※前回は、前々回の「クムラン写本における二重のメシア待望」の後編の予定であったが、別の本を読んでいる内に、8月15日の意味について気づき、急遽「マリア問題」をとりあげることとした。「二重のメシア待望」の後編は、次回掲載の予定である。
前編では、"マリアの身体的被昇天 "のドグマの経過やそこに込められたバチカン内の勢力の意図、そしてそれがファティマ等の「マリア出現現象」とも関連していることが語られた。
後編では、更にその深層と、それに対する人智学的立場からの理解が述べられる、
その内容は、ある人(私も含まれるが)には結構ショッキングなものとなるかもしれない。私には、その正否を論じることは出来ないし、その主張を人に押しつけようとも思っていない。ただ、人智学 的立場から、シュタイナーの主張からすれば、筋が通っていると思われるということは触れておこう。
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7 西洋と東洋の共存という考え方の起源は何か?
... ここしばらくの間、カトリック教会が共産主義に対する態度を見直し、共存の方向に転換しつつあるという考えがますます頻繁に出てきている。おそらく、教皇の前衛としてのイエズス会は、共産主義を受け入れることができるライン.を手探りするためのステップをすでに踏んでいると言われているのだ。
バチカンの新聞『オッセルバトーレ・ロマーノ』のフェデリコ・アレッサンドリーニ編集長は、少し前の記事で、ローマと共産主義国家との協和の可能性の問題を扱い、これは原理的には不可能ではないという結論に達した。このことから、1950年2月13日付の『リトゥルク』4(1)号『ファティマの使徒』の中で、ファティマの聖母について「彼女は現代の最も偉大な政治家である」と述べられていることを理解することもできる。
事実、イエズス会は西洋と東洋の共存、すなわち精神的和解の考えを最初に取り上げ、強く推進した。確かに、教皇はそのための合図を送った。よく知られているように、1954年のピオ12世のクリスマス・メッセージは、すべて共存の問題に費やされている。教皇はここで、恐怖と欺瞞における共存を否定し、真理における共存を呼びかけている。
さらにいくつかの例を挙げてみよう。オーストリアのイエズス会司祭グスタフ・ヴェッターは、ヒトの法王庁研究所であるルシクムで教授を務め、最も重要なソ連専門家とみなされているが、ソ連の哲学とカトリック思想のつながりに関して、カトリックと赤い教会(強調G.B)、即ち共産主義、すなわちソ連哲学とカトリック思想の間には、外形的な類似性だけでなく、彼が言うように形式的な類似性さえある、と示唆に富む結論に至っている。彼のセンセーショナルなテーゼは、弁証法的唯物論はカトリシズムにもある程度内在しているが、ただソ連の哲学者たちはまだこの事実を認識していないということである。ソ連哲学の矛盾と緊張は、やがて解決に導かれ、弁証法的唯物論の完全な解体に至るだろう。そして、“ボリシェヴィズムはカトリシズムである-しかし、手袋のように反転した-”という、知る人ぞ知る重要な一文を語るのである。
1951年10月1日付の『ドイチェ・ターゲシュポスト』紙の同問題に関する報道によれば、『ルクセンブルク・ヴォルト』紙は1951年9月25日付で次のように書いている:
「世界共産主義のこの途方もないダイナミズムは、世俗化されたもの、すなわち地上における神の国の世俗化された思想にほかならない-ただ、この考えは反神性的で唯物論的なものに歪められている-ことを忘れてはならない。」
ドイツのイエズス会士、クレメンス・ブロックメラーが、同じくセンセーショナルな著書『原子時代の幕開けにおけるキリスト教』の中で、カトリックとボリシェヴィズムの関係について述べていることに耳を傾けてみよう。彼は次のように強調している。
「もし聖パウロが、当時の異教の思想の中に多くのいとぐちを、私たちカトリック信者がボリシェヴィズムの世界観の中に見いだしているのと同じように、見出したとしたら、キリスト教のメッセージのためにそれらを利用することをためらうことはなかっただろう。... 」
... 前述のニューヨークのフルトン・シーン司教は、数年前にこう語っている: サウロ【後のパウロ】は、チトーやスターリンが今日宗教を迫害するよりも厳しく若い教会を迫害しなかったのですか?
... 今日に至るまで、モスクワとローマ、そして衛星国との間で政教協約締結に向けた交渉が行われているというマスコミの噂は消えていない。いつ実現するかが問題なのだ。少なくとも今日、教会と共産主義との和解や内的なつながりについて公然と語ることは好都合ではない。ローマ、ワシントン、モスクワの共存を公然と認めることは、アメリカニズム、イエズス会主義、ボリシェヴィズムの結びつきを早急に明らかにすることになる。世界世論への影響を考えれば、このようなことはまだ起こってはならない。世界の大衆はまず、このつながりを当然のこととして受け入れるために、もっと準備をしなければならない。西、東、南の間の共存や理解という概念は、今日では、1917年以来実際に起こっているアメリカ主義、イエズス会主義、ボリシェヴィズムの接近。をカモフラージュし、隠すために役立っているのである-それにより、私たちは、ドイツ人の運命を悲劇的な年、1917年に引き戻される......。
つまり、次のようにいうことが出来る。教会の教義的原則も、西洋の科学的思考法も、ボリシェヴィズムも、すべて、精神【霊】的なものを否定する、ローマ法的、弁証法的、抽象的原則にまで遡ることができるのだ。【訳注】
【訳注】教義や思考法等はいうまでもなく精神的なものなので、「精神【霊】的なものの否定」というのは、この場合、個人の自由を許容しない、全体主義的かつ霊的実在に関わることのない抽象的な思考というような意味合いだろう。
この3つの潮流はすべて、869年にコンスタンチノープルで開かれた第8回エキュメニカル公会議で霊が廃絶されるに至った考え方から生まれており、そこから、イエズス会主義、アメリカニズム、ボリシェヴィズムが、そしてこの3つの反霊的勢力のレトルトから、ホムンクルスとして、国家社会主義(ナチス)が生まれたのである。この3つの潮流に共通しているのは、霊的なものの否定である。精神性、ゲーテ主義やドイツ人のファウスト的衝動の否定、キリストの衝動の無視である。西、南、東からのこれら3つの反霊的勢力の間に、ドイツ人の個我衝動とアントロポゾフィーの霊的衝動が挟み込まれている。アントロポゾフィーの霊的衝動とこれら3つの潮流の中で、光と闇、霊性と唯物論が対峙している。
こうして、私たちは、1950年11月.1日.のマリアの肉体的昇天の教義の宣布の世界史的意義の 特徴づけによって、一定の結論に達した。 私たちは今、次の問いに答えなければならない:このような世界の強力な反霊的権力に直面して、善良な側が勝利する可能性はあるのだろうか、また、希望はあるのだろうか?これらの勢力の目的と意図の実現を止しようと する努力や働きかけは、最初から失敗に終わる運命にあるのではないだろうか。世界のこれらの強力な精神的潮流に対抗する対極、均衡の衝動を、私たちはまだ作り出すことができるのだろうか?
8.マリアの身体的被昇天の教義に関する精神科学的立場
...まず、ヘロルスバッハのマリア出現現象について、科学、精神科医、検察官に語ってもらおう。これらの出現を体験したと主張する子供たちを診察したエアランゲン大学の専門精神科医は、子供たちが事前に映画『ベルナデッタの歌』を見ていたことから、出現はおそらく自己暗示、子供たちの直観像的性質に基づくものであると説明した。子供たちの主な目撃者であり教唆者であった13歳のマリア・ハイルマンは、委員会の面前で心理学者が一言言うだけで、即座に催眠術をかけることができた。彼はただ彼女に自分を鋭く見るように求め、それから彼女に倒れるように命じ、少女はただちに倒れ、その場にいた全員が驚いた。
91 今、人智学迫害の役割は、ボリシェヴィキから正教会に移されている(注G.B. - 1996)。
「ヘロルスバッハの見霊の子ども達」を調査し、この問題に関する報告書を発表したバンベルクの検察庁は、1952年6月16日付の『バディッシュ・ツァイトゥング』紙の新聞メモによると、出現の観察とされるものは大人の影響下で行われたものであると述べている。「見霊の子ども達」は、ヘロルスバッハでの事件の調査中と尋問中に、かなりの矛盾に巻き込まれた。幻視についての彼らの供述は一致していなかった。子供たちは異口同音に、自分たちが見たのは神の母の出現であったと大人から初めて知らされたと主張した。
1950/51年の大晦日の説教で、バンベルクのヨゼフ・オットー・コルブ大司教は、出現の偽りが明らかに証明された後で、しかしその真性がすべてのカトリック新聞で数カ月にわたって強調された後に、ヘロルスバッハの問題を取り上げた。 彼は次のように語った。
「1949年10月9日以来、ヘロルスバッハ問題は司教と彼の教区、さらにはドイツ司教団の大部分を悩ませている。私たちは、いわゆる出現についてのあらゆる研究にもかかわらず、あらゆる良心と責任にもかかわらず、聖母へのあらゆる愛にもかかわらず、大司教の委員会と地元の牧師の数え切れないほどの議事録から私たちが知っているような、狂信的で、芝居がかった、時には聞いたこともないような、不可能なことを信じることはできません。聖庁はバンベルクの決定を承認した:事実の超自然性は確かではない。」
しかし、このようにヘロルスバッハの出現が虚偽であるという明確な確信があるにもかかわらず、カトリックの側からは、ヘロルスバッハの出現とヘロルスバッハの巡礼地を復活させようとする非常に強力な努力が続けられている。1949年10月31日の最後の出現の際、聖母は、人々がしっかりと祈れば再び現れると述べたと言われているからだ。
聖母マリアが少女ベルナデットに18回現れたとされる、いわゆるルルドの奇跡的な出現も同じようなものである。1956年5月2日付の『シュピーゲル』誌によると、奇妙な交通事故で亡くなったパリのフランス人医師テレーズ・ヴァロは、ルルドの奇跡の出現に関する博士論文を書き、大学から科学的業績として認められた。その中で彼女は、「ルルドの奇跡」について教会が流布しているイメージが事実とはまったく一致しないこと、しかし、ルルドの奇跡の物語において、この地の聖職者たちが主要かつ特別な役割を果たしていることを明確に証明した。ルルドの奇跡、たとえば盲人の癒し(そして他の癒しも同様)は、いわゆる盲人はまったく盲人ではなかったので、まったく奇跡ではないという、言い逃れのできない証拠を提供したのである。
同じ虚偽が、いわゆるファティマのマリア出現の根底にもある。というのも、ヘロルスバッハのいわゆる "太陽の奇跡 "は、報道によればファティマの奇跡と同一であるとされていたが、事実に合致しておらず、ファティマでの太陽の奇跡は、純粋に技術的な現象であり、奇跡とは言えないからである。ファティマの出現という "見世物 "の非常に見え透いた演出と、それに関連した人類への要求の原始性を別にすれば、ファティマの二人のいわゆる "見霊の子ども達"の死因の状況だけでも、とっくの昔に、人々は注意すべきだったはずである。教会がファティマの出現を承認するのを1942年まで、つまり25年間も待ったのは、これらの出現に対する異論が教会の外からもう出てこないと思われたからである。このことは、1933年2月6日のファティマ司祭の報告書の序文で、多かれ少なかれはっきりと確認することができる。その序文には次のように記されている:「私たちは、この報告書を17年間、意図的に私たちのフォルダーに残しておきました。そのため、報告書に登場する人物や事実はほとんどすべて歴史に属するものです。」さらに、1942 年 10 月 31 日、教皇ピオ 12 世はポルトガル国民に向けたラジオ・メッセージの中で、ファティマの聖母への帰依を勧め、マリアの無原罪の御心への奉献の祈りを捧げたが、この出現に正式に言及することはなかった。
大勢の人々を導くという目的のために集団暗示の手段を用いることの怪物性を示す鍵は、重要なのは目的であって手段ではない、目的は手段を正当化する、人々は欺かれたいと思っているのだから欺かなければならない、という、今も有効なイエズス会の原則の中に見出されなければならない。イエズス会は、これらが客観的で、試行錯誤されたイエズス会の原則であることを、多かれ少なかれはっきりと認めている。
あるイエズス会が、カトリック雑誌『ローゼンクランツ』(Der Rosenkranz)の一連の記事(1950年半ばから1951年7月まで)の中で、ファティマのマリア出現とマリア運動との関連について語っている率直さに耳を傾けてみよう。ファティマの出現に関する彼の詳細な記述の最後に、そのメッセージも含めて、このイエズス会は次のような非常に明白な文章を述べている:
「ファティマにおける出現の真偽は全く重要ではない、なぜなら、無原罪のマリアへの献身と、ファティマで実践され、推奨された他の全ての敬虔のしるしは、出現とは無関係に意味のあるものでもあるからである。」そして彼は続ける:
「ファティマのメッセージは、基本的には、長い間知られていた信仰の真理を適用した以外の何ものも含んでいない。その本質的な価値は、それらの出現に基づいているのではなく、その分別性(便宜性と読める)にあるのだ。」(強調G.B.)。
次に続くことは、イエズス会に顕著な論理によってでなければ理解できない-彼は言う:「そう、言及された出現の真理と主張には、それらが逆に出現の信憑性の可能性を正当化するのに適しているように、自明な考えと一般的な啓示が含まれているが、出現の信憑性には他の理由もある。」
そして、彼は、「それらを認識する人々にとって、これらの真理は新たな正当化と確証を含んでいる」と付け加え、次の文章で締めくくっている:「それゆえ、ファティマのメッセージの要求を満たすことは、あらゆる場合において分別的である。」
私たちは、これらの声明にこれ以上付け加える必要はない。
ファティマの出現の信憑性はまったく重要ではなく、目的は手段を正当化するという、このイエズス会の公然たる告白の結論は、このように言語道断であり、特に、いわゆる見霊の子供たちへの死に関するメッセージに関しては、あまりにも非道である。さらに、ロシアの改宗に関する通信に関して、そしてマリア運動の目的と意図に関して、イエズス会神父によるこの言及だけで、これらの権力の作業場に私たちの目を向けさせるのに十分であろう. ....
9 人の魂に対するマリア出現のオカルト的効果
毎日、毎晩、毎週、毎月、何百、何千という人々が聖母の出現のために祈ること、他のすべての思考を排除してマリア出現の特定の対象に絶えず集中することは、人々の意識や潜在意識にどのような影響を与えるのだろうか?マリア出現のために繰り返される祈り、執拗なロザリオ、そして償いの態度は、人々の魂にどのような影響を与えるのだろうか?そのような単調な祈りの暗唱は、人々にどのような心の状態をもたらすのだろうか?
私たちが言えることは、ロザリオを祈るときに祈りの公式をしつこく唱え続けること、また、償いの態度や自己責定の態度、さらに、マリア出現の一点に魂を集中させることは、人間の魂に3つの影響を与えるということである:
- エゴ意識の減衰、あるいは潜在意識の力の覚醒。
- 人間の魂を、ある異なる性質のオカルト的な力の影響を人間の潜在意識の中に受けやすい状態にする。
3.それについて自分では説明できない、ある目的のための道具となるように人を訓練する。
説明された現象全体は、最も大きな規模の大衆暗示的性格を持っている。それは、本物の瞑想的気分とは正反対の、ある種の心の状態を人々に作り出すことを意味する。このようにして、人々は、精神的な混乱、自分自身と精神世界について最大の欺瞞に陥る:泥の中で漁をし(どさくさ紛れに操作する)、ある目的のために混乱を利用しようとする人々にとって、理想的な温床となる心の状態である。1917年の時点で、ルドルフ・シュタイナーは、このように集団暗示の発展、人間の魂の影響力、儀式魔術のオカルト的側面に従った霊媒的気質を持つ人々のコントロールを見ていた。彼はまた、そう遠くない将来、大勢の人々がオカルト的な法則に従って導かれるようになるだろうと述べた。この方向への努力はすぐに現れるだろう、と。そして、人間の魂に混乱の波を引き起こし、渦巻きのように人々を巻き込み、壮大に表面に現われてくる闇の霊的な存在の影響について語った。さらに、この混乱を利用して、人々の魂にあらゆる種類の混乱を植え付け、それによって混乱を増大させる人々が現れるだろう、と。
10 カトリック教会は現在、実際に何に関心を寄せているのだろうか?
第二次世界大戦後のカトリック教会の膨大な活動の意味は何なのか?なぜ、マリア的思想が、その全力と活力をもって、現在の意識 の中に持ち込まれているのだろうか?
マリア出現、マリア運動、マリア教義の宣布に関する記述から私たちが聞いたことによれば、教会は大きく、最終的かつ決定的な事柄に関心を抱いているに違いない。近年、私たちがカトリック教会で観察してきた準備の程度と霊的な活動から判断すると、私たちは最も決定的な瞬間、人類史の転換点に直面しているのだ。カトリック教会は、その二千年の歴史の中で最大の勝利の直前にある。敵対する者たちに最後の一撃を加えようとしている。これはあらゆる兆候から明らかである。教会はこの最後の決戦のために、世界中に巨大な軍隊を動員している。教会はマリアの旗の下に戦います。教会はマリアの名において勝利することを望んでいます。人々がこのことに目覚めるように!
このことについて、1950年11月13日のファティマの使徒が語っていることに耳を傾けてみよう:
「カトリック教会と “地獄の門”との決定的な戦いの時である私たちの時代において、マリアはこの恐ろしい霊的な戦いの最前線におられます。なぜなら、 マリアは 「蛇を踏む者」(創世記 3:15 ヴルグ語)であり、「天の大いなるしるし」(黙示録 12:1) であり、闇の力との壮大な戦いにおける神の民の神から定められた指導者だからです。だからこそ、マリアは1854年12月8日、カトリック教会において "無原罪の御宿り "として真理の宝石として輝くのです:1854 年 12 月 8 日には 「無原罪の御宿り 」として、1950 年 11 月 1 日には宇宙の女王として、また、肉体をもって天に召されたのです。」
1952年2月10日、教皇ピオ12世がカトリック教会の世界刷新計画として宣言した言葉に耳を傾けてみよう:
「今日の世界は奈落の底へと向かっている。マリアの心に従う世界に変えられなければなりません! 今日はそのための好都合な時です。何百万人という人々が軌道修正を期待し、キリストの教会を仰ぎ見ているのです!そして、教会内の刷新が世界の刷新に着手しなければならないのです。すべての人が求められています: 司祭も信徒も、世俗人も修道者も、個人も共同体も。司祭も信徒も修道者も、個人も共同体も、すべての人が刷新され、真の愛と友愛のうちに生かされるのです。すべての人は行き過ぎた個人主義を克服しなければなりません。総動員の風潮を作り出さなければならないのです!個々のキリスト教徒と共同体は、時を刻むべきです。個々のキリスト者と共同体は、その個性と自発性を維持し、発展させなければなりませんが、同時に、カトリックの潜在的な力全体を階層的な指導のもとに効果的な一致に結びつけることができるように、それぞれの特別な関心を共通善に統合しなければならないのです。」
しかし、この壮大な刷新プログラムが実現されるためには、このプログラムを解釈する有力なカトリック信者によれば、「積極的なカトリック世界の大きなコミットメントなしには不可能である。使徒的信徒世界の覚醒なくして、未来は不確実である。それゆえ、すべてのカトリック信徒は、男性も女性も、カトリック行動において、マリア運動において、そしてローマ会衆において団結しなければならない。なぜなら、-私たちは感じているが-教皇は今度こそ決着を付けられるからです。」
フェルディナンド・カストナーS.A.C.が、『マリアの時』に関する マリアドグマの宣言に続いて、雑誌『Der Rosenkranz』の 1951 年第 1 号と第 2 号の月信の中で述べていることにも耳を傾けよう:
「よく聞いてください!声を上げて喜びなさい!イエスの時代(イエズス会の時代と読むべき)がやってくるのです!私たちの信仰、私たちの希望、私たちの勝利の偉大なしるしが、私たちの時代の空に明るく輝いています!イエスの時代が来るように、聖母への全面的な献身という聖なる十字軍に参加しなさい!ロンバルディ神父のことはご存知でしょう、国や大陸を越えて “愛の十字軍”を宣言する、あの祝福された説教者です。ロンバルディ師はこの一年、わが国でも何十万人もの人々に語りかけ、いたるところでこの一文を説得力を持ってメッセージの中心に据えてきました。私たちは時代の転換期に生きており、悲劇的で全体的な崩壊の時を迎えています。誤った推測と5世紀にわたる異常が、私たちの目の前で恐ろしい結末を迎えようとしているのです。私たちの祖先は、神や天のことは気にかけすぎているが、人間や地球のことは気にかけなさすぎるという妄信的な見方です。私たちは大地に目を向け、人間を万物の中心、目標、尺度としなければならなかったのです。神の優位は人間の存在を脅かす。それゆえ、人間であるためには、神なき世を創造しなければならない。そして、まさにこれこそが今日の大いなる欺瞞であることがますます、そして紛れもなく証明されつつあるのです。」
彼は何度も何度も、間断なくこの公式を繰り返す:「イエスの時代がやってくる!それはマリアの時だからです。私たちの救いの夜明けであるマリアは、最近宣言されたマリアの天への被昇天 の教義によって当面のクライマックスに達しました、非常にはっきりとマリア的な 時代の上に輝いています。」
私たちは、教皇ピオ 12 世自身によっても同じことが確認されているのを聞いている。『ホッホヴァハト』(ヴィンタートゥール、1947 年 4 月 9 日)によれば、1947 年の時点で、教皇は学生たちにこう述べている:
「教会が働かなければならない限り、教会は戦わなければならないことを人々が知らなくても、決定的な戦いが迫っていると言われるだろう。この戦いでは多くの犠牲者が出るだろうが、最も強い者が勝利して現れるだろう。」(強調G.B.)。
カトリック陣営からのこれらの声は、明瞭さという点では望むべくもないが、すべて同じモットーに基づいており、1955年4月の雑誌『Maria-Königin-Hilfe』第4号で次のように述べられている:「議論の時は終わった、今こそ行動の時である。」以下の例は、その時が来たとき、どのような行動が起こり、どのような行動が起こるのかをほんの少し予感させるものである。
1951年10月7日、グラッドベックで開催されたカトリック社会セミナーでのメルテンス大司教のスピーチの抜粋を聴いてみよう:
「人々は悪くなった。罪の波はますます高くなっている。なぜかというと、人々が知識の木から食べてしまったからです92。1517年-宗教改革、1789年-フランス革命。ヨーロッパはキリスト教徒でなければならず、カトリック教徒でなければならない。カトリックのキリスト教徒を除けば、世界はユダヤ人と異教徒だけで構成されている。ミカエルのプログラムを実行しなければならない。地上はサタンで満たされている。私たちは、熱狂的に、神なき権利、神なき共通善と戦っているのだ。十戒は再び私たちの法律書の規範となるべきだ。私たちは主の奉仕を導入しなければならない。我々は王であるキリストの政党である。政治は私たちの神聖な奉仕である。キリストは、公生活のあらゆる場所において真に王である。私たちは、王であるキリストのために働き、政治を行う。ローマの息子と娘の党...教会は罪の洪水からの救いとなる。世界には、二つの大きな勢力のみある:ローマとモスクワ、教会と革命である。ローマとともになく、ローマに反対する者は誰でも革命に仕える。そうでないもの達は、ローマからでなければならない。私たちは代表者たちに、バチカンの声に耳を傾けるよう要求する。私たちは今日、カトリック信者の膝の上で政治を行っている。」
... 以下の引用は、『Aus der Schmiede』(カッセル、1955年1月18日号、4,1ページ)という見出しの雑誌から引用したものである:
「シカゴのカトリック大司教、カーディップ・11・ストリッチはこう書いている: カトリック教会だけがイエス・キリストの真の教会である。それは、このキリストの唯一の体に戻り、この教会の生活に参加し、その教えと支配に完全に服従することである。」
「オッセルバトーレ・ロマーノ』紙もまた、簡潔に説明している:
「ジレンマから抜け出す方法はない:イエス・キリストはご自分の教会の一致を望まれなかったか、あるいは、ご自分を信じるすべての人々がローマ・カトリック教会の一員であることを望まれたかのどちらかである。」
92 つまり、人間の心は複雑になりすぎたのである(G.B. 1996)。
スペインでは、イエズス会の司祭カヴァッリが次のように書いている:
「唯一の真の教会であるためには、ローマ・カトリック教会は、自由の権利を自分たちだけのために主張しなければならない。なぜなら、この権利は真理のためにのみ留保され、誤りのためには決して留保されないからである。したがって、カトリック教徒が多数を占める州では、教会は、その誤りは法的存在として認められないと主張するだろう。しかし、国家の敵対的な態度や他の信仰の数的に重要な集団の存在といった状況がこの原則の適用を禁止する限りにおいて、カトリック教会は自らのために可能な限り広い譲歩を要求すると同時に、より小さな悪として他の信仰の権利を容認することに自らを制限するだろう。... 他の国々では、カトリック教徒は、すべての人に完全な信教の自由を要求し、自分たちだけが生存の権利を持っているにもかかわらず、他の人たちとの生活共同体の中でいやいやながら過ごすことを余儀なくされるだろう。」93
... これらすべての記述から、カトリック教会が、カール大帝のもとでの「ドイツ民族の神聖ローマ帝国」の時代に持っていた普遍的な支配の回復に関心を寄せていることがわかる。ローマのサンピエトロ教会のドームの下で、すべての人々が統一されることに関心があるのだ。トーマス・エルヴァイン著『ドイツ政治における聖職者主義』によると、教皇は、女王マリアの祝日を宣言した翌日、次のように述べたという。「教会の権威は決して純粋に宗教的な事柄の範囲に縛られるものではなく、むしろ自然法の全範囲も教会の管轄下にある。」
... 今日、ライゴ大司教がその著書『Lettere』(ミラノ、1911年)の中で書いていることが実現されようとしている: 「教会は世の終わりまで、世界の権力を放棄することはない。教会は、時には公然と、時には秘密裏に、時には暴力的に、あらゆる手段を用いて、この権力をいかなる代償を払っても取り戻そうとしている。」
カトリック教会の目的は、ローマのサン・ピエトロ大聖堂の下で、すべてのキリスト教徒の一致を再び確立することだけではない。人々の経験と意識を、旧約聖書の十戒を体験した時代に戻すことである。近代の時代、すなわち独立した思考と判断の発展は、人々を今日の混乱に導いた過ちであり、異常であると見なされている。
93 参照:『シュピーゲル』1953年11月4日号、教会の特権。
意識魂の発達、思想と良心の自由、精神的・宗教的問題における独立した判断、人々、特にドイツ人の霊への傾倒、キリストの衝動の理解、人間の魂における霊の自己の誕生、エーテルの衣の中にキリストを見ることは、あらゆる手段を使って阻止されなければならない。キリストの衝動、意識魂からの新しい魂の能力の目覚めに対する教会の反対は、クライマックスに達している。人々は、空虚から、孤独から、そして魂の死の体験から霊的なものへと抜け出す道があること、魂におけるキリストの衝動の誕生には、人間の死と無の体験が必要なのだということに気づいてはならない。教会は人間から自由への発展の果実を奪おうとし、マリアのイメージに よって、人間を擬似的な霊性、より低次の、エゴイスティックな霊性へと欺いているのである。マリアは、人間が自分自身に目覚め、成熟させず、未熟な、感覚以下のものの中に、動物的本性の中に押し込めるのだ。
結局のところ、ファティマのマリア出現、マリア運動、そして 1950 年 11 月 1 日のマリア教義もまた、この目標の実現に奉仕するのである。 霊的科学のメンバーにとっても、今日まだ論じることのできない、極めて重大な出来事がすぐそこに迫っているのである94。
94 1990年代、彼らはその扉に入った(参照:G.ボンダレフ. 1996)。
11 ドグマへの対応としての真理の実現
人類は、好むと好まざるとにかかわらず、自分自身の思考と認識を完全に放棄したくないのであれば、マリアの身体的被昇天のドグマの宣布と、それに関連する現象と対決しなけなければならない。現在、この教義について、現代の人々の間で意見が分かれている。これが、結局のところ、その意図と深い意味でもある。ドグマは人々を2つの陣営に分けるだろう。ドグマを認めず、不真実として拒絶する人々と、ドグマの神性を信じる人々だ。ドグマは1517年の精神への挑戦であり、真理の精神と進歩の精神への挑戦である。
1950年10月30日と11月1日という2つの世界史的な日が重なったことで、人々は注目したに違いない。この2日間は、人類の精神的発展における重要な節目、転換点として位置づけられるだろう。この2日間によって、新たな時代、悪と混乱の支配の時代が目に見えるかたちで始まるのだ。精神主義と唯物主義の戦いはクライマックスに達した。この2日間の深淵から、黙示録的な獣が人の魂に夢魔のように立ち昇り、人類に恐怖、不安、絶望、混乱をまき散らす。最後の抑制は崩れ去った。邪悪なもの、恐ろしいもの、残忍なもの、狡猾なものが、氷のように冷徹な姿で私たちに襲いかかる。
ドグマの宣言を通して、人類は、過去の精神、古代オリエントの精神、再び目覚めた第三の文化エポック、復活した神権政治に身を委ねるか、それとも、人格の自由、法の下の平等、経済生活における兄弟愛の衝動、20世紀におけるキリストの衝動の理解に立ち返るかのいずれかを求められている。もはや代替案はない。この決断の中に、今世紀半ばにマリアの身体的被昇天の教義が公布され た深い意味と意義があるのだ。そこにはまた、「聖年 1950」が 「ルドルフ・シュタイナー年 」と重なり、今世紀の半ばに反 霊とキリストの衝動が出会ったことの意味もあるのである。
歴史上、現在ほど人々が左へ行くか右へ行くか、上昇するか混沌に沈むかを自由に決められる時代はなかった。人類は、まさに黙示録的な規模の世界時間に直面している。
過去数世紀には、人類はまだ、たとえば三位一体の概念を公会議の決定によって廃止することを甘受できた。またマリアの無原罪受胎の教義を受け入れる余裕もあった。ローマ教皇の無謬性ドグマを人々が受け入れたという事実は、すでに災難であった。『カトリカ百科事典』(第 7 巻、675 ページ)は、このドグマの直接的、範疇的、 強力な証拠が聖典から提出されることはないと認めているにもかかわらず、今、 新しいマリアドグマの宣言にも自らを委ねたのである;教会の聖職者に何が真実か偽りかを指示させ、真理か誤りかの判断を教皇に委ねること。本当は、これはすべて人間の精神の自己無力化であり、500年にわたる人類の精神的・知的発展の自己中止・無効化であり、人間の最も高貴で崇高な能力である思考力、理性、常識の放棄なのである。要するに、人間精神の完全な破産であり、人間の個性を地上の権力、司祭の権力、反霊的衝動に屈服させることである。
人間の精神が抽象的な定義に屈服し、恣意的な精神に屈服し、惰性的な精神に屈服することで、人類は下僕意識のレベル、群れの意識のレベルにまで沈んでしまう。ドストエフスキーが1879年に小説『悪魔』で人類の未来について、シガレーヴィズムの悲劇性について予言的に語ったことは、こうして真実となり、将来、シガレーヴィズムの支配下では、人類の10分の1が、群れのように生きる10分の9を支配することになると強調する。さらに、数年前に亡くなった英国の作家オーウェルが小説『1984』の中で、人類に対する「ブラザーの支配」の未来図として見ていることが実現する。この人類の自己無力化の形は、多くの人が気づいている以上に、すでに明らかになりつつある。
12 マリア問題に関する精神科学的視点
私たちに残された唯一の疑問は、マリア問題あるいはマドンナ問題をどのように理解すればよいのか、ということである。永遠の女性性、あるいは処女性の原理のもとでどのように理解すればよいのかというころである
マリアドグマの判断における混乱の主な原因は、イエスとキリストの実体を区別することができないこと、すなわち、ヨルダン川での洗礼において、キリスト=太陽=霊がナザレのイエスの肉体に降臨したことを理解していないことにある。マリアあるいは聖母の問題は、ルドルフ・シュタイナーが彼の第五福音書(GA 148)の中で、二人の男の子のイエスの誕生と、ヨルダンでの洗礼の前のイエスと母親との会話、そして十字架から母親の前でキリストがヨハネと交わした会話について言及していることなしには、全く理解することができない。
マリアあるいはマドンナの問題に明確にしよう。ルドルフ・シュタイナーはかつて、ゲーテの『ファウストⅡ』の中で最も美しい場面のひとつは、ファウストが母たちのところへ歩いていく場面だと言っている。この母たちのもとへの道行きは何を表しているのだろうか?メフィストは、ファウストに母たちの領域への鍵を持ってくるが、彼自身は母たちが鎮座する領域に入ることはできない。メフィストにとって、母たちの領域とは無の領域なのだ。しかしファウストは、知を求める男として、この無の中に宇宙を見出そうとする。ルドルフ・シュタイナーが言うように、ゲーテは、母なるものの領域は精神世界であり、人間がそこに入るには、自分の中に眠っている力を発揮させなければならないことを知っていた。ゲーテは、『ファウストII 永遠の女性性が我々を引き寄せる』の中で、人類最大の問題のひとつであるマドンナの問題を指摘している。永遠の女性性が私たちを惹きつけると、彼は人類の最大の問題のひとつ、マドンナの問題を指摘する。ゲーテは、永遠の女性性とは、この世から生まれたのではない人間の魂であり、神格の母の胎内から、神聖な原質から、父なる神から生まれ、感覚世界の低次なものに包まれていたものであり、今、浄化、純化、認識への高次の努力によって、自分自身から新しい霊性を誕生させることができるのだと知っている。ルドルフ・シュタイナーは言う。
「受精の過程は、まだ認識の過程に近いものとして提示されている。認識のプロセスが一種の受精のプロセスであるという意識は、古い時代にはまだ生きていた。聖書で次のことを読むことが出来る。“アダムは妻を知った。彼女は出産した”」(創世記4:1、1909年4月29日、GA57)。- ここではより高次の認識プロセスが問題なのである。
ルドルフ・シュタイナーが言うように、【自らは】神霊世界から、父なる霊から生まれ、【それにより】父なる霊と類似し、その反復を示す叡智の子を産む、人間の魂のこのイメージ、永遠の女性は、ラファエロによって、そのシスティーナのマドンナにおいて、壮大な形と完璧さで世に示された。ルドルフ・シュタイナーはこれについてこう述べている:「このように、システィーナのマドンナには、霊的宇宙から生まれた人間の魂のイメージがある;この魂から、人間が生み出すことのできる最高のもの、彼の霊的な誕生、彼の内にあるもの、世界の創造活動の再び生み出すものが生まれるのである。」(同書)
したがって、純粋で貞節な聖母ソフィアである聖母のイメージにおいて、私たちは、高次の人間、霊我、高次の自我、キリストの衝動を自らより誕生させる、人間の浄化されたアストラル体を扱っていると言うことができる。したがって、霊我の誕生は、人間の魂の変容、浄化、清め、すなわち修行の道と知識へのより高い努力を前提とする......
... 聖母は、神聖な父なる霊と、宇宙から働きかけ、霊我として、子なる原理として、キリストの衝動として、人間の魂の中に誕生する世界的自我を切望する人間の魂である。この永遠に努力し続ける人間の魂は、人智学の真理の衝動を吸収することによって、魂に眠っている認識の力を目覚めさせ、偏見や反感や同調の力から魂を浄化し、高次の自我、キリストの衝動が人間の魂に誕生できるようにする。このことは、地上のあらゆる民族の中で最も優れた人々によって、聖処女である聖母のイメージの中に、永遠の女性のイメージの中に見出された。永遠の女性、聖母、マドンナのイメージの中で、私たちは人間の魂の中のファウスト的な衝動を扱っており、それは、マリアドグマとその背後にある力によって結局のところ反対されているのである。
まとめれば、マリアの肉体的昇天のドグマは、実のところ、人智学の真理 の衝動に対抗する衝動であり、人々の霊への傾き、知識と真理への傾きに 対抗するものである、と言うことができる。ドグマの中で、私たちは反ファウスト、第一級の反キリスト原理に直面し ており、これによって意識魂の完成、キリストの衝動の理解、エーテルの衣の中にキリストを見ることが麻痺させられているのである。
このドグマは、中欧と東欧の関係にとって最も広範囲に及ぶ意味を持つ。東にゲーテ主義と人智学の霊的衝動に対する理解を呼び覚ますことによって、東と霊的結婚を行なうことが使命である中央ヨーロッパは、ドグマに関連した努力によってその使命を果たすことはできないだろう。ルドルフ・シュタイナーがかつて言ったように、東は、自らの霊的生命を生産的に生み出す力を自らの内には持たない。今に起きているものを受容するのみなのである。ロシアの魂には、受容的なもの、期待的なもの、未来的なもの、自らの格闘とは関係のないものがある。霊的な生活のための自らの闘争をすべて拒絶するものさえある。ドグマは今、ロシア人に生来備わっているキリストの衝動の理解に対する切望と、東方の人の魂への霊我の降臨という事実を妨げ、それを古い、キリスト教以前の聖母の衝動に置き換えることを意図している。このようにして、[20]世紀末のアーリマンの受肉に備え、第6文化エポックの人々の魂に対するキリストの影響力を否定するために、そしてキリストが第6次文化エポックにおいて人々の魂に影響を及ぼすことに対立するために、人々は群れやしもべの意識、未熟さに押し込められようとしているのである。ルドルフ・シュタイナーの霊的な生徒たちの最も重要な仕事は、来るべき人類の第6、7文化エポックのために、このつながりの完全な意義と影響を見抜くことである。
もちろん、私たちは、カトリック教会の意図と目的から私たちに立ちはだかるすべての後退的で反キリスト教的な力の中に、否定的なものや邪悪なものだけを見なければならないわけではない。私たちは、教会のこうした反霊的な努力のすべてを、人類の発展における必要な要素として見ることを学ばなければならない。なぜなら、霊を否定する邪悪な力でさえも、世界における使命があり、この神秘を見抜く人々がいる限り、究極的には人類の進歩と救済に役立つからである95 。
S.C.R.
96 この論文に関する1996年バーゼルの著書『アントロポゾフィーと現在のオカルト政治運動の交差点』におけるゲンナディイ・ボンダレフの注釈:「ここにすでに現在の世界政治の様式を認めることができる: 対立の代わりに統一(EC.アメリカと旧ソ連の間の国際協力)、宗教戦争の代わりに「愛の抱擁」、マリア領域の下での世界エキュメニズム。権力への同じ衝動と、個性を操り、世界をアーリマンの到来に備えさせようとする不自然な欲望が隠されていなければ、これらすべてはそれほど悪いことではないだろう。」
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最後にもボンダレフ氏の名が出てきたが、そもそもこの本は、彼が関わっていると思われる著作シリーズ「歴史徴候学」の中の一冊であるようで、このシリーズは、現代の(霊的な意味でも)危機的な社会状況に関する評論集的なもので、ボンダレフ氏自身の著作も入っている。
このシリーズの選択は、彼とそのグループの問題意識に基づいており、上の文章は、イエズス会問題の一面を伝えるものとして採用されたのであろう。
ボンダレフ氏は、ロシアの方で、人智学が弾圧されていた旧ソ連時代からロシアの人智学運動を担ってきた人物のようであるが、いわゆる西側の人智学の主流派には批判的な姿勢がうかがわれる。それは、トマス・メイヤー氏などとも共通すると思われる。(ちなみに、このボンダレフ氏のシリーズの出版社は、人智学系の有力な出版社ではなくマイナーな出版社のようであり、メイヤー氏は、自ら出版社を立ち上げている。こうしたことにも、主流派との立場の違いが現われているのかもしれない。)
そしてこの二人がともに、今回のテーマである「マリア・ドグマ」に批判的な立場にあるようであるが、これを表明することは結構勇気のいることではなかろうか。
「マリア・ドグマ」を批判するということは、カトリック(正確にはそれを指導する者達)を批判するということになる。カトリックは、少数派のカルトではない。世界的に有力な宗派である。それを批判することは反作用が大きすぎるだろう。
私が知りえたキリスト者共同体の関係者の著作にも、キリストよりもマリアを重視する傾向に陥りかねないマリア信仰の問題点を指摘したものも実際にあるのはあるのだが、しかし、そこでは、今回紹介した文章のように深く、オカルト的な意味までに踏み込んで、その「運動」まで批判してはいない。
おそらく、もちろん断定は出来ないのだが、やはり人智学の主流派には、そこまで踏み込む者はいないのではなかろうか。カトリック対人智学の対決構図ができてしまうおそれがあるからである。あるいは、個人攻撃もありうるだろう。シュタイナーが生きていた頃には、実際に激しい攻撃があったようである。(それが、そもそもこの文章の著者が匿名である理由の一つなのかもしれない。)
しかし、批判を控えるということは、シュタイナーの警告を曖昧に放置することにもつながる。そうしたことは、ボンダレフのような人達からすれば、人智学運動の形骸化を推し進めるものと写っている可能性はあるだろう。
最後の部分に、人智学派の「聖母」解釈が述べられていた。これは、シュタイナー自身が述べていることであり、おそらく人智学派としては共通の理解と言って良いだろう。
「聖母」とはいうまでも無く、歴史的にはイエスの母マリアを指すが、キリスト教神秘主義的には、文章にあるように、浄化された人間のアストラル体、魂を指すのである。
ただ、人智学派には、さらに別の理解が存在する。それは、キリストが、父なる神と一体でありながら、別の霊的実在であるように、聖母あるいは秘教的な名前ではソフィアにキリストと同じような霊的実在を見る立場である。智恵あるいは女性原理としての霊的実在とも言えるだろう。そしたまた、この霊的存在がマリアに受肉したというような見方もあるのである。
このソフィア存在は、東方の正教会でよく論じられているもののようで、アンチ・キリストの預言で紹介したロシアの神秘主義哲学者ソロヴィヨフなども、自身のソフィア出現の神秘体験を語っている。
人智学派にも、こうしたソフィア存在を重視するような立場もあるのだが、彼らには、やはりロシアの神秘主義思潮の影響があるようである。
このように、「聖母・マリア」には、実は多様な意味が重ね合わされており、これを理解するのも難儀なのだ。これはまた別の独立した記事が必要だろう(自分はまだまだ理解できていない)。
さて、「マリア出現」現象であるが、実は、私は、それを肯定的に捉えていた者の一人である。昔、カトリックが認定する奇跡事象があるということを知って、世の中には実際に奇跡が存在するという認識がすり込まれていたし、人智学派にも「マリア出現」を肯定的に論じている者もいたからである。ソロヴィヨフのソフィアの例を見ても、霊的啓示というものは当然存在するのだという思いもある。
だが、今回の記事を読むことにより、その思いは変わったと言わざるをえない。以前から、こうした「幻視」現象については、実際には人智学派の中でも議論が分かれており、批判的な意見も存在していることは知っていたのだが、やはり改めて冷静に見つめることが必要なようだ。
それは「啓示」をすべて否定するということではない。昔であれば、そうした霊界との交流の仕方はむしろ自然のものであったが、時代と共にそれは消えていった。しかし、今においても全くあり得ないとは言い切れないだろう。それを受ける者がそれにふさわしければやはりあり得ると思うのである。
そうしたことからすれば、翻って、ファティマの出現はどうであろうか。幼い、知識の乏しい子ども達への出現である。それは、無垢がゆえに可能であったとは言えるかもしれないが、自分でそれを深く認識することは出来ず、また感化されやすいといことでもある。それは、認識を深め、思想を究めたソロヴィヨフの場合とは異なるだろう。
今回のマリアに関わる問題は、今回の記事の趣旨の他に、人智学的立場とカトリック的立場の違いの問題にも関わってくるだろう。人智学的立場では、個々人が自己の認識を深め、魂を清め、強化する修練を修めることが重要であると考えるが、カトリック的立場では、それは否定されないだろうが、重点が置かれるのは、信仰に基づく救済であろう。そしてそこに介在するのが、教会であり、教会が崇拝する聖母なのである。信仰と聖母(そして教会)の仲介が必須なのである。
これは、真理探求においては、個人の努力により獲得するのか、啓示として受け取るのかという違いともなる。人智学的立場の基本は前者であると思われるが、後者との折衷を支持する立場も人智学派にはあるようである。
さて、今回の文章に戻るが、残念ながら、私たちは、これまで理想主義的な組織と思われていたものの実態はそうでないこと、そこでは、むしろ人類を抑圧し、霊的進化を押し止めようとしている勢力の力が強いことを、ここ数年の間に学んできたと思う。それは、大きな目で見れば、人類の歴史と共に存在してきた対立する力の一部だと思われる。
それは、政府であれ、国際的組織であれ、宗教的、思想的団体、社会的団体であれ、それらに深く潜り込んでいるのだ。
最近、ローマ教皇が、世界の終わりが近づいている、これからはWEFのシュワブを指導者(世界司教)として仰ぐべきだと主張したという話しがネットで流れているという。これは、フェイクとされており、もちろんヴァチカンからの公式発表にはないようだが、ヴァチカンがWEFと友好関係にあることは明らかである。
表向きとは異なり、WEFが人類の側に立っていないと思わざるをえないことからすると、ヴァチカンのこの近さは気になるところである。こうした傾向を批判してきたカトリックの有力聖職者が最近破門されたという出来事は、そうした疑念を深めるものである。
シュタイナーは、個人の自由を何よりも尊ぶ立場であり、このことから、そうではなく、教会や教皇への服従を求めるイエズス会の姿勢を批判してきたのだが、この文章をふまえれば、さらに秘教的な意味合いでは、エーテル界におけるキリストの再臨や次に予定されているロシア文化期を巡って、これらを阻止しようとする敵対勢力が背後に存在してきたということが分かるだろう。
もちろん、カトリック全体がそうであるというのではなく、上のような意図を持ってそこに巣くう者達があるという事なのだが、それを進める力となってきたと思われるイエズス会の出身として初めての教皇が現在の教皇なのである。このことからすれば、やはり現在は、極めて重大な時期に来ているのかもしれない。
ところで、匿名の著者はS.C.Rと署名しているが、これは、クリスチャン・ローゼンクロイツ Christian Rosenkreutzとの関係を示唆しているのだろうか?