k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

意識が先か脳が先か?

 人の意識は、人の脳が生み出しているというのは一般的な常識であろうが、シュタイナーを初め神秘思想は、人の意識が身体を離れて存在するという立場である。このブログでも、このことに関して「意識には脳が必要か?」で取り上げている。

  例えば、臨死体験などは、意識が独立して存在することを表わす現象と考えることができるが、意識と脳の関係についての常識の再考をせまるような現象は他にも色々あるようである。

 今回は、この問題について述べている『頭(Brain Box)の外で考えるーなぜ人間は生物学的コンピューターではないのか』という本の論稿を紹介する。著者は、アリー・ボスArie Bos氏で、この本の紹介によれば、「30年以上にわたりアムステルダム総合医師として医学を実践し、現在、ユトレヒト大学で科学哲学と神経哲学を教え、一般の人々のために講義を行っている。彼は進化と神経科学に関する多くの本や記事の著者である」という。文中にシュタイナーや人智学用語はでてこないようなのだ、いわゆる人智学派ではないようだが、この本のオランダ語の原本の英訳本を人智学系の出版社が出しているので、何らかの関係はあるのかもしれない。

 ちなみに、この本には、上述の「意識には脳が必要か?」の①で触れたような、脳が大きく欠損していながら普通の生活を送っている人々の事例が幾つか載せられている。

 

 以下に載せるのは、この本の途中の中間的まとめの部分である。

―――――――

思考における脳の役割

 

「われわれは霊であると同時にオートマトン(自動人形)である。」ブレーズ・パスカル (『パンセ』)

 

 ロダンの有名な彫刻「考える人」を見るとき、私たちの第一印象は、考える人というよりむしろ筋肉質なスポーツマンを見ているようだということである。また、スポーツマンに深い思考を求めることは通常ない。これは明らかに、偏見であるが、しかし、この彫刻は一つのことを明確に示している。すなわち、本当に考えるためには、脳の活動を必要とする他のことにエネルギーを費やすことはできない。私たちは、すべてのエネルギーを思考に集中させなければならないのだ。考えることは、他の脳の仕事よりも多くのエネルギーを必要とする。スプリンターのダフネ・シッパースの言葉を聞いたことがある。「一回考えただけで、もうスピードが落ちてしまう」。明らかに、考えることは大変な作業であり、ご存知のように、脳は他の器官よりも多くのエネルギーを必要とするのだ。

 さて、思考と脳の関係はどうなっているのだろうか。・・・この章では、思考における脳の役割についての首尾一貫した図式に、それらをまとめたいと思う。

 

自動作用としての高度専門知識

  まず第一に、私は、脳は道具であり、すなわち意識の道具であるという見解について、信頼に足る説明ができたのではないかと思っている。・・・この道具は、質の良し悪しは別として、私たちの知能を決定するのは脳だからである。このことは多くの人を驚かせないだろう。

 この知性は、生まれつきのものだけでなく、私たちが何を学んだかにも左右される。これまで見てきたように、よく知られた脳の可塑性のおかげで、私たちは学習した内容で自分の脳を形成してきたのである(訳注)。興味深いのは、傷害を受けた後でも、この可塑性によって学習が可能になり、脳の回復の可能性もあるということである。このように、可塑性には、脳の機能、成長、回復を可能にする3つの働きがある。脳が意識によってどのように形成されるかは、分子レベルまで描写されている。脳は、学習だけでなく、自動化も可能にしているのだ。この点では、ビクター・ランメの言うとおり、脳はオートマトンのように機能し、私たちの自動操縦を形成していると言える。しかし、これは私たちがオートマトンであるということとは違う。この自動化という特性によって、私たちは高度な専門知識を蓄積していくのである。

(訳注)著者は、この章の前の部分で、人の経験、特に小児期と青年期の経験が脳の回路を形作り、脳を成長させることさえ刺激することを示している。ある程度まで、人は生きているだけで自分の脳を形作っているのである。つまり意識が脳をつくっているということになるのだ。後に出てきた「脳の可塑性」は、脳梗塞の患者などでよく観察される現象だが、死滅した脳細胞が担っていた機能を脳の他の部分が代替するようになるというものである。

 

 高度専門知識とは何であろうか。スポーツやバレエ、アクロバットだけでなく、音楽や商売でも、自分が専門としている分野で、素早く結論を出し、決断することができることである。このようなことができるのは、私たちがパターンに慣れ親しんでおり、動作においてもパターンを認識することができるからである。母国語で文章を話すとき、私たちは一つひとつの単語を苦労して探す必要はない。単語は自動的に出てくるのだ。・・・専門知識とは大部分がパターン認識であり、私たちの連合皮質はそれに非常に適しているのである。このように、私たちは多くのニュアンスをもって見たり聞いたり感じたりするだけでなく、何よりもパターンを認識しているのである。

 この認識プロセスの一部として、私たちはその意味について結論を出すのである。パターン認識がなければ、私たちはこの世界で迷子になってしまうだろう。自動操縦とは、Ap Dijksterhuis[オランダの社会心理学者]の本の「スマートな無意識」なのである。

 幸いなことに、私たちは自分自身の経験から学ぶだけでなく、ミラーニューロン(訳注)の働きにより、必ずしも目に見える形ではないが、他人を真似て学ぶことができる。自分が気づいているかどうかにかかわらず、私たちが他者から学ぶという事実が、文化を可能にしているのだ。そして、私たちは他者から学ぶだけでなく、同じミラーニューロンによって他者を理解し、他者の中に見えるものに似た感情を私たちの中に呼び起こすことができるのである。これが共感の基本である。

(訳注)ミラーニューロン (Mirror neuron )とは、高等動物の脳内で、自ら行動する時と、他の個体が行動するのを見ている状態の、両方で 活動電位 を発生させる神経細胞 である。他の個体の行動を見て、まるで自身が同じ行動をとっているかのように"鏡"のような反応をすることから名付けられた。

 

結論へのジャンプ

  このパターン認識は、しかし、適切でない、あるいは適用できないパターンを認識したと思ったとき、私たちを惑わすこともある。視覚的な錯覚やパーソナリティ障害を思い浮かべてほしい。最後のものは、若いころに苦痛を避けるために使った戦略が脳に「刷り込まれ」、機能しなくなったときにもそれを使うようになった結果である。Dijksterhuisは、無意識がまったく賢くないのに、間違った結論を出してしまう場合の例を示した。これまで見てきたように、このテーマを本格的に研究したのはダニエル・カーネである。彼は、このような結論へのジャンプを、意識的な思考をスローシンキングと呼ぶのとは対照的に、ファストシンキングと呼んでいる。彼はまた、システム1(速い、無意識的)とシステム2(遅い、意識的)と呼び、私たちは無意識的で速い「思考」を好むが、それは遅い「思考」は努力を要するからだと指摘した。高速思考とは、実際には全く考えず、自動的にパターンを認識し、連結を行うことであり、脳が「勝手に」行うことである。典型的な例は、もちろん偏見である。これはほとんどシステム1の定義と言えるだろう。ツイッターの例では、あまりに長い間考えすぎると、もはや最新ではなくなり、その結果、多くのツイート主が後になってから自分の反応を後悔することになる。

 私たちは皆、偏見に苦しんでいる。最も賢明でリベラルな人々でさえ、人種的な偏見を抱いていることが証明されている。しかし、だからといって、私たちの言動が偏見に左右される必要はなく、システム2に切り替えれば、偏見に従わずに済む。したがって、本当に考えるためには、脳が「断れないオファー」として出してくるものから、一歩離れなければならない。脳はあくまで道具として使うべきだ。そのためには、それなりの努力が必要なので、あまり好まれない。なぜ、努力が必要なのか?そして、一歩下がって、脳を別の物体、道具として見ることは、いったいどうすれば可能なのだろうか?

 

自我の消耗

  なぜ努力が必要なのかを研究したのは、ロイ・バウマイスターの著書『Wilower』である。彼は研究の中で、人は限られた量の自制心を持っており(ある者は他の人より多くを持っている)、そして多くの決定を下し、長時間自制心を発揮し、多くの難しい仕事をこなすうちに、この自制心が枯渇することに気がついた--これらはすべてゆっくり考えることの一形態だと見なすことができる--。これを彼は「エゴの消耗」と呼んでいる。血液検査の結果、血糖値の低下を伴っており、確かにエネルギーは必要だった。

 なぜ、エネルギーが必要なのだろう?それは、その人があらかじめ形成された回路の脚本に従うのではなく、新しい回路を形成しなければならないことと関係があるように思われる。新しいことを学ぶとき、それはゆっくり考えるという形でしかできないが、学んだことが頻繁に練習され自動化されるときよりも、脳のより大きな部分が使われる。後者の場合、必要なニューロンの数はずっと少なく、これは効率の良さの表れと見ることもできる。

・・・カーネマンによって、自制心と「ゆっくりした思考」にはエネルギーが必要であることが確認されている。したがって、バウマイスターは、脳に考えさせるのではなく、自分で考えること、つまり、脳を道具として使えるように自分から切り離すかのように、ゆっくり考えることも、自制心(意志力)を発揮して意識的に判断することも、「私」の機能として捉えている。明らかに、脳を道具として使えるのは「私」(または自己)である。

 私たちが「自己省察」する意識について語るのは偶然ではない。両脳半球の才能を発揮させるかどうかを決めることができるのは「私」である。また、脳が意図的に提案するにもかかわらず、ある程度は自分の行動を決定できる「自由意志の持ち主」であるのも「私」である。古い考えより新しい考えを好むことができるのも、「私」である。私たちは、ある者を善いと考え、他のものをそうでないと考えるからである。それが道徳を可能にする。

 これは、「私」(または自己)は脳によって作られたものではなく、意識と同様に物理的な性質のものではないことを意味しなければならないだろう。これは動物には当てはまらない。私たちは動物に自分の行動の責任を問わないからである。彼らには、脳とは異なる意志の可能性がない。動物はその生物学に従う。第9章で示そうとしたように、人間の脳だけがこの自由を提供してくれるので、私たちはその生物学を超えて上昇することができるのである。少なくとも、このためには人間の前頭前野が広く、連合皮質の先天的な自動反応と学習された自動反応とを黙らせることができる必要がある。したがって、知性だけでは責任ある行動を保証することはできない。これらはまた、「私」のある種の強さを要求しているのだ。

 

治療者と研究者

  ・・・精神科医のダミアン・デニスは、自分の患者(主に強迫性障害の患者)についてこう言った。「この人たちは確かに、本当に自分の脳になっている人たちです。通常は、その上に立って物事をコントロールする霊(スピリット)も持っているのです。」実は、これは依存症や精神病に至る様々な障害など、すべての精神疾患に当てはまることである。しかし、これらの人々にはもはや「私」がないわけではなく、彼らの楽器が何らかの理由でこの「私」に従わないということなのだ。精神病を克服することができたほとんどの人は、その時期には明らかに[私が]「存在」していたのだが、介入することができなかったのだ。脳に支配され、その結果、システム1(高速思考)が痛みを伴ってクラッシュしたのである。精神医学や心理学のセラピーはすべて、「私」、つまりデニス氏の言葉を借りれば「霊」に、再び自分の脳を支配する機会を与えるという目的に帰結する。

 例えば、うつ病の場合、その人の無価値観がシステム2によって修正されなくなったために、不可避の自殺に追い込まれるケースがある。オランダの作家ジョン・ズワーゲルマンが自殺したとき、精神科医で自殺の専門家であるヤン・モッケンストームがインタビューに答えている。モッケンストームは、20代前半に自分も自殺を意識して歩いたことがあるという。それをどう克服したか、というインタビュアーの質問に対して、彼は「私は、自分のうつ病なのではなく、私は、うつ病を“もっている”という洞察に至ったとき」と答えている。これは、「私は、私の脳ではなく、私の脳を持っているということ」と訳すことができる。これは、セラピストが患者に最初に指摘しなければならないことである。そうでなければ、その人が再び展望を見いだせるようにすることは不可能だろう。私たちが脳であると考えるセラピストには問題があるのだ。しかし、そのようなセラピストはそう多くはない。このような考え方は、主に、セラピーの実践はしていない神経科学の研究者に見られるものなのだ。

 

超自然的?

 もし私たちが物、この場合は脳でないなら、私たちは何か他のものでなければならない。では、私は誰なのか、何なのか。「私」あるいは「自己」とは何なのか?その存在は十分に信頼に足るものとなったのだろうか?「私」は科学的に証明することができない。それなら、超自然現象への扉を開いていることにならないか?どうして進化がこのようなことを引き起こしたのだろうか?生命についても、同じような問いを投げかけることができるだろう。何が生物を生んだのか、まだ分かっていない。そして、意識は?これもまた、自然科学では説明できない。そして、私たちが自分の意識を省察することができるのも、同じように謎である。物理的でないものが物理的世界に影響を及ぼすということは、その逆(物理的なものが意識のような非物理的なものを生み出すことができるという考え)とよりも超自然的ではない。そして実際に、この意識の影響は、考える力によって指揮しうるゲームや義肢という形で、日々活用されている。あるいは、この関連でさらにずっと重要なのは、カウンセリングが脳に実証可能な変化を引き起こすことができるという事実だ。

 しかし、多くの神経科学者が示唆するように、意識(あるいは「私」)は脳、例えば前頭前野で生み出されるのではないということを、どうすれば信頼できる形で説明できるのだろうか。脳が明らかに正常に機能しない状況下で、知的で自己反省的な意識の存在を目撃することができるのであれば、脳がそれを引き起こしているのではないと推定せざるを得ないだろう。バッハ・イ・リタの例は確かにこの範疇に入るが、もっと強力な例もあるので、次章で紹介することにしよう。健康な脳が意識を指示する場合には、カーネマンのシステム1が作動しているのがわかる。脳が重傷の場合に明確な意識が残っている場合、これは脳によるものではありえない。これは生物学以外の何かでなければならない。これはシステム2、つまりデニスいわく「霊」の介入であり、「自己」がここに関与していることを示すものである。

―――――――

 上の文章から分かるのは、脳と意識でどちらが先にあるのかと言えば、意識が先にあるということであろう。この先にある意識こそ「霊」である。著者が、どのような含みをもって霊・スピリットとい言葉を使っているかはわからないが、シュタイナーや神秘学の考えとの親近性を感じさせる。

 文中にうつ病等の精神疾患の問題が触れられているが、これは、その治療方法について大きな示唆を与えているように思われる。シュタイナーが語っているが、本来、霊は病にならないのだ。
 霊は、「私」あるいは「自己」「自我」とも言える。このブログでも自我の本質について触れてきたが、(真の)自我こそ霊的または神的なものである。それは、旧約聖書に見ることができる。モーセに明かされた神の真の名は、「我はありてある者」="I am Who I am"つまり、「自我」なのだ。
 霊が先にあって体(物質)を創造したのである。