この項目の①では、インゴ・ホッペIngo Hoppe氏の著書『アンチキリストの短編物語』に基づき、ソロヴィヨフのアンチキリストの予言物語は、メルヘンや寓話的な表現であり、実際に起きるであろう出来事をそのまま描写したものではないので、その背後にある本質的なもの、インパルスを把握することが重要であること、そのような視点で、現在の世界情勢を眺めると、ソロヴィヨフが未来に起きるものとして見たものと現実世界には合致する点が多々あるということであった。
①で示されたのは、主に世界の政治的経済的支配の道具としての「世界政府」に関する出来事であったが、今回は、その続きで、ホッペ氏の著作から、内的側面、「“霊的”世界観」に関するホッペ氏の論稿を紹介する。
理論的唯物主義の崩壊
ソロヴィヨフは、予言物語で、新たな生理学的及び心理学的発見により、理論的唯物主義が崩壊したとして、また次のように述べている。「踊る原子のシステムとしての宇宙と言う考えは、もはや思考力を持った人々を満足させなかった。人類は、哲学における子どもの段階を永遠に超えるに至った。」
ホッペ氏によれば、この言明により、ソロヴィヨフは、20世紀の本質的な発展のモチーフを正しく予見したという。まだ多くの人は理解できていないが、このような理論的唯物主義の崩壊は現に起きているのである。「非有機的物質を対象に研究し、宇宙は単なる踊る原子のシステムであるとする、19世紀の強固な唯物主義を生み出した理論物理学の20世紀の代表者達は、その物質概念を文字通り破壊してしまったのである。」
アインシュタインやハイゼルベルクのような抜きん出た物理学者によれば、今日多くの人間がなお、唯一の現実と考えているような物質は存在しない。「それは、我々の感覚の幻想である。従って、理論的唯物主義もまた幻想である。それがよって立つ対象は、現実の世界には存在しないからである」という。
これには多少説明が必要である。ここに出てきた二人は、現代物理学の巨匠であるが、物理学のなかでも素粒子等を扱う「量子力学」に深く関わった科学者である。この量子力学で、ハイゼンベルグは、「不確定性原理」を提唱した。これは、「粒子の位置と運動量、エネルギーと時間などの一組の物理量について、その両者を同時に正確に測定し、決定することはできない」ことをいう。ニュートン以来の古典物理学においては、「最初の条件さえ決まれば、以後の物質の状態や運動はすべて確定される」と考えられているのに対し、現代物理学では、この考えが否定されたのである。つまり、古典物理学では、理論的には、例えば運動している物体の速度と方向がわかれば、その物体がいつどこにあるかを未来のどの時点までも予測できるはずである。だが、現代物理学では、そもそもそれは原理的に不可能であるとされたのだ。測定すること自体が、物体に影響を与えてしまうのである。
これは、物質を構成する量子は確率的に存在するという、シュレーディンガー方程式(波動関数)から導かれる考えと関連している。そしてこれらから、量子の状態はそもそも不確定ないし確率的であり、それを観測することによって事象が収縮して結果が定まるという理論も生まれるのである。観察する主体は人間である。つまり客観的世界は、人間という主観的存在と不可分の関係にあるのである。
このように、現代物理学の世界では、既に、従来の一般的な世界観は覆っているのだ。
ホッペ氏は、続けて次のように述べる。
「19世紀の唯物主義で残るものは、エネルギーの理論のみである-また『振動』『量』『共振』『フィールド』『無』『反物質』あるいは『マトリックス』も語られている。
この『理論的唯物主義の崩壊』は20世紀の最も基本的な発展モチーフに属する。それにより、全く新しい世界観的原理が導入された。」
これを公に広めた中心的人物として、ホッペ氏は、フリチョフ・カプラFritjof Capraの名前をあげる。
ここで大変懐かしい名前が出てきた。フリッチョフ・カプラ氏とは「1939年2月1日生 オーストリア出身のアメリカの物理学者、システム理論家」で、「現代物理学と東洋思想との類似性を指摘した1975年に書いた『タオ自然学』("The Tao of Physics")が世界的ベストセラーとなった」(ウィキペディア)。彼は、人類の新しい霊性の時代を展望し、70、80年代に世界的に広がった「ニューエイジ運動」とも関係する、いわゆる「ニューサイエンス」の代表者の一人なのである。
カプラ氏は、「現代物理学は、その科学的探究を通して、全ての時代の神秘家達が既に数千年以前から教えていた事柄と同じ成果に達した、という説を主張している。」この考え方は、「次第に、1975年以来ブームとなった『ニューエージ運動』の固有の強固な核となり、その運動は、今日では、『エソテリック(秘教)』の名で続いている。」
ここに出てくる「ニューエージ運動」の後継の「エソテリックEsoterik」という運動についてはよくわからないのだが、以来、いわゆるスピリチュアル的なムーブメントは続いており、その中で、神秘主義と科学の融合的な取り組みも確かに存在していることは間違いない。
ここで重要なのは、霊的なものに反対していた主要な力であった自然科学自身が、物質の存在を疑い、エネルギー概念により、擬似的ではあるが、霊的な見方に移行したことである。「エソテリック」の信条は、「すべてはエネルギーである」ということである、という。
しかし、この運動の主流においては、魂的・霊的なものと物質を同一視する考えが支配的なようである。ここが問題で、それはこの後、詳しく述べられていく。
ここでソロヴィヨフの予言に戻ると、アンチキリストが、唯物主義を否定する霊的な人物として現われるなら、従来の唯物主義に固まっている者が多い世界で、なぜ名声を得ることができるのだろうかという疑問が浮かぶ。それには、この唯物主義が先ず変化しなければならない。科学自身が、ある「霊的なもの」を認めているのだから、(見かけ上の)霊的理論に大衆を導く-それはアンチキリストのためでもある-精神的な雰囲気を作り出すことができるのである、という。
おそらく、人類の多くの部分が、長い期間、この世界観の変化を経験しているようである。ホッペ氏によれば、2011年のオーストリアの研究では、全青少年層の80%が、霊的なものに興味を持っているというのである。しかし、自分は宗教的(既製の宗教に関して)であるとしたのは、5~7%しかいなかったのである。アメリカでも同様であるようで、このようなことは、アンチキリストが望む「新しい世界宗教」のための絶好の前提条件だという。これは、キリスト教、仏教などの既製の世界宗教が廃れていくと言うことでもある。
確かに、20世紀に従来の唯物主義は崩壊したのだが、よく見ると、唯物主義的な考え方が克服されたというのは見かけだけである。これは、ソロヴィヨフの物語でも語られた批判である、という。
現代物理学における変化は、非物質世界に向かう道の1つに過ぎない。シュタイナーによれば、それには、下自然と超自然の2つの道があるという。物理学が探求する非物質世界-電子、磁気、原子-は、下自然で、神秘家(ゲーテなども)が語っているのは超自然である。その意味で、カプラ氏は間違っている、とされる。下自然と超自然を混同しているのである。
シュタイナーは、電気、磁気、原子のエネルギーを、ルチファー的、アーリマン的、アシュラ的と呼んだ。即ち、それらは、反キリスト的性格を持っているのである。
問題は、電気、磁気、原子のエネルギーを我々の内部存在と同一視して良いのかと言うことである。自然な感情からすると、霊界、神、そして自分自身を物理的エネルギーと同一視することには抵抗がある。しかしまさにそれが、エソテリックでは起きているのである。これは、理論面でだけではない。ソロヴィヨフの、「電気を引き寄せ、導く」能力を持った魔術師と同じようなことが起きている、というのである。
ホッペ氏がここで例としてあげるのは、シャーリー・マクレーンである。これもまた懐かしい名前で、彼女は、アメリカの女優なのだが、自身の神秘的経験を元に著わした著作がやはり世界的ベストセラーになっている。
彼女は、チャネリングにおいて、アンブレスと呼ぶ電気的存在がある人間に入り込んだと述べている。この「霊」が、世界の進化について参加者に語ったというのである。ここでは、電磁的エネルギーがオカルト的世界として理論的に把握されているだけでなく、エソテリックなやり方でオカルト的世界が直接体験されているのである。
ソロヴィヨフの時代、そのような方法は、スピリチュアリズムと呼ばれた。実際、彼は、スピリチュアリズムに似た形を、「世界帝国魔術師の半分霊的(スピリチュアル)で半分手品のような芸当」に見ていた。それは、今日エソテリックの枠内で用いられているが、それはスピリチュアリズムの後継に過ぎない、という。
もう一つの例は、ニューエージ運動の中心ともなったフィンドホーンである。フィンドホーンというのは、1962年にスコットランドの北東部に設立された自然農法を行なう共同体であるが、この共同体の創始者を通して、高次の存在が語ったという。
その霊的存在においては、電磁気的存在だけでなく、原子エネルギー存在が関係している。その存在は、「核エネルギーが使われるようになると、このエネルギーの中で、自分を表わす。核エネルギーが解放されるとき、それは私の一部となり、啓示が生まれる」と語っているのだ。また「私は、世界の至る所で顕れ、私は常に存在する。私は、造る。私は新しい天と新しい地である。」とも語っており、それは、ホッペ氏によれば、聖書の言葉遣いのようであるという。このフィンドホーンの原子存在がキリストと同一視されているようにもともとらえられるのである。
ここで多少解説すると、フィンドホーンは、元々痩せた土地であったが、そこで創始者達が共同生活を始めると、妖精等の霊的存在との交流が生まれ、それらの指導を実践すると、巨大な野菜ができるようになったというのである。これがやがて本となり、ニューエージ運動の風潮もあって、日本を含めて世界中で評判を呼んだのである。これ自体は、スピリチュアルな運動であると同時に、行き過ぎた化学農業や工業化社会の反省をふまえた自然回帰、あるいは一種のエコロジカルな運動でもあると評価できるのだが、それを指導する高次存在の正体が問題なのである。
ホッペ氏は、それが、自らをキリストになぞらえるアンチキリスト的存在だと示唆しているようである。原子エネルギーの中に自らを啓示するという表現は、まさに実際には、キリストと対極にあるように思われる。
ただ、それによりフィンドホーン運動の全てを否定するべきかというと、わからない。実は、私も昔、その本を読んだことがあり、好印象をもっていたのである。勿論、運動を担っている人々には悪意はないだろう。妖精や自然霊の存在をシュタイナーも語っており、人智学派にも幾つかの本がある。フィンドホーンのようなことは、実際にあり得るのだ。
しかし、妖精達の本来の王は、今は地球霊となっているキリストである。このキリストの席を奪おうというのが、アーリマン達の闇の霊である。フィンドホーンにおいても、このような攻撃があったのかもしれない。
ホッペ氏は、フィンドホーン等の例から、同時代の「エネルギー・エソテリック」は、エネルギーの電磁気的及び原子的な彼岸-それは外的世界には機械を通して現われている-に由来する形而上的な存在と協働していることを示しているという。またエネルギー存在のこのような形を、ソロヴィヨフは、正確に示唆しているという。
彼は次のように物語っているのだ。「彼[皇帝]は、電気ショックを受けたような身震いを感じた。彼の前に、燐光のようにほのかにきらめく光の中で、ある姿が浮かび上がった。きらめく2つの目が、あらがいようがないように、彼の魂を貫いた。グラモフォン[レコード]からのように、金属的で、完全に魂のない声が響いた。」
この言葉により、ソロヴィヨフは、アンチキリストの本質の特徴を表現している。それは、次の事実と一致しているという。シュタイナーは、チャネリングで出現した電磁的存在あるいは放射性の「キリストのようなもの」を、悪の、ルチファー的アーリマン的アシュラ的な本性と関連付け、その様な存在により、20世紀に真のキリストが気づかれないままであるように、またエーテル的存在としてのキリストの再臨を人間が認識しないようにする試みが、アンチキリストの側で追求されることを説明したのである。
この努力は、特定の理念の影響の下になされる。20世紀にキリストによりもたらされる影響圏を、他の存在のために得ようとする努力がなされるのである。つまり、アーリマン的本性の存在をキリストの代わりに据えようとしているのだ。このような努力を根絶することが、正しい霊的発展の使命である、という。あるサークルは、このアーリマン的偽キリストを、キリストと呼ぶのである。
下自然と超自然を区別するなら、主流のエソテリックのエネルギー的キリストがアーリマン的偽キリストに関連付けられるのは明白である。その超感覚的再臨を、ソロヴィヨフとシュタイナーが同じように、またヨハネの黙示録と一致して、我々の時代に起きることを予言しているエーテル的キリストと彼を明確に区別しなければならない。
シュタイナーによれば、アーリマン的対抗キリストの出現は、次第に大勢を引きつけていく、見かけ的な唯物主義の克服によって出来する。霊的存在と物質的エネルギーの上述の同一視は、そのような見かけ的な唯物主義の克服の古典的な例である。ついに、それによって、更に強化された唯物主義が生まれるだろう。唯物主義的思考が、カプラのような根本的な誤謬により、霊的領域にまで拡大されるからである。霊性への正統な憧憬が、偽りのエソテリックなエネルギー世界によってうわべは満足させられるが、真の霊的世界からはそらされる、という。
そこからエネルギー理論が生まれた元々の原子還元論は、感覚的知覚の全スペクトルを単なる幻想として否定するだけでなく、感情や思考、(自己)意識などの全ての人間の内的体験をも否定する。原子還元論は、現代のエネルギー理論においても存続し、(一面的に把握された)東洋のマーヤ[幻想]概念と結合した。その概念は、個人的自己とその感覚的知覚を、理論物理学のように、同じく幻想であるとみなしているので、その考えにそうとみられたのである、という。
ホッペ氏によれば、これに対してゲーテ的マーヤ概念は、(自己)意識と感覚的知覚を霊的なものの言葉と表現として捉えており、それらが単なる主観、あるいは単なる物質的現象として誤って解釈される場合にのみ、幻想とみなされるのである。ソロヴィヨフで語られている東洋の神秘主義と西洋の物理学の統一は、従って、自己意識の否定に至る。それは、自己意識を、名目的には唯一の実在であるエネルギーや振動の世界のために、非実在であると見なすからである。
しかしそれは、「私は、私である者[自我]である」(ヨハネ福音書)という言葉によって示されているキリストを否定することと同じである。人間の魂の中で意識化される個人的霊、人間の自我が、カプラのエネルギーの領域では、無へと消えていってしまうのである、という。「活動はあるが、行なう者はいない。踊る者はいない。踊りがあるだけである。」
以上が、ホッペ氏による、アンチキリストの出現を準備する「“霊的”世界観」に関する現状の分析である。
私は、ソロヴィヨフの「理論的唯物主義の崩壊」という言葉を初めて目にしたとき、たしかに物理学の世界はその様に進んでいると思っていたので、その卓見(予見)に驚いたのだが、しかし、一般の人々の意識がそのように変化しているようには見えず、崩壊と言える状況が直ぐにくるようには思われなかった。
しかし、確かに、ニューエージ運動以来、ずっといわゆるスピリチュアルを思考する傾向が人々に浸透してきているのも事実である。
また一方で、科学の面でも、上で述べた「不確定性原理」等の原理から派生した新たな発見がある。最近話題の量子コンピューターが基づく原理も、実は、量子力学の研究から発見された「量子もつれ」や「量子テレポート」というものなのだが、それには、2つの量子間で距離に関係なく一瞬で情報が伝わるという現象が関係している。つまり、高速を越えることはできないというアインシュタインの特殊相対性理論すらも過去のものとする原理であり、従来の物質観の再考を迫るものなのだ。
このようなことを考えれば、新しい世界観の誕生が迫っていることは間違いないだろう。またそれは、確かに、従来の唯物主義を否定するものになると思われる。
しかし、問題は、現在一般の常識では、霊的なものの存在が否定されていることである。ホッペ氏によれば、ここにカプラ氏の限界があったのだが、霊的存在を前提としなければ、唯物主義を克服した先の世界観もまた唯物主義的にならざるを得ない。波動やエネルギーというような概念を用いて、姿を変えた唯物主義が生まれるだけである。
シュタイナーによれば、人類は今新しい霊的認識能力(エーテルの認識)を獲得しつつある。そしてそれによって、エーテル界に再臨するキリストを認識するようになるのだ。闇の霊達は、これを何としても阻止しないのだ。だから先手を打って、誤った霊界の認識を人類に植え付け、キリストの代わりに別の霊的存在を据えようとしているのだ。
そしてそれが、アンチキリスト(この場合、来る自身の受肉を準備しているアーリマン)の狙っていることである。
さて、上の文章に、「下自然」と「超自然」という言葉が出てきた。実はこれは、このブログで、今回の項目とは別のところで既に出てきた言葉である。先に紹介したことのあるアンドレアス・ナイダー氏の著作の書名『超自然と下自然の間の人間』そのものなのである。こちらの著作も、現代人にかけれらている闇の霊達の攻撃について論じた本だったのだ。
ホッペ氏の著作の紹介は一端これで終わり、次は、今回の項目にも関連するナイダー氏のこの本から紹介することにしよう。