k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

コロナワクチンによる人間の完全制御

 今回紹介するのは人智学派の医師によるコロナとそのワクチンに関する論稿である。

   新型コロナは、依然として終息の気配を見せていない。日本では、重症化率、死亡率が過去最高レベルになっているが、その原因については明確な説明がなされていない。一方で、諸外国では、ワクチンの害が明らかになってきており、ワクチンの停止を求める声も大きくなってきているが、日本のマスコミでこれを取り上げるものはまだまだ限られているようだ。その結果、日本は、世界の中でブースター接種が今でも推進されているほぼ唯一の国となっている。
 既にこの間の過剰死亡も明らかになっており、今後の被害の拡大が心配される。

 さて、以下の文章では、「過剰影響」という聞き慣れない言葉が出てくる。原語は「Überfremdung」で、ネットを検索すると、「超外国化」という訳語が出てくる。つまり、過剰に外からの影響を受けることを意味するらしい。この他に、あるいは「外部規定」「外部制御」という言葉も出てくるが、趣旨は同じだろう、
 人間は、自由で独立した存在であり、過剰に外部からの影響を受けると、それが身体に悪影響を与えてしまうのだ。人智学派の医学は、人間を、身体、エーテル体、アストラル体そして自我(体・魂・霊と言う場合も)からなる複合的存在とみており、病気も、それらの相互作用から考えている。著者は、このような視点でコロナ問題を見ているのである。
 

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コロナワクチンの接種と外部からの完全制御の原則

人間がいかにして外的な支配を克服するかという問題に関しての最初の総括

 

 (上の)イラストはルドルフ・シュタイナーが描いたものである。黒い人物は地球を内側から支配しようとしている。それは、mRNAテクノロジーが身体を細胞の内側から支配しようとするのと同様である。しかし、絵の中では、この支配をめぐっていくつかの勢力が争っている。結局、左上から差し込む意識的に明るい光が一番強いということになるのだ......。

 

2022年11月 イェンス・エドリッヒ医学博士

 ※ 医学の分野でさまざまな記事や研究を発表している医師であり、献身的なジャーナリストである。彼の記事は、彼の正確で透明な働き方のために特に説得力がある。

 

関心をお持ちの皆様へ

 ウクライナ戦争が、一方でますます私たちの心を占め、独立した認識と判断を求めるテーマを前面に押し出したとしても、コロナの問題をウクライナ戦争の絨毯の下で一掃してはいけないように思う。コロナ危機に関連する措置に責任を負う勢力は、コロナ問題への関心を相対化し、緊急に必要な検証を阻止するために、ウクライナ戦争とそれに関連する感情を前面に出すことに最大の関心を抱いているという印象を受けることもある

 

 しかし、なぜ検証なのか。さて、コロナ時代の当初から、世の中の批判的思考を持つ少数の人々は、コロナとの戦いを口実に導入されたすべての施策が、結局は逆効果になることを指摘していたゆえに、検疫や閉鎖、衛生対策が人々の心理を不安定にし、結果的に健康も破壊してしまうので、病気への「門と扉」を開いてしまうというのが、思考力のある人にとっては論理的結論であった。同様に、ワクチン接種が導入される以前から、微生物学者Prof. Dr. med. S. バクディのような論理的認識力によって、我々の生物に属さないタンパク質を自らの細胞で生産させるワクチン接種は、我々の免疫システムの大規模な拒絶につながり、最終的には生物自体に向かうことになると認識することが可能だったのである。私は、予防接種問題についての最初のビデオインタビュー(https://www.youtube.com/watch?v=MGgaQBfKScU)で、「自分の良心と折り合いがつかないことをするように自分を操られた人は、遅くともそれに気づいたときには、その行為を拒否し、恥じ、罪悪感、あるいは憎しみさえ感じるようになる」という考えを示した。私は、ワクチン接種は、異物から生物を守るという目的を達成しようとするため、細胞の制御する人工RNAによって生体に過度に影響を及ぼし、当然、人間の自分に対する憎悪をもたらし、その結果、自己に対する重度の破壊的自己免疫過程をもたらすはずなので、自己矛盾であると指摘していた。というのも、私たちが、自分で自身を駆り立てた行動のために、たとえ矛盾していても、内心では自己否定しなければならないのと同じように、人間の不可侵性の守護者の身体表現としての人間の免疫システムもまた、自分とは異質の支配に服従する細胞と戦い始めるからである。しかし、この物理的プロセスと魂的・霊的プロセスの調和という考え方は、ある前提をもっている。それは、物質的に考える人間にとって決して自明ではない、すべての魂的・霊的プロセスは、実際に物理的対応物を持つ、あるいは物質的物理プロセスの中で自己を表現しているという前提である(注0)。

 

注0:霊的魂的なものは、常に最終的には物理的物質的プロセスの中に表現され、したがって世界のすべての物質的プロセスも常に霊的魂的なものの力の表現であるというこの考えは、特に中央ヨーロッパでJ・W・v・ゲーテがその科学的仕事の中で実践し、後にルドルフ・シュタイナーによってさらに発展した自然および自然科学の見方に基づいている。イギリスから来た還元主義的な考え方が、世界を物質的にのみ説明しようとしたのとは対照的に、ゲーテは知識と意識の徹底的な訓練によって、世界の霊的・魂的なプロセスを直接作用する力として認識し、それゆえ人間が霊的・魂的なものに関係なくものを理解しようとすれば、それは非合法な還元主義に相当するという結論に至ったのだ。ヴェルナー・ハイゼンベルク、ニルス・ボーア、アルバート・アインシュタインといったドイツを代表する科学者たちは、その後ますますはっきりと、霊的・魂的なプロセスが物質に影響を与えるという結論を出すようになり、長年の研究の末にアルバート・アインシュタインは次のように語った。「そこに霊(精神)が作用しない物質的作用は考えられない。」長年の医療活動の中で、私はこの経験をますます強くすることができた。特に、現代の霊的研究者ハインツ・グリルの示唆によって、この自然に対する見方を現在も続けているので、その間、私はあらゆる病気の背後に働いている霊的力を認識しようとし、人間が結果としてこの過程に直面すれば、病気は知識の霊的過程によって克服できることを多くの方法で体験している。

 

 このような考えから、mRNAワクチン接種技術とそれに伴う嘘や意図が、人間の魂・霊・身体の完全性に深刻な破壊的影響を及ぼすこと、人間は、嘘や暗示に伴う異質な決意から立ち上がり、勇気ある明確な実現へのステップを通じて、より大きな尊厳、精神的自由、自己決定ができる場合にのみ、この完全性を維持・回復できることが早い段階で予見されたのである。

  これらのことは、予防接種が導入される以前から、明晰な思考から、望む者すべてが精神的に洞察することができたのに、まだ十分な人々に見られていなかった。しかし、今や不幸にして、これらのことは広範囲な現実となり、これを認識しようとするすべての人にとって、劇的な結果によって、物質的にも認識できるようになったのだ。

 

 それゆえ、今日、私たちは入手可能なデータから、ワクチン接種は感染症、疾病、重症化、コロナの症例に対して何の予防効果もないばかりか、ワクチン接種率の上昇とともに疾病発生率が実際に上昇していることを知ることができるだろう。このように、ワクチン接種によって総死亡率が低下したのではなく、ワクチン接種を導入して以来、過去20年以上と比較して、国民の総死亡率が大幅に上昇していること、さらにこのことは、依然として、その国の国民のブースターワクチン接種回数や接種率レベルと明確な相関を示していることも分かる。つまり、ワクチン接種の回数が多く、頻度が高い集団ほど、現在の総死亡率は高いのだ。母親のワクチン接種率が上がるにつれて、出生児数が大量に減少していることも分かっている。https://m.youtube.com/watch? v=vZBZL5CXQJ4。そして、この文脈で、相関関係はまだ因果関係を示していないと言われるとき、これらの関係をその因果関係において理解する努力をしようとするすべての人は、その間に入手可能な科学的研究資料を通じて、多数の死亡とmRNAワクチン接種との因果関係は全く疑問の余地がなく、それを認識しようとする意志さえあれば世界中で認識することができることがわかる。

 例えば、ロイトリンゲン大学のアルネ・ブルクハルト教授は、その仕事が世間から激しく非難されているが、この死亡とワクチン接種の因果関係を最新の病理学の手法で実証しているhttps://www.youtube.com/watch? v=jLJXL3YlHKE。(ドレスデンの病理学者ミヒャエル・メルツ博士も同じ結論に達している)ブルクハルトは、ワクチン接種直後に死亡した多数の人々の検死を行った結果、これらの人々の大多数がワクチン接種が死因であることを証明することができた。ワクチンの効果で体が作り始めるスパイク蛋白質を、特殊な染色法で体のどこにでも表示することができ、実際に故人の多かれ少なかれすべての臓器で形成されていたことを認識したのである。ワクチンによってスパイク蛋白が形成された場所のどこでも、実際に解剖されたものは、いわゆるリンパ球浸潤を伴う相当かつ重度の自己免疫過程を示し、対応する組織を破壊し、溶解してしまう。体内で血液を介して広がるmRNAワクチンの最初の標的はヒトの静脈や血管であるため、これらの自己免疫炎症破壊過程は主に血管壁で発現している。これが破壊されたり、血管の内で発生すると、心臓、脳、腎臓、皮膚など、人間のあらゆる臓器で血栓や血管破壊が起こり、多くの検死で、患者の死亡につながったのである。

 

 つまり、この病理を詳しく考察してわかるのは、思考が物質的に可視化されると言うこと、人間が、自分に起こることを許し、mRNAワクチンの中に物質的な相関物を持つ嘘や暗示によって過剰に影響された結果、この自己嫌悪のイメージが実際に体組織の中に現れることである。実際、人間は明らかに、自分が操られることを許した過剰影響の結果として、自分自身の完全性を失った自分を強く拒絶し憎み、場合によっては、人間自身よりも細胞をうまくコントロールできるとする嘘のワクチンによる完全に影響された状態よりも、あえて望んで、死を受け入れるのである。

 

 さて、ワクチン接種によって死亡した人は比較的少数であり、多くの人がワクチンによく耐えたという反論があるかもしれない。この現象を唯物論的に見ると、ワクチンの「バッチ」が違うからということになりがちである。あるワクチンは、もう一方のワクチンよりもmRNAやその他の破壊的な物質の含有量がたまたま少なかっただけであり、したがって、人がワクチンの合併症や致命的な自己免疫過程を起こすかどうかを決めるのは偶然なのである。

 誤った霊的視点から言えば、それどころか、ワクチンなど気にしない方がいい、ましてやそれに関係する過剰影響に腹を立てたり、自分を憎んだりしない方がいい、そう、自己嫌悪で苦しむことなく、ワクチンが細胞を支配することを許すなら、それでうまくゆく、という誤った結果に至ることもあり得る。この場合、自己免疫過程も生じず、ワクチン接種も十分に耐えられると考えられるからである。その様な視点では、過剰影響が起きるままにし、いわゆるポジティブシンキングや自己暗示によってワクチンと「調和」させることで、ワクチンからネガティブな結果を引き出さないようにすることを人に勧めることになろう。しかし、この考え方は正しいのだろうか、そして何よりも責任があるのだろうか。

 

 私の医療活動から顕著になっているのは、現在、予防接種の合併症を起こすのは、主に、魂のどこかで、多かれ少なかれ、半意識的に、「人間は他人にコントロールを渡してはならない、渡したくない」という認識を、あらゆる有効な提案とは逆に、自分の中に持っている人たちだということである。しかし、彼らはその後、社会が煽る強い圧力や巨大な恐怖心によって、この予感を維持し、確実な知識として成熟させることができないと感じ、ある時点でこの予感ににもかかわらず、ワクチン接種を決断したのである。それ以来、彼らは多かれ少なかれ強く抑圧された内なる葛藤の中で、さらにはこの圧力に耐えられなかったという一種の無意識の罪悪感の中で生きてきたのである。特に、その後、予防接種を受けていない人に出会うことで、失われた人間の尊厳の必要性を突きつけられたり、予防接種後の死亡事故の第一報を聞いたりすると、彼らの中で良心が目覚める可能性があるのである。しかし、同じように、そのような状況では、人間は再びこの良心を自分から遠ざけることができるのだ。そして、自分の弱さを思い知らされるため、ワクチンを受けていない相手を羨み、拒絶し、憎むようになるかもしれない。相手を憎み、結果的に不当に非難することで、自分の罪悪感を相手に投影し、自分の中で目覚めようとする良心を感じなくてすむようになるのだ。相手がこのメカニズムを十分に認識していないと、投影によって自分自身にこの罪悪感を感じ、それに嫌気を感じてしまう危険性さえあるのだ。しかし、人間の中で良心が目覚め、それを許した場合、まず一種の重い罪悪感として現われることが多い。これは、免疫システムにより、一種の防衛反応として、過剰な影響を吸収した細胞と戦い、破壊し始める力として身体的に現れるだろう。

 

 非常に印象的で悲劇的な事例が、このプロセスを明確にしている。

 それは、予防接種の問題点や危険性をかなり集中的に扱った友人をもった人の話である。彼をとおして、その人は摂取を避けるべきだと感じていたが、ある朝、職場に入ると、同僚たちからの強いプレッシャーに耐え切れず、「予防接種の車が来るから、ぜひ受けてほしい」と言われ、その日のうちに予防接種を受けることにした。ワクチン接種後、最初はいつも通り仕事をしていたが...。しかし、夕方、ワクチン接種を控えた友人を訪ねると、突然顔が白くなり、気を失い、間もなく到着した救急医から死亡宣告を受けた。死因は、蚊に刺されたことによるアナフィラキシー反応と断定される。その友人との出会いが、無意識に、あるいは半意識に、自分が同僚の圧力に負けて、やりたくもないことをやってしまったことを突然思い出させ、その時、この過剰影響から自分を解放する方法を知らなかったので、予防接種に対する強力なアレルギー性の自己免疫過程が彼の中で頭をもたげ、重症で結局致命的なアナフィラキシー反応に発展したということだろうか。(注1)。

 

注1)アナフィラキシー反応とは、究極的には人体に侵入した耐え難い異物に対する大規模な自滅的反応に他ならず、死に至ることもある。スパイク蛋白がヒトのアレルギー反応につながることは、南アフリカのインド人医師シャンカラ・シェティ https://www.youtube.com/watch?v=m7PokX4kz30 によって印象的に示された。)

 

 自分の意思に反して過剰な免疫を許してしまい、アナフィラキシー反応を起こすという同様のプロセスをしばしば経験し、また患者の正しい認知プロセスによってその反応を克服してきた医師として、この事例を聞いたとき、深い危惧を覚えたのだ。同時に、この人は、あの時、医師やセラピストが次のような考えを伝えてくれていたら、死ななくて済んだのでは」という思いが、内なる確信となって私の前に立ちはだかった。「ほら、今、あなたは自分が過剰影響されることを許した。でも、そのために自分を完全に失ったことを恐れる必要はないし、そのために自分を憎む必要もない......。いや、もしあなたが、自分にかかったプレッシャーに鑑みて、自分に起こった過ちから正しい結果を導き出し、将来、自分の中の理想をそう簡単に忘れさせない強さを身につけるならば、ここであなたを過剰影響したものを乗り越え、そこから新しい力を得ることができるはずです。」

 

 もう一つのケースは、少なくとも同様に印象的なもので、過剰な影響によって起こる自己嫌悪の内的プロセスが、実際に死に至る可能性があることを示しているというものだ。この場合、自己嫌悪はワクチン接種の前から生じており、純粋な唯物論的考察では因果関係を立証できないが、魂的・霊的な観点を考慮すれば、十分可能であることがわかるから、なおさら興味深い。

 長い間、ワクチン接種に批判的で、接種しないことを強く決意していた60歳の人が、医療関係者の娘を通じて、このワクチン接種がなければ家族の生活が成り立たないという申し立てを受け、ついに自分の中の良心に反して、ワクチン接種の予約を手配したという話なのだが......。予防接種の予約の数日前から嫌な予感はしていたが、娘の意思に反して予約をキャンセルする気にはなれなかった。約束の時間のわずか前に、その人ははっきりとした理由のわからないまま亡くなってしまった......。

 

 また、ある人が、予防接種に批判的な別の人と集中的に対話する中で、すでに決めていた予防接種の決心が揺らぎ、約束していた予防接種をキャンセルしかけたが、最後の最後で、まるで反抗するかのように、友人や同僚の説得に負けず、反抗的に接種センターに出向いたケースも知っている。ワクチン接種後まもなく、集中治療室に入院し、複数の明らかな臓器不全で集中治療が必要な病院へ......

 このケースでは、何が原因でこの臓器不全になったのか不明なままだが、彼は、ワクチン接種とは無関係とする説明モデルを正しいものと考え、完全にワクチン接種を支持し続けているのである。入院中に一瞬感じた、知識への一歩を踏み出すきっかけとなる予感を、彼は完全に封じ込めた。しかし、それ以来、彼はなかなか力を取り戻せていない......。

 

 一方、ワクチン接種について「どうでもいい」と思っている人、政府や専門家が正しいことをしている、理由もなくワクチン接種が勧められているのではないと固く信じて生きている人は、意外とワクチン接種の副作用が出ないことが多い...ということである。

 

 このような体験は、人生における病気も、長い間気づかずに過ごしてきた自分の状態が間違っていることに初めて気づいたときに起こることが多いという事実を見れば、大きな意味でよく理解できる。たとえば、長年、抑圧や屈辱を許したパートナーシップの中で生きてきた人が、たとえば、尊厳ある関係とはどういうものかを自ら、あるいは他者と体験した瞬間から、はじめて目に見えて具合が悪くなることが多いのである。自己決定的で自由で尊厳のある関係とは何かということを魂が感じ取ったときに初めて、それまで何年も過ごしてきた疎外された状態をもう望まないという気持ちになるのである。ある意味で、彼は本当の誠実さがいかに美しいかを体験して初めて、失った誠実さに憧れを抱くようになるのだ。自己を見失い、疎外された時代に、そのイメージは完全に失われ、もはや欠落感すら感じなくなっていたのだ。しかし、今、彼はまずこの状態を不満に思い、何かを変えたいと思うようになる。しかし、この状態を建設的に改善する発想や精神的な実質がまだないため、最初は相手に対する罪悪感や無力感、あるいは憎悪の感情が混在したまま動けず、結果的に身体も病んでしまうのである。

 もし、セラピストや医師としてこのような病気に遭遇した場合、病気の魂的・霊的なレベルも含めれば、この人は自分の魂の中で、より自由で、より楽しく、より尊厳のある関係の理想を発展させて実現したいと考えており、そのために、それがどのようにして可能なのか、どのようにして魂の中の破壊的感情を克服できるのかをまだ完全に意識的に見ることができないので病気になったということを認識できるだろう。つまり、病気と向き合うことで強さを身につけ、そこから内なる理想的な関係へと自分を高めていくために、精神的に病気を追い求めたようなものなのだ。このようなつながりに気づいているセラピストは、同時に、その人が新しい関係性の理想に到達するのを助けたいという内なる衝動を感じ、その結果、自分自身の誠実さにも気づくのである。経験上、実際に病気が治まった瞬間、患者はこうした霊的法則に気づき、同時に具体的な人間関係の理想の知識を魂に宿しているセラピストの助けを借りて、そうした関係の理想を実現し、それを自分の人生に統合しようとするのである。

 

 mRNAの予防接種とそれに伴う合併症についても、結局は同じことが言える。予防接種を受けることを許した人が、最初の段階ではそれが自分を外部から過剰影響されることになると疑いながらも、自分が疎外されることを許したことを意識的に自覚し始めると、自分の魂の中にある、自分が疎外されやすい動機も認識し始める。それは、社会から排除されることなく、再び旅をすることを許されたいという動機、あるいは当局が間違うかもしれない、あるいは意図的に嘘を流すという考えにとらわれたくないという動機である。すると、この過剰影響に対する最初の内なる抵抗が彼の魂に蠢くのである。

 この過剰影響の結果、影響された組織に対して大規模な自己免疫過程が発生する可能性がある。しかし、その後に、過剰影響に対する怒りと罪悪感を認識するだけでなく、自分を過剰影響に導いた弱さを認識し、その弱さをいかに克服するかという精神的な実現プロセスを開始するのであれば、話は別である。そうすれば、当人はもはや、起こった過剰影響と自分の中にまだ存在している弱さについて怒ったり憎んだりする必要はなく、この弱さを次の認識の形成のために利用し、その結果、自分を内面的に高めて自由と自己決定のより強い内的力を開発することができるのだ。しかし、そのためには、過ちを認めるだけでなく、そのことで非建設的に自分を責めることをやめ、今後二度と過ちを起こさないように全責任を負うという魂的霊的実質が必要である(注2)。

 

注2:しかし、この本当の意味での「道徳的実質」こそ、過ちを隠したり、その過ちを他人が許してくれることを期待したり(イェンス・スパーンの最新刊「我々は互いに許し合わなければならないだろう」)、全責任を負う代わりに犯した過ちを自虐して自滅することに慣れている現代の人類にはまだほとんど存在しないのである。そのためには、原則として、患者が無意識に働いている暗示や罪悪感、あるいは憎しみの感情を、より真実で建設的な、したがってより勇気のある思考に置き換えるための、認知の精神的プロセスが必要である。この文脈で過小評価されてはならないのは、例えば告解の過程で神に赦されることによってのみ、人間は罪を清算することができるという、教会の広い範囲から人々に植え付けられたイメージである。自覚の作業とその結果としての正しい勇気ある人生の歩みによって、必ず将来的に罪につながった過ちが克服されるという真の考え方は、それゆえ人々の間にほとんど生きていないのである。

 例えば、主治医である私と綿密な話し合いを重ねたにも関わらず、接種した患者は、接種の直接的な結果として激しい頭痛と発熱、疲労感に襲われ、長い間寝たきりの状態になってしまった。この合併症は何日も改善の兆しがなく、おそらくワクチン接種に対する一種の自己免疫反応であると思われたが、それと並行して、患者は最初の自己認識のプロセスを経たのである。彼は、医師である私との話し合いで明らかになったことに反して行動し、良心に反することをすることで自分を惑わせ、その結果病気になったのだと悟った。同時に、この病気や予防接種の合併症が、「政治の提言はもう信用できない、人間はもっともっと自分の責任で物事を考え始めなければならない」ということを少しずつ理解できるようになったきっかけになるかもしれないと、病気の経過の中で気づいたのだ。この自己認識のためには、「どんな病気にも隠れた価値があり、その人が病気を克服するためにそれを認識し、実現したい」という考えを、あらかじめ患者と一緒に考えていたことが前提になる。これまで、怠惰や友人から仲間はずれにされることを恐れて、予防接種の問題を詳しく扱うことを控えていたことに気づき、これからはもっとはっきりとした自己決定で人生を歩みたい、もう外部の意見、気分、感情、強制にあまり左右されないで、内なる慰めや恐れの声にも左右されずにいたい......という内なる強さと勇気が湧いてきたのである。そして、起こった過剰影響をきっかけに、これからは自分の関心事をよりよく発展させていこう、自分の理想や目標にもっと勇気を持って取り組もう、安らぎや習慣、惰性という偽りに包まれた声に打ち勝とう、と魂の中で決断できたから、確かに自己免疫関連の痛みの症状はすぐに消え、患者は力を取り戻したのである。

 

 興味深いことに、この患者は現在でも、嘘や暗示を見抜き、意識的な目標から自分の人生を自分の手で切り開く能力がはるかに強く、最終的にはワクチン接種前よりも全体的な意識、責任感、そして同時に健康強さも示している。このように、彼は明らかに精神的、肉体的な自己決定と自由を獲得することによって、最初の段階でのワクチン接種に伴う過剰影響を克服することができたと言えるだろう。

また、ある患者は、実は弱気になって受けたワクチン接種の直後に来院し、「大きな失敗をして、人生の中で他人との関係で自分の地位や理想を再び失ってしまった」「これからは、将来に向けて精神的な物質力を獲得することに一貫して取り組みたい」と説明した。彼は、将来、暗示や嘘などの社会的圧力に逆らってでも理想を守るために、精神的な明晰さから、より強いバックボーンと運搬能力を身につけたいと考え、何らかの治療訓練を受けたいと考えています。 この人がそれを表現し、自己憐憫や罪悪感、怒り、あるいは自己嫌悪のステージを捨て、もっと意識的に、勇気を持って、自由に生きようと決意したその強さが印象的だった。今日まで、この人はこの道に忠実であったため、将来起こりうる罪悪感や自信喪失、それに伴う予防接種の合併症に、この強さで対処するための基礎が確実にできているのである。

 

 このように、霊魂のレベルを含めると、健康と病気、あるいは過剰影響のいくつかの段階が実際に現れるのである(注3)。第一段階では、人間はまだ健康であり、それはまだ彼を取り巻く世界の知恵に満ちた力と完全に調和しているからである。この健康の第一段階は、それは確かに現代のどの人間にも当てはまらなくなった、人間の一種の「パラダイス状態」と言えるかもしれない。人間が自分の魂に取り込む暗示によって過剰影響が進むと、人間は恐怖、物質的な安全や集団的な帰属への欲求など、自分を無意識の中で異質に支配しようとする無意識の動機によってますます決定づけられ、自分の霊魂の本質から疎外されるようになる。外見的には、直接的に体調が悪いようには見えないかもしれない。しかし、霊的魂的な観点から見ると、過剰影響が進むにつれて、人間には文字通り一種の「分裂」の隠れた特徴が観察される。この分裂によって、人間は自分の内なる意志からある程度切り離され、それによって、自分を内側で分解しようとする異質の力の道具として、ますます自分を作り上げる。特に現在では、そうした暗示や嘘によって人間を自分から遠ざけようとする勢力が、最も多様な形で効果を発揮している。人間がウイルスに左右されると考え、ウイルスが究極的には人間を支配し、それが認識されない限り病気にする霊的・魂的過剰影響の表現として理解されることを認めない、世界と人間に対する還元主義的な唯物論的見解は(注7も参照)、こうした強い暗示の一部であり、人間をコロナ危機に伴う操作的意図に対して脆弱にするものだ。mRNAコロナ接種とそれに伴うプロパガンダの大砲は、それを忌避しようとする者、あるいはこの接種を批判する者を裏切り者として社会的に排斥、あるいは処罰するが、この完全外部規定の原則のこれまでの集大成である。結局、それは人間の魂・精神・身体の自己制御と完全性に外部から介入する姿を示しており、心理制御と操作の最高の「芸術」と密接に関連するのである。

 

注3:過剰影響は、実はこの意味で常に万病の元凶である。一方、回復とは、外部規定を克服し、より大きな精神的自由と人間の自己決定を支持する力である。

注7)ルドルフ・シュタイナーは、例えば、伝染力の強い天然痘の重症患者と同室で長時間過ごすという実験を行った。彼は、病人から発せられる魂的霊的な、かすかな影響を観察し、それが患者の症状をどのように引き起こしているかを認識することができたのだ。しかし、彼は、このように彼自身が天然痘の病気の原因として認識していた、彼が「唯物論的暗示」と呼ぶものには守られており、無傷で済んだのである。

 

 現代のトランスヒューマニズムの「理想」も、デジタルや遺伝子工学的・医学的に制御された世界とネットワーク化することで、人間を「最適化」された外部コントロールに委ね、「改善」することを目的としている。ジョージ・オーウェルの著書『1984年』には、心理的な影響力によって人々をコントロールし、人々がもはやそれを外部制御と認識せず、そこに最高の充足感を見出すという感覚を植え付けられ、「自発的に」この外部制御に従うことを目指す、という言葉で、完全がいぶのイメージが表現されている

 

 人間の遺伝子装置をコントロールするmRNAワクチン接種が、人間を病気から守るために最適化する最も進んだ手段であるという提案に応えた人は、このワクチン接種に対して完全に無意識に行動し、この外部コントロールの原理に対して防衛や自己免疫過程を起こすことはまずないだろう。彼は、遺伝子技術による人間の最適化という「理想」に同調するあまり、外部からのコントロールに何の抵抗も感じずに、自分の中でそれが起こるのを許してしまう。しかし、この外部コントロールの原理が、自立した思考をする存在としての人間をどんどん破壊していること、実際、病気は技術的最適化によって克服しなければならないというイメージが、霊的魂的存在としての人間の実像をどんどん破壊していることを考えれば、自己免疫プロセスが治療への第一歩であることに気がつく............。

 

 なぜなら、完全な外部規定の段階で生きている人間は、まだ無意識に生きており、いつか疎外から生じる破壊的な結果に苦しむときにのみ、この段階で目覚めることができる(注4)のに対し、現在すでにスパイクタンパク質に対する自己免疫過程を発症している人間は、この過剰影響に対して最初の抵抗の感情を内側にもつようになっており、結果として、過剰影響を許した対応する細胞を攻撃し始めるのである。しかし、この気づきを自分の成長のために建設的に利用することができないまま、罪悪感や無力感、憎悪の感情で自らを消耗させてしまうのだ。(製薬業界と政治に騙され、今、私は迷っている。あるいは、失敗し、自分を操られ、今、私は消えかかっている!) 過剰影響に対して建設的な対処をする、という発想がまだ欠けているのだ。しかし、人間は、嘘の犠牲者、あるいは自分の弱さの犠牲者であるという感覚を克服し、知識の明確なステップに立ち上がり、それを通じて、より大きな自由と独立に導くことのできる真の霊的魂的実質を開発し始める場合にのみ、建設的になることができるのである。このように、実体と精神的バックボーンの欠如のために過剰影響を許してしまったことを認識した人は、今後この霊的実体を発展させるために自らを高め、接種によって自らに課した外部規定の原理を徐々に克服できるようにしなければならない。

 

注4:特に現代は、戦争や危機がますます広まり、人々がますます欠乏と必要性の状況に追い込まれる傾向にあり、暗示、感情、誤った判断によって、人々を破壊的な非合理的行動に目に見えて追い込む外部規定の巨大な力を示している。人間はこうして、嘘と操作の力を認識することなく、それらによって自分自身を決定することを許すことによって、自分自身を構成している。早い時期に認識することができない人間は、破壊の結果として生じる欠乏と苦痛を通じてのみようやく、自分が他人によって決定されることを許している力を認識する機会が与えられ、内なる悟りとそれに伴う浄化の過程を通じて、それを克服することができるのである。

 

 ちょうど、最後に紹介した2つの事例が、暗示の圧力の前に、明らかに自分には強くない心の弱さがあることを認識し、自己承認して立ち上がり、この内面の弱さに目覚め、より意識的で勇気ある理想に基づいた、より意識的で責任ある生き方を将来的に送るという決断に自らを高めたように、ワクチン接種に呪縛されてきた人類もまた、自らの内にこのワクチン接種への依存の暗示を克服するために自らを高めなければならない(註5)。だが、外部の権威に服従しようとする束縛の原理が、人間のうちに活動している自由な精神を否定し、それによってますます消滅させることによって、人間を奈落の底に導くことを本当に認識するためには、人間は実際に自分の中の霊を実現させなければならないのである。しかし、自分の中の霊を実現するということは、病気が起こるのは、人間の霊は、病気と完全に意識的に対決することにより力を強めることができるからであり、したがって、病気は究極的には一貫した霊的な認識の過程と発展への歩みを通じてのみ持続的に克服できることを認識することでもある。自分の中に異質なタンパク質として作用することを許したのは、実は魂の中の自由を欠いた動機であり、それが自分に異質なタンパク質を造らさせたのだと認識したときに、人は、自分の中に異質なタンパク質を形成させようとする遺伝的に機能するワクチンを受け入れることができると認識するとき初めて、そう、この接種とそれに関連した暗示や意志の介入が、霊的に言えば、自分自身の中にある異物支配の原理を認識し、霊的な自己決定によってそれを克服することを促進することを認識して初めて、また異物支配のために自分を憎むのをやめ、代わりに、自分の中で今後の発展と認識の歩みを通じて、外部規定を克服し、その結果、自分を外部制御しようとしたものを、そこからより大きな認識力と意識を発展させるように利用し始めるとき、初めて、異物決定と自己嫌悪を特徴とする自己免疫過程の状態から、次のより高い健康状態へと上昇することができるのである。その時、人間は、罪悪感や自己免疫過程により、それに伴う苦しみとともに、自分自身の弱さを自覚し、精神的な自己決定力を高める道を歩み、その中で、これまでよりも大きな新しい健康力を獲得して、自分を高めることができるようになるのである。

 

注5:コロナ接種への依存についての示唆は、基本的に、コロナが劇的な介入と、人間を魂的霊的に弱める物質的な手段で人間が克服できる病気であるという唯物論的な示唆によって維持されている。しかし、本当は、コロナの病気の場合にこそ、魂における無意識の魂的霊的作用と結びついており、コロナの場合は、意図的に人類に真っ向から組織化され、破壊的な物質的手段にも姿を現しており、認識と発達の歩みを通じてのみ克服することができるということが示されている。また、コロナ病を通じて、人間がウイルスと呼ばれる物質的な粒子だけで病気になるという考えは真実ではなく、病気は実際には魂の無意識的働き-それは、人間が自分の周囲から受け取り、ウイルスとみなされるものと結びついている-が作り出すものであることが次第に明らかになってきている

  したがって、ウイルスは、病気の結果として生物が排泄しようとする一種の細胞排泄物でしかなく、他者に対して力を持つのは、その排泄物に関連した無意識の魂的-霊的作用、例えば病人から発せられるものを、その人が認識せず、したがって、その人が無意識に自分に働くことを許す場合にのみである

 

 私自身、コロナ陽性となった人たちに、意識的に物質的な障壁なしに、繰り返し、自分をさらしてきており、その際、最初のうちはまだ一種の無意識の恐怖が自分を襲おうとしていることを観察した。それは、いわばウイルスが自分のところにやってくるかもしれないという物質的な考えと結びついていたのだ。その恐怖が、無意識のうちに筋肉を緊張させ、呼吸が浅くなるといった身体的な症状を引き起こしていることに気づくことで、実はこの無意識の作用が、自分の中で病気のような形で表現されようとしているのだとわかったのである。それを認識することで、呼吸や筋肉が緩み、自分の心の狭さに少し笑ってしまいそうになった。というのは、30年前にルドルフ・シュタイナーの著作ですでに、「人を病気にするのは微生物ではなく、魂や精神の影響である」と読んでいたのではなかったか。

 それが自分の中で徐々に現実のものとなるには、私は明らかに30年の歳月とコロナ危機を必要としたのだろうか。いずれにしても、時には病人の濃厚な咳を顔に浴びたりもしたが、その結果、症状が出ることはなく、検査も陰性であった。一方、私が病気になったのは、医療従事者へのワクチン接種の義務化によって、私の心を深く揺さぶった心理的圧迫に十分対応できなくなったからにほかならない。

 興味深いのは、有名な科学雑誌「The Lancet」でも、PCR検査は病菌のDNAを含む排泄粒子に反応するため、特定のウイルスを検出することはできないと論文で指摘されていることである。つまり、この病気に罹った人は、科学的にはエクソソームとも呼ばれるDNAを含む粒子を本当に排泄していることが、きっぱりと明言されたのである。(Lancet Respiratory MedicineRole of exosome in false-positive covid-19 PCR tests: non-specificity of SARS-CoV-2- RNAin vivodetection explains artificial post-pandemic peaks)。

 ある環境の影響によって過剰影響され、「毒された」細胞は、遺伝子組み換え物質を含むエキソソーム粒子によって、この過剰影響の結果を排除しようとするのである。この物質を、病気の人から発せられる無意識の魂的影響とともに吸収した他の人は、他の人や自分の中にあるこの魂的霊的事象を観察し、認識することを学ばなかったならば、他の人に関連したこれらの無意識の影響の結果として、また自分の中に生じた無意識の反応の結果として、実際に病気になることがあるのである。

 エクソソームはいわゆるウイルス粒子に匹敵する形態を持ち、健康な組織に対して病原性を持つことも知られているため、エクソソームとウイルスは角度を変えて見るだけで、結局同じものではないのか、という疑問が出てくる。ある人は、その粒子が細胞のストレスや病気などの結果として排泄されるという前提から、それをエクソソームと呼び、別の人は、そのようなエクソソームが健康な細胞とドッキングする様子をより観察し、それをウイルス粒子と呼ぶ......

 

 

 彼の中で形成されたスパイクタンパクが、いつまで効果を発揮し続けるかは不明だ。上記のような自己認識の結果として起こる最初のステップは、確かに人間がスパイクタンパクによって過剰影響された細胞に対して攻撃的に振る舞うことをやめることである。自己免疫過程の鎮静化と多くの予防接種の合併症の治癒は、その結果であり、私は今、このような治療的知識と人々の意志のトレーニングの過程で、私の診療所でますます頻繁に観察できるようになっている。この最初のステップでは、本人が取り込んでしまった異質なスパイクタンパク質やそれにまつわる嘘を受け入れ、起こった過剰影響とそれに伴う発展課題の記憶イメージとしてそれらを「見る」なければならない。スパイクタンパク質は、過剰影響の危険を常に本人に知らせるために、長い間、生体内に形成されているのかもしれない。また、誤解は私たちが思っているよりもずっと長く私たちの中に残り、私たちを決定付けることが多い。しかし、それらは何度も表面化し(注5、私自身、物質主義的な考えがまだ強く働いていることに驚いた例参照)、そして、物事の本当のあり方をますます認識するのに役立つのである。このように、スパイクタンパク質は、私たちの中にある既存の誤った考えと同様に、将来的には、人間がますます外部制御に陥る危険性がある場合には、自己免疫の新たな目覚めのプロセスの原動力となる可能性がある。しかし、最良の場合、ワクチン接種から得た教訓を真摯に受け止めた人は、その後、一貫した道、内なる自己教育、意志の弱さの自己克服の道を歩み、それによって、結局、自分の中のスパイク蛋白を徐々に克服することができるということもあり得るのである。そのような精神的自由の道によって、人間はもはや自分の中の異質なものと戦うのではなく、認識によってそれを変容させ、自分自身の真の美しい物質に置き換えることができるようになり、その結果、自分を異質なものとした細胞は、次第に真に独自性を獲得した生命細胞の実質に置き換えられていくと考えられるのである。なぜなら、私たちの体組織は、自己認識と意志の力のプロセスの過程で、外来の腫瘍細胞や、外来の影響の結果としてその中に広がろうとする遺伝的欠陥のある細胞を分解し、細胞内のいわゆる修復プロセスを刺激することによって健康な組織と置き換えることもできると思われるからである。

 しかし、新たに把握した意識と認識のプロセスから発せられるつながりを理解することは、しばしば人々を内なる喜びと勇気で満たす。実際、こうした魂的霊的な自己認識と発達のプロセスが、自立神経と神経ホルモンの分野全体、したがって人間の免疫系と心的外傷後管理のプロセス(注6)にも影響を与えることを理解すれば、将来の科学の中心課題として、これらのプロセスの理解を学ぶ必要性はコロナからの最も重要な教訓の1つとなるであろう。人間や世界の精神的なプロセスやつながりの観察を自然観察に含め、そのプロセスを独立したものとして認識することが急務であろう。結局のところ、精神科学者ルドルフ・シュタイナーは、100年以上前にすでに、人間を病気にするのは微生物や物質的なプロセスではなく、無意識の誤った考えや外的関係に対する恐怖が、人間の魂的霊的実体において問題を発して、人間が魂的霊的な認識実体において内的に強化されるまで病気に追い込むということを、人間は理解しなければならないと指摘しているのである。(注8)同じように、アルベルト・アインシュタインなど近代の代表的な物理学者たちは、世界の物質的なプロセスは、活動する精神なしには考えられないと認識していたのである(注0参照)。

 

注6:エピジェネティクスとは、生体内における、細胞の環境から細胞内部へ、したがって細胞の遺伝情報にも作用し、外部から制御するプロセス全般を指す、と考えられている。どのタンパク質が作られ、どのタンパク質が作られないか、つまり、どの遺伝子が現在「呼び出されて」、どの遺伝子が「眠って」いるのかは、エピジェネティクス、つまり細胞を取り巻く環境が最終的に決定しているのである。DNAの修復過程、つまり遺伝物質の修復過程も、エピジェネティックな文脈の要因によって開始されることがある。今、魂的・霊的なプロセスが自立神経的、ホルモン学的な機能を介して生体に影響を与え、それを決定すると考えれば、魂的・霊的なものからの直接的な影響が、遺伝学の奥深くにあるエピジェネティクスを介して実現できることが明らかになる。どの遺伝子がいつ活性化するかという問題は、最終的にはエピジェネティクスの文脈に依存し、したがって霊的魂的な影響要因に依存することを知れば、人間は遺伝子によって決定されるという考えは欺瞞に満ちていることがわかる。

 

 しかし、人間を捕らえ、内面的に病気へと追いやるのが、いかに魂的霊的過剰影響の事象であるかを知った人間は、このことを認識し、そこから完全に責任ある結果と教訓を引き出した瞬間から、新しい健康力を開発できることを認識することになるのである。そうして、ワクチン接種により過剰影響を許したことを認識し、今、その結果を完全に引き出し、そこから学んでいる人は、自分の中のmRNAワクチン接種も克服できるだろう......

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 上の文中に、エクソソームという言葉が出てきたが、これについては、既にこのブログで取り上げている。やはり人智学派の医師であるトム・コーワン氏が、最近研究が進んできた「エクソソーム」が、ウイルスの正体ではないかと語っているのである。エクソソームとは、体の中のあらゆる細胞から出るカプセル状の物質で、大きさは1万分の1ミリ程度しかない。中にはさまざまなメッセージ物質が詰まっていると言われており、この中に遺伝子の働きを制御するマイクロRNAが含まれている。体中の細胞は常時エクソソームを出しているが、病気になるとその分泌量は増えると言われている。
 コーワン氏は、今の新型コロナウイルスについても、その写真がエクソソームと似ており、やはりエクソソームではないかと主張しているのだ。

k-lazaro.hatenablog.com

 また、最後にエピジェネティクスという言葉が出てきた。これはつまり、上の説明にあるように、遺伝子の塩基配列が生き物の全てを決めるわけではないということである。遺伝子の発現は「霊的魂的な影響要因に依存」しており、「人間は遺伝子によって決定されるという考えは欺瞞に満ちている」のだ。だから人間が、あたかもDNAによって全てが決定される、DNAはコンピューターのプログラムのようなものというような言い方は、誤った人間観に導くものである。
 もしそうであるなら、人間は機械論的に把握されなければならず、そこに自由や個性はあり得ないからだ。人間はそれぞれが唯一無二の存在であり、自らが自らを創造していかなければならない。そのような人間のあり方を、肉体もまた担保しているのだ。(既にこのブログで、子どもが、熱を出して、母から受け取った体のタンパク質を自分に合ったものに造り変えていくことについて触れたが、これもそうした意味で考えることができる。)
 現代人は、人間が一種の機械であるとする考え方を幼いときから注入されているが、人間はその誤りを無意識で感じているのであり、それが心身の不調となって現われことがあるのだ。だが、著者が言うように、気づきを得ればそれも克服できるということであろう。

 今のコロナを巡る不条理な動きを見ると、そこに悪意ある意図を感じざるを得ないが、人間の機械論的考え方自体が、やはり霊的な敵対勢力にその起源があるのかもしれない。現在の状況は、長い期間をかけて準備されてきたのである。