k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

獣の世界的イデオローグ

ユヴァル・ノア・ハラリ

 シュタイナーは、現代の危機の根源は、人類が唯物主義的思考に染められていることにあると見ていた。唯物主義的傾向は、人類の進化の上で必要であったのだが、その進化を阻止しようとする霊的勢力の働きもあって、人類は、唯物主義の奈落にそのまま落ち込んでしまうようになったのだ。
 今は、霊などを語れば、「オカルト、トンデモ」とされ、おおかた否定的反応が返ってくる。唯物主義的傾向をもった本や情報が多数派であり、世のベストセラーも、ファンタジーや小説ではなく学術的著作であるなら、「唯物論的科学」にそったものが主流である。
 本来は、物質的世界は真の世界の一面でしかないのだが、そうした本により物質的世界しか存在しないと思わされているのである。そしてその背後に、そうさせている力が働いていると考えることもできるのだ。 

 今回は、『ヨーロッパ人』誌からイスラエル歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏に対する批判的論稿を紹介する。

 ハラリ氏は、世界的ベストセラー『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』、『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』の著者である。日本でもよく売れた本なので、知っている人も多いだろう。

 私自身は、その名前と彼の本については新聞の広告で知ったくらいで、その本を読んだことはない。ただ、人智学系のトランスヒューマニズムに関する本を少しかじったときに(途中で挫折中)、ハラリ氏の名が出てきて、世界的ベストセラーなのに彼の本が批判的に語られているので、当時は少し不思議に思ったものであった。

 その後、トランスヒューマニズムのつながりでグレート・リセットなどの言葉も知るようになり、一緒にコロナ問題の周辺を追っていると世界経済フォーラム(WEF)なる名前が頻繁に目に飛び込んでくることとなった。そこに共にハラリ氏の名も登場するようになって、ようやくその辺の事情が分かってきたところである。

 ハラリ氏は、WEFのアドバイザーを務めているのである。

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獣の世界的イデオローグ

 イスラエル歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは、人間の本質とその未来について、現在、世界の思想市場を席巻しており、今、世界で最も影響力のある知識人の一人とみなされている。世界中の有力政治家が顧問として相談し、「世界経済フォーラム」では、人類の未来がどこに向かっているのか、あるいは向かっているのかを解説している。彼は、人類の歴史を完全に唯物論的に、高等動物の純粋な生物学的・心理学的過程とみなしている-彼らの神々は想像の中にのみ存在する-。しかし、人工知能遺伝子工学との融合により、エリートは「ホモ・デウス」にまで上り詰めるが、大勢は役立たずで、余分な存在になってしまうだろう。

 人類の未来は、人工知能やバイオテクノロジーなど、これまで以上に高度な技術を開発することで、これまでの仕事をどんどん代替することが可能になり、ほとんどの人が役に立たない、余分な存在になっていくというハラリの説は、前回**ですでに扱ったとおりである。21世紀初頭になると、"単純に人口の大部分はもう必要ない "という時代になっているというのだ。

 世界的に強いインパクトを与えているユヴァル・ハラリとは、どのような人物で、どのような考え方を持っているのか。

 

類人猿からの進化

 ハラリは歴史書『A Brief History of Mankind(サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福)』で世界的に有名になったが、この本は全世界で2300万部以上売れたという。人類の始まりから今日の「地球の支配者」までの発展を、純粋に外的な、唯物論ダーウィン的な方法で記述しているのだ。Wikipedia1がその概要で書いているように、250万年前に人間のような生物が6種類存在し、そのうち生き残ったのは1種類だけだった。現在のホモ・サピエンスは、約15万年前に東アフリカのサル科から進化したが、その歴史は7万年前の認知能力の発達から始まったばかりである。- この発達は、純粋に物質的な観点から、しばしば新しく特異な解釈で記述されている。

 人は、時間データも、類人猿からの子孫説も、解釈も、知見ではなく、仮定、推定、信念であることを認識しなければならない。動物が次々と高度に発達し、最終的に類人猿から人間への移行を観察できた人はいない。猿と人間の身体的な類似性から、ある時点で猿から人間へのさらなる発展があったと推論されているにすぎないのだ。-

 しかし、動物は、人間の連続的な発達の様々な段階で、心魂的な一面性として分離されて残った、最後として類人猿が、ということも考えられる。(訳注)

 

(訳注)人智学では、人間が進化するために捨てられた人間の性質の一部を担った存在が動物であると考えている。例えば、人間が知恵を得るには、馬を放出する必要があったという。

 

 もちろん、これは1つの主張に過ぎないが、多くの人々の行動がこれを明白に思わせるものであったとしても、猿に由来するということの明確な知識は存在しないことを示しているのである。

 ハラリは、無機自然界では感覚的に知覚できるプロセスが、同じく感覚世界に属する関係によってのみ条件づけられているのに対し、有機自然界ではそうではない、という科学理論上の基本的な事実を無視している。生物は感覚的に知覚できる物質的なプロセスから理解し説明することはできない。生物において、形、大きさ、成長、動き、行動など、感覚的に知覚できる条件は、感覚的な世界で知覚できる原因によって条件づけられているわけではない。それらは、感覚的なプロセスの上にある高次の統一体の結果として現れるのである。

 生物は、生命力だけでなく、感覚的には直接感知できないが、その影響が感覚世界に現れる魂的な力、霊的な力によって支配されている。例えば、植物の生命力は、周囲からくる物質を、すべての物質が受ける重力の力に逆らってまっすぐ成長する形へと強いる。物質が勝手にこのような形になることはありえない。

 さらに、動物には本物の魂の力が浸透しており、それが外側の運動器官を追い出して、魂の経験の内部空間を形成し、感覚器官を通じて外界と関わり、外界の印象に反応するのである。物質が自力でここまで上がってきたというのはありえないし、観測されたこともない、純粋な迷信である。

 人間の中には、さらに高い力、つまり霊的な「自我」の力があり、それが、身体を水平から垂直、直立に引き上げ、それによって地上の重力の力をできる限り取り除き、思考器官を持つ頭が、いわば自由に身体を運び、使うことを可能にしているのだ。死んだ物質がどのようにして直立し、どのように動くのというのか2

 今日の動物や人間の生体は、それらを構築し、その中に働く超感覚的な力によってのみ説明できるように、人間や動物の進化も、物理的に知覚できる生物に働くこの超感覚的な力からのみ理解できるのである。

 ハラリは、人間が発達させた思考力を、言語的に効果的に定式化された次の文章により特徴づけている。

「我々は世界を支配している。なぜなら、我々は、神々、国家、貨幣、人権など、我々の想像の中にしか存在しないものを信じることができる唯一の動物だからだ」3.

 このように、「人間動物」の思考は、純粋に主観的なものであると主張される。人を惑わせる誤りは、ハラリが2つの全く異なるタイプの概念を同一視していることにある。神という概念は、人間の外にある知覚可能なものを指す知識概念であり、国家、貨幣、人権という概念は、人間を通してしか生まれないもの、つまり知覚されるものとして先ず造り出さなければならないものを表わす道徳概念、行動概念である。後者は、当初は人間の主観的な想像力の中にしか存在しない、つまり純粋に主観的な構成物であることを示唆し、それを同一視することによって神々の概念にも移行しているのである。

 神々は人間の想像の中にのみ存在し、現実には存在しないという判断は、昔の人々も現代人と同じように、原則として神々を認識していなかったであろうという知識を前提としている。なぜ、そんなことがわかるのか?ハラリは証拠を示さない。現在の人々の意識の状態を、過去の状態に無反省に投影し、そこから現在のものが発展してきただけというのは、まったく歴史的ではないのだ。

 しかし、道徳概念や行為概念の主観性も根拠のない主張である。人間はそれらを発明するのではなく(どこからそれを得るのか?)、共通の理念の世界から直感的にそれらを把握する。すべての人間は、その世界の客観的な意味と、実りある、あるいは実りのない現実への参照へと昇り、他の人々と一致することができるのである。思考の内容は客観的であり、それを生み出す活動は主観的である。

 概念や表象を主観的と呼ぶのも、基本的には全く馬鹿げている。ハラリは、自分の思考の結果には客観的な妥当性があると主張している。彼の、概念からなる理論の内容は、概念そのものに適用され、その理論を打ち消すのだ。

 

ホモデウス

 ユヴァル・ハラリ氏は、1000万部を売り上げた別の本で世界的なセンセーションを巻き起こした。『ホモ・デウス-明日の歴史』では、動物である「人間」の未来について、唯物論的なビジョンを描いている。人類はやがてその支配力を失うだけでなく、「人類」という言葉自体も意味を失ってしまう。これは必然的なことだという。

「私たちの大好きなSFの世界では、自由と個人主義の名のもとに機械と戦う人々がいるが、現実には、こうした人間の神話は、カセットレコーダーや雨乞いの踊りのように、とっくに時代遅れになっていることだろう。心配に聞こえるかもしれないが、変化とは常に恐ろしいものだ」4

 自由と個性、精神的存在としての人間、自己決定する自由な個性としての人間は、このように、現実には対応しない主観的な想像という意味で神話となるのだ。ハラリによれば、「人間」はその知性にもかかわらず、コントロールされた動物であり、そのことを彼は次のように詳しく説明している。

今日の脳科学は、人間の思考や行動が脳内の電気化学的なプロセスの結果であることを教えてくれる。これらの知見から、個人の自由な意思決定というイメージは誤りであるという結論に至る5

 この主張を神経科学者やハラリス自身の理論に当てはめると、この理論の思考は脳内の電気化学的プロセスの結果であり、したがって意識の外では現実に対応していない、強制的に生成された主観的観念であることを意味する。その理論そのものが有効性を打ち消してしまうのである。それに従えば、ハラリは、実際にすべての講演と著作を止めることができる。それは何の意味もないのだ。

 それとは別に、この理論自体ももちろん根本的に間違っている。脳内で電気化学的なプロセスが思考と時間的に並行して起こっているという事実から、脳内のプロセスが思考の原因であると躊躇なく結論づけることはできない。ある小さな脳のプロセスがこの概念を引き起こし、別のものがその概念を引き起こし、第三のものが両者の因果関係を引き起こすという認識は、誰も証明することができない。これは最初から無理な話なのだ。

 脳内物質も、どのようにして自分や他人のことを考えるようになるのか。彼の思考について誰もが観察できるのは、それが彼自身の活動によってもたらされたものであり、その内容から、たとえば原因という概念と結果という概念とを非常に具体的な関係に持っていっていることである。これは、脳内で行われるプロセスとは全く無関係に行われる。思考は、脳内の電気化学的なプロセスに基づくのではなく、論理的な、つまり、魂・霊的な内容そのものに基づく魂・霊的な法則に従うプロセスなのだ6

 脳の物質的プロセスを思考の原因として説明するのは、地球上の足跡を、下の地面から上がってきて足跡ができるような力から説明するのと同じくナンセンスである。

 魂・霊的な思考のプロセスは、思考内容とは無関係な痕跡を脳に残し、それらは、鏡越しに見るかのように人間に認識させるのである。そして、思考は「自我」の魂的霊的活動によって生み出されるため、「自我」の意識も同時に発生する。「自我」の霊的本質は、思考の中で、その能動的な産出者として見出だされるのだ。しかし、「自我意識」は、思考活動の痕跡が脳に刻み込まれることによって初めて現れるのである。

 物質的な偏見を克服できず、偏りのない思考の観察ができない人は、それゆえに人間の「自我」を見出すこともできず、動物の物質的なコントロールを空想してしまうのだろう。

 しかし、ハラリに見られるように、これは社会的に悲惨な結果をもたらす。彼は、現代のコンピュータ技術を手本に「有機アルゴリズム7と呼ぶ脳内の「電気化学的プロセス」が、「非有機アルゴリズム」によって補完または置換され、それにより管理システムが「最適化」される未来を予測し、さらにそれを宣伝しているのだ。

 

機械動物

「今日、私たちは、人間と違って意識の影響を受けない、新しい形の知能を持った機械を開発している最中である。機械が私たちを凌駕するようになるのだ。その結果、人間は代替可能な存在になる。非有機的なアルゴリズムが決してうまくできないことを、有機的なアルゴリズムができると信じる理由はない。結局のところ、21世紀の新しいテクノロジーは、個人の力を奪い、代わりに人間以外のアルゴリズムにその力を委ねることができるのである。その結果、大量の役に立たない人間と、最適化された少数の超人のエリートたちが生まれるだろう。」8

 つまり、人間は人間性を失って生物学的機械となり、「意識に影響されない」「新しい知性の形態」に従うようになるのである。なぜなら、純粋に技術的、機能的なアルゴリズムが人をコントロールする機械には、それを道徳的に検証し拒絶するような意識はないからである。また、人間がプログラムしたものであっても、それによる生じる結果は完全に見通せるものではない。マイクロプロセッサのメーカーにしても、「自社のマイクロプロセッサがどのように動作しているのか、細部まで知ることは文字通り不可能」になっている。現代のコンピュータは、人間の理解を超えており、何千何万というそのような機器をつなぐインターネットについては黙するしかない。9

 人間は、人間以外の、魂のない衝動にただ従うだけではいけない。人は、まずそれを、彼の思考のコントロールと道徳的責任の管轄の下に置かなければならない

 ハラリは、彼のシナリオの社会的帰結を次のように説明している。

第一に、人々は完全にその価値を失うこと、第二に、人々は集団としての価値を持ち続けるが、個人の力を失い、代わりに外部のアルゴリズムによってコントロールされること。しかし、システムは、あなたが自分自身のことを知る以上に、あなたのことをよく知っていて、そのため、ほとんどの重要な決定をあなたに代わって行うだろう。それは必ずしも悪い世界ではなく、ポストリベラルな世界となるだろう。」

 西洋キリスト教の知的発展に根ざした基本法によれば、人間の価値は、その無形の尊厳に表れ、それは、精神的・道徳的存在である人間が、本来、自己の知識から自己の行動を自由に決定し、そこで人格を発展させるようにできていることからなる。

 人間は、この尊厳、自己決定的な個性としての価値を完全に失うべきである。なぜなら、ハラリによれば、人間は精神的・道徳的存在ではなく、集団として、群れとしてのみ価値を持ち、その中でシステムに役立つ機能としてのみ利用される動物だからである。監視によって、自分自身よりもよく知っているシステムの決定に従うだけでいいのだ。システムとは誰であろうか?

「...ある人々は、必要不可欠であると同時に解読不能であり続けるだろうが、最適化された人々という小さな特権的なエリートを形成するだろう。これらの超人は、前代未聞のスキルと前例のない創造性を持ち、世界の最も重要な意思決定の多くを行うことができるようになる。彼らはシステムに対して重要なサービスを提供する一方で、システムはそれらを理解し指示することができないだろう。しかし、ほとんどの人間はそのような“アップグレード”を経験することなく、結果として、同じように新しい超人や、コンピュータ・アルゴリズムに支配された下位カーストとなるだろう。人類を生物学的カーストに分けることは、リベラルなイデオロギーの中心的な柱を破壊するだろう。10

 機械アルゴリズムによって「最適化」された、前代未聞の能力を持つ「超人」のエリートがシステムを支配し、他者には理解も解読もできなくなるのだ。一方、大多数の人々は、機械や機械に最適化された超人たちが支配する「生物学的」な下位カーストを形成することになるのだ。-

 しかし、もし彼らがその前代未聞の能力を、自分でも完全には理解していない機械のアルゴリズムに負っているとしたら、彼らもまた他者にコントロールされているのではないだろうか?それも最終的には誰がコントロールするのだろうか?

 

展望

 ハラリは、機械に制御され、基本的に完全に自動で行動する自我のない動物-人間の未来像を描き、その全体が、全体の制御が闇に包まれたままの大きな機械の社会を形成しているという。

 これほど過激で、これほど公然と表現された人類への攻撃はない。その残忍な反人間的システムにおいて、国家社会主義ファシズム共産主義といったこれまでの集団主義的強制システムを原理的に凌駕しているのだ。

 人類発展上の血縁や他の集団による制約から徐々に解放され、自由に自己決定することになる霊的な自我存在としての人間の最大の支援者は、福音書記者ヨハネが、存在するすべてのもの、したがって人間の創造者として描写しているキリストである。キリストの神的な自我という存在の生きた姿が、これまですべての人間の中に入り込んでいたので、キリストはそのことを、次のようにユダヤ人に思い起こさたのである。

「あなたの律法に(詩編82編6節)、“私は言った、あなたがたは神々であると”と書かれているではないか」 (ヨハネ10章)そう、彼は、基本的に人間を自分と同じレベルに置くのである。

「もはや私はあなた方を下僕とは呼ばない。下僕は主人のしていることを知らないのだから。父から聞いたことはすべて、あなたがたに知らせたのです。」(ヨハネ15章)

 キリストは、人々が本来の認識に到達し、その結果、完全な内的独立を得ることができる可能性を開いたのである。

「あなたは真理を知り、真理はあなたを自由にする。」 (ヨハネ8)

 これに対し、ヨハネは預言的黙示録の中で、深淵から立ち上がる「獣」というサタン的で反キリスト教的な存在を描いている(黙示録13章)。ヨハネが「獣」と呼ぶのは、それが、人間という神聖な被造物を獣に変え、それによって創造主の意図した発展を自分の4支配下に置こうとするためである。

 彼の仕事は、もちろん、人々を暗示的に鼓舞し、唯物論的な幻想の論理で、自分は実は動物に過ぎないのだと信じさせることができる限りにおいて、最も成功するのである。ユヴァル・ハラリが「超人」あるいは「ホモ・デウス」と呼ぶものは、「神人」ではなく、実は動物の亜人、完全な動物人間であり、キリストが人間に対して意図したものの悪魔的なカウンターイメージなのである。「深淵からの獣」が動物としての人間を、歯車として機能しなければならない冷たい魂のない社会的機械の中に押し込めるのに対して、キリストは、自分自身を意識している霊的人間を、自己決定と自由をつかむように導こうとする。しかし自由は、すべての被造物を貫く愛を通してのみ、社会的共存において治癒的な効果を展開させるのである。

 人々は、どのような発展を自ら目指すのか、誰に従うのか、重大かつ運命的な決断をますます迫られるようになるだろう。

 

 ハーバート・ルートヴィヒ

* 2022年9月23日、ファサードスクレイパーに掲載された記事である。

《注》

1 人類の歴史を簡単に説明する。ウィキペディア

2 詳しくはこちら:「機械としての人間-正統派医学の唯物論イデオロギーとその影響」(『ファサードクラッチ』2022年4月8日号)。

3 人類略史 - ユヴァル・ノア・ハラリ(ynharari.com)。

4 ホモ・デウス - ユヴァル・ノア・ハラリ (ynharari.com)

5 ウィキペディアに見るホモ・デウス(その3)

6 ルドルフ・シュタイナー:『自由の哲学』第III章、第IX章参照。

7 「アルゴリズムとは、ある問題または問題のクラスを解決するための行動の明確な処方箋である。アルゴリズムは、有限個の明確に定義された個々のステップから構成される。" (ウィキペディア)

注5として8

9 Paul Emberson: From Gondhishapur to Silicon Valley, vol. I, pp.220-221.

10 から引用した。ザ・ヨーロピアン』25巻2/3号(2021年12月・2022年1月)、ヴィンセント・ヴァン・ヴリーズ「中国の健康独裁」、31頁。

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 本来、人間は神的存在である。万物そのものが神から生まれたという意味では万物に神性が宿っているのだが(仏教でいえば「仏性」だろうか)、人間は、「神々に似せて」造られた特別の存在なのである。だからといって自分のエゴのために他の存在に苦痛を与えたり、破壊したりして良いというとこでは決してない。むしろ、それらに対して責任を負うのである。

 その特別の証が、人間の自我である。それこそが、本来神界につながるものなのである。それを獲得するためには、今の物質世界とその物質世界を認識する能力が必要であったのだが、そのため利己的で物質界に耽溺する自我の性向も生まれてしまったのだ。

 霊的進化の道は、再び、この神性、霊性を取り戻すことなのだが、一方でそれを阻止しようとする霊的勢力も存在する。シュタイナーの人生は、この勢力との戦いの一生であったのかもしれない。

 今、この対抗勢力により、唯物主義が極度に押し進められてしまい、人類は自分の故郷を忘れてしまっている。その中で、人間を一種の動物にすぎないとする人間観・世界観が支配しているのだ。それは、今や、人から心も奪い、単なる生物的機械とみるまでになっている。

 闇の霊達を率いるアーリマンは、今、自身の受肉を準備しており、世界をそれにふさわしい社会にするため、様々な影響を地上世界に及ぼしている。その1つが、出版物である。アーリマンは、その様な本の著者にインスピレーションを与えているという。その本の実際の作者はアーリマンなのである。

 

 さて話は脱線するが、陰謀論界隈では、コロナに続く世界的危機として食糧不足が指摘されている。最近、「ロシアのウクライナ侵攻」で食糧の危機なる宣伝もされているが、食糧が危機的状況にあるのは現実である。ただ、それはロシアの責任と言うより、その原因は、気候の問題であったり、ロシア制裁による肥料不足、食糧関連施設やサプライチェーンの破壊であったりするのだ。(この辺はよくInDeepさんが取り上げている。地球の最期のときに - In Deep 

 最近は、オランダ政府が、EUの厳しい環境規制を遵守し、窒素排出を削減するため、最大3,000カ所の農場を閉鎖しようとしているというが、これも気候変動への対策と言いながら、食糧の危機の方は増大させるものであろう。つまり「気候変動問題」がその危機を押し広げていると言えるのだ。

 ここでハラリ氏だが、ウィキペディアによると、「彼はヴィーガン(乳製品等も摂らない完全な菜食主義者)でもあり、動物(とりわけ家畜)の置かれている深刻な状況を指摘し、“工業的に飼育されている動物たちの運命は(中略)我々の時代における最も逼迫した倫理上の問題のひとつである”とする。また"サピエンス全史の執筆を通して、動物たちが食肉産業や酪農産業でどんな扱いをされているかということに詳しくなった。私はとてもぞっとして、それ以上そのようなことに加担することはしたくないと思った。" “家畜の飼育を始めたことが人類の最悪の罪だ。”と述べているという。」

 確かに現在の特に、大規模な家畜の飼育方法には問題があることは、人智学派の人々も指摘している(動物に不要な苦痛を与えると、その影響が動物のアストラル体に残ってしまう)。それはそれで解決すべき問題なのだ。

 しかし、「気候変動問題」で酪農を目の敵にしていることには奇異の念を感じえない。上のオランダでは、当然だが農業者達は大反対であるし、当面の食糧危機が予想されるときに今強行すべきこととはとても思えない。ひょっとして、このような主張をする人々には、ハラリ氏のような「動物愛護精神」があるのだろうか?

 人類史的には、農業や牧畜は人口増や文化発展に寄与した偉大な発明である。秘教的歴史では、それには秘儀参入者が貢献しているという。確かに、霊的進化のためには、肉食は避けた方が良いのだが、人々の嗜好もあるし、当面の健康維持にはむしろ必要かもしれない。それを、酪農を廃止して、人工肉や昆虫を食べろというのはどういうものだろう。そこに隠れた意図はないのだろうか?

 最後に、ハラリ氏について、アントロウィキの記事で知った事について触れておきたい。それによれば、彼は、長年、仏教に由来するヴィパッサナー瞑想を実践しているというのだ。そして「彼の二元論的世界観を背景に、彼はこの「精神的な旅」を物質世界の束縛から抜け出すための適切な方法と見なしている」とし、次のような彼の言葉が紹介されているのだ。

二元論は、人々に、これらの物質的な束縛から抜け出し、 私たちにはまったくなじみがないが、私たちの 本当の故郷である霊的世界に戻る旅を促す。... このような二元論的な遺産があるため、俗世の慣習や取り決めを疑い、未知の目的地に向かって旅をすることを「スピリチュアルな旅」と呼ぶのです。

ユヴァル・ハラリ:ホモ・デウス、253fページ。
 私はこの本を読んでいないので、上の引用文の真意はわからないが、この文章をそのまま解釈すれば、彼は、スピリチュアル思想に一定の理解があると考えることができる。これは、彼の唯物主義的立場と一見矛盾するようにも見えるが、どのように関係しているのだろうか。またアントロウィキが、この部分を紹介している意図も気になるところである。
 ただ、いずれにしても、彼の言うスピリチュアルは、シュタイナーのスピリチュアル(真の霊性)とは似て非なるものであろう。
 シュタイナーは、霊肉二元論ではなく三元論(肉体・魂・霊)の立場であり、これが歴史的に二元論に変遷した経過の背景に闇の霊の働きを見ている。肉体ー霊(あるいは魂)の二元対立は、人間の真の本性に対する理解を困難にしてしまうのである。
 唯物主義的傾向をもったものではなく、真の霊性に関する認識を伝える本や情報が、今求められている。シュタイナーは、やがて人智学の本が街中で手軽に手に入る状況にならなければならないと語っていたという。日本で言えば、文庫本としてコンビニで売っているような状況であろう。既にシュタイナーの一部の著作は、実際に日本で文庫本化されているが、まだまだシュタイナーの思想が一般の人達に浸透している状況にはない。人智学派には、アーリマンに負けない活動が求められている。