k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

メフィストが書くならば


 以前、「獣の世界的イデオローグ」で、世界的ベストセラー『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』、『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』の著者であるユヴァル・ノア・ハラリ氏の仏教に由来するヴィパッサナー瞑想の実践や二元論的世界観について触れた。これはハラリ氏の唯物主義的傾向とどのように関係するのかと疑問に思ったのだが、その後、途中で読むのを中断していた、人智学派の、トランスヒューマニズム批判の著作を再度めくってみたら、ちょうど、これに関する記述に出会ったので、今回はこれを紹介したい。

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 著者は、以前にも出てきたアンドレアス・ナイダー氏で、『デジタルの未来?』(2019年)という著作である。

 

 予備知識が必要で、少し難解なので、予め少し補足しておきたい。

 冒頭に、ゲーテの『ファウスト』に登場するメフィストと言う悪魔の名がでてくる。シュタイナーの悪魔論では、アーリマンとこれに対立する(その作用が違うと言うことであり、時に協働する)悪魔としてルチファー(ルシファー)が存在するのだが、現代は、アーリマンの力の方が強まっており、その背景には、アーリマンの地上への迫りつつある受肉も関係している(これについてはこのブログの別項を参照されたい)。ゲーテメフィストでは、これらの区別がなされておらず、これらの2つの側面をもっているとされるが、文中では主にアーリマン的側面で語られる。

 下の文中で、ハラリ氏は、グノーシス的二元論であり、これに対してシュタイナーは一元論とされるが、これは理解が多少難しい。

 前の記事で、シュタイナーは三元論(肉体・魂・霊)であると記したことと矛盾するようだが、こちらの場合の三元論は、人間本性の捉え方についてであり、著者が一元論というのは認識論的意味合いを含んでいると思われる。

 グノーシス的二元論は霊ー肉の二元論で、この場合、霊と肉は対立するものであり、肉の側面、現世は否定的に見られている。これはまさに、ハラリ氏の主張と合致しているようだ。これに対して、シュタイナーの一元論というのは、霊と肉は対立するものではなく、それぞれが真の存在の一側面(人間において両者を仲介するのが魂である)とする立場、霊と物質が統合された世界観であろう。人は、自我を確立するために、外的物質的世界を自分の外の世界としてもったが、実は、外的世界の根底にあるのは、自分の中に存在するものと同じものなのである。シュタイナーの認識論では、人が、外界を認識することにより、本来一つのものであったが今は分裂して存在する、内なる世界と外なる世界が統合されるのである。

 ハラリ氏は、霊ー肉の二元論といいながら、結局は唯物主義的世界観、人間観の持ち主であり、彼にそのようなインスピレーションを与えているのは、メフィスト(アーリマン)ということである。

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メフィストが書くならば

 旧約聖書ヨブ記は、よく知られているように、ヘブライ語で「サタン」、つまり「告発者」と呼ばれるメフィストの登場から始まる。ゲーテは『ファウスト』でこの場面を「天上」のプロローグの原型として選び、旧約聖書よりもさらに明確にメフィストの告発の役割を強調したのである。ここでメフィストは、天から落ちて離れ離れになった天の兄弟たちが合唱で神の創造物を賛美した後、主なる神の前に現れ、人々に次のように語りかける。

 

 許してください、私は高くは語れません、太陽や世界について何も知りません、私はただ人がいかに苦労しているかを見ています、もしあなたが彼に天の光を与えなかったなら、彼はもう少しよく生きるでしょう。彼はそれを理性と呼び、それだけを必要とします、ただどんな動物よりも獣らしくなるためにです。(V. 271-286)

 

 そして、後にメフィストは自分自身についてこう語る。

 

 私は常に否定する霊だ! なぜなら、生まれるものはすべて、滅びることに価値があるからです。
 ということは、あなたが罪や破壊、要するに悪と呼ぶものはすべて、私の実際の要素なのです。(V. 1328-1344)

 

 ユヴァル・ノア・ハラリは、人間の霊を否定し、非難的で、苦い悲観主義唯物論によって特徴づけられるこの態度から書いている-但し、今は、さらなる調査を必要とする疑わしい変種ではあるが。これは、ハラリが体現しているメフィスト的な主知主義と、今日西洋に広まっている仏教の一形態との組み合わせで成り立っている。このことは、仏教そのものを否定するのではなく、今日、特に西洋の知識人のサークルで実践されている仏教の変種を否定しているにすぎない。30ここで、毎日、2セッションのヴィパッサナー瞑想、時には丸1ヶ月に及ぶ、ゴエンカの弟子、ハラリの瞑想修行と、彼の還元主義・物質主義的進化理解や文化ペシミズムの間にどんな関連があるのかという疑問が湧いてくる。

 

"...むしろ、私たちを悪から引き離せ..."

ハラリの実践するヴィパッサナー仏教は、インド生まれのヴィパッサナー教師サオア・ナラヤン・ゴエンカ(1924-2013)の教えがベースになっている。ゴエンカは1969年以来、アジア、ヨーロッパ、アメリカで数百の瞑想コースを指導し、ヴィパッサナー瞑想の普及に特化した130以上の瞑想センターの設立と発展を世界中で監督してきた31

 

30 例えばグーグルは、中国の瞑想教師チャデメン・タンにシリコンバレーの従業員向けに「マインドフルネス・プログラム」を導入し、それは、その後「Search inside yourself」と題して世界中でセンセーションを巻き起こした。参照:Chade-Meng Tan, Search inside yourself. Daniel GolemanとJon Kabat-Zinnが序文を寄せたベストセラー。トランスヒューマニズム、つまり人間の霊を人工知能に置き換え、消し去ることを企業理念として信奉する技術系企業で、従業員を「鎮静化」するために仏教瞑想を利用するこの傾向は、特に米国でますます強まっている。

31 ヴィパッサナー瞑想の実践については、Culadasa John Yates, Handbuch Meditation, Munich 2017 を参照。 Yates は、10 段階からなるヴィパッサナー瞑想の完全な道を、初めて西洋の実践者に理解できる形で展開している。ヴィパッサナー瞑想の理論的基礎については、Analayao, Perspectives on Satipatthana, Cambridge 2013を参照。 Analayaoはスリランカで出家したドイツのセラバダ僧で、ヴィパッサナー瞑想の基礎に関する西洋の専門家と考えられている。「サティパッタナー・スートラ」は、ヴィパッサナー瞑想やマインドフルネス瞑想の基礎となる釈迦の2つの説話のうちの1つである。第二の説話は、「アナパナサティ・スートラ」と呼ばれるものである。"サティ "とは、パリ語で "心構え "や "記憶 "のようなものを意味する。

 

 ゴエンカが説いたヴィパッサナー仏教の基本は何であろうか?ヴィパッサナーとは「洞察」という意味で、現在、特に東南アジアで修行されている仏教の中で、最も古く、最もオリジナルな釈迦の教えに基づくテーラワーダ仏教に由来している+。この仏陀の教えは、苦しみが、人間を自己としてとらえる欲望によって引き起こされるという洞察を通して、個人がすべての苦しみから解放されるという教えである。この自己は存在にしがみつき、その「しがみつき」の結果、常に輪廻していかなければならない。したがって、「洞察の瞑想」の助けを借りて、地上のあらゆるものに対する、誤って思い込まれている自己の執着を克服することができるのだ32

紀元前5世紀にインドで釈迦が説き、今世紀に入るまでインドやスリランカの仏教僧によって発展してきたこの瞑想法は、現在最も普及している瞑想法であり、最初の段階では瞑想者自身の身体に焦点を当て、特に呼吸に注意が向けられる。

 

32 仏教の基本的な教えについては、ミヒャエル・フォン・ブリック著『Einfuhrung in den Buddhismus』(フランクフルト/M.2007年)を参照。

 

 これは、ジョン・カバット・ジン33やティク・ナット・ハン34によって広まり、西洋の事情に合わせた形で、「マインドフルネス瞑想」とも呼ばれている。しかし、「堕罪」に対するハラリの訴えからすると、我々は、実際には何を相手にしているのだろうか。

 仏教は、個人をこの世の存在に縛り付け、この世の多くの人生で身につけた行動パターンに執着させるもの、すなわちエゴイズムの態度から個人を解放しようとするものである。欧米で仏教やマインドフルネス瞑想を知った人はみな、基本的にキリスト教の隣人愛の教義にも通じる、堕落の結果としてのエゴイズムの克服を目指しているのである。マインドフルネス瞑想の実践者は、自分の行動を洞察し、この行動から自分を切り離すための身体運動を通してこれを行う。一方、キリスト者は、自分の罪を告白し、救い主への信仰と聖餐式への参加を通して、その罪を克服しようとするのである。しかし、エゴイズムからの解放という目的は同じである35

 

33 Jon Kabat Zinn, Gesund durch Meditation - Das grafi° Buch der Selbstheilung (Healthy through Meditation - The Graphic Book of Self-Healing), Frankfurt/M. 2006. Kabat Zinnは、臨床目的でMBSR (Mindfulness Based Stress Reduction) プログラムとしても知られるヴィパッサナー瞑想の「ライト版」 を開発、世界中で成功をおさめた。

34 ティク・ナット・ハン「心の目覚め」を参照。マインドフルネス瞑想やヴィパッサナーのベースとなるブッダの説法のうち、最も重要なものについてティク・ナット・ハンが解説した本。

35 千年紀以降の仏教のさらなる発展と、そこから生まれた大乗仏教金剛界仏教の新形態については、ここでは触れない。ただ、大乗仏教が「菩薩賛」を通じて、もはや個人の解放ではなく、万物の解放に関心を持ち、そこからキリスト教にも似た地上の万物に対する慈悲の態度が生じたことだけは記しておこう。参照:ミヒャエル・フォン・ブリュック/ワレン・ライ『仏教とキリスト教 歴史、対立、対話』 Munich 2000.

 

メフィストの2つの姿

 しかし、ハラリが著書で闘う堕罪の問題は、それとは異なる。彼は、人間個人のエゴイズムではなく、人間同士の愛の欠如でもなく、人間による地球の知的・技術的征服、トランスヒューマニズムに至るまでの技術開発、人間の知性による環境破壊を問題にしているのである。問題は、ハラリが常に戦っている相手であり、彼自身の超知性主義という形で常に彼から隠れている「悪魔」は、人間をエゴイストに変えてしまったものとは異なるということだ。「民衆は、たとえ悪魔に襟首をつかまれても、決して気づかない」アウアーバッハの地下室のメフィストの言葉である。しかし、ゲーテでさえも、メフィストの二つの姿を区別することはまだできなかった36

 

36 ルドルフ・シュタイナーは、ゲーテの『ファウスト』におけるこの問題についてしばしば語っており、例えばGA157号の1915年10.6月の講義を参照。 人智学の発展当初、シュタイナー自身も、常に人間の誘惑者として「ルシファー」だけを語っていた。ゲーテメフィストの第2の側面を「アーリマン」と呼ぶようになったのは、1909年になってからである。1909年1月1日と3月22日の2回の講義(GA107号所収)を参照。

 

 ゲーテではメフィストの姿の中でまだ一つであった悪の二つの姿を明確に区別するのは、人智学の創始者ルドルフ・シュタイナーに任された37

 

37 「敵対する力」は、1913年から1925年にかけて制作されたシュタイナーの大型木彫作品『Der Menschheitsreprasentant』に最も明確に描かれている。両「Widersachermachten」については、フランク・ベルガーLu er.の編集による2つの優れたアンソロジーを参照されたい。

 

 シュタイナーは1910年、この2人の悪の権化を「ルシファー」と「アーリマン」という形で初めて表舞台に登場させた。シュタイナーは、4つのミステリードラマの最初の作品で、主人公のヨハネス・トマシウスに次のように語らせている。

 

魂の世界の前に立ちはだかる2つの力

一方は誘惑者として内に住み、

視線が外に向けられているなら、

他の者が視線を曇らせているのだ38

 

38 ルドルフ・シュタイナー『四つの神秘ドラマ』、『統一の法則』、『第四のイメージ』、GA 14。

 

 このような悪の二つの対立する力の区別に関して、私たちは人間における「悪の進化」と呼ぶべきものを扱っているのである39。近代まで、近代自然科学、ひいては唯物論が出現するまで、人間は、ルドルフ・シュタイナーが「ルシファー」と呼ぶ、人間の中に現れる一つの悪の活動にのみ、かなりの程度常にさらされていたからである。紀元前5世紀に生まれた仏教や、紀元の変わり目に誕生したキリスト教は、それゆえ、これを扱っている。人間を意識魂の発展へ導いた思考の発展とともに初めて 現代の自然科学や現代技術は成立したのである。このような意識魂に特有な思考のあり方により、今、人類はより多くの情報にさらされるだけでなく、アーリマンの効果にもますますさらされるようになっているのだ。

 

39 シュタイナーは『人智学原理-ミカエルの神秘』GA 26で悪の進化を詳細に説明しており、例えばそこに含まれる手紙では、アーリマン領域におけるミカエルの任務について述べている。

 

 仏教の瞑想やキリスト教の救いの教義は、このような現代的な悪の形を認識していない。40 それらは、それぞれの文化的に形成された方法で、ルシファー的な悪の側面を瞑想やキリスト教信仰によって克服しようとするもので、もちろんそれは十分に正当なものである。特に、仏教のマインドフルネス瞑想は、現代に蔓延しているうつ病などの心の問題を効果的に治すのに非常に適している。この仏教の治療効果は、すでに釈迦の「四聖諦」(訳注)の教えの中に、医学的診断と治療という形で内在しているし、もちろんキリストを治療者、「救世主」として捉えたキリスト教の教えにも内在しているものである。

 しかし、悪のアーリマンの側面は、どちらの宗教でも、実際ある意味で避けられている。そして、ハラリがヴィパッサナー瞑想を通じてターゲットとした、彼自身が大いに罹っている主知主義・物質主義という病気を克服するための努力は、これまで見てきたように、効果がないままである

 

40 ルドルフ・シュタイナー人智学的思考法』参照。

41 マイケル・フォン・ブリック/ホァレン・ライ『仏教とキリスト教』参照。History, Confrontation, Dialogue, Munich 2000.

(訳注)、仏教が説く4種の基本的な真理。苦諦、集諦、滅諦、道諦のこと。

 

グノーシス的二元論と自己認識の一元論との比較

  ハラリは結局、私たちが常にすでに死んだ思考の結果から出発していることに由来する、物質的な存在に対する思い違いに苦しんでいるのである。そのため、彼は、人類の、一層迫り来るデジタルの未来に直面し、2冊目の著書『ホモ・デウス』では、地上のあらゆるものを悪神、サタンの創造物と理解し、一方、善きものは、そこに仏教瞑想などの「霊的旅」を通じて戻り、それにより物質生存の害悪から解放されることができる、「霊の奇跡の世界」とする二元論に平板化したのだ42。このようなグノーシス的な世界観は、人間とその進化についてハラリが以前に述べたものからすれば、真に驚くべきものではない。:「二元論は、こうした物質的な束縛から脱却し、まったく見知らぬ、しかし私たちの本当の故郷である精神世界へ戻る旅をすることを奨励する。」

 

42 参照:『ホモ・デウス』op. 253 f. 43 同上。

 

 このグノーシス的二元論は、最終的には悲惨な結果をもたらすが、今日、無意識のうちに現代の傾向として広まっており、第一部ですでに見たように、我々の認識プロセス自体の自己観察に向けて働く一元論によってのみ対処することが可能である。しかし、それによって初めて、意識魂が自分を霊的存在として認識する能力が具体的に実現されるのである。シュタイナーは、この自己創造的な現実認識を次のような、瞑想的な認識体験によって最もよく理解できる文章で表現している。

 「この自己意識的な自我は、それ自身の中で孤立しておらず、また客観的な世界の外で自己を体験するのだが、この世界からの切り離しは、単に意識の現象に過ぎず、それは、魂を世界と結びつける力を意識の外に押し出すことによって、ある発展状態にある人間として、自分の中に一時的な形姿の自我を所有しているということを洞察することにより克服できることが認識されている。もし、これらの力が絶え間なく意識の中に働いていたら、自らに安住する強力な自意識を得ることはできないだろう。自分を自覚している自我を体験することはできなかった。したがって、自己意識の発展は、自己意識をもつ自我が、あるレベルにおいて、自己の認識の前にある段階で、消し去っている現実の部分を除いて世界を認識する可能性が魂に与えられるかどうかにかかっているのだ。このようなことを認めると、哲学の難問に対する答えを、普通の意識に現れる魂の体験に求めることはできなくなる。この意識は、自己意識的自我を強化するよう求められている。それは、この目的に向かって努力しており、自我の客観的世界との関係への眺望をベールで覆わなければならず、したがって魂が真の世界といかにつながっているかを示すことができないのだ。」

 

44 ルドルフ・シュタイナー『哲学のなぞ』GA18号、601頁f。

 

 その結果、シュタイナーの一元論では、認識の出来事そのものを観察することが重要なのであり、それは、通常の認識では感覚の観照に流れ込ませている思考の力を強化することにより、また思考の、それに対応する感覚的現実からの離脱を通じて、この思考が、それ自体において存在する現実-その力は、そこから、外界の物質的現実も我々の体の現実もまた創り出されている力と同じである-として経験されることができることに気づくためである。このように、私たちの考える意識の場には、現実に対するまったく新しい関係が現れ、この方法で瞑想する人は、自己意識を維持するために通常の意識では消滅している、現実を創造する力を、魂の活動を通して自分の意識に引き上げ、現実の自己創造者となることができるのである45。しかしこのことは、人間の未来に対するまったく新しい展望をももたらすのだが、これについては、この論稿の最後に見ていく。

 

45 シュタイナーが開発したこの人智学的瞑想の形式については、Rudolf Steiner, Die Rosenkrexzmeditationを参照のこと。Urbild menschlicher Entwicklung, ed. Christiane Haid, Basel 2013.

 

 しかし、その前に、『人類史』の最後と『ホモ・デウス』の第三部でスケッチされた、ハムリの文化的悲観主義から生まれるトランスヒューマニズムと社会生活の完全なデジタル化の未来像に目を向けてみよう。

 

トランスヒューマニズムによる人類の消滅を語るハラリ氏のスピーチ

 2冊の本のそれぞれの最後で、ハラリの進化観は、人類がバイオテクノロジーの助けを借りて自らを廃止し、機械が生み出す人工的生命に取って代わられるという、ますます悲観的な視点へと導いていく。46

 

 この「ホモ・デウス」、すなわち神的な人間に流れている技術発展という信条は、トランスヒューマニズムのそれ、すなわち無限の有効性のそれである。グーグルの創業者であるミンとラリー・ペイジは、シリコンバレーでは毎日祝われているこの信条の二大使徒である。『ホモ・デウス』の終盤、ハラリは「データ宗教」、アルゴリズム人工知能の発達の帰結を述べて、人間の精神の廃絶が避けられないと結論付けている47

 

46 トランスヒューマニズムについては、トランスヒューマニズムのマル3依存の擁護者の一人であるニック・ボストラムの著作、Die Zukunft der Menschheit, Frankfurt 2018、Superintelligen Senarien einer komm-den Revolution, Frankfurt 2016参照。 最も粗野なエゴ主義の一形態としてトランスヒューマニズム信条を最初に暴露した一人がフランク・シルマッシャーで、彼は2014年に亡くなっているが最も顕著な例である。エゴです。Das Spiel des Lebens, Munich 2014.

47 Homo Deus, op.cit. p. 497 ff.

 

 ハラリは、そうした人間の精神を最初から否定していたのではないか?では、なぜこの精神は自らを廃止するようになるのだろうか。結局、ハラリは、人類の全歴史の中に「見えざる手」、つまり人間の精神のようなものを実在すると認めるという、当初から乗り越えられていない問題に直面することになるのだ。残念ながら、彼はこの認識に対して、方法、つまり人間の精神の実在性を意識する方法を欠いている。

 そして、ハラリの人類普遍の歴史は、論理的には純粋にメフィストフェレス的な結末を迎えることになる。仏教の瞑想で鍛えられた彼は、人間のエゴイズムに対するルシフェルの影響には対処できるかもしれないが、現代のあらゆるテクノロジーと物質主義的な進化論の理解の中でその主な影響を生み出しているアーリマンの霊には対処できないからである。しかし、思考において自己自身を意識できない霊は、アーリマンに取り押さえられた人間的霊にならざるを得ない。したがって、このまさにアーリマン-メフィストフェレス的な精神が彼の内に働き、技術的手段によって自らを廃絶する人類のイメージを展開するが、それはまさにシュタイナーがアーリマンと特徴づける霊力の目標である48

 

48 ルドルフ・シュタイナー人智学的ライツァーク-ミカエルの神秘』GA26 参照。

 

 人間は、上記のように、自分の思考的認識の本来の力を自己創造的に意識化し、それにより意識魂の本来の任務を解決してこそ、この物質主義的思考の中で働いているアーリマンの力を克服しうるのである。「こうして人間は、まず自分の到達した霊性を物質的な内容で満たさなければならなかった。彼は、自らの霊的な本質を、それ以前のものよりも高次なレベルにまで高めた時代に、唯物論的な考え方に陥った。これは簡単に見誤る。人は、唯物論への「転落」だけを観察し、それを悲しむことができる。しかし、この時代の観照は外側の物理的世界に限定されなければならなかったが、人間の純化された、自己自身の中に存立する霊性は、体験として魂の中に展開されたのである。ミカエル時代には、この霊性はもはや無意識の経験にとどまることなく、自らの本質を意識するようにならなければならない。」49

 

49 ルドルフ・シュタイナー 同上、66 頁。

 

人間の能力開発に関する信条

 最後に、ハラリの文化的悲観主義から離れて、私たちの身体の形成のみならず、自然のあらゆるプロセスにおいて、思考に働く力を経験させ、それにより「人間の中の精神性を宇宙の中の精神性に向かわることができる」「知の道」50を形成する、この意識化の過程が、ゆえにこの道が、エゴイズム、すなわちルシファー的な力の克服にどの程度までつながるのかが問われることになる。

 

50 ルドルフ・シュタイナー人智学的指導原理』GA26、第1指導原理。

 

 シュタイナーは、思考だけでなく感情や意志にも関わる第二段階において、定期的かつ体系的な「カルマ的」回顧という形で、自分自身の運命を見つめることができると指摘している51。その時、自分の運命に関わってくる他の人間達がますます視野に入ってくる。自分の人生の歩みが、他人の意図や自分の意図とどんどん絡み合っていることが明らかになる。このような体系になされた回顧とカルマ修練を通じて、人は、自分の運命と、すなわち他者とともに、愛を深めていくようになるのである。人は、自分自身の運命あるいはカルマを、よりよく理解することで、更に発展させることができること、そこに現れるネガティブなパターンや行動様式を、誠実で全面的な自己認識の意味で少しずつ解消していけることを認識している。また、それに対して、もともとブッダが仏教の瞑想の基礎として編み出し、ルドルフ・シュタイナーが推奨する「八正道」は、決定的な支えとなる52

 

51 ルドルフ・シュタイナー『Ruckschau』参照。Ubungen Lur Willenssarkung, ed by Martina Maria Sam, Dornach 2009 and Rudolf Steiner, Entwicklung des Denkens - Stdrkung des Widens, ed by Andreas Neider, Stuttgart 2004.

52 「八正道」についてルドルフ・シュタイナー『昼と年の瞑想』ターヤ・グート編、ドルナッハ2004年、またハラルド・ハースとテオドール・フントハンマー『Ich mochte mein Leben wandelni Ein anthroposo-phisches Achtsamkeitiprogranms - Der achtgliedrige Pfad, Bern 2018, manuscript for download tinter www.achtsamwerden.ch また著者の著書:『Denken mit dem Hertenどうすれば頭から思考を解放できるのか』(シュトゥットガルト2019』も参照ください。

 

 思考と知識という外向きの道と、意志と自己認識という内向きの道という、どちらのアプローチも、人間が発展する能力に基づいており、ハラリ的特徴を持った文化的悲観主義には至らない。むしろ、ヨハネス・グライナーが最近定式化した53 、「私は人間を信じる!」という新しい「ヒューマニスト信条」に至るのだ。私たちは、ハラリの文化的悲観主義に対する我々の批判をこれによって締め括くろう54

 

53 著書『私はあなたを信じる テロリズム-教育の問題?』(ハンブルク2017年、66頁f)ここに引用した文章は、グライナーの著書に登場する「ヒューナニスト信条」からの抜粋である。

 54 グライナーのヒューマニズムの信条は、ハラリの評論家ミヒャエル・シュミット=サロモンが、2014年に著書『HoffnungMensch Eine bessere Welt ist maglich(より良い世界は可能である)』ですでに同様の信条を打ち出していることに触発されたものである。

 

私は、すべての人間を信じます。

私は、すべての人間の中にあるスピリットを信じています。

私は、すべての人間の中にある出会いと変化の能力を信じています。

私は、すべての人間に備わっている発展能力を信じています。

私は、すべての人間が持っている発展しようとする意志を信じています。

私は、自分を信じている人は、他人の支えにもなれると信じています。

私は、自分の中にあるスピリットを認識した人は、他の人の光にもなれると信じています。

私は、人が成長すればするほど、社会に癒しを与えられる存在になれると信じています。

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 ハラリ氏は、精神(霊)世界が本当の人間の「故郷」としながら、その実、人間に本当の意味での霊性を認めていないようだ。人類はやがて機械と同化するか機械に代わられると考えており、まさにアーリマン的唯物主義的思考そのものである。ナイダー氏が語るように、その主張はそもそも矛盾を孕んでいるのである。

 仏教の瞑想法を実践しており、一見、霊的なものにも理解があるように見えるが、結局、その人間観は、唯物主義的機械的人間観である。瞑想法の実践や「霊」云々の主張は、それに対する単なる飾りである。内実が伴っていないと言えよう。ただ、やはりそれに惹き付けられる人もいるのだと思う。そしてそれにより真の霊への理解が閉ざされてしまうのである。

 トランスヒューマニズム(超人間主義)という言葉は、人間を超える(言わば超人になる)と言いながら、実際には人間そのものの否定である。人類が、霊性を発展させて、今の状態からその上の段階を目指さすべき時代が到来しているのは間違いが無いのだが、アーリマンは、これを阻止したいのであり、人類を誤誘導するために、本来のあるべき姿に対置するものとして、このような言葉を使うのであろう。「作者」としてのアーリマンの言葉の扱いは、巧みである。