k-lazaro’s note

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クムラン写本におけるメシアへの二重の期待  (後半)

ベルゴニョーネ「神殿のイエス

 ガザでのジェノサイドが未だに続いている。欧米(日本も残念ながらここにつながっている)は、ロシアの「侵略」を批判しながら、ガザでのイスラエルの行為はテロに対する自衛の行為だとして容認している。ドイツは、かつての自らのホロコーストを反省しているとしながら、新しいホロコーストには目をつぶっているようだ。
 イスラエルの残虐はネット等をとおして世界中が目撃している(イスラエル兵自身もネットにアップしている)。イスラエル看守による収監した捕虜に対する集団レイプが明らかになっているが、イスラエルには、これは当然許される行為だという声が根強い。
 明らかに異常な心理というほかないが、やはりその背景にあるのは、「選民思想」だろうか。極端な考え方だろうが、現代のイスラエルにも、ユダヤ民族以外は劣等族なので、自分たちと同じように扱う必要は無いということを主張する者達がいるのである。(一方で、シオニズムと本来のユダヤ教は違うとして、イスラエル政府を批判するユダヤ教徒達もいる)

 現在のユダヤ人の本当の出自についての議論も色々あるが、それをおいておくとして、旧約聖書の神が、ユダヤ人を神の民として選んだということは、実際に認められるだろうか。確かに旧約聖書は、ユダヤ人の聖典であり、それを読むと、神がユダヤの民を他の異民族から救い出し、特別の地位を与えていることはわかる。
 神々の摂理の中では、実際にそうだったのだろう。各時代には、その時代をリードする役割を担う民族が必要だからである。そしてユダヤ人の役割は、まさに人類のメシア・救世主であるイエス・キリストを生み出すということであった。そのために、彼らは神々の恩寵を受けたのであろう。しかし、そのゆえをもって現代においてもその特権を主張することは、本来、出来ないのだ。時代にそぐわないもの、人類の進化を押し止めようとするものが悪と呼ばれるのである。

 さて、先々週のこの記事の前半では、「二人の子どもイエス」と関連する「二人のメシアの待望」という考えが、旧約聖書の世界において存在したことが、クムラン文書(死海写本)と旧約聖書自体から認識できることが示された。

 後半では、さらにマタイとルカの福音書の矛盾に関する問題が解説され、さらにキリストの器となる「メシア」が生まれるには、「二つが一つになる」ことが必要であったという深遠な霊的事実が触れられる。

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二つの異なる系図

 さらに、福音書記者マタイとルカは、それぞれ詳細なイエス系図を記しているが、いくつかの類似点を除けば、二つの全く異なる系図を記している。それぞれの祖父さえ違う!マタイの系図ダビデ王とヒッタイト人バテバの子であるソロモン王を通しており、旧約聖書の歴代誌や列王記にも名前が記されているユダヤの王たちの名前がたくさん記されている。その場合、マタイでは、王たちが抜けており、14という数字をはっきりと強調されているのが印象的だ: 【訳注】王名が全て述べられているのではなく、欠落があることにより14の数字となっていると言うこと。

 

アブラハムからダビデまでは十四代ダビデからバビロンに流されるまでは十四代、バビロンに流されてからキリストまでは十四代である(マタイ1:17)。

 

  さて、数字に関して言えば、現代の私たちにはまったく縁遠いものだが、古代東洋、ユダヤギリシャ、そして初期のキリスト教の伝統では当然のことだったものがある。ゲマトリア、数のシンボルである。すべての数は文字でしか表すことができなかったため、今日のような抽象的な数字は存在しなかった。数の象徴は聖典の一般的な解釈の一部であった。例えば、ダビデという名前は、ダレス、ワウ、ダレス=4+6+4という文字で構成されており、これを足すと14という数になる。 当時のこれを読む者は皆、14とダビデをほぼ同時に読んでいた。同じ意味だったのだ。このことから、マタイがイエスの先祖の列の中で14を3回も集中的に強調している理由が明らかになる。旧約聖書の歴代誌にある王のリスト(第一コリント書3:10ff)と比較すると、欠けている名前もあるからだ。しかし、マタイの時代の理解によれば、「14=ダビデ」を3回強調することで、イエス・キリストダビデの血統に由来することが明確に名指しされ、事実上証明されていることになるのである。

 ルカによる福音書で言及されている系図は、イエスの洗礼の後にのみ現れる(ルカ3:23ff)。「あなた、あなたはわたしの愛する子、あなたのうちにわたしは自らを現した」という神の声の直後、ルカはイエスの先祖の長い系譜を数え上げる。マタイと違って、彼はイエスの父ヨセフから始め、先祖アブラハムよりもさらに先まで列挙している。ノア、アダムを経て、神に至る。この長いリストの初めに、イエスを最愛の子と呼んだ神に至るまで。

また、ソロモン王ではなく、ダビデ王とバトシェバのもう一人の息子、祭司ナタンを経由していることも印象的だ19。そして、ルカには、聖書的にも聖書外典的にも、他の場所にはない未知の名前が次々と登場する。アブラハムからダビデまでの名前だけが、両方の系図で同じである。それ以外の名前はすべて異なっているのである。

さて、家系図が異なるという困難な問題は、新しいものではない。例えば、アンティオキアのイグナティウス(2世紀)、スミルナのイレナイオス(135-202年)、ユスティン・マーティル(100-165年)などである。この家系図の顕著な違いに関する疑問は、今日に至るまで広範な研究につながっている20。明確な解答はまだ見つかっていない。この問題に関するすべての研究と考察において、常に前提となっているのは、一人のイエスに関する二つの家系図が何らかの形で一致するようにしなければならないということである。

 

19 祭司として、またダビデの子として言及されている:2サム5:14; 1クリ3:5; 14:4; ルカ3:31

20 参照:H. L. Strack /P. ビラーベック著『タルムードとミドラシュのN.T.解説』ミュンヘン、1922-61年、ディーター・ラウエンシュタイン著『メシアス』シュトゥットガルト、1971年、108-356ページ参照。

 

 聖書の伝統との綿密な比較の中で、歴代誌や列王記の世代や王のリストに基づいて、この問題に取り組もうとする試みがなされてきたし、現在もなされている。しかし、聖書が歴史的であることは明らかであるが、それでも聖書は、歴史書とは別のものなのである。

 シュタイナーの研究によってもたらされる可能性のある解決策、すなわち2つの異なる家系図、つまり2人の異なる人物ということは、これまでのところ受け入れられないと考えられてきた。

 しかし、旧約聖書新約聖書、そしてクムラン文書に明確に示されているように、二人の謎の問題に対するすべての言及を考慮に入れるなら、おそらくいくつかのことは再考できるのではないだろうか?

 

マタイによるイエス家系図における4人の女性

ユダとタマル

 マタイだけが家系図の中で、イエスの先祖の42人の男性の名前に加えて、4人の女性の名前を挙げている: タマル、ラシャブ、ルツ、バテシェバである21。驚くべきことに、この4人の女性はすべて非ユダヤ人であり、他の宗教や文化から来た外国人である。タマルはカナン人、ラシャブはエブス人、ルツはモアブ人、バテシェバはヒッタイト人である。これら4人の生涯の物語の文脈は、イエス・キリスト受肉の前史である。おそらく、来るべき出来事に対応する、至上の純粋さ、神聖さ、偉大な威厳を備えた人生の物語であることが期待されただろう。しかし、これらの伝記は、他の38の伝記の代わりとして、地上における神の肉体的誕生の準備には、人間の生活と共存における暗黒のすべてが含まれていることを示している: 裏切り、破壊、嘘、そして巧妙で陰湿な殺人さえも。しかし、絶対的な献身、犠牲の力、すべてを克服する愛という光も現れる。

 

21 Elsbeth Weymann, Border Crossers. イエス家系図に描かれた女性たち, Stuttgart 2007

 

もうひとつの二面性-「真の人間と真の神」

 賛美歌 「Es ist ein Ros' entsprungen」(バラが咲いた)の第3節には、こう書かれている。

 

小さな花はとても小さく、とても甘い香りがする。その明るい光で暗闇を払拭する。

真の人、真の神は、私たちをあらゆる苦しみから救い、罪と死から救ってくださる。

 

 451年のカルケドン公会議以来、イエス・キリストの「神性と人間性」は、キリスト教全体の信仰の不可欠な部分となっている。このテーマには、マタイとルカに記されているイエスの二つの系図の謎、すなわちイエスの肉体的祖先の問題も含まれる。

 

家系図?- そして処女懐胎

それらは互いに排他的ではないのでしょうか?

 天使ガブリエルによるマリアへの受胎告知(ルカ1:26-38)は、キリスト教美術の中で様々な形で描かれており、預言者イザヤによるメシアの預言(7:14)を取り上げている:

 

見よ、若い女は子を宿し、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。

 

 この出来事の中に自分の姿を見ることができないマリアの問い「私は男の人を知らないのにどうして?」に、天使はこう答える。-「いと高き方の力があなたに注がれたのです。それゆえ、生まれてくる聖なる者も神の子と呼ばれるのです。(ルカ1:35)

処女懐胎」という難しい概念は当初存在しなかった。「alma若い女性」が「parthenos=処女」と訳された旧約聖書ギリシャ語版であるセプトゥアギンタによって、初めて登場したのである。というのも、ヘブライ語の原文では、「処女」(=betulä)ではなく、「若い女」(=alma)を通してインマヌエルが誕生したとごく自然に語られているからである。しかし、もし「処女懐胎」(古代近東やグレコローマン古代ではごく一般的に知られていた)を、ありきたりの肉体的な意味ではなく、霊的な原型的な意味で理解するならば、誕生の神秘にふさわしい何か、すなわち神の流入を感じ取ることができるだろう。それは霊的でスピリチュアルな純粋さにおける受胎のことであり、肉体的な父親の不在や自然の法則を超えた「奇跡」のことではないのだ。【訳注】

【訳注】処女懐胎」とは、文字通り、性的経験の無い処女が子を身籠もるという意味でキリスト教では一般的に理解されているが、そうではないと言うことである。もしそうなら、実際にイエスはヨセフの血を分けた子ではなくなってしまう。つまり、そもそもヨセフを含むイエスの祖先の系図の意味がなくなってしまうのだ。著者のこの問題についての説明はおそらくシュタイナーの示唆をふまえたものだろう。シュタイナーは、処女懐胎とは、実際には、両親の無意識の状態での(汚れない)交わりによるものであるとしているのである。

 

キリスト教以前のユダヤ史年表

 アレキサンドリアの哲学者フィロ(紀元前25年-紀元後40年)22の著作とされる『Breviarium Temporibus』は、まったく別の角度から2つの家系の謎を解明するのに役立つだろう23

 この本にはユダヤ人の歴史の年表が載っている。フィロ24の著作とされるこの書物は、議論の余地がないわけではない。15世紀にミラノの修道士ヨハネス・アニウスによって印刷されたこの著作は、当初は熱狂的に受け入れられたが、すぐに偽作のレッテルを貼られた。その後、ユダヤ人歴史家のレヴィ・ヘルツフェルト(1810-1884年)により。大々的に名誉回復されることとなり、彼は、とりわけ、ダビデ王が自分の家とその子孫のために定めた継承のルールに光を当てる重要な史料と呼んだ。そしてこれは、マタイとルカの二つの系図の違いの問題にも触れているのである。フィロ(あるいは偽フィロ)が、福音書が存在する以前にイエス系図を念頭に置くことができなかったということは、重要なことである。したがって、彼の著作は、まったく意図せずして重要な資料、しかも聖書外の、キリスト教以外の、キリスト教以前の資料となっているのである。

 

22 フィロ自身が書いたのか?研究上議論のあるところだが、今回の質問とは関係ない。

23 歴史家ヨハン・ヴォルフガング・エルンストによるルドルフ・ゲーデケのエッセイを参照した。Blätter für Anthroposophie, vol. 6, 1954, p. 17 ffにおいて、ヴォルフガング・エルンストはフィロの著作を家系図問題と関連させて考察している。Johannes Annius, Auctores vetustissimi, Philo Judaeus, Breviarium de temporibus. Dieter Lauenstein, Der Messias, Stuttgart 1971, p. 181 ffもまた、ダビデ王による後継者規定と、それに関連するマタイとルカによる家系図の問題の出典として、フィロを(偽フィロとして)認めている。

24 Philo von Alexandrien, Werke Bd. 3 übersetzt von Isaak Heinemann, Munich 1919/62

 

 フィロに帰せられる著作には次のような記述がある: ダビデ王の勅令は、息子のソロモンによって神殿奉献の際に確認されたが、その目的は、ダビデ家に約束されたメシアに関してダビデ家の後継者を確実にすることであった。これは、ダビデの祭司であった息子ナタンの系譜を受け継ぐ、祭司教育によって、神殿の庇護のもとで、より後方に控えた第二の系譜によって達成されることになっていた25。つまり、ダビデ家の王統が王位継承者を出せないときはいつでも、ナタンの血筋の王位要求者がソロモンの王統に入り、その座に就かなければならなかったのである。ナタン系統には、1つまたは複数の別の名前と君主(シャリム)の称号が与えられた。例:ソロモン王統の8代目の王アハズ王(マタイ1:9)でソロモン王統が途絶えたとき、フィロのブレバリウムは9代目の王としてヨアシュ王の名を記している。これは、マタイでは言及されていない最初の王の名前である。フィロの記述によれば、ヨアシュはナタン系統であり、エリイ-シメオン-ヨアシュという3つの異なる、等しく妥当な名前を持つ。マタイには出てこないが、ルカにはナタン系統の一族として出てくる。そしてまさに9代で、シメオンの名をもった。 (ルカ3:30)これは、ダビデ王の勅令後初めて、王家から祭司家系への移行が行われたことを意味する。ダビデ家の二つの異なる系統が一つになったもう一つの例は、シャルティエルとゼルバベルという名前に示されている26。驚くべきことに、この二つの名前はマタイとルカの両方に出てくる。(マタイ1:12とルカ3:27)これは、ダビデの死後、ソロモン系とナタン系に分かれた時点から、両福音者に同一の名前は見られなくなったので、非常に目立つ、

 

25 祭司として、またダビデの子として次のように記されている:2サム5:14、1クリ3:5、14:4、ルカ3:31 26 両名の正書法は非常に異なっている:サラティエル、シャルティエル。

 

 シェアルティエルとゼルバベルは現在、両方の福音書に父子として記されており、バビロン追放後の時代に属し、その他に、旧約聖書からも知られている27。ファイロの文章を読めば、ここに何が関係しているのか一目瞭然である: 二人ともナタンの祭司の家系に属し、この特別な歴史的状況におけるダビデの命令に従って、ソロモン王の地位に相次いで置かれた。そのため、この二人は、今回は、ヨアシュのように、別の名により隠された形で表現されるのではなく、既知の名前ではっきりとここに登場しているのである。シェアルティエルの肉体上の父の名前はルカに記されている。それはナタニデ・ネリである。彼を王家の血筋に引き入れた 「霊的な 」父親はエホヤキン28である。フィロの『ブレヴィアリウム』は、ダビデ家の歴史において、2つの流れが一時的に統合されるというこの原則が何度か登場したと説明している。これは、メシアの到来を実現する承継全体を存続させるために起こったことである。このように、イエスの家系における承継の規則において、神殿における二人の少年の一体化29や、後の洗礼におけるイエスとキリストの一体化30よりも何世紀も前に、長い時間と空間を通して展開し続けたあるテーマがすでに力強い旋律のように鳴り響いていたと思われるのである。

 

27Shealtiel: 1 Chr 3:17; Ezra 3:2, 8; 5:2; Neh 12:1; Hag 1:1, 12, 14; 2:2, 23; Serubabbel or Zerubabbel: 1 Chr 3:19; Ezr 3:2

28 ここでも、一人の人物の名前の異なる形がある:ヤダヤ、ジェチョンヤ。あるいは、短縮形:コンヤ、コンヤフ。

29 ルカ 2.41 ff

30 マタ3.13ffなど。

 

 ふたつがひとつになるとき… トマス福音書マントラムは、この継承の霊的背景をこのように要約している:

 

「ふたつがひとつになり、内なるものが外なるものとなり、外なるものが内なるものとなり、上なるものが下なるものとなるとき。そして男性的なものが女性的なものになるとき、

(...)その時、あなたがたは天の御国に入るのである。」31

 

 イタリアの画家ベルゴニョーネ派の絵(前ページ)には、ルカによる福音書(ルカ2:41-52)にしかない出来事が描かれている。それによると、イエスの両親は12歳のイエスを初めてエルサレムの神殿での過越祭に連れて行く。大勢の巡礼者たちが帰途についたとき、少年イエスは突然行方不明になった。両親はエルサレムに戻り、心を痛めながら3日間探し回った末に神殿で息子を見つける。イエスは祭司や律法学者の群れの中に座り、教え、聞き、質問していた。そして、彼の深い質問、洞察力、賢明な答えに誰もが驚いたと言われている。しかし両親は、息子が自分たちの子とはわからないほど変貌している(48節)ことに気づき、愕然とする。ベルゴニョーネの絵は、ルカの物語のある瞬間をとらえている。驚くべきことに、よく似た二人の少年が描かれている。二人の少年イエスに関するシュタイナーの研究によって、ここに描かれているのは、トマス福音書マントラムにある言葉、「二人が一つになるとき 」であると感じられるようになった。

 

二人がひとつになるとき

 福音書、クムランの書物、旧約聖書の預言書から、二人のメシア像に関する多くの記述を総合すると、死と復活が明らかに一人のイエス=キリストに関するものであるのはなぜかという疑問が必然的に生じる。その間に何があったのか。

 

31 『トマス福音書』(Willem Cornelis van Unnik, Evangelien aus dem Nilsand, Frankfurt 1960, p. 164

 

 このテーマについてのシュタイナーの多くの説明が参照されうるのみである32 。神が人間の体に受肉するという偉大な出来事は、その準備のために数千年をとおして準備された広範な二重の軌跡の中で起こる。しるしと象徴、そして具体的な受肉において、この二重の軌跡は次のように特徴づけられる: 杖と星-ツァラトゥストラ仏陀-王と司祭-知恵と愛。それは最終的に2人の少年イエスの中に現れる: ソロモンの王家の血筋を引く少年は知恵を持つ魂であり、ナタンの祭司の血筋を引く少年は「アニマ・カンディダ」(純粋な天の魂)である。

 そして、この二つの流れがエルサレムの神殿で統一され、この二つが一つになるのである。「こうして、マタイが記述したように、ツァラトゥストラの個性は、この少年イエスの中で12年目まで成長する。この年、ツァラトゥストラはこの少年の身体を離れ、ルカによる福音書に記されているもう一人の少年イエスの身体に乗り移る」33

 ベルゴニョーネを師とする流派のこの絵は、この出来事の残響によって完全に特徴づけられている。このことは、関係者全員の様々な困惑の表情の中に見ることができる。そして、2人の主要人物の間の深い関係、具体的な結びつきを強調している。彼らの表情、視線、身振り手振りは、明らかに互いに関連している。

 シュタイナーが一方から他方への「移行」として描いているもの、絵の中で継続するものと出て行くものは、物理的には、ソロモン少年の自己犠牲的による死を意味している。

 

32 参考文献を参照 33 ルドルフ・シュタイナー『GA 15 人間と人類の霊的指導』ドルナハ 1987年、5.74 ff

 

 そして同様に、他の者の完全な変容である。福音書では、これは両親の反応を通して間接的に表現されている。彼らは、自分の子供がすっかり変わってしまったことに深く動揺しているのである(ルカ2:48)。この言葉は、霊、魂、肉体をとらえる最も深い揺さぶりを表現している。

 この2つが1つになるということは、私たちヨーロッパ人の自己感情や人格意識では想像することも共感することも難しい。キリスト教外典文献の非常に異なる意識もまた、この出来事を異なって扱い、イメージで語っている。例えば、『ピスティス・ソフィア』34 の中で、マリアが復活したキリストと何人かの弟子たちに-振り返って-二人の親密な少年について語っている。:

 

「そして私たちはあなたを見て、彼を見て、あなたが彼に似ていることを知りました。.彼はあなたを抱きしめて接吻し、あなたも彼に接吻しました。そして、あなたたちは一つになったのです。」

 

 ダビデ家の祭司と王家の系統を代表する二人の少年、実質的に異なる霊的な流れから生まれた二人の少年、人間=イエスと神=キリストの二重性は、ある世界的な瞬間(神殿-洗礼)において、新しい何か、より偉大な何かが生まれるような形で結ばれる。

 

二つが一つになるとき-世界の原理

 シュタイナーの発言を裏付ける豊富な証拠に目を通せば、彼のメッセージー二人の少年イエスがいて、その運命は一つになることだった-は、その奇妙な、あるいはセンセーショナルな性格を完全に失うことができる。二人が一つになる中で、世界原理もまた語り出すからである。

 

34 Carl Schmidt, Pistis Sophia. Ein gnostisches Originalwerk, Leipzig 1925.

 

 このことは、高尚なものと同様に、ごく単純なものにも当てはまる。それはあらゆる理解において、あらゆる真の聴き方において、あらゆる会話において生きている。

 あらゆる認識の前提条件は、両者がひとつになること、つまり知覚と概念がひとつになることである。それは、人と人との、真の、相互に変化する出会いの中に生きている。

 おそらく、ヨハネの黙示録の次の言葉からも、両方-王と祭司、杖と星-を聞くことができるだろう。

 

 わたしはダビデの子孫の根であり、わたしは光り輝く朝の星である。

 

 シュタイナーのキリスト論的研究は、非常に幅広い文脈の中に位置づけられる。今日に至るまで、それらはいかなる神学研究とも完全に異質なものであり、学問的には成り立たないと考えられている。しかし、シュタイナーの研究のように、イエス=キリストに関する見解が、世界史と宇宙という観点からこれほど広く考えられ、同時に、キリストのためのイエスの肉体の準備という神秘にこれほど集中的に焦点が当てられているものは他にない。

 

 この力強い概観のダイナミックさ、それをとおして歴史的文献に見いだしうる明瞭な示唆を目にしたならば、キリストの本質の研究についてのシュタイナーの研究の意味するものを予感し始めるだろう。

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 文中に出てきたベルゴニョーネ派の絵については、既に、ヘラ・クラウゼ=ツィンマー氏の著作から該当部分を紹介している。

 https://k-lazaro.hatenablog.com/entry/2022/10/13/082236

 

 メシアが二人いるということは、キリストの誕生(神的存在が人間に受肉するということ)には、二人のメシアが必要であったということである。それは、かつて分かれたソロモンとナタンの系統が再統合されるということだが、更には、カインとアベル、アダムとエバの分離もまた再統合されるということにつながるようである。ゾロアスターの霊統と仏陀の霊統の統合という意味合いもあるだろう。

 キリストの誕生には、それまでの人類の全ての成果がそこに集約されていなければならず、またそこに至るまでの全ての分裂が再統合されるということが必要だったのである。それによってこそ、神的存在が地上世界で活動することが出来、それにより、人類の未来に向けた衝動を生み出すことが出来たのである。

 

 イエス(メシア)が二人いたという観念は、古代の文献でその痕跡をみることができるが、しかしそれは、未だに「いかなる神学研究とも完全に異質なものであり、学問的には成り立たないと考えられている」。人が唯物主義的考えに染まっている限り、この常識を打ち破ることは難しいだろう。

 このような霊的現実を認めるには、霊的認識力が必要という事である。そして、そのための能力を、シュタイナーによれば、人類は今再び獲得しようとしているのである。そしてそれは、人類が再び、エーテル界でキリストに再会するということでもある。シュタイナーがイエスに隠されたこのような秘密を公開したのは、このことも背景にあるのである。