマン存在の意思に貫かれている。少なくないその様な人間が、社会生活の多くの領域で影響力を行使している、アングロサクソンの秘密結社の中で指導的な地位を占めている。」
このような文章からすると、通常の進化のコースを歩まない存在がいるようで、この場合、「時期尚早」とは、「人間より進んでいる」ので、本来は現在の人間の体に受肉すべきものではなく、もっと後に受肉すべきであったということらしい。つまり、本来の人間を超えて進化しているということであると思われる。そのような存在(これも「人間」と言えるかどうかはわからないが)にとって、現在の人間の体は実際には適していないので、「不規則な仕方で人間の体を用いる」ことになってしまうのであろう。
しかし、それらは、いずれにしてもアーリマン的存在であり、人類の本来の進化を妨げる働きをしているようである。
もしその様な存在であるなら、彼らは、現在の人間をどのように感じているのだろうか。むしろ、その人間の方が自分とは異質なものであり、人間にとっての動物や虫けらのように感じており、そもそも、その進化を妨害するためにやってきたのであるから、自分にとって無価値なものと思っているだろう。。
その様な存在であれば、戦争を起こしたり、疫病をはやらしたり、またそれに対して実際には危険なワクチンを使って多くの人間を殺したりすることに、彼らは、躊躇を感じないのではなかろうか。
私は、今世界中で進んでいることが意図的であるとすれば、そこに人間性のかけらも見られない(あるのは悪意のみとも言えよう)ことを不思議に思っていた。つまり、人間が同じ人間に対してやれることではないと感じていたのだが、その理由は、上のことにあるのだろうか?
シュタイナーによれば、同じ人間の形をしていても、その中身が異なる「人間」がいるということであるが、この問題は、非常にセンシティブな問題でもある。世の中には、「レプティリアン」なる言葉もあるが、実は、シュタイナーは、このような話は、人智学系のキリスト者共同体の牧師メンバ-にのみ語っていたとも言われている。センセーショナルに語る話ではないのである。
ただ、霊学を学び、人類の本来の進化の道を求める場合、避けては通れない話かもしれない。