k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

神智学と再臨のキリスト、そして菩薩問題

 これまで何度か、キリストと仏陀キリスト教と仏教の関係について論じてきた。両者には、底流において深い結び付きがあるということが理解されたと思う。

 仏教の関係で菩薩にも話が及んだが、シュタイナーの立場では、菩薩とは、神霊達の導きあるいはキリストの教えを人類に伝える役割をもった人類の指導者であった。ただ、そこには、それが人間なのか霊的存在なのかという問題があることが分かった。
 仏教において、菩薩とは、仏陀(悟りを開いた人)になる前の段階の人間をさすが、シュタイナーは、「菩薩の総体が聖霊」等とも語っており、その様な場合、どうしても菩薩を人間と考えることが難しいのだ。

   イエス・キリストについても、人なのか神なのかという議論がありうる。人智学的立場では、「人間であるイエスに神的ロゴスが宿った存在」となる。しかし、そのイエスの自我がキリスト霊となっているので、キリストを受け入れた後のイエス(それによりイエス・キリストとなった)を、普通の人間とは言えない・・・と、このように複雑怪奇な議論になってしまうのだ。

 そもそも人間とは何かということも難しい。実は、天使も「人間の段階を経てきた」とされるので、霊的存在達も、「人間」であったことがあるということになるからである。

 また現段階の人間も、肉体の他に自分の中に霊的部分をもっており、あるいは、自分以外の霊的存在が人間の中に入り込んでいたりということもあるらしい。さらに、人間も霊的存在達も、全てが同じ進化段階にいるのではなく、その存在により進化の度合いが違うのである。より進んだもの、遅れたものがいるのだ。

 実態はこのように複雑なものだから、同じ言葉でも、その時の文脈でその真の意味を理解することが必要となる。そうでないと、その言葉に惑わされ、誤った理解に至ってしまうおそれがあるのである。

  

 さて、人智学は、シュタイナーが創始した、霊的認識を人類に普及するための運動であるが、最初、シュタイナーは、やはり同じような趣旨の秘教的団体である神智学協会に属していたことはご存じの人も多いだろう。

 神智学協会は、ヘレナ・P・ブラヴァツキー、ヘンリー・スティール・オルコットらが1875年にアメリカのニューヨークで結成した団体であるが、その思想は、ブラヴァツキーが「マスター」と称される存在から得たとされる教えが主体となっている。

 しかし、協会内で、神智学協会の第2代会長であったベサントとリードビータ(レッドビーター)により、クリシュナムルティという青年を世界教師(=キリストの再来)であるとする動きが起こったのだが、これは、キリストはエーテル界に出現するとするシュタイナーの立場では決して受け入れられないことであった。このようなことから、1912年にシュタイナーは神智学協会を脱退することとなったのだ。ちなみに、後に、キリストの再来であることをクリシュナムルティ自身が否定する事態となり、この運動は終焉した。

 今回紹介する論稿は、この出来事に関係して、神智学協会の問題点を指摘したトマス・メイヤー氏の文章である。

 『菩薩問題』という本からの文章なのだが、この本は、書名の通り、人智学運動における菩薩問題をその主要テーマとしている。

 菩薩問題とは、釈迦ブッダの後継者とされる弥勒マイトレーヤ)菩薩が実際に存在していて、世紀毎に活動しているとシュタイナーが述べていることから、その人物は誰であるかという議論である。シュタイナー自身は、この人物について詳しく語らなかったため、様々な意見が生まれてきたのである。先に出てきたクリシュナムルティも、神智学協会内では、再来のキリストであると同時にマイトレーヤであるとされていたのである。

 このような問題を扱うことから、以下の文章には、シュタイナーによる「菩薩論」について触れられている。ここに、冒頭の、菩薩は人間か霊的存在かという問題の一つの解釈がでてくるのである。

 文中に「マスター」(ドイツ語ではマイスター)という言葉が出てくるが、これは、神智学協会のマスターと同じで、霊的に進歩した人類の指導者のことである。神智学協会も人智学も背後にはこのようなマスターが存在していたのである。

 そして神智学協会の問題は、当初関わっていたマスターとは別の勢力が神智学協会に影響を強めていき、それを利用するようになっていったことにあるらしいのだ。協会が反キリスト教的性格を強めていき、シュタイナーと対立したことの真の原因である。

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神智学運動の起源と目的

 ここで、神智学運動について簡単に見てみよう。この運動は、H.P.ブラヴァツキーによって生み出され、育てられ、ある謎めいた人物たちによって見守られてきた、一見すると理解しがたい重要な霊的潮流である。しかし、歴史研究においては、単なる事実関係や便宜的な記述にとどまらず、その本質を洞察することが必要である。

 ルドルフ・シュタイナーは、これらの人々を「智恵と感情の調和のマスター」と呼び、「マスター」という言葉で、「この世の経験のすべてを自分に吸収し、それによりすべての対象を見極め、それによって創造的に働くことができる」人間を表したのである。ルドルフ・シュタイナーはさらに、彼らをこう特徴づけた。「マスターとは、人間の発達のあらゆる段階を経て、しかし他人より速いペースで、自らを人類の指導者にまで高めた人のことである。」このことから、マスターがいかに優れたな存在であろうとも、それにもかかわらず人間であるということが推測される。なぜなら、「魂達はさまざまなスピードで発展してきた.また、......非常に急速に進歩し、他の人よりも自分の転生を十分に使い、したがって、他の人類が非常に遠い将来にしか到達できないような高貴な霊的レベルに立っているような魂も存在するのです。......しかし、彼らを魂として考えるとき、......彼らは他の人々と同様の発展の過程を経たと言うことができるのです。」

 このような高度な人間の魂は、ルドルフ・シュタイナーによれば、自分自身のために人間の身体に転生する必要はなくなったが、それにもかかわらず、霊感をあたえることや人の体に一部入り込むこという犠牲的な自由な行為によって人類の進化の流れに入った他のある種の個性と区別されなければならないのである。ルドルフ・シュタイナーは、これらの存在を東洋の用語にならって「アバター」と呼び、キリストをすべてのアバターの中で最も偉大な存在として語っている。

 マスターたちは、「すべてのマスターの中のマスター」であるキリストと非常に特別な関係にある。彼らは、「人類の進歩が、ゴルゴダの偉大な出来事の生きた理解にかかっていることを知っている」者であり、「智恵と感情の調和のマスター」として、人類を導く偉大なロッジに結束している。

 このロッジは、そうした12人のマスターの共同組織で構成されており、各文化時代をとおして、時間の転換点にあるキリストが行った行為を理解するよう人類に教えることが任務である。それが彼らのすべての努力の目標である。この12人は、"霊的勇気の与え主 "と呼ばれ、聖ヨハネ福音書の作者は "真理と智識の霊 "と呼んだ霊から、理解の光を受け取っているのである。それは、キリスト教の伝統と、また現代の霊学にとっても聖霊として知られている-「かつて炎のような舌が生きた“言葉のシンボル”のように使徒たちの上に浮かんでいたように、キリスト自身によって告げられた聖霊は、12人のロッジの上に光として君臨しているのである。聖霊は、われわれが智恵と感情の調和のマスターと呼ぶ人たちの力強い教師である。」同時にルドルフ・シュタイナーは、「この聖霊は、それをとおして人がキリストのなさったことを理解することのできる霊にほかならない。キリストは単に働くだけでなく、把握されること、理解されることを望んだからである」と強調して断言している。

 この「擬人化された我々の世界の普遍的な智恵」は、キリストの霊によって空間の12方向に送り出され、したがって12の異なる側面の下で考慮されることになる。これらの擬人化された部分要素は、東洋の用語ではそれぞれ「菩薩」として知られており、12重のプレロマだけが西洋のオカルトで「聖霊」と呼ばれるものを表している。ルドルフ・シュタイナーはしばしば「菩薩」という言葉を、「それ自身、我々の世界の智恵を擬人化した存在であるものの一部分」としてではなく、この存在によって照らされ、歴史の過程で何度も何度も、よく定められた間隔でその中にそれが入り込む器として使われる人間の個性を示すために使っている。この点は、以下の文章とエリザベート・フレーデの二つの講演で述べられていることを理解するために不可欠である。ルドルフ・シュタイナーが後者の意味で菩薩の地上での使命について語る場合、それはいつも、「智恵と感情の調和のマスター」という用語に正しく相当するものである

 これらのマスター、すなわち菩薩の個性(ルドルフ・シュタイナーによれば、その中にはマスター・イエスとクリスチャン・ローゼンクロイツが含まれる)はすべて、日々の仕事を行う際に最も厳しい匿名性によって長く守られており、ほんの一握りの特別な準備をした弟子によってのみ認識されうるものであった。このことは、彼らの崇高な使命をよく考えてみればわかることで、彼らが公然と活動すれば、現在の世界情勢の中であらゆる面で妨げられ、危険にさらされることになる。

 このような個性が、歴史的な出来事の舞台裏で働いており、年代記や文書を通じて私たちに知られているが、神智学的運動の真の創始者なのである。H.Pブラヴァツキーは、科学的唯物論に沈みかけていた西欧世界に、霊的叡智の体系を伝えるのに最も適した道具として、当時、彼らによって選ばれたのである。

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 ルドルフ・シュタイナーによる重要な指摘によれば、「世界規模の神智学的運動の全仕事、全使命は、あのインスピレーション、キリストが“霊“と呼ぶ力を実践することである。」そして、運動の背後にあるインスピレーションの真の源に関するルドルフ・シュタイナーのこの指摘と、これまで述べてきたすべてのことを通して、我々は、運動の本来の目的の真の姿-つまりキリストがなされたことを理解するということ-を得ることができるのである。このことは、シュタイナーの次の言葉によって確認される。「宇宙とそこにある霊存在を理解するために神智学運動が集めた知恵の宝は、”聖霊“を通じて12のロッジに流れ込む。そしてそれが最終的に人類をキリストとゴルゴタの出来事についての自由で、自己意識による理解へと一歩一歩導く。このように神智学を”修める“ことは、キリストによって聖霊が世界に遣わされたことを理解することであり、神智学を追求することは真のキリスト教潜在的に含まれているのである。」

 ルドルフ・シュタイナーの神智学以前の初期の著作を見ることによって、彼が神智学の動きに公式の立場で関与するずっと前に、この意味で神智学を修めていたことが容易に証明できるのである。

 

神智学徒の根本的なキリスト教の誤り

 H.P.ブラヴァツキーの魂が、霊の知恵がそれに流れ込むように特別に準備されていたとしても、そのことによって、霊を渇望する魂を、知性の領域を通して実際の霊界に導くこと、言い換えれば、自由に点火できる思考の霊光を通して、魂を、霊自身が支配する領域へと導くことは決してできないのである。

 神智学運動の創始者たちの背後に立っている霊は、これまで見てきたように、この運動の真の霊感を送る者であり、この意識魂の時代には、自由な創造的思考の光によって迎えられなければならないのだ。真理によって解放されようとする者は、まず自分が獲得した真理の穀粒を差し出して、自由のうちに真理を考え始めなければならない。しかし、超感覚的世界の実際の存在を自分に作用させたり、あらゆる種類の物理的・心理的現象によって顕現させたりすることを好むならば、このような試みが、真理と智識の霊から啓示を受けることは非常に困難であるだろう。

 ブラヴァツキー自身が、その混沌とした魂の態度から、思慮深く科学的な視点に対する嫌悪感を抱いていたとすれば、それは彼女の直属の弟子たちにおいて、より顕著になったのである。こうして神智学運動の霊感に満ちた智恵の宝庫は、彼女とその弟子たちを通じて、ますます一方的でディレッタントなやり方で歪曲されるようになったのである。そこに、「秘儀参入たちが......公式の神智学協会からますます大きな影響力を後退させ、......こうして神智学協会は、運動の高い目標を歪める、あらゆる種類のオカルト勢力の活動の場となった」ことの主因を見ることができる(シュタイナー全集262)。

 神智学運動の歴史から、その淵源となるオカルト的霊感を与える者達の間での進路変更が行われた証拠をたくさん得ることができる。しかし、この方向転換は、一瞬にして行われたのではなく、むしろ、少しずつ、少しずつ行われた可能性が高い。

 そのため、善意のメンバーにとっては、ほとんど、あるいはまったく気づかないほどであった。この変化の徴候には、もちろん、「マスターズ」とのコミュニケーションと思われるもの、あるいは実際にあったコミュニケーションに基づくことで自分の声明を権威づける習慣が強くなっていったことが属する。このことは、1つや2つのケースで、また何らかの手段で、真のマスターが姿を現さなかったかもしれない、ということを意味するものではない。しかし、彼らの啓示を、自由な判断や決断の基礎とするのではなく、何千人もの人々の思考(行動)を決定する権威ある言葉として受け取ったということは、エジプト文化時代のファラオの命令に、よりふさわしい心の持ちようであったことを示しているのだ。しかし、私たちがここで直面しているのは、マスターの発言に関する誤った想定に直面するだけでなく、誤ったマスターに権威の根拠を依拠している場合には、誤ったマスターにも直面していることに疑いの余地はない。神智学運動の舞台裏で起こったこの感知しがたい方向転換については、もっと詳しく見てみなければならない。しかし、それは、神智学者たちの「根本的なキリスト論の誤り」の発生と設定と関係があることから、ここで言及しなければならないのだ。

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 1907年2月に神智学協会の創設者であるヘンリー・スティール・オルコットが死去した直後から、孤児となった会員たちは、彼の死に際し、アニー・ベザントに会長職を譲るよう彼に告げに現れたとされる二人の「マスター」に指導を求めていくようになる。

 ルドルフ・シュタイナーにとって「オルコットの死の際の不条理な出来事」は「神智学会の最後の衰退の始まり」であった。しかし、同年、オルコットの後継者であるアニー・ベザントは、ルドルフ・シュタイナーに神智学運動の中のキリスト教的要素の正当性-それは最初から不可分に結びついていた要素-を主張する完全な自由を容認した。1907年のミュンヘン会議で、彼女は、ルドルフ・シュタイナーと彼のヘルパーであるマリー・フォン・ジーフェルスに、自分はキリスト教に関する問題には資格がなく、この領域はすべてドイツ支部の総書記長に委ねると宣言したのである。ルドルフ・シュタイナーが「衰退の始まり」の後の1907年9月にエドワード・シューレに「欠点があるにもかかわらず、神智学協会はまだ当分の間、今日の霊的生活の道具とみなすことができる」と記した理由は、これ以外に考えられない。しかし同時に彼は、「西洋におけるその成功した進歩とは、それがその信条の中に西洋のイニシエーションの原則を採用できるかどうかに完全に依存している」と強く強調している。東洋のイニシエーションは、必然的にキリスト原理という宇宙の中心的な要素を考慮から外さなければならないからである。

 ルドルフ・シュタイナーを除けば、協会の主要な人物たちは、キリスト原理の意味するところをほとんど理解していないか、あるいは非常にぼんやりとした、混濁した考えしか持っていなかったのである。エミール・ボックは「神智主義者の根本的なキリスト論的誤り」という言葉を作った。この誤りは、当初から代表的な人物を通じて、協会にとって脅威であったことは事実である。しかし、この誤りが、もともと優勢であったものとはまったく異なる霊の前触れとして、運動の中にしっかりと根を張り、すでに述べたような軌道修正と正確に同期し始めたのは、今世紀(20世紀)に入ってからであった。

 この根本的な誤りは何からなるのだろうか。その基本的な要素は、ナザレのイエスを、紀元前2世紀に生まれたエッセネ派の中心的人物イエズス・ベン・パンディラと混同していることである。

 タルムードの文献から推測するに、イエズス・ベン・パンディラは前105年から70年の間に生きていた。エジプトでの長い滞在の後、テラペウタイ派とエッセネ派の教化者として活躍し、パレスチナに戻った後は、キリストの到来に備えて弟子たちを準備した。その中で、パリサイ人の支配階級との対立がますます激しくなっていき、紀元前70年頃、石打の刑に処せられ死んだ後、さらに木に吊るされるという屈辱を受けた。

 この二人のイエスに関して生じた混乱は、名前の類似とは別にして、その性格が似ていることから生じたものである。紀元2世紀には、ギリシャの哲学者ケルススがこの混乱の餌食になった。彼の時代以降、この混同は二千年以上にわたって拡大し、1899年にエルンスト・ヘッケルが著した『宇宙の謎』など、広く流布した書物の中に再び登場する。この最も悲惨な混乱が、どこででも主役を演じるときはいつも、パンディラの本質と重要性を隠すだけでなく、イエスの生涯のキリスト的な側面をも必然的に覆い隠してしまうのである。

 ブラヴァツキーの最初の重要な著作である『ベールを脱いだイシス』は、全体を通してイエスパンテラの子またはパンディラと呼んでおり、彼女の信奉者もまたこの誤りを永続させている。したがって、アニー・ベザントは、彼女の『秘教的キリスト教』で、イエスの誕生を、プブリウス・ルティリウス・ルフスとグナエウス・マッリウス・マクシムスが執政官の時代である紀元前105年に置くいている。

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 ルドルフ・シュタイナーの霊的調査によれば、今から約2500年後にブッダとなるべき菩薩は、この誤解された個体を通して働き、その仕事は、42世代を通してのキリストの降臨について教えることであった。本書の「はじめに」ですでに説明したように、すべての菩薩は、多くの「転生」を経て、最終的に「マスター」または「担い手」の特別に選ばれた肉体において、そこに初めて完全に入り込み、それが最後の受肉となる、地上での生のうち最も重要な人生に達するのである。この地上での最後の人生の間に、彼は新しい仏陀になり、それ以降は霊界から人類の歴史に降りてきて働くだけとなるのだ。仏陀になる瞬間に、当該の個性は、5千年後に次の仏陀となることが運命づけられている菩薩に、地上での仕事の炎を手渡すのである。こうして私たちは、今、約2,500年後の、紀元前6世紀、29歳のときに菩提樹の下で悟りを開いた歴史的に有名なゴータマ・ブッダが、その後継者として指名した新しい菩薩が仏陀になる時に向かっているのである。イエシュ・ベン・パンディラの守護者であったこの後継者は、東洋のオカルティズムでは弥勒菩薩と呼ばれている。

 菩薩と、その霊感を受けた者として活動する人々は、主にキリストの出来事を教え、解釈する者として働くことは前に指摘したとおりである。この事実を認識することによってのみ、私たちはイエシュ・ベン・パンディラの非常に特別な仕事、すなわちエッセネ派のメンバーに来るべきキリストの肉体の受肉を告げ知らせるという仕事を理解することができるのである。

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 以上のメイヤー氏の論稿からわかるように、菩薩が人か霊的存在かという問題については、結局、ともに正解ということであろう。菩薩は、世界の智恵=「聖霊」の一部である霊的存在であり、地上においてそれからインスピレーションを受けた、器としての人間(マスター)も菩薩ということである。

 ただ、マスターとしての菩薩は、あくまで人間であり、その個我は、転生の主体として存在しているのだ。キリストの肉体への受肉は一度きりの出来事であるが(再臨するのはあくまでエーテル界においてである。このことを神智学協会は理解しなかったのだ)、マスター達は、霊界と地上を行き来しながら(このことにより霊界と地上をつなぐ役割も持っている)、幾度も受肉を繰り返すのである。

 マイトレーヤが誰であるかについては、人智学者によって何人かの名前が挙げられているが、今も謎である。表だって活動するような人物ではないのかもしれず、そうであるなら、なおさら特定することはできないだろう。悪が支配する時代において、一方でこのような存在がいることは救いに思えるのだが、敵対勢力からすれば邪魔な存在である。危惧するのは、地上で活動するには、肉体が必要なのだが、今、それにふさわしい体を見つけるのは容易なことではないと思われることである。人々の体は、ワクチンや様々な毒物に汚染されてしまっているからである。そもそも霊界と人間を切り離すことが敵対勢力の目的であり、それが実現してきていると言うことでもある。

 神霊的存在としての菩薩と、それから霊感を得る人間としての菩薩がいるという考えは、実は仏教自身にもあるのではなかろうか。仏教では、観音菩薩文殊普賢菩薩などは、むしろ信仰の対象となっており、人間と言うよりも神霊的存在のように思えるのである。私は、昔から、そもそも、菩薩は人であるはずのに、なぜ菩薩の仏像があり、それを本尊とするような信仰もあるのかが不思議であったのだが、このように、実は神霊的菩薩も存在しており、両者は次元の異なる別の存在であると考えれば理解できるのである。
 この菩薩の問題は、西洋と東洋の霊性をつなぐカギでもある。人智学派には、これをテーマとする本は他にも存在するので、いずれ紹介したいと思う。

 神智学協会の問題には、東西の霊性の相克が背後にあるようなのだが、これも今後の研究課題である。