k-lazaro’s note

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栄養の流れと人間の構成組織

ヨハネス・W・ローエン氏

 以前、栄養の問題に関する「栄養の真実の基礎」という項目で、「人間は本来、地上の素材を何も必要としない。私たちがものを食べるのは、単に刺激を与えているだけ」というシュタイナーの言葉に触れ、エーレンフリート・プファイファー博士の講演を紹介した。

 今回は、これを補足する内容である。

 日本でも解剖学の著作が出版されている、ドイツの解剖学者で人智学者のヨハネス・W・ローエンJohannes W.Rohen氏の著書に『機能的霊的人間学』がある。この本の1節が人智学から見た栄養の問題について解説しているので、これを紹介したい。

 

栄養の流れと人間の構成組織

  先ず、著者によれば、栄養及び栄養摂取は、「科学的にも難解で、今日も私たちを悩ませている。」といいう。常識的には、例えばタンパク質を含む食物を食べると、消化によりその食べ物からタンパク質が取り入れられ、それがその人の体を構成するタンパク質になる、それは脂肪や糖分も同じであると考えられているが、実は、真実はそんなに単純ではないのだ。

 エーレンフリート・プファイファー博士も「最新の研究により、身体が、食品物質や分解された食品物質を取り込んだ瞬間に、その後のプロセスは、完全に独立して自律的に進むことが証明されているのです。つまり、私たちの正確な研究が言うように、食べ物は体内でその個性を失ってしまうのです。」と語っている。

  同じようなことを、著者は、次のように述べている。

 「確実に言えるのは、食品はそのまま体内成分の形成に使われるのではなく、消化管での消化作用によって完全に分解され、基礎的な要素に分解された後、生体内部に到達する、ということである。食事により取り込まれた物質は、生体が刺激として利用するだけなのである。そして、これらの成分の素となるものを使って、生体は必要な体内成分を自ら作り上げていくのだ。食品に含まれる成分が直接、すなわち未変化のまま生体に入り込むと病気になるのだ。例えば、異物であるタンパク質が体内に入ると、アレルギーや重い免疫疾患を引き起こす可能性があるのである。」

 後でも語られるが、栄養とはいえ、体外から来たものは異物であり、そのままではその体に害をもたらすのである。それは免疫の本質に関係している。「子どもにワクチンは必要か?①」に出てきたが、母から受け継いだ自分の体(タンパク質)でさえ、子どもは、それを造り変えて行かなければならないのだ(そのために、子どもは、高熱を発する病気に罹る必要がある)。自己と他者の明確な区別が免疫の根本であり、それは、栄養であれ、親から受けついた肉体であれ同じで、それらは一度否定されなければならないのだ。

  食物が体に取り入れられるプロセスを、著者は次のように説明する。

 「食物とともに摂取された物質は、ある意味で腸壁の細胞(腸管細胞)に『見つめ』られ、徐々に分解されるか、そのまま排泄されるかのどちらかである。この高度に細分化した知覚の過程は、腸内小器官の分泌過程を刺激し、摂取した成分を、もしまだ存在していれば、そのエーテル的及びアストラル的部分とともに、徐々に溶解させる。そして、食品成分の大部分を占める『裸』の要素だけが腸壁を通過し、生体内で体内成分へと合成されるのである。」

 生物の「構成組織(要素)」と言われるものは、植物の場合、物質(鉱物)体とエーテル体であり、動物はそれにアストラル体が加わり、人間の場合は、さらにそれらに自我が加わる。生命が死ぬと、エーテル体以上のものはそこから去って行くのだが、直ぐに完全に無くなるのではないようである。だから、植物や動物を食べる場合、それには、その残滓、あるいはその影響が残っているのである。食物(栄養)摂取の重要な過程は、それを完全に取り除くことなのだ。

 栄養摂取の過程は更に続く。

 「栄養は、最初一種の毒である。しかし、それは、腸壁が厳重に監視する障壁の役割をしているため、病気にはならない。腸壁を通過できるのは、コントロールされた基本成分、つまり消化の過程で作られる自然素材の成分であり、自然素材そのものではない。タンパク質の場合はアミノ酸、糖の場合は単糖類と二糖類、脂質の場合は脂肪酸とトリグリセリドである。水と塩分だけが腸壁の細胞を通して、能動輸送によりほとんど変化なく血液中に運ばれる。例えば、ホルモンや活性物質など、植物や動物の体内で効果を発揮する物質の性質は、消化によって完全に失われてしまうことがわかっている。したがって、腸壁を通過したものは、無害で効果のない食品成分の素に過ぎず、それをもとに生物は自分の『家』を作るのである。」

 例えば、タンパク質は、「20種類のアミノ酸が鎖状に多数連結(重合)してできた高分子化合物であり、生物の重要な構成成分のひとつである。構成するアミノ酸の数や種類、また結合の順序によって種類が異なり、分子量約4000前後のものから、数千万から億単位になるウイルスタンパク質まで多くの種類が存在する。」(ウィキペディア) 栄養素も、それを構成する要素に更に還元されなければならないのだ。そして有機体は、自分の固有の状況に合わせてそれらを用いて自分の体(家)を構築するのである。

 しかし、それらの要素も単なる物質では、生きた有機体の一部となることはできない。生命をもたらすのは、エーテル体であり、エーテルの力に浸透される必要があるのである。

 「タンパク質を分解したアミノ酸、糖質を分解した単糖類・二糖類は、腸の全静脈を束ねる門脈を通って、腸壁から肝臓に運ばれる。肝臓は、これらの成分を「蘇生」させ、体内成分に再合成させるための一大『化学の台所』なのである。ここで、これらの成分もエーテル体に取り込まれ、人間の生体に『正しく』取り込まれるのである。血液中を循環するタンパク質の大部分は肝臓から供給されるが、肝臓は『蘇った』アミノ酸を体の臓器や細胞に渡し、     そこで特定のタンパク質に再合成させるのである

 肝臓は数百万個の小葉からなり、・・・門脈の血液は、これらの小葉の周辺から、排静脈のある中心部へと流れていく。肝小葉の血管は壁が閉じていないので、血液の液体はここから抜け出してリンパ管に流れ込むことができる。体のリンパの大部分は肝臓から出ている。体のリンパ系には、体内に侵入した異物を免疫反応によって無害化する働きがある。もし異物が門脈から肝臓に入った場合、肝臓はその成分を代謝するか、あるいはリンパ系を経由して体の免疫系に流すことができる。そのため、肝臓は体を守る大きなバリアーとなり、有害な異物が血液、ひいては生体に侵入するのを防ぐことができるのである。・・・

 また、肝臓は糖の代謝に大きな役割を担っている。腸壁で吸収された炭水化物の素は、肝臓でグリコーゲンに合成され、必要に応じて貯蔵されるか、血液中に放出される。肝臓は、膵島臓器とともに、血糖値、ひいては体のエネルギーバランスを非常に正確にコントロールしているのである。血糖値が上がりすぎたり下がりすぎたりすると、意識不明になることがある。このため、肝臓は私たちが世界を意識的に体験する際の決定的な制限装置ともなっているのである。」

  さて、以上をまとめると次のようになる。

 「腸から門脈を通って肝臓に流れる血液の中には、成分の基本要素となるものが含まれているが、それが一般の血液循環に乗る前に、まず生命力が充填され、体内の成分に変換されなければならないと言うことができる。したがって、肝臓は制御臓器であると同時にバリアーでもあるのだそのため、肝臓は、人間の高次の構成組織が肉体という物質世界に介入することを可能にするのである。」

 肝臓により、人間の高次の構成組織(エーテル体)が肉体に浸透していくのであろう。肝臓が制御臓器というのは、その時の肉体の状況にあわせて、タンパク質、脂肪、糖等の成分の形成を調整しているということのようである。それゆえ、シュタイナーは「肝臓はこれらの代謝過程を "見る "器官である」とも語っているという。

このような消化過程の複雑さを考えると、この腸管での成分の分解の実際の目的は何なのか、最終的に腸壁を通過して血液に入る物質を外界から直接取り込んで、適当なところで体内に取り込む方がずっとシンプルではないだろうかという疑問も浮かぶ。

著者は、「ここで、物質性と関係する限りにおいて、人間存在の重要な原初的現象に行き着く」と言う。それはまた、感覚系の機能でも見られるものである。

 「ここで問題となるのは、人間の成長にとって、肉体と、その物質的な完全性がどのような意味を持つかという基本的な問題である。もし人間がまだ発展可能であるならば、肉体もまた、精神によって変化させられ、より高い形態へと発展することができなければならない。精神は物質世界との対峙の中で自らを鍛え、それによって肉体の基盤を、より高次の存在形態へと発展させるのである。」

 もともと人間の進化、発展とは、精神的、霊的次元のものである。肉体はそれに合わせて変化してきたのである(おそらくこれまでのその変化は、やはり胎児の成長の中に見ることができるのだろう)。現在、人間の霊は最も深く物質世界に入り込んでいる。それは、人間が自我を発達させるためであった。そして更に人間は、再び霊界へと上昇し、自己の霊的構成組織(霊我など)を発展させていかなければならない。それに合わせて、また肉体も変化していくというのである。

 「したがって、人間の精神から、身体性に及ぼす精神の影響を奪うような異物は、肉体に入ることを許されないのである。しかしながら、外界の物質を消化管に取り込むことで、生体は物質の世界を知り、それによって鍛えられ、自らの内界を変化させる可能性が生まれるのである。物質の分解とその実質的な再構築を通じて、生物は、世界に存在するものを物質的、魂的要素において存在するものを経験し、その結果、自らの存在、自らの力、構造を物質側から新たに体験することにもなったのである。

  例えば、私たちが肉を食べたとしよう。この肉には、最初はまだ動物のアストラル性の部分が存在する。消化とは、先ずこのアストラル性を、次に栄養素に付着しているアストラル性を、最後に物質の構造そのものを取り去ることであり、最終的には栄養素の中に生きている動物的なものは何も残らないのである。栄養素に付着した質は、健康な消化の中で完全に除去されている。植物性食品では、アストラル性が大きく欠落していることを除けば、プロセスは同様である。

 しかし、生体は、上記のように、腸壁を越えて、摂取した栄養素の基本要素に、消化中に取り除いたエーテル的及びアストラル的質を再び付与する必要がある。生体は、それらを自分の基本要素の物理的な基礎とするために、自分固有のアストラル性とエーテルの力を与えなければならないのである。」

 動物や人間は、食物を基本的要素にまで分解、還元し、それにまた自己のエーテル性とアストラル性を付与し、自己の肉体の形成に使うのだ。

 ちなみに、ここで動物の肉が例として語られているが、これを食糧とするときに注意が必要なことがある。動物の肉には、そのアストラル体も付着していることである。消化の過程でそれらは取り除かれると上で述べられているが、どうもそれが完全にはいかない場合もあるようなのである。つまり、虐待された動物の肉には悪しきアストラル体が付着しており、それを摂取した人間にはそれが悪影響を及ぼすことがあるというのである(このようなことからも菜食主義がいいようだが、シュタイナーも肉食自体を禁止はしていないようである)。

 以上から結論的に述べると、

「栄養は、結局のところ、自分自身の基本要素の活動のための刺激でしかない。基本要素は、-物質的なレベルでは-自分自身の力で自分の身体的世界を貫き、形作る力を自ら発達させるために、物質の消化分解を通して環境にある存在の本質を知るのである。これは、感覚器官で起こるプロセス-ここでは、実質的なレベルではなく、情報的なレベルにおいてのみである-と非常によく似ている。しかし、人は、感覚的な印象もまた実際に自分の中に入れることはできず、自分自身の内面から知覚的なイメージを生み出し、それによって認識するための刺激として、それを使わなければならないのである。

人間の内面の完全性は神聖なものである。ここには何も "異物 "が侵入してはならない。しかし、異物は自分自身を成長させるための刺激として必要である。なぜなら、すべての新たな格闘は、新しい経験をもたらし、その結果、新しい発展の可能性をもたらすからである。」

 食物を食べると言うことは、(不食の人もいるように、本来は必ずしも必要ではないが)肉体を作るために、栄養の素を摂取することである(そこには、あくまでもその生物の主体的な関わりがある。つまり、外界からの栄養はそのままでその生物の体の構成素材となるのではない)とともに、自分の生きている物質世界を学ぶ手段の1つなのである。

 そして、既に述べたように、それにより、自らの肉体を変様、発展させていくのだ。

 

 ところで、一方で、「私たちがものを食べるのは、単に刺激を与えているだけ」といいながら、他方で、栄養を分解し、それをもとにまた肉体を構築していくというのは矛盾するようにも見える。これはどう解釈すべきだろうか。

 シュタイナーによれば、結局、肉体を生み出すのもエーテル体であり、そのため、本来は物質的素材も必要ではないと言うことらしい。確かに、不食の人々はその様にして体を維持しているのだろうが、普通の人間には無理なことで、食べなければ餓死してしまうだろう。やはり、物質的な素材を必要とするのである。

 だから普通の人間には、やはり食べ物、栄養が必要なのだ。ただ、それは、その元の栄養のまま肉体を構築するということではない。一端、最も基本的な要素にまで還元し、それに新たにエーテル性とアストラル性を付与して、それにより肉体を構築するのだ。この場合、元となる物質はやはり外界から摂取されることとなるが、その過程で、異物性を除去される。それを元に肉体を構築していくのは、その生体の内部の能動的な作業なのである。食べ物、栄養は、素材を提供すると同時に、著者が言うように、感覚知覚と同じように、この内部の働きを生むための刺激ということなのであろう。
 この本は、他にも興味深い解説が書かれているようなので(まだ読了していない)、機会があればまた紹介していきたい。