k-lazaro’s note

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キリスト教芸術におけるブッダ③


サリンベーニの聖母

 この項目は、ブッダの霊的潮流がキリスト教に流れ込んでいるとのシュタイナーの主張を考察するものであり、その②では、それを裏付けるものとして、通常のキリスト教芸術学では理解が困難な絵、ブッダ風の霊的存在が描かれているグリューネヴァルトの絵を見た。

 ヘラ・クラウゼ=ツインマー氏は、その著書『絵画における二人子どもイエス』において、更に驚くべき絵画を紹介している。

 それは、ウルビーノ(イタリア、マルケ地方)のサン・ジョバンニ教会のフレスコ画である(上図)。

 この絵に描かれているのは、女性のようであるが、光背を背に持ち、脚を組み、両手は印を結んでいるように見える。我々日本人には、まさに仏か菩薩のように見えないだろうか。

 この絵について、クラウゼ=ツインマー氏は、先ず次のように述べている。

 

 「(ウルビーノの)多くの訪問者は、見物先をラファエロの生家とドゥカーレ宮殿に限っている。彼らは、それにより第3の宝物、即ち、を見逃している。それは、サン・セヴェリーノのサリンベーニ兄弟(訳注)によるフレスコ画によって飾られている。その主なものは、洗礼者ヨハネの生涯についての大きなシリーズもので・・・ある。

 ・・・その空間の正面の壁は、その全てを磔刑の光景に支配されており・・・その前にかつて洗礼盤があった洗礼者〔ヨハネ〕の立像の左右に、二人の聖母がおり、それぞれその両側に、二人の聖人-そのうちの一人はそれぞれ洗礼者である-が立っている。」

 

〔訳注〕ロレンゾ・サリンベーニ(サン・セヴェリーノ・マルケ1374-1418年頃)とヤコポ・サリンベーニ(1370 / 80-1426年後)の兄弟で制作した。その作品の多くは、故郷のサン・セヴェリーノマルシェとその周辺の教会にある。

 

 サン・ジョバンニ教会は、この都市の洗礼教会(ラファエロもまたここで洗礼を受けた)で、その名の通り、洗礼者ヨハネに献げられた教会である。この絵は、2枚ある聖母子の絵の一方のものなのである。

 上に載せた絵は実はこの絵の一部を切り取った(そして細部があいまいになっている)絵であった。次に、この絵のより鮮明な全体像を下に載せる。

 これではっきりわかるように、聖母の膝の上にはイエスが、両脇にはヨハネともう一人の聖人がおり、聖母のオーラの上部にはキリストが描かれており、この絵は、紛れもないキリスト教の聖母子像なのである。

 しかし、この絵は、通常の聖母子像からはあまりにもかけ離れている。この「東洋風」で、一見して「子安観音」のようなこの絵こそ、ルカ・イエスに漂うブッダのオーラを表現している絵であるとして、クラウゼ=ツインマー氏は、この絵について次のように解説している。

 

 「二つの聖母のフレスコ画の右側には、語るべき特別なことは何もない。それは、黄金のユリの紋様の付いた青いマントを付け、赤い衣服を着た、高い玉座に座っている聖母を描いている。典型的なウンブリアの筆により、王族的雰囲気が強調されるべきこの場面ですら、強力な威厳ではなく柔和さと内面性が聖母の本質に結び付けられている。

 左の聖母に目を向けると、先ず、この絵は、全く特別で、その“東アジア的”とでも言うべき魅力を言い表す言葉がないと人は思わざるをえない。しかしその際、それは、全く西洋の絵画であり、その上に、この秘密の僅かな気配が、(逆説的に表現すれば)組み入れられた伴奏音楽のように広がっているのである

 この聖母は椅子に座っているのではない。彼女は、雲の上に腰を下ろしているインドの神々のように、あるもの-その上に彼女の着ているベールが掛けられている、地面から突き出た平たい鉢のような岩塊かもしれない-に座っているのである。彼女の片方の足は、鋭角に折りたたまれて地面と水平に置かれ、その覆われた膝が見える。もう片方の足は、もっと高くなっており、その上に、小さな頭を母親の胸に押し付けて眠っている子どもをのせている。この子どもの頭の後ろで、聖母の手は、その個々の指により、優美であるが、明確な仕草を作っている。接した親指と中指により開いた円が形作られており、それを保護する様に伸びた指が添えられている。この特徴的な仕方により、彼女は、手の平を内側に向けて、東洋の瞑想する姿を思い出させる仕草で、子どもの頭の背後のエーテルの息吹をこの上なく繊細に守り、包み込むかのように、子どものほとんど見えないベールをつまんでいるのである。

 ところどころ赤く輝いている黄緑色の彼女の衣服は、植物のような文様が散りばめられているが、しかし、すべてが霞みがかっており、息吹が感じられ、エーテル的である。彼女は、閉ざされていない自然の中で座っている。彼女の背後の木の葉を通して、黄金の天使が輝いており、従って、インドの“オーム”(訳注)、神的で聖なる世界の息吹が、そのすべての秘密とともに、そこになお、ささやき、漂い、輝いて存在している木を、彼女は後ろにもっているのである

 

(訳注)インドの諸宗教や仏教で神聖視される聖音・真言。音韻的には、A・U・Mに分解され、宇宙の根本原理を象徴するとされている。祈りや瞑想時に唱えられる。仏教では、阿吽(あうん)と表記されるが、その意味は万物の初めと終わりである。ちなみに、聖書によれば、「言葉(ロゴス)」(ヨハネ伝1:1)であるキリストは、「アルファにしてオメガ」(ヨハネ黙示録1:8)(即ち最初にありまた最後にあるものという意味)であるとされる。

 

 予感しながらこの魂を貫くものは何か、菩提樹の下のブッダのように、始めと完成が自身の中で円環を形成するのを感じている、この聖なる女性のからだを満たすものは何か。彼女の頭の光輝が、これを私達に示している。それは黄金ではなく、彼女の肩から発して円弧を描いて頭を取り囲んでいる、微妙な色彩の陰影をもった球状の層である。それは、12人の男性-12弟子―の胸像が描かれたメダイヨンのような12の小さな円を、周囲のバラ色の輪の中に包含している。しかし、彼女のオーラはその頂点で、復活したキリストが勝利の旗をその中で掲げているきらびやかな円によって開かれている。

 そのすべてがこの聖母のオーラの中に含まれている。彼女は、眠っている子どもを見守る一方で、復活祭の勝利に既に照らされている-それはミッションの最初と最後である-。悲痛と十字を予感し悲しんでいる聖母ではなく、完全に、霊的目的と(彼の息子にお供する弟子達によって)カルマ的関係の中に入り込んでいる聖母である。

 その特徴を一言であえて表現するなら、次のようになる。ここにあるのは、インドの雰囲気に包まれ、それをほのかに発しているような、私達には「聖母像」として知られる、親密な母子統一体、である

 エス誕生の500年前に、彼以外の地上の人間の誰もそれを発展させ、人類に送ることができなかったような慈悲と愛の衝動をブッダは形成した。この諸力は更に保持され、地上の縛りを解かれて霊的世界に拡張された。それは、霊的な光の雲のように現れ、ルカの子どもの誕生に参与した。それは言わば、このたぐいまれな子供に、この人類のこの上なく純粋な衝動を引き渡すための霊的な揺り籠であった

 ここに述べられたルドルフ・シュタイナーの説明を彼自身の言葉で知る者は、一層深い驚きと様々な問いをもって、ウルビーノの聖母の繊細な魔法の前に佇むだろう。」

 

 聖母の光背にある12の化仏(けぶつ:小さな仏像)のような像は、12人のイエスの弟子達であった。しかし、12弟子としても、聖母のオーラにこのように描かれているのは珍しいことであるように思える。作者は、聖母とこの弟子達の何か特別な関係を示唆しているのだろうか。

 今回は、この点については深く触れないが、シュタイナーによれば、キリストを取り巻き、キリストの教えを人間に伝える12の菩薩(ボディサットヴァ)が存在するという。この絵からは、その東洋的雰囲気により、この12の菩薩も連想される。秘教において、「菩薩の総体」はソフィアと呼ばれるが、マリアは時にソフィアとも呼ばれるのである。

 
 最後に、仏教とルカ福音書との関係についてのシュタイナー自身の言葉を引用しておく。

 「霊的探求は、いかに仏教的世界観がルカ福音書の中に流れ込んでいるかを示しています。ルカ福音書から人々に流れてくるものは仏教だと言うことができます。・・・ルカ福音書の中には、霊的実質が感情に特定の仕方で作用できるように包含されています。・・・仏陀の応身の中に存在したものが洗礼者ヨハネの自我の中にインスピレーションとして作用しました。自らを羊飼い達に告知したもの、ナータン系のイエスの上で漂っていたものが自らの力を洗礼者ヨハネの中に及ぼしました。洗礼者ヨハネの説教は何よりも仏陀の説法の復活です。」(「ルカ福音書」講義 西川隆範訳)