k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

キリストと菩薩

 本年もよろしくお願いします。

 さて、今年はうさぎ年ということですが、うさぎは洋の東西を問わず縁起の良い動物とされており、飛躍や災害回避などの意味があるようです。その通りの年になれば良いのですが、どうも混迷が更に深まりそうな気配があり、不安も覚えます。
 しかし、シュタイナーは、恐れや不安を抱くことの無意味さ、マイナス面を説いています。恐れや不安を抱かないようにすることが大事だというのです。そのため、「私たちは、来るかもしれないすべてのものに対して、絶対的な平静さをもって前向きに考えなければならない。そして、どんなことが起きても、それは知恵に満ちた世界の導きによって与えられたものだとだけ思わなければならない。それは、私たちがこの時代に学ばなければならないことの一部である・・・」という、瞑想のための言葉を残しています。

 今は、悪が支配する時代のようですが、悪は、そもそも人間が霊的に成長するためにこの世に現われたものであり、実際、逆境を乗り越えることで人は成長します。シュタイナーは、英智に溢れた霊的存在の導きを信じて、勇気を持って、また平静な心で世界の荒波に向かっていかなければならないとしているのです。
 今年も、心が鍛えられる年になりそうです。そのために役立つ情報を今後も発信していければと思います。 

   さて、新年最初の記事は、キリストと菩薩の関係を巡るものです。

             *     *     *
 「キリスト教芸術におけるブッダ」で、ブッダ及び仏教のキリスト教への影響をみた。(釈迦)ブッダは涅槃後、地上に肉体を得ることはなく、霊体の状態で引き続き人類の指導にあたってきたのだが、ルカ・イエスの誕生にも関わっていたのであった。イエスを取り巻くオーラの中に仏陀が存在したのである。

 この項目の③では、ウルビーノの聖母子像を紹介した。それは、仏教の影響を感じさせる不思議な絵であった。聖母子を囲むオーラ(光背)にイエス・キリストの12弟子が配されているのである。

k-lazaro.hatenablog.com

 その絵について、最後に「シュタイナーによれば、キリストを取り巻き、キリストの教えを人間に伝える12の菩薩(ボディサットヴァ)が存在するという。この絵からは、その東洋的雰囲気により、この12の菩薩も連想される。秘教において、“菩薩の総体”はソフィアと呼ばれるが、マリアは時にソフィアとも呼ばれるのである」と書いたが、今回はこれに関係する論考を紹介したい。

 

 その前に、「菩薩」という言葉について簡単に補足しておきたい。ウィキペディアには「菩薩とは、ボーディ・サットヴァの音写である菩提薩埵(ぼだいさった)の略であり、仏教において一般的には、菩提(bodhi, 悟り)を求める衆生(薩埵, sattva)を意味する。仏教では、声聞や縁覚とともに声聞と縁覚に続く修行段階を指し示す名辞として用いられた」とある。簡単に言えば、仏陀になる前の段階にいる修行者なのである。ただ普通の修行者ではなく、特に将来仏陀になることを定められた者とも言えるようである。

 この意味での菩薩はあくまでも人間なのだが、複雑なのは、すでに悟りを得ているにもかかわらず、自身の成仏を否定し、衆生の救済のため活動する菩薩もいるのだ。「これは仏陀自身の活動に制約があると考えられたためで、いわば仏陀の手足となって活動する者を菩薩と呼ぶ。この代表者が、釈迦三尊の文殊菩薩普賢菩薩である。彼らは、釈迦のはたらきを象徴するたけでなく、はたらきそのものとして活動するのである。他にも、観世音菩薩、勢至菩薩なども、自らの成仏とはかかわりなく、活動を続ける菩薩である。」(ウィキペディア

 こちらの菩薩となると、それ自身が信仰の対象ともなっており、むしろ神霊的存在として人間を超越していると言えるだろう。

 このように菩薩は、不思議な位置づけをもっているのである。

 

 ブッダがキリストと関係するように、菩薩も関係する。このことを論じたのが、オーストラリアの人智学者、エイドリアン・アンダーソン氏である。彼は、やはり「ウルビーノの聖母子像」をもとに論じているのだ。今回は、彼の著書『Rudolf Steiner about Leonardo’s Last Supper, the Zodiac and the cosmic Christ』から関係部分を紹介する。この本は、もともとキリストの12弟子と天界の12の星座(黄道十二宮)との関係を、レオナルド・ダヴィンチの「最後の晩餐」を元に論じているのだが、それに関連するテーマとして取り上げられているのである。

―――――――――

第六章 弟子と菩薩:ウルビーノの菩薩像

神秘的な絵画

 イタリアに、12弟子と東洋の知恵の菩薩のテーマについて考えさせる、実に驚くべき難解な絵画が存在する。この「菩薩」という言葉はサンスクリット語で、ヒンドゥー教や仏教で神聖視され、深く崇められている存在を意味する。深く神聖で、慈悲深い魂、半神的な存在とみなされ、さらに進化して仏になる、つまり高い悟りの境地へと旅立つ高尚な魂なのだ。しかし、その慈悲は、高次の世界での至福の存在を捨て、地上を訪れ、人類が悟りの道を見つけるのを助けるほど深いのだ。

 しかし、イタリアにあるこの絵の隠された秘教的な意味を十分に理解するためには、特に最近の修復作業で傷んでいるため、慎重に探索する必要がある。鑑賞してみよう。・・・人は、当然、これを東洋の絵画とみるでだろう。これは、ヒンドゥー教、あるいは仏教のいかなる女神だろうか?あるいは、この人物はいかなる霊的徳を表わしているのだろうか? というのも、この人物は擬人化、つまり精神的な資質の象徴である可能性があるからだ。手がかりは与えられている。東洋美術で「ムドラ」-手や体のしぐさで、見る人にその女神の主な特徴を伝えてるもの-と呼ばれるものを示しているからだ。彼女が示しているこのムドラは、「ヴィタルカ・ムドラ」と呼ばれるものです。このムドラは、菩薩に課せられた課題である討論や教育の意味での「教示」または「教育」を意味しする。・・・

 そして、彼女の頭の周りには、一種のオーラが形成されており、我々は、12人の菩薩を見ているようである。東洋の経典の中には、12人の菩薩がいると説くものがある(例えば、8世紀初頭の中国の経典『円覚経』《あるいは『完全な悟りの経典』》)。ルドルフ・シュタイナーは、12人の菩薩がいると教えたが、これらは12星座の影響を反映していると結論づけるのが妥当だろう。いずれにせよ、12という数字は、東洋の宗教において菩薩と関連している。東洋の経典の中には、菩薩を取り巻く主人を形成する12の神々、菩薩が処方する治癒への12のステップ、または精神的な旅で行われる必要がある12のステージに言及するものがある。人智学からは、菩薩をどのように理解すればよいのだろうか。

 

菩薩たち

 まず、ルドルフ・シュタイナーがこれらの高位の人について語った2つの講義の抜粋をみてみよう。 

 菩薩とは、進んだ人間であり、完全に形成された霊我(訳注)を持ち、その人の中にブディあるいは生命霊の最初の閃光が発達している人です。菩薩は、その意識が、過去世から引き出された内なる知恵(そのことを知っている意識)に完全に貫かれている人間です。

(訳注)霊我とは、人間が霊的発達を遂げると生み出すことができるとされる霊体の1つ。アストラル体に自我が働きかけて変容したもの。生命霊はエーテル体が変容したもの。

 もし、非常に高度な人(菩薩)が、高次の世界での経験から得た霊性の新しい源を地上の領域に入れるように働かけないなら、人間はその生涯において、実際に霊性の潜在能力をさらに進化させることはできないでしょう。死と再生の間に、人間はより高いデヴァーチャン(霊界の一部)(理性の世界)へと昇っていきます。そこで人間は、もし彼が秘儀参入者であれば、より高い領域、彼自身が入ることのできない領域を見て、そこで高次の存在とそれらがどのように作用しているかを見ることができるのです。通常の人間が、肉体の次元からデヴァーチャン(霊界の一部)(死後に)までの領域で自分の存在を過ごすのに対して、菩薩はブディ(より高次の霊界)の次元、あるいはヨーロッパで我々が「摂理」の領域と呼ぶものにまで及ぶのです。

 そこで今、部分的に不明瞭なこの絵を見ると、この女性像は誰か、あるいは彼女は何を意味するのか、という疑問が湧いてくる。この東洋の人物は、12人の弟子たちとどのようなつながりがあるのだろうか。この疑問に答えるには、絵の全体像を見た上で、菩薩、聖霊、太陽神キリスト、12人の弟子の間の関連についてもっと知る必要がある。では、この絵は何であろうか。絵の全貌から明らかなように、これはキリスト教の芸術作品である!この女性像の両脇に、キリスト教の聖人が二人いることに驚き、これはインド絵画ではなく、西洋の芸術作品であることがわかる。特に、中央の人物の膝の上に、かすかにだが、幼いイエスの姿が見えるようになっている。では、この絵は何なのだろうか。1416年、イタリアのウルビーノにあるサン・ジョヴァンニ修道院で、ロレンツォとヤコポ・サリンベーニによって描かれた「洗礼者ヨハネの生涯」という大きな連作フレスコ画である。・・・

 どうしてそんなことが可能なのだろうか。キリスト教の宗教画が、たとえ控えめであっても、菩薩や女神、あるいはヴィタルカ・ムドラを持つ徳の擬人化を描くことができるのだろうか。実は、ルネサンス期の絵画には、キリスト教の高位秘儀参入者のインスピレーションを示す、深い秘教的な絵画が多く、サリンベーニ兄弟は、この不思議な現象において卓越した存在なのである。この二人の画家は、ラファエルやレオナルドと同様に、霊的な源からインスピレーションを受けて、神聖で深い秘教的なテーマを描いた。例えば、彼らは二つのイエス系図をテーマに驚くべき場面を描いた。ルネサンス期の書物には、これらの絵についての説明はない。レオナルドの「最後の晩餐」の背後にある思想と同様に、これらはキリストの秘儀の参入者からのインスピレーションによるものである。

 では、この絵には何が描かれているのだろうか。歴史的な視点からすると、我々が見ているのは、聖母マリアが、金色の輝きに包まれている幼子イエスを膝に乗せている姿である。一方、神の子羊を告げる巻物を持つのは洗礼者ヨハネであり、その左側には別の聖女が描かれている。彼女のヴィタルカ・ムドラの仕草は、実はいずれもイエスを直接指し示している。しかし、彼女自身は坐ったまま宙に浮いているように描かれている。・・・彼女のドレスには多くの星が描かれており、宇宙や星座の叡智を表しているように見える。彼女の頭の周りには、驚くべきオーラと光輪があり、その頂点には旗を持って凱旋するイエスが、残りの光輪は12人で構成されている。この12人は当然ながら12人の弟子と考えられている。

 さて、完全に形成された霊我が、古代ギリシャでは「ソフィア」の位として知られていることは、すでに見たとおりである。ルドルフ・シュタイナーは、「ソフィア」の位とは「私たちの世界の擬人化された全智恵である」とも定義できると説いた。したがって、ルドルフ・シュタイナーが、「菩薩は、私たちの世界の擬人化された全智恵の器である」と教示したのは、非常に意義深いことだ。東洋と西洋の間のギャップが埋められようとしているのだ。また、彼は次のように説明している。

 霊我の段階に存在する霊性は、キリスト教の秘教的知識では、「聖霊」の現れと見なされていました。

 したがって、古い言語では、秘儀参入者、特に菩薩のことを「聖霊に満たされた者」と呼ぶのです。

 この言葉は、キリスト教以前の時代におけるこの言葉、あるいは非常によく似た言葉の用法を知ると、それほど驚くことではなくなる。例えば、ルドルフ・シュタイナーは、次のように説明している。

 小アジアでは、イニシエーションを受けた者は、その魂に何らかの『霊性』を有すると理解されていた。つまり、彼らは今、通常のアストラル性よりも高いものを持っており、さらに、この霊我の性質は聖霊に満たされていると理解されていたのです。

 しかし、我々のテーマに非常に関連することだが、別の機会に、そして間違いなく聴衆が驚いたのだが、ルドルフ・シュタイナーはこう説明した。

聖霊はまた、12菩薩の総体として定義することができます。

 ここに、秘教的キリスト教の根底にある、2千年以上にわたって作り上げられた人工的な障壁を取り除いた、コスモポリタンまたは非宗派的な見解を見ることができる。これらの啓示は、菩薩が宇宙的なキリストの現実の一部を形成していることを意味している。実際、ルドルフ・シュタイナーはこのことを詳しく説明している。ここで重要なのは、1909年10月25日に行われた彼の講義「キリストのインパルスと自我意識の発展」から、彼の言葉を考えてみることである。

 キリストは、宇宙の反対側、つまり、デヴァーチャンを超えた高次の領域から、人間の本性に効力を発揮するのです。キリストは、菩薩たちが地球の領域から離れるときに昇る領域、つまりブディ次元に作用します。彼らは、人類の教師となるために、自ら学び、知恵を得るためにそこに昇るのです。そこで彼らは、その領域の向こう側から降りてくる宇宙キリストに出会います。そして、彼らはキリストの弟子となります。キリストのような存在は、12人の菩薩に囲まれています。12人以上ということは言えません。12人の菩薩が自分の使命を成し遂げたなら、我々は、地球存在の期間を完成していなければならないからです。

 

キリストはかつて地上におられました。地球に降り、そこに住み、そこから昇られました。彼は、別の側からやってきます。彼は、12人の菩薩の中にいる存在で、彼らは地上に運ばなければならないものを彼から受け取ります。そこで、彼らは教師としてのキリストに出会い、彼を完全に意識するのです。菩薩とキリストの出会いは、ブッディ次元で行われます。人々がさらに進歩し、菩薩たちによって教え込まれた資質を発展させたとき、その領域に入り込むのに、より一層ふさわしい存在になるでしょう。その間に、人々は、キリストがナザレのイエスという人間の姿で受肉したこと、キリストの個性の真の存在に到達するためには、まずその人間の姿に理解を浸透させなければならないことを学ぶ必要があります。

 このように十二菩薩はキリストに属し、キリストがもたらしたものを、人類文明の進化における最大の衝動として準備し、さらに発展させています。私たちは12人とその中の13番目の者を見ます。私たちは今、菩薩の領域に昇り、12の星の輪に入りました。彼らの真ん中には太陽があり、彼らを照らし、温めています。この霊的な太陽から、彼らは生命の源を引き出し、その後、地球に運ばなければならないのです。

 上で起きていることは、地上ではどのように表現されるのでしょうか。それは、次のような言葉で表現できるように、地上に投影されるのです。かつて地球に住んでいたキリストは、この地球進化に衝動をもたらし、菩薩たちはそのために人類をあらかじめ準備し、そしてキリストが地上進化にもたらしたものを更に発展させなければならなかった、と。従って、地球上の絵は、次のようなものなのです。キリストは地球進化の真ん中におられ、[その周りの]菩薩はその先遣隊、従者として、キリストの仕事を人々の心と体に近づけなければならないのです。

 多くの菩薩は、こうして人類を準備し、キリストを受け入れるために人間を成熟させなければなりませんでした。人々は、彼らの中にキリストをもつには十分成熟していましたが、キリスト存在のすべてを認識し、感じ、意志するまでに十分に成熟するには、長い時間がかかるでしょう。キリストを通して人類の生命波に注がれたものを人類の中で成熟させるには、キリストの到来を人類に準備させた菩薩と同じ数の菩薩が必要でしょう。彼の中にはあまりにも多くのものがあるので、彼を理解するには、人間の力と能力は、増大し続けなければならないのです。人間の今の能力では、キリストの微々たるものしか理解できないのです。人間にはより高い能力が生まれ、それぞれの新しい能力がキリストを新しい光で見ることを可能にするのです。キリストに属する最後の菩薩がその仕事を終えたとき、初めて人類はキリストが本当は何であるかを理解します。その時、人間は、キリスト自身がそこに生きる意志に満たされるでしょう。キリストは、思考、感情、意志を通して人間の中に引き込まれるでしょう:その時、人間は本当に地上におけるキリストの外面的表現となるのです。

 生命霊が発達し始めた菩薩、あるいは聖霊の秘儀参入者を太陽神と結びつけるこれらの教えは、別の場所にある短い文章で肯定されている。

 菩薩はキリストの周りに集い、宇宙的キリスト-太陽神キリスト-を見つめるという深い至福を味わうのです。

 最後に、12人の菩薩の使命について、次のような言葉がある。

 人類の進化の過程で、新しい倫理的資質が生まれますが、そのような新しい能力が発達するたびに、まず偉大な人物によって地上に顕現されなければなりません...これにより、人間の魂に新しい能力が生じる可能性が生じます...この偉大な魂が菩薩なのです。これらの菩薩はどこから彼らの特別な高い精神的な資質を得ているのでしょうか。デヴァーチャンの上にあるブディ次元で上記の高い、これらの高次の集団の真ん中で王座にいる存在、彼らの教師であると同時に、すべての光と彼らに流れ込むすべての知恵の尽きない泉である存在...キリストです。

 私たちは、12弟子がそれぞれ黄道帯のエネルギーと深く結びついていることを学んだが、イスラエルの12部族が黄道帯であることもまた明らかである。ルドルフ・シュタイナーは、創世記26章4節でアブラハムに語られた「わたしはあなたの子孫を天の星のように多くする」という言葉(これはもちろんイスラエルの12支族を指している)が、実際にはこれらの支族が黄道帯の力の反映であるという意味であると説いている。ルドルフ・シュタイナーは、「天の星のように」というのは、実際には「黄道十二宮の12星座に従って」という意味だと説明しているのだ。イスラエルの支族と弟子達は共に、宇宙的キリスト実在の一部なのである。

 

 ルドルフ・シュタイナーはこのことを強調していないものの、単に「...そして12個の星の輪に入った」(ここでの強調は私、AA.)と述べているが、12菩薩自身は星座の影響の器である。しかし、これは、彼が以前に一度、黄道について使った省略された表現である。

 このように、人間は毎晩、宇宙全体、惑星の動き、星座と自分を結びつけている...毎晩眠りにつくと、人間は12の星すべての中で自分を体験するのである。さて、これらの経験は非常に複雑である...あなたが、獣帯の星座のたった一つの中で経験することは...

 ゆえに、12人の弟子は12人の菩薩に、そして両者は黄道帯につながると理解することができる。どちらも太陽神の謎の一部であり、それによって黄道帯のロゴスにもつながっている。それが、宇宙的キリスト実在であるから。これらの可能性は、ウルビーノの驚くべき絵画作品に関連している。

 

ウルビーノ絵画の秘密

 明白なレベルでは、当時のローマ教会が要求していたように、イエスを膝に乗せた聖母マリアと、彼女の頭の周りにいる12人の弟子たちが描かれ、イエスは再び勝利の身振りで描かれている。しかし、秘教的なレベルでは、そこに聖霊が存在している、ソフィア位階、あるいは菩薩の霊我意識を擬人化した人物像がエーテルに浮かんでいるのである。これこそが、神聖な人間であるイエスの魂の「母」、つまり母体なのである。それは、ラザロ・ヨハネ(訳注)がイニシエーションによって到達し、そして後にイエスの十字架においてより高いレベルへと引き上げられたのと同じ聖霊、あるいは霊我状態である。これが、ヨハネによる福音書(19:25-27)の十字架刑の描写が触れていることである。

(訳注)シュタイナーによれば、ヨハネ福音書の作者であるヨハネとは、キリストにより蘇ったとされるラザロに他ならない。彼は、イエス・キリスト磔刑の場所に、聖母マリアと共にいたのである。

 

ヨハネ19:25 イエスの十字架のそばに、彼の母、母の妹、クレオパスの妻マリア、マグダラのマリアが立っていた。

19:26 イエスはそこにいる母親と、近くに立っている愛する弟子を見て、母親には "親愛なる女よ、ここにあなたの息子がいます "と言い、

19:27弟子には "ここにあなたの母がいます "と言われた。そのときから、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。

 

 ルドルフ・シュタイナーは、十字架の下の場面は、通常の人間的なレベルでは、イエスがマリアの世話をラザロ=ヨハネに託しているが、秘教的なレベルでは、イエスが自身の存在の一部である神のソフィア性質または聖霊性質をラザロ=ヨハネに授けたことを語っていると明らかにしている。この解釈は、福音書の中で、ヨハネが、イエスの母を決して「マリア」と呼んでいないこと、なぜなら彼はソフィアまたは霊我性質を指していることからも、肯定される。この絵は、彼女の頭を取り囲んでいる、この神的な聖霊の実在の中にいる12人の菩薩を描いているのである。彼らのインスピレーションは、その現存の中で彼らが崇拝の念を抱いている、より高次の存在である。つまり、ここでは力を獲得した存在として描かれているイエス・キリストである。そして、赤ん坊のイエスが大人になったとき、菩薩のすべての教えの源であり、すべての知恵である彼は、求めているすべての人のために、聖霊あるいはソフィア性質への道を開くという偉大な使命を引き受けるのである。

 

 ここで考えてきたことから、12弟子がすべて12菩薩の器となるかどうかという疑問が生じる。私は、これがこの状況の真実である可能性が非常に高く、ルドルフ・シュタイナーがこのことを確認しているように見える、と結論づけた。彼は、仏陀ゴータマ・シッダールタがキリストの謎と非常に密接に結びついていることを明らかにしているからである。聖ルカ福音書の講義の中で、ベツレヘムの最初のクリスマスの夜、羊飼いたちが体験した、天使たちの喜んでいる不思議な光景は、実はゴータマのニルマンカヤ(あるいは霊我)に関連する霊的光輝の一部であったと明かしている。このことは、12人の弟子たちが、一種の「天の軍団」として宇宙的なキリストを取り囲む、栄光の12人の菩薩の一部であることを事実上確証しているのである。

――――――――

 以上の文章を理解するには、多くの予備知識が必要であり、私も十分に理解しているとは言えない。

 秘教で言うキリストの「母」とは、ソフィアであり、それは霊化され、聖霊に満たされたアストラル存在でもあるのだ。そして、「聖霊はまた、12菩薩の総体」でもあるという。
 しかし、一方で、菩薩はキリストから霊感を受けて、それを人類に伝える指導者でもあるという。
 つまり、一方で聖霊の一部を構成する霊的存在とされ、他方で、「地上で」人類を導く教師とされているのだ。この菩薩の両義性を理解するには、更に研究が必要である。
 ただ、文章全体を通して、キリストと仏陀、菩薩との間には、神秘的な深い関係があることが感じ取れただろう。

 ところで、前に挙げた菩薩の他に、弥勒菩薩という菩薩がいる。仏教の教えでは、ゴータマの入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、衆生を救うとされる菩薩である。実は、この菩薩にはついては、人智学派でも色々論じられているのだ。シュタイナーによれば、この菩薩は、実在し、未来においてキリスト存在の真の意味を人類に伝えるとされているからである。

 菩薩であるので、時々地上に暮らしているはずであるから(世紀毎に地上に受肉しているようである)、それは誰なのかという議論があるのだ。当然、シュタイナー自身がその候補者の一人となるのだが、シュタイナーはそれを否定したという。

 しかし、秘教においてマスターと呼ばれる者達は、「菩薩」であるとも考えられるのである。