k-lazaro’s note

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形態形成場理論はエーテル界を説明するか?


   以前、「物理学の基礎定数は変化する」で、ルパート・シェルドレイク氏について紹介した。

 

 彼は、ケンブリッジ大学で自然科学、ハーヴァード大学で哲学と科学史を学び、生化学の博士号を取得した。植物発生学や細胞老化の研究を行い、英国王立協会会員であるが、英語版のウィキペディアでは、「イギリスの作家および超心理学研究者であり、形態共鳴の概念を提唱したが、これは、主流の受容を欠いている推測であり、疑似科学として批判されていとある。」つまり、今の科学界では認知されていない異端児なのである。

 シェルドレイク氏の著作は、ブログで触れた『世界を変える7つの実験』(工作舎刊)の他にいくつか日本でも出版されている。いわゆる「ニューエイジ」「ニューサイエンス」系で一定の人気がある方である。

 今回は、彼が唱えている「形態共鳴の概念」に関連して少し論じてみたい。

 

 前掲の彼の著作『世界を変える7つの実験』は、平易な文章で、極めて興味深い内容が書かれている。世界を変えるとは、従来の常識的な世界観・人間観を変えると言う意味であり、「日常身辺に潜んでいる、既製の科学が見過ごしている大きな謎」を解き明かしているのだ。

 本では、その謎に関わる7つの実験を紹介している。その実験は、大規模な器具や多大な経費がかかるものではなく、一般人(読者)でも行えるようなものばかりである。

 その実験に対応して、本書は7章に分かれており、それは例えば、「ペットは飼い主がいつ家路についたかを感知する!?」とか「見つめられている感覚」「実験者の期待は結果を左右する!?」などで、その中に、以前紹介した「基礎定数は変化する!?」もあったのである。

 さて、今回触れるのは、この中の「幻肢はそこに実在する!?」という章である。

 幻肢とは何かというと、「生身の手足を失っても、その存在感覚は必ずしも失われない。もはや物質として存在していないのに、あたかもまだそこにあるように感じられる」(『世界を変える7つの実験』 以下の引用は工作舎刊、田中靖夫氏訳による)感覚である。ウィキペディアによれば「事故や病気が原因で手や足を失った人、麻癖のある人、生まれながらにして持たない人が、存在しない、または麻癖して感じないはずの手足を依然そこに存在するかのように感じること。幻影肢(げんえいし)ともいう。幻肢をもつ患者はしばしばそれを意図的に動かすことができる。 逆にそれが動かせない場合、その幻の部位に非常に強い痛みを感じることがあり、それを 幻肢痛(げんしつう)という」とある。

 さらにその原因については、「かつては、『切断面に近い神経の末端部の神経腫が刺激を発しているためである』『脊髄の感覚ニューロンが自発的に活動しているためである』と考えがあった。しかし、元々持っていた手や足を事故で失った患者の例では神経腫を取り除いても幻肢は消えず、脊髄の脳に近い部分まで損傷を受けている患者でも幻肢が起きる。このことから、そういった脳外の神経が原因ではなく、脳内の神経回路網が自発的に活動することで幻肢が生まれている、という考えが有力である」という。

 シェルドレイク氏によれば、「(手足を切断した場合)そのほとんどに幻影があり、時が経過するにつれて弱まっていくものもあるが、決して消滅はしない。・・・痛みの元凶としてずっと新鮮な感覚で残るのが普通である」という。

 それがどのような感じかというと、「切断手術を施した直後、幻影はまだ実在している者のように感じられる。脚を切断してもらった人は、もはやそれがなくなっていることを直ぐに忘れてしまう。立ち上がって歩こうとして何度も倒れてしまう人もいる」ということである。

 また、幻影が生じるのは、手足だけではない。鼻、睾丸、舌、乳房、陰茎、膀胱、直腸などでも生じるのだ。性器の場合、オーガズムを体験する人もいるという。

 普通それが生じると言ったが、例外もある。赤ん坊やよちよち歩きの幼児の場合、あるいは、ライ病患者が、病気の進行と共に指先やつま先を失った場合がそうだという。

 

 ではこれらの現象の原因は何であろうか。

 ウィキペディアは、「脳内の神経回路説」が有力であるとしているが、シェルドレイク氏は、これを批判している。この説によれば、幻影が生まれるのは、脳内に、切断部位から生じた神経インパルスを受け取ったと感じる新たな神経回路(ネットワーク)が造られるからなのだが、新しいネットワークが形成されるには、数週間ないし数ヶ月かかるが、手足とつながっている神経に麻酔をかける時には、幻影が瞬時に生じることもあることと矛盾する。

 そこで、新しい神経回路は必要でないとする説も生まれてきたのだが、それには、脳内の潜在的回路が顕在するとしたり、身体イメージは大部分が先天的に備わっている脳の神経ネットワークから生まれる(それは脳機能の大部分に関わっており、それを壊すのはほとんど脳全体を壊すことに等しい)というものなどがある。

 シェルドレイク氏は、このような説になると、いくらでも主張できることになり、「脳理論はほとんど論議不能となる」と批判する。

 では、彼自身の仮説はどうであろうか。

 先ず従来の説の限界は、それが、「縮まる心」のパラダイムの域を出ていないことにあるとする。つまり身体イメージや幻影が、脳の内部になければならないと考えているのだ。

 しかし、「心が身体の内から外に拡がるならば、幻影という身体イメージの所在を脳や神経組織に閉じ込める必要は無くなる」のだ。そして「特に、幻影は、脳の中に閉じ込められているのではなく、あると思われるところに存在として、付け根のところから投影されているのかもしれないのだ。」(これは、意識が実際はどこに存在するのかという問題に関わる。常識的には、それは脳内細胞にとなるのだが、人智学派も、シェルドレイク氏と同様にその様には考えていない。)

 そして次のように続く。

「『拡がる心』という概念は、魂が身体に浸透し、生気を与えているという伝統的な考え方に似ているが、私としては、この概念は場によって解釈することが一番わかりやすいと思う。身体は場によって組織され、そのまわりは場に囲まれている。電磁場、重力場、量子場だけでなく、形態形成場も身体の発育やその形状維持に貢献しているし、行動の場、精神の場、社会の場によって、行動や精神生活が支えられているのである。・・・そこには、個人の過去に由来する生来の記憶と過去の数限りない人々からの集団記憶が含まれているのだ。」

 こうした考えから、彼は、幻影の場を形態形成場の1つであるとする。この場は、生身のからだから外に出て、付け根の向こうへ投影されているという仮説である。

 そこでシェルドレイク氏は、これを確かめるための実験について述べているが、ここでは省略する。興味のある方は、ぜひ本書にあたってほしい。

 

 ここでシェルドレイク氏の「形態形成場」仮説について、ウィキペディアから引用しておく。

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シェルドレイクの仮説

〈概要〉

 あらゆるシステムの形態は、過去に存在した同じような形態の影響を受けて、過去と同じような形態を継承する(時間的相関関係)。離れた場所に起こった一方の出来事が、他方の出来事に影響する(空間的相関関係)。形態のみならず、行動パターンも共鳴する。

 これらは「形の場」による「形の共鳴」と呼ばれるプロセスによって起こる。簡単に言えば、「直接的な接触が無くても、ある人や物に起きたことが他の人や物に伝播する」とする仮説である。

 この仮説を肯定する人々もいる。だが、「事実上、超常現象や超能力に科学的と見える説明を与えるようなもので、疑似科学の1つ」と否定的な見解を示す人もいる。

 また、シェルドレイクは記憶や経験は、脳ではなく、種ごとサーバのような場所に保存されており、脳は単なる受信機に過ぎず、記憶喪失の回復が起こるのもこれで説明が付く、という仮説も提唱している。

〈形態共鳴の起源と哲学〉

・・・

 シェルドレイクは、形態共鳴とヒンドゥー教アカシック記録の間には類似点がある・・・ケンブリッジにいるときにこのアイデアを最初に思いついたが、後にインドに旅行して開発したと述べている。彼は、彼の形態共鳴のアイデアの起源を、生物学におけるホリスティックな伝統の研究と、フランスの哲学者アンリ・ベルクソンの1896年の著書「物質と記憶」の2つの影響に帰している。彼は、記憶は脳に物質的に埋め込まれていないというベルクソンの概念を、記憶が非物質的であるだけでなく、類似の生物の集合的な過去の記憶の影響下にある形態共鳴に一般化したと言いう。ケンブリッジの同僚たちはこの考えを受け入れなかったが、シェルドレイクはインドではその反対が真実であることに気付いた。彼はインドの同僚が「これには新しいことは何もない、それはすべて何千年も前に古代のリシ族に知られていた」と言ったと述べている。・・・

 シェルドレイクはまた、形態共鳴とカール・ユング集合的無意識との類似点を指摘しており、集合的記憶が個人間で共有されることと、ユングによってアーキタイプとして記述された反復による特定の行動の合体に関して。しかし、ユングが原型的な形態は物理的な遺伝によって伝達されると仮定したのに対し、シェルドレイクは集合的記憶を形態的共鳴に帰し、彼が「機械論的生物学」と呼ぶものを含むそれらの説明を拒否した。

――― 

 ウィキペディアでは、「アカシック記録」との類似が述べられている。これは、インドでは古代から存在した考えのようであるが、人智学派では、「アカシック(あるいはアーカーシャ年代記」(シュタイナーに同名の著作がある)とも呼ばれている。それは「精神界の境界(有形精神界と無形精神界)にあって、世界で生じたことすべての痕跡をイメージの形で保管しているもの(で)・・・アストラル光の中に、過去の人間の思考・情動を読むことができ、情動を超えた秘儀参入者の行為はエーテルの中で研究されるが、洪水などの事象はアーカーシャ年代記のみに記録されている。」(『シュタイナー用語辞典』)

 エーテルやアストラルにも記録されており、広義の意味では、これらも含めてアーカーシャ年代記と呼んでもよいだろう。

 ユング集合的無意識もそうであるが、人間の意識は、深層においてつながっているという考えがある。これは、いわゆる神秘学の一般的な思想であり、シュタイナーが以前属していた神智学においても同様である。

 

 ところで、シェルドレイク氏は、この章の中で、幻肢との関係で体外離脱について触れている。そこでは、夢と体外離脱はそっくりで、違いは睡眠状態か覚醒状態であるというくらいとし、次のように述べている。

 「神智学の文献では、明晰夢や体外離脱体験中の旅行のことを『アストラル・トラベル』、その時の身体を『アストラル体』ないし『サトゥル体』と呼んでいる・・非物質体(アストラル体)と幻肢とは驚くほどよく似ている。第1の類似点は、いずれも体外にありながら主観的な実在感があるということ。第2は、正常の身体から分離して、再びもとの鞘に収まるということ。非物質体と同じく、対麻痺患者や神経麻酔された患者では、幻肢が正常の手足から分離した後で、再びそこに入ってゆく。第3は、現実とのずれがあること。・・・神経学者ロナルド・メンザックは、・・『幻影体験は、身体がなくても起こりうる。身体はなくても身体を感じることができる、と言うことだ』(と主張している)これはまさに、体外離脱している人が体験していることである。」

 ここでシェルドレイク氏は、人間が非物質体をもっていることが、幻肢の原因である可能性を示唆し、そうした非物質体を神智学が語っているとしているのだ。

 

 ここまで読まれた読者は、既に気づいたと思うが、シェルドレイク氏の形態形成場やこうした考え方は、シュタイナーのいうエーテル体やアストラル体と共通していないだろうか。

 実際、このことについて触れている人智学派の本がある。ニック・トーマスNick Thomasという方の『エーテルを巡る戦い』という本である。この本は、現代における人類のエーテル認識の獲得を巡る状況について述べているのだが、そこでトーマス氏は、概略次のように述べているのだ。

 トーマス氏が、ロンドンでシェルドレイク氏に会ったとき、彼の形態形成場は、エーテル体と何らかの関係があるかと尋ねたところ、彼の答えは、おそらく科学的な理由から、否定的であったという。彼が言及したのは、エーテルの神智学的概念であったが、それは人智学のとは異なっている。彼は、神智学者か少なくとも神智学協会のメンバーである。彼は、彼の形態形成場とエーテルが混同されることを嫌がったのである。彼は、彼が親しんでいる神智学の エーテル概念をトーマス氏が考えていると思ったようである。彼が人智学のエーテル概念を実際に理解したなら、そこに関連を見たであろう。

 (両者のエーテル観の違いは何かというと、神智学では、エーテルアーカーシャを、空気が水より希薄であるように、それらをずっと希薄なものと見ているのに対して、人智学では、希薄な原質というだけでなく、物質性という点では、ネガティブ(反物質)であるとみていることである。)

 シェルドレイク氏は、自分の説はあくまでも科学の領域に留まるべきであり、仲間内だけの神秘的な話にしたくなかったのである。

 彼の形態形成場の概念は、幅が広く、ある観点はエーテル領域よりもアストラル領域を含んでいる。特に、時間的性格を持っている点でそうである。シュタイナーは、アストラルのアスペクトは、誕生以前の時間から我々に射し込んでいる、と語っているからである。またシェルドレイク氏も、過去から何ものかが現在に射し込み、影響を与えている、と語っているのである。

 

 このように、トーマス氏は、シェルドレイク氏の形態形成場の仮説に、人智学の考えるエーテルやアストラルとの共通点を見いだしている。

 しかし、この本では、同時に、シェルドレイク氏の説の限界も指摘している。それは、「場」というアイデアが物質主義的であること、つまり、それがまだ現在の唯物主義的科学の延長線上にあることである。それは克服されなければならない。それには、「カウンター・スペース(反空間)」という概念が理解されたときにのみ、可能となるという。

 カウンター・スペースとは何かについて、今回は触れない。自分もまだ勉強不足で、十分に理解できていないのだ。ただ、それは、エーテル界に関わるもので、太陽も、その実態はカウンター・スペースであると言われ、それを理解するカギは、「射影幾何学」にあるようである。

 

 冒頭、シェルドレイク氏は科学会の異端児であると紹介した。実際、「正統派」の科学界からは厳しく批判されており、以前のブログで紹介したように、彼の講演の動画が、ネットで検閲されたこともある。

 しかし、だから彼の説は正しくないのだと、簡単に切り捨てることはできない。トーマス氏の言うように、不十分さもあるだろうが、シュタイナーの主張との類似を見れば、人智学派としては大いに傾聴すべきであろう。

 現代科学の「常識」が正しいとは限らない。科学の歴史自身がそれを示している。

 一方で、その間違った「常識」を守りたい勢力が存在する。それが、彼らにとって利益になるからである。それには、金銭のように現世的、現実的なものもあれば、霊的なものもある。闇の霊達からすれば、真実が知られるのは困るのである。

 現代において、エーテルを巡る真実は、その中でも重要なものとなっている。人類は、再びエーテル認識能力を得ようとしているからである。おそらく科学的にも、この点での探求が進んでいくだろう。既にネットを検索しても、その萌芽が見られるのだ。

 一方では、これを阻止しようとする動きもあるだろう。シェルドレイク氏の動画を削除したように。

 それもまた「エーテルを巡る戦い」なのだ。