
現在パリでオリンピックが開催されている。かねて商業主義や政治との関係で批判をされてきたオリンピックであるが、今回も、ロシアは出場が拒否されたのに、イスラエルが許されるというダブルスタンダードにより、「平和の祭典」の欺瞞性が明らかになっている。
また、今回は、その開会式のグロテスクさが物議を醸し、「国際的」には大きな問題となっている。しかしこのことは、日本ではマスコミがあまり取りあげていないので、知っている人はまだ多くないかもしれない。
私は、オリンピック自体にはそれほど興味が無いのだが、開会式は気になっていた。以前から、開会式には奇妙は演出が施されるという噂があったからである。例えば、2012年のロンドン・オリンピックの開会式では、新型コロナ流行が予言されていたというような主張である。
こうしたことから、今回はどんな開会式になるのかという興味はあったのである。と言って、私は、パリの開会式を生では見なかったので、以下のことはXで知ったのである。
Xでは、色々な指摘があるが、一番象徴的と思われるのは、キリストの最後の晩餐をモチーフにした場面で、それを侮辱した演出がされたことだろう(主催者側はこれを否定しているようだが)。これはキリスト教を侮辱するものだとして、批判の声が世界中であがっているのだ。トランプやプーチンもこれを批判的に取りあげており、アメリカの大手スポンサーなどは、これを理由にスポンサーを降りたようである。
ノーベル賞もその様であるが、もとより、世界的なイベントというものは、当初はそうでなかったかもしれないが、利権化していき、また特定勢力により政治的に利用される運命にあるようだ。ただこのブログとしては、そこに秘教的意味を見たいと思うである。
Xなどの投稿をみると、今回のパリの開会式には、「悪魔的」ともいえそうな趣向が色々と盛り込まれており、それはかなり露骨であったというような主張が散見される。開会式はむしろ悪魔崇拝の儀式だったというのである。またそれは、上に書いたように、キリスト教に対する侮辱や嘲笑と見ることも出来る。
このブログで紹介してきた論考からすれば、今欧米を覆っている黒い影のおおもとには、霊的勢力が潜んでいるとみなければならない。こうした勢力は、聖なるものに対抗する者達であり、彼らが最後の晩餐への侮辱を表明するのも理解できるだろう。
また、私は、理由はわからないが、こうした勢力は、自分たちの企みをあえて予告するようであり(色々と解釈はあるようだが)、ロンドン・オリンピックの開会式は、実際にその様なものとして理解できるかもしれない。今回も、次のパンデミックが予告されているという指摘もあるようである。
さて、今回この問題を取りあげたいと思ったのは、この問題を考える上で以前ブログに掲載した論考が参考になると思ったからである。それは、2つある。
先ず1つだが、今回のオリンピックが第33回であることに関連する。第33回ということを私は最初気付かなかったのだが、たまたまそれを述べているXの投稿(投稿者は外国の方と思われる)を目にして知ったのである。
その投稿は、ある種の陰謀論的なものを匂わせているが、その投稿の中では、具体的に説明されていない。しかし私は、日頃33という数字にこだわっているので、その投稿が示すものを自分なりに了解したのである(従って、投稿者自身の意図とは実際には違うかもしれないが)。
33が示すもの、それはイエス・キリストである。イエス・キリストの生涯は33年間であったのである。
そしてこれに関連するブログ記事として、「シェークスピアの暗号」をあげることができるのである。
https://k-lazaro.hatenablog.com/entry/2023/12/14/085051
この記事は、デイヴィッド・オーヴァソン氏の『シェイクスピアの秘密の書物 神秘的で薔薇十字的な暗号の解読』という著作を紹介したものである。この本は、表題のようにシェイクスピアを取りあげているが、それだけに留まらず、同時代のイギリスにおける薔薇十字運動について述べたものであり、それらの底流に流れる象徴的数字として33の秘密が述べられているのだ。
それは、「33という数字の意味は、人間の(高次の)自我であるという」ことである。 なぜなら、先に述べたように、「自我を代表する神的存在はキリストであり、キリストの生涯は33年であったからである。」
このように33の意味を解釈すると、パリ・オリンピックの悪魔的セレモニーの意図が透けて見えてこないだろうか?
つまり、33回目のオリンピックとは、本来であれば、キリストという霊的聖的存在に結びつくべきイベントのはずであるが、キリストに対抗する勢力にとって、それは認められないことである。それを否定したい者達は、キリスト教への冒涜的演出を行い、まさにキリストを冒涜したのではなかろうか?
そしてこのようなキリスト教への攻撃は、実は既にあちこちで起きているのではなかろうか?以前、ヨーロッパでは、放火などの、教会への破壊的攻撃が散見されるようになっているという報道を目にしたことがある。その原因としては、異文化の移民の増加という背景を持ち出すことも可能であろう。だが、まさに、2019年のパリのノートルダム大聖堂の火災も含め、私は、むしろ聖なるものを嫌悪する者達の攻撃ではないかと思っているのである(公式には、ノートルダム大聖堂の出火原因は特定できないとされたようであるが)。
もちろん、攻撃は、教会という物質的なものだけが対象ではなく、協会の組織や教義そのものにも向けられていると考えるべきである。この関連では、既にブログに掲載している記事における人智学者のカトリックや教皇に対するいくつかの指摘が参考になるだろう。
さて、次の問題であるが、これは、シュタイナーが予見した、現代において人類が遭遇するとされる危険な状況に関わるものである。
今回のパリの開会式は、上に述べた部分でいえば、「グロテスク」なものであったといえるだろう(私は全体を見ていないので、式の全体をその様に表現できるかどうかは別である)。歌う生首、ひげを生やした女装の人やほぼ裸の男性などなど・・・これらは、テレビを通じて大人だけでなく子どもも見ている中で放送される内容とは、私には思えない。
確かに、これは私の主観であり、他の人にとってはそうでないかもしれない。だが、一昔前であれば、それがほぼ共通の感覚ではなかっただろうか。かつてであれば、少なくとも、公衆に対して誰でも見られるテレビで流されるような内容ではないと思われる。だが最近では、以前はグロテスクゆえに拒否されていたものが許容され、場合によっては推奨されてきているのではなかろうか。今回の開会式はその延長線上にあると思うのである。
しかしこうした傾向はまだ特に非欧米社会では、そう強くないだろう。この開会式についてプーチンも批判的に論評しているが、ロシアや東欧の一部、イスラム社会では、パリの開会式への嫌悪感が強く表明されていることにも、それは表れている。
これは、価値観の変化の問題ともいえるが、霊学的に重要なのは、これが、人類の自然な精神的進化の過程において現われた現象であるかどうかということである。プーチンは、しばしばこうした退廃的な欧米文化を、そしてその自国への侵略を批判しているのだが、「伝統的価値観」を重んじる非欧米社会では、概してこうした欧米文化には批判的な傾向にあると思われる。そして、一部の人智学者も、これに批判的な意見を持っているのである。
なぜなら、それは、むしろ人類の霊的進化を歪めるためになされていると考えられうるからである。
これに関する記事は既に掲載しているが、以下にその部分に絞って再掲する。
https://k-lazaro.hatenablog.com/entry/2023/03/09/085525
(ここから)
「きれいは汚い、汚いはきれい」
これは、シェイクスピアの「マクベス」の冒頭の一節にある魔女達の台詞である。神(そしてそれに従う人間)と悪魔では価値観が逆ということだろう。
今世界中で起きているのは、ひょっとしてこのような価値観の逆転を進めようという動きなのだろうか?
これまでこのブログでは、霊的進化に対する対抗勢力が世の中の出来事の背後で働いているというような記事を数多く載せてきた。それは、コロナやウクライナ問題でもかいま見えるものであったが、これらは、直接人間の生存や生活に関わる健康や安全の問題、経済や政治の問題であった。
では文化に対する「攻撃」は無いのだろうか?プーチン流に言えば「伝統的価値観」に対する攻撃である。
対抗勢力の攻撃は、当然、人間のすべての方面に及んでいるはずである。無いはずはないだろう。
今回は、これに対する示唆を与える内容をもっている記事を紹介する。・・・
著者は、スティーブン・クリミという方で、「ノースカロライナ州アッシュビルにあるロゴソフィア・ブックスの出版人である。
この記事はシュタイナーの「予言」を幾つか紹介しており、その一つが文化の問題に関わっている。天使は、人間の睡眠中に、人類の未来にとって必要なイメージを人間に与えているのだが、人間がそれを認識できないと、それは、「意識的な霊的活動ではなく本能となり」、「...性生活と結びついた本能は健全なものではなく、有害な形で発生することになる。...ある点で、醜さは美になり、美は醜さになる」というのだ。・・・
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ルドルフ・シュタイナーの21世紀への予言
反霊的なワクチン、アーリマンとテクノクラート的終末論
スティーブン・クリミ
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シュタイナーは、2000年代初頭の人類は、2つの選択に直面していると考えている。一つは、次の進化段階への到達が私たちの意志、すなわち私たち自身に対する霊的な働きかけによって起こるか、あるいは
「もし地上の人類が、未来に関する重大な霊的啓示を眠ったままにしておくとしたらどうでしょう。その場合、天使たちは、人間の意識の中で彼らが織り成す絵が意図することを達成するために、別の手段を試さなければならないでしょう ... ... 第三千年の始まりの前に ... しかし、この仕事を天使たちが、人間自身が参加せずに、睡眠中に行うことを余儀なくされたらどんな結果になるでしょうか ... ... そうなると、意識的な霊的活動ではなく本能となり、したがって有害なものとなります。...誕生と受胎の神秘、全体として性生活と結びついています...性生活と結びついた本能は健全なものではなく、有害な形で発生することになるのです。これらの性本能は単なる異常ではなく、社会生活に入り込み、それを構成するでしょう ... 科学の専門家は、それは人類の進化における自然で必然的な発展だと言うでしょう ... (人間は)ある種の性的衝動の異常さに従うことに満足を覚えるようになり、それを超人的な、慣習からの自由な、広い心を持った、特に高度な発達の証拠と見なすでしょう . . . ある点で、醜さは美になり、美は醜さになるのです。」
我々は、現在の性の泥沼についての、100年前の明確な予言をもっているのである。映画や音楽ビデオの中でS&Mが常態化し※、ペドフィリアや儀式的な悪魔的虐待が流通し、パワーエリートの食料となっているのである(シュタイナーが暴露した暗い精神力は言うまでもない)。エスキモーが雪という言葉を持つより多くのジェンダーがある。自分の子供をトランスジェンダーすることはかつてタッパー容器パーティーだったように単なるブームだ。自分の魂の上に異常なタトゥーを入れるほど、ますます自分は進化しているのだ、と。この大きな悪の連鎖に沿い、暴露し、起訴しようとする努力(2017年以降、さまざまな児童虐待の逮捕者が劇的に増え、裁判にかけられない人たちの程度が明らかになった)は、メディアの沈黙、司法の妨害、政治的追放、ソーシャルメディアの検閲にあっている。
※ スーパーボウルやオリンピックのセレモニーなど、文化的なイベントでの暗黒の儀式を思い浮かべてみてください。
合意consensualに基づく行為(この言葉は「性的“sensual」と「合意consensus」を融合しているのが興味深い)を行う絶対的な権利を中傷することなく、BDSM[人間の性的な嗜好の中で嗜虐的性向をひとまとめにして表現する言葉]の社会化という観点からシュタイナーが言っていることを「浮き彫り」にしてみよう。
この天使の「絵画の織物」は、秘教的伝統が「イマジネーションの領域」と呼ぶところで行われる。これは、感覚的な物理世界の経験と絶対的なものにおけるその否定の間の境界の「場所」であり、私たちが夢を見、神話的な経験をし、神話に関わり、インスピレーションを得て、シュタイナーにとっては役に立つ霊と害を及ぼす霊との両方と遭遇する場所である。文化的に私たちの生活がより具体化されるにつれて、「私たちが神に近づくと、神も私たちに近づく」という法則はますます現実的でなくなる。シュタイナーにとって、そして通常アブラハムの宗教では、神は天使の代理を通して近づいてくる。他の伝統では、それらを「高次の自己」、「ミューズ」、「同盟者」、「デーモン」等と名付けられている。起きている間に、自分自身に対するある種の神聖な働きかけがなければ、これらの味方は私たちの意識的な注意に彼らの「絵」をもたらすことが非常に困難である。これらの絵は、シンボル、アレゴリー、幾何学、神話に符号化されたメッセージである「パックされた思考形態」と呼ぶことができる。文字を読むだけでは、流砂とともに沈んでしまう。私たちは、情報を得るために読むことしかできないところまで脱教育されてしまった。象徴的な思考も、活発な想像力も、ほとんど失われている。かつて私たちの精神の中で機能していた器官は萎縮してしまったのである。
そのため、天使は霊的に不活発な人々に、唯一の開口部である睡眠を通してコンタクトを取らなければならないのだ。シュタイナーと同時代のフロイトが、イドとリビドの組合わせ、つまり意識の代わりに本能と呼んでいたものによって、これらの霊的刻印は変質し、異常な性欲によって表現されるようになる。そこから、肉欲から霊的なものへの反転が起こるのである。
霊的な結合という言葉には、性的な響きがある。歓喜、エクスタシー、情熱、憧れ、至福、貪欲、熱狂などは、性的なものと霊的なものの両方の飢えを表現している。
このような世俗的な欲望と神的な欲望の融合は、文学と同じように長い間続いてきた。特に中世のトルバドゥールやスーフィの詩では、最愛の人は地上におけるダブルであり、ワインに酔うことは霊的な体験である。恋人への献身は、もともと女神崇拝であり、後に宮廷での崇拝となったと正当化することができる。しかし、それが性的刺激の名の下に苦痛、虐待、屈辱を与えることに発展すると、シュタイナーが言うように「異常」な行為に移行してしまうのだ。
カトリックのヨーロッパの伝統は、懺悔と浄化のために、腰帯、自動フラグメンテーション、身体に向かってスパイクのついたベルト、その他、多くの人がマゾヒスティックと考えるような装置を導入し、自分が関与していないにもかかわらず何らかの責任がある原罪を悔い改めるために行われた。一方、ラコタ族のサン・ダンサーは、確かに痛みを伴う儀式を行うが、その犠牲は部族のため、あるいは治癒のための力のために行われる。タパスは古典的なヨガの八支則の一部で、「摩擦」を意味し、「極限に耐えること」として定義される。
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シュタイナーが予言した「社会生活の中に入り込む」この異常なものすべてについては、現在ではすべてそうなっている。S&Mフェティッシュ・ウェアは今や商品化され、ファッション業界に浸透した。ポップミュージックには、同じ声を持つ女主人姿のロボットがあふれ、心理学研究室で作られたエレクトロビートで、性的器官への賛美を歌いながら、プリプリした男女が回旋する。テレビコマーシャルは、男性用陰毛剃り(幼児性を助長)を売り、月経中の男性像を描いている。
社会学者は、分裂したセクシュアル・アイデンティティを持つことの進化的必要性、インターセクショナリティ的寛容への社会的信用、トランスジェンダーである幼児の文化的利益を賞賛することにより、簡単に博士号を取得している。
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真理、美、善は、プラトンの哲学者にとって可能な最高の実現の3つの側面であった。つまり、3つのうちの1つを知り、悟り、体現すれば、それらすべてを体現することができるということだ。美が醜になるとどうなるか?
北米や西ヨーロッパの人々は今、西洋文明の歴史の中でほとんど前例のないレベルの醜さを日常生活で受け入れている。音楽はどこにでもあり、ほとんど避けられないものだが、高揚させることも、心を落ち着かせることもなく、耳をかきむしり、時には卑猥な言葉を吐き出すこともある。われわれの造形美術は醜い。建築も醜い。歴史上、人類が同じような残忍さの中で生きてきた時代も確かにあったが、現代は決定的に違うのである。第二次世界大戦後の現代は、歴史上初めて、これらの恐怖を完全に回避できる時代なのだ。私たちの時代は、人口の増加にかかわらず、地球上のすべての人を養い、住まわせ、教育し、人道的に雇用するためのテクノロジーと資源を持つ最初の時代である。しかし、最も恐ろしい問題を解決できるアイデアや実証済みのテクノロジーを見せられても、ほとんどの人はなだめにくい受身に退いてしまう。私たちは、醜いだけでなく、無力になってしまったのだ。
それでも、現在の道徳的・文化的状況が合法的に、あるいは自然にそうならざるを得なかった理由はなく、この醜さの専制がこれ以上一刻も続く理由はないのだ.
100年ほど前は、まるでルネッサンス期の素晴らしい成果を列挙した長いチェックリストが作成されたかのようであった-それぞれが逆になった。この「ニューエイジ」運動の一環として、人間の魂という概念は、歴史上最も声高な知的キャンペーンによって損なわれ、芸術は科学から強制的に切り離され、科学そのものが深い疑念の対象とされた。芸術が醜くなったのは、人生が醜くなったと言われたからだ.
私たちは、私たちの周りに見られる醜さが、意識的に醸成され、そのように組織化され、国民の大多数が、私たちの文明が築かれた思想と方法を次の世代に伝える認知能力を失っているという事実に直面しなければならないだろう。このような能力の喪失は、暗黒時代の主要な指標である。そして、新たな暗黒時代とは、まさに私たちが置かれている状況なのだ。このような状況では、歴史の記録は明白である。ルネッサンス、つまり文明の起源となった基本原理の再生を起こすか、あるいは文明が滅びるかのどちらかである。
醜さとは、CIAが実際に導入したプログラムである※。そこでは、抽象表現主義、無調音楽、筋書きのない文学、分断された彫刻、人間の共鳴する側面を持たない建築などが、社会主義に対抗するという理念のもとに促進、強化された。その真の目的は、社会的マルクス主義と批評理論に完全に合致するが、我々を退廃させ、芸術のあらゆる高揚した側面を消滅させ、我々の想像力と基礎となる歴史から我々を切り離すことであった。
抽象表現主義とそれを支援するアメリカ国務省の関係には、魅力的なパラドックスと双子座の皮肉があるのだ。
※ フランシス・ストーナー・サンダース『文化的冷戦:CIAと芸術・文学の世界』ニュープレス社、第2版、2013年。この作品は、2007年にCIAが初版の辛辣な批評を書かざるを得ないほど神経を逆なでしたらしい。https://www.cia.gov/library/center-for-the-study-of- intelligence/csi-publications/csi-studies/studies/vol46no1/.
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この美の喪失は、私たちに毒を注入しているのと同じ「人々」による計画された努力として理解しなければならない。以下の文章は、シュタイナーが100年前に予言したワクチン展開の始まりに書かれたものである。
「今地上に広がっている、光の霊が活躍し続けるために必要な正しい要素に混乱をもたらすことが、これら闇の霊の主な関心事となるであろう。彼らはこれらを間違った方向へ押しやろうとする。私はすでに、可能な限り逆説的な、そのような間違った方向の一つを話した。人間の身体はある種の霊性が宿るように発展していくが、闇の霊の指導のもとにますます広がっていく物質主義的傾向は、これに対抗して物理的手段で対抗していくだろうと指摘したことがある。闇の霊が宿主である人間を鼓舞して、まだ幼い人々の魂から霊性への傾きをすべて追い出すワクチンを開発し、それが生きた肉体を通じて遠回しに行われると話した。今日、身体はあるものに対して予防接種を受けている。将来、子供たちは、確実に製造できるようになる物質で予防接種を受け、それによって免疫ができ、精神生活に関連した愚かな傾向-もちろん、ここでは唯物論者の目には「愚か」と映る-を身につけないようになるだろう。・・・」
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アーリマンの忌まわしい唯物論の影響は、伝統的に「元素(エレメンタール)界」または「元素」、特に地の元素を構成するノーム(水のウンディーネ、火のサラマンダー、空のシルフ)と呼ばれるものにも及んでいる。
「しかし、固体、土の性質を持つすべてのものは、その基礎として元素の霊性を持っていることを強調しなければならない......。固い土に住むこれらの元素的存在の顕著な特徴は、賢さ、狡猾さ、ずる賢さ、つまり一方的に発達した知性である.今、私たちは文明世界の中で知性が衰え始めている時代に生きている。
それは退廃に陥っている。もし人類が霊的世界から流れてくるものを受け入れるようにならなければ、人間のこの鈍感さの結果として、これらの元素的存在が集まって一種の連合体を形成し、最高の知的権力の指導者の下に身を置くことになるだろう。アーリマンである。」(ルドルフ・シュタイナー『元素界と人類の未来』)
それは真実のようだ。人間、特にアメリカ人一般は無関心な鈍感さを受け入れているが、一方で支配のレバーを握っている人々は、非常に賢く、狡猾で、二枚舌であるのは明らかである。彼らは、呼吸よりも欺くことが多く、私たちは1日平均25,920回呼吸しているのである42。シュタイナーは、固体の形成力である地上の元素霊、ノームが、ファラオのために共闘して働いていることを指摘している。「西側では、魂のない人々しか発展できないことが、次第に明らかになっていくだろう。」 これで、シュタイナーの時代に始まったプログラムが完成される。
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シュタイナーの発言によれば、この退廃的文化は、霊界の要請に応えられない人類自身が招いた結果であるということが言えるが、クリミ氏が述べているように、霊界に対抗する勢力は、これを利用し、それを促進しているということであろう。
「性的倒錯」については、今回は触れないが、更に恐ろしいことを指摘する「陰謀論者」もいる。「多様な性的嗜好」をどこまでも認めるというなら、ひょっとすると、そうしたこともありうるのかもしれないとは思う。対抗勢力が以前から存在しており、それらにつながる人達がそもそもそうした行為を好んでいたとするなら(そこには黒魔術的意味合いがあるかもしれないが、従来はタブー、あるいは犯罪ですらあったものも含まれるだろう)、それを一般化しようとする可能性もあるだろう。
今回のオリンピックに限らず、世界中で起きている現在の様々な現象には、「悪魔的」とも言いうるようなものが散見されるようになっているのではなかろうか。今回のものは、ある意味で極端なものだが、より程度の低い「異常」なものが日常生活に浸透してきており、それに慣らされ、その異常さに気付かず、それを当然のものとして流してしまう傾向が育っているようにも思うのである。
対抗勢力の戦術は、極めて巧妙である。美辞麗句の裏にどす黒い思惑が存在している可能性がある。常に批判的に世の中の出来事を観察しなければならない時代になっているのではなかろうか?