k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

自我の歴史(前編)

 「自我」の問題については以前何度か取りあげたことがある。例えば次の記事。

https://k-lazaro.hatenablog.com/entry/2024/03/14/085745

 シュタイナーは、人間を構成する要素を、肉体・エーテル体・アストラル体そして自我としており、自我は、一つの独立した(もちろん他の体と有機的につながっているが)実体とされている。抽象的な概念、あるいは意識の単なる一現象ではない。

 それは、地球上の他の存在と人間を区別するものであり、この自我が人間の他の肉体等の構成要素に働きかけることにより、人類はさらに進化していくとされる。この宇宙と人類の進化は一体のものなので、極めて重要なものである。

  しかしまた、自我は、人間なら誰もがもっているとされるが、厳密にはそうでないかもしれない。これはまた、別の大きな問題である。

https://k-lazaro.hatenablog.com/entry/2022/08/18/102357

 さて、今回は、この人間の自我の人類史における歴史を俯瞰する論考を紹介したい。フォルカー・フィンテルマンVolker Fintelmann氏及びシュテフェン・ハルトマンSteffen Hartmann氏共著による『自我を求めて』という本に収録されている論考である。両著者とも人智学の活動をされているが、フィンテルマンは医師であり、ハルトマン氏は、音楽及び瞑想について研究・啓発されているようである。

 この本は、自我に関する包括的な「自我学」を目指した著作のようで、様々な視点から自我が論じられている。

 人類の意識を遡ると、自我は、最初から現在のように明瞭に意識されていたのではない。ある意味では、ある歴史の時点で誕生し、また成長してきたのである。今回紹介するのは、人類の精神史の視点で自我をとらえた論考である。記述は、古土星期から始まっているが、地球期のアトランティス時代までは省略し、以下に掲載するのはそれ以降の部分である。
 前編・後編に分けて紹介する。

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自我を求めて(前編)

Ⅲ 人間の自我の進化

アトランティス時代

  これまで述べてきた発展の歴史は、今日の学問には知られていない。

ルドルフ・シュタイナーは、自然科学を補完する精神科学として、精神研究の方法からそれを導き出し、文章として発表し、記録した。彼の全生涯の仕事は、彼の著書『神智学』の副題にあるように、この超感覚的な、すなわち「世界の知識と人間の運命」に関する精神的、霊的研究の問題に貫かれている。この創造の始まりとして思弁的なビッグバンは存在しないし、オートマトン(自動人形)として創造された世界をもたらしたデウス・エクス・マキナも存在しない。階層的に組織された、非常に分化した多くの存在が【いわゆるヒエラルキー=天使群】、三位一体の神の創造主の意志に従って奉仕し、この創造の一部として、今日に至るまで宇宙を形作ることを自らの任務としている。そしてこの活動は続き、世界を変容させ、遠い未来へと導いていく。

 もちろんネアンデルタール人のような些細な逸脱はあるが、地球、宇宙、自然、そして人類は、ほぼ常に今日の姿であったという考えに固執することは、今日の科学、ひいては多くの人々の考え方の決定的な誤りである。種がその場ですぐに成長した木になるように命令することはできないが、出現と消滅を絶え間なく交互に繰り返しながら、一歩一歩前進することだけが可能であり、小さな規模でも大きな規模でも、あらゆる発展に意味を与える目標をもっている、造物主の意志の表現としての具体的な進化思想が欠けているのである。

 アトランティス後の時代は、私たちが歴史学と呼んでいる科学が洞察することのできるエポック【時代】の始まりである。初期の時代はまだほとんど隠されており、神話や伝説として姿を現わしている。【訳注】

【訳注】現代に至る歴史区分は、アトランティスの崩壊後に始まる。以下の文章にあるように、その最初は、インド文化期、次にペルシア文化期等々が続き、現在は第5の文化期である。インド文化期、ペルシア文化期などは、その名残が伝わっているだけで、歴史学的には明らかになっていない。

しかし徐々に、その痕跡は科学的説明の基礎となるような形で保存されるようになっている。全ての進化は、内に7つの法則を含んでいる。古土星の原初的な始まりから、最終目的地であるヴァルカンまで、地球の発展の大きなステップは7重である。地球の各段階において、7重の構造はより小さなラウンドで繰り返され、再び7重に細分化される。ルドルフ・シュタイナーは、アトランティス以後の世界が7つの文化的エポックに細分化されたことを、このように説明している。それらは、原始インド、原始ペルシャバビロニア-カルデア-エジプト、グレコローマン、そして現代ではゲルマン-アングロサクソンの文化エポックと呼ばれ、それに続く第6と第7の文化エポックとしてロシア(-コーカサス)とアメリカがある。

 これらの文化的エポックはそれぞれ、ゴルゴダの秘儀という転換期における自我の本来の誕生に至るまで、自我の発達の段階を可能にしている。人間の自我が、人間の世界自我であるキリストへの志向を通して、彼を模範とすることにより、原初の始まりから前述の無限の時間を通して自我のために準備された肉体の体躯に、人間の霊的核として自身を完全に結びつけることは、今ようやく可能となったのである。今初めて、再上昇のターニングポイントにおいて、自我は、鉱物領域にまで入りこんだ物質体の物質性まで浸透し、それとつながることができるのだ。【訳注】約1万年前、アトランティスが滅亡した後のインドの原始時代では、人類の賢き教師たち、聖なるリシたちが人類の教育者として働いていた。彼らは、感覚・知覚の世界に直接隣接するエーテル・エレメンタルの世界からのイニシエートたちを通して活動した。しかし、個々の存在として生きるようになった人々も、物質的な肉体とのつながりはまだ非常に緩やかで、今日では覚醒している感覚器官は、ただ夢の中にいるようにしか使えない。外界はまだ影のようなものであったのに対し、自然界の存在を含む霊的存在の体験は即物的でリアルなものであった。人間は、そこでさまざまな「神々」を知覚するこの創造的な世界に自我を持って生きていた。これは、アトランティス後の第4の文化エポックの初期にまで及んだ。

【訳注】「物質体」は、地球の最初の状態である古土星期に生まれた。人の構成要素の内、一番古いものとなる。本来の「物質体」は、「霊的」身体、「濃縮したエーテル体」である(西川隆範『シュタイナー辞典』)。これに鉱物的素材が加わったものが、現在我々が目にする人間の身体なのである。物質的体そのものは見えないのだ。

 

 聖なるリシたちは、このような文脈から教えを説き、自我を原初の始まりに至らせることにより、現在へと導き、人間はかつてそこから創造されたにもかかわらず、その神的なものを、相対するもの、そこから自分を切り離したあるものとしてとして認識する意識へと徐々に前進するよう準備した。エゴイズムの種は、今日のような否定的な意味ではなく、自らを自我として知覚し、あらゆる外的なものから自らを区別する力として、この次の発展のステップに利用された。しかし、創造的宇宙との一体感は、依然として自己体験のきらめきを強く上回っていた。

これは次の文化的エポック、原ペルシア時代において変化した。神の臨在は後退し、人間が経験するのは神の啓示のみとなった。この後アトランティア時代のこの第二の文化的エポックは、ツァラトゥストラまたはゾロアスターとして知られる人間によって特徴づけられる。この名前は、そこから神々が自己を人間に啓示している星の世界とのつながりを想像させる。この名前は、今まさに出現しつつある神秘的存在を表現している。長い時間をかけて自分自身を準備した選ばれた人々は、すでにイニシエーションを受けた人々によって、神の本質の直接的な体験へと導かれる。それは、イニシエーションを受けない人々には、それはそれらの本質の啓示としてのみ姿を現した。後に、ユダヤ教で大祖たちが何世紀にもわたって働いてきたように、ツァラトゥストラも働いてきた。ツァラトゥストラ自身は、イニシエーション・センターである秘儀の祭司たちを通して、形成的かつ霊感的な影響を与えるために、自ら受肉する必要はなかった。彼は、世界進化の過去ものについて意識を保ちながら、しかし未来の力をももって、すでにそれらを吸収した自我を通して働きかけた。ツァラトゥストラの自我は、第二の文化エポックを遥かに超えて拡張された、人類と個々の人間にとって、アトランティス後の第四、第五の文化エポックにおいてのみ達成されうる自我であった

 このツァラトゥストラの時代には、人間の個々の自我は、準備された、まだ夢のような感覚器官に入り込むようになり、自分の外側の世界、特に自然がより鮮明になり、輪郭がはっきりしてきた。彼の意志の質が、この自然に働きかけるように目覚め、変化のための衝動を与えた。文明が生起した。それは、ごく初期の段階において科学的なものでもあり、創造された世界を理解し、それを人間の発展に適応させようとし、例えば穀物の品種改良や農業などを通じて、人類に役立てる努力であった。

 原初のペルシャ文化エポックの特別な自我体験は、秘儀からアフラ・マズダオとアーリマンとして人間に示された、光と闇の世界諸力の体験である。光の担い手の中で、すべての進化の転換点であるゴルゴダの秘儀において、地上と人類を密接に結びつけるために、霊的宇宙的高みから地上へと降ったキリスト存在が体験された。それと対峙するのは闇のアーリマンであり、彼は人間を永遠に、死を超えても地上に縛り付けることが自分の仕事だと考えていた。

人間の自我が、その活動のための身体の殻や道具に自らを束縛し続けるのではなく、むしろリズミカルに交互に結びついたり離れたりするという事実によって、人類には均衡が築かれた。人間は目覚めと眠りを区別するようになった。それまでは、自我は今日の夢と比較できる継続的な意識を持っていた。それが今や、感覚をとらえることによって「目覚めた」状態になった。眠っている間、人間は過去から慣れ親しんだ霊的階層的存在―それは、日中においてまた覚醒した意識には、次第に隠れていった-との直接的なつながりの中にいた。地球そのものにとって、自我の発達のこの段階により、昼と夜が生まれた。それ以前には、交代はなく、今日私たちが黄昏の過渡期として知っているのと同じ状態が続いていたのである。

 地球(火星-水星)【訳注】で第4段階のアトランティスに至るまで、そしてアトランティスの後の時代にその進展がさらに説明されることになるこれらの進化の段階は、形の霊であるエクスシアイの指示の下にある。彼らは、肉体と魂が結びついた人間の自我を実際に形づくる者であり、人間の形姿におけるこの一体性の、そのような特別なものを特徴づけている。アトランティスまでは、ギリシア神話のプロテウスに象徴されるように、人間は絶えず外観を変える流動的な存在だったとするなら、今日の人間は、まだ変化は可能だが、非常により強く連続性、持続性を示す、外形、フォルムをえている。それはますます現代人の姿に似てくる。

【訳注】地球期は、前半の火星期と後半の水星期に分かれる。地球全体の進化はこのように、週の名に刻まれている。

 

 自我が個人として生きるようになったとしても、その状態は、個人化が進む現代とはまだ比較できない。人々は、以前のようにまだ、自分自身を共同体の一部として、つまり統一体としての他の多くの人々との調和の中で自分を経験している。人は、自律しておらず、秘儀のメンバーやイニシエートたちでさえ、高次の存在に導かれ、彼らから委ねられて行動していると感じていた。たとえ自然や宇宙を自分とは別のものとして経験したとしても、人間は自分自身を全体の一部であり、その法則の中に組み込まれていると考えた。

 そして、第3の文化エポックであるバビロニアカルデア・エジプトにおいて、大きな一歩が踏み出された。人間はすでに、覚醒と睡眠を通じてリズミカルに2つの意識形態に分かれていたとするなら、今や、現在私たちが知っているように、本当の意味で誕生と死が加わったのである。エジプト人の特別な死者崇拝は、この変化が人々にとっていかに劇的なものであったか、また死者を自分たちの世界にとどめておきたいとどれほど望んでいたかを表している。そしてこの時代になって初めて、地上の生と霊的世界の生との間の交替が、また輪廻転生の衝動も、今日私たちが理解する意味で始まったのである同時に、古月期の自我の中ですでに萌芽的におかれていたカルマ、運命の法則が働き始めるのである。

これは人類最古の叙事詩ギルガメシュ叙事詩』に原型的に表現されている。伝説のウルクの王ギルガメシュは、荒野の男エンキドゥの中に、彼の敵対者であり、運命の補完者である友を見出す。エンキドゥが死に、ギルガメッシュが死の謎の前に慄然と立ちすくむまで、彼らは共に試練と冒険に立ち向かう。ギルガメシュは友の死に深く心を揺さぶられる。

 ギルガメシュの中で、私たちは運命の力との闘いと、個人の不死の問題との闘いを体験する。人間の原型がここにある。ギルガメシュはおそらく、自分が死すべき存在であることを経験した最初の人物の一人であろう18

 アトランティス後のこの第3の文化エポックでは、自我はすでにより独立して生きているが、自立しているわけではない。人間は、自分の民族関係に、また、後に職業がそこから発展していく任務の領域の中に生まれる。この言葉の隠された意味を私たちは発見することができる。なぜなら、その当時、人は民族共同体の枠組みの中で、民族の指導的立場にある人々によって「召され」、その人たちは秘儀からその衝動を受け取ったからである【訳注】。個別の自我は、他の多くの人々との一体性を、各個人がそこで自分の任務を持つ有機体として経験した。自由はまだ意識されていなかったし、それを熱望されることもなかった。人間は全体によって支えられていることに感謝していた。

【訳注】ドイツ語の「職業Beruf」 は「任命するberufen」からきている。英語であれば、vocationとなる。

 肉体は、既に自我がより強く貫かれていたが、それでも今日よりはずっと緩やかな形であった。その結果、生命の領域【エーテル体】は肉体とそれほど密接に結びついておらず、それにより、人々は現在では想像もつかないような、神話やサーガに巨人のイメージで残されてきた力を発揮することができたギリシア神話ではヘラクレスがそうだ。ピラミッドの建設も、この方法でしか説明できない。感情の世界では、自我のコントロールがはるかに弱く、それはさまざまな民族間の絶え間ない争いに反映されていたが、同時に、個々の人々の間でも、より直接的な感情的対立が起こっていた。

 

18 シュテフェン・ハルトマン『ギルガメシュとエンキドゥ-世界史的友情』シュトゥットガルト2021年参照。

 

 モーゼの律法、十戒が、自我の統治を通じて感情の世界をコントロールすることを学ぶ必要性を認識させるようになったのは、この文化的エポックの後期になってからである。そのために必要な洞察力は、まだ自発的に生まれることはなかった。第一に、「汝、してはならない」という言葉により、自分の理解に基づいて自我から感覚の世界を管理するための条件が作り出されなければならなかったのだ。最初の道徳意識が生まれたのである。

この時期、霊的神的なものの人間との、人間の霊的神的なもとの関係はさらに離れていた。霊的神的なものは、イニシエーションの場である秘儀においてのみ、まだその姿を現した。世界の人々は、その有効性をなお体験するだけだった。感覚で把握できる世界、自然とその領域、星々の宇宙、天候、その他多くのものにおいて、人は創造主が創造したものを見た。人々には、神々の多様性が存在していたが、それらは今や像、彫像となった。人はそれらについて知ってはいたが、もはや直接経験することはなかった。眠っている間だけ、人間は、霊的な世界で、そのエレメンタル存在や階層的な存在を体験するようになったが、目覚めたときには、もはやそれらを意識することはなかった。アトランティス後の第三文化エポックにおける人間のこうした変化はすべて、肉体の硬化を伴っていた。それによって感覚的な生命はより覚醒し、より「結晶化」したが、それ以降の物質世界の発達段階において、自我が、肉体の中で、物質世界に自分を自己として反映し、実際に経験することがより困難になる傾向が生じた。この肉体の過剰な硬化は、死によって人間の体を支配する力を得たアーリマンの影響であった。人間、まさにその自我をも肉体に、ひいては物質に非常に強固に縛りつけようとする彼の意志は、ここで人間の発達に介入する場所を見いだしたのだ。

 アーリマンがこの時代に特に成功したのは、関心が彼の対抗者、ルシファーに集中していたからである。ルシファーは時代が変わる【紀元前】3000年ほど前に遠いアジアで転生を終え、それ以来オリエントの精神生活を特徴づけてきた。彼は、ペルシャ人がアフラ・マズダを崇拝し、太陽の中で体験した光を手にしていた。ナザレのイエスの中でキリストが自らを「わたしは世の光である」と語っているように、太陽の霊は太陽から離れて地球に近づいた。この太陽からの不在に、ルシファーは入り込んだのだ。第3の文化エポックの人々は、光の変化を把握することができず、まぶしくきらめく光に気づかなかった。しかし、ルシファーは地上人間を欲せず、人間とその自我を地球外の領域にとどめ、自分の被造物にしようとする。そして、ただ地球にのみその意味がある肉体をアーリマンに委ねる。人間との対決、そう人間を所有しようとする継続的な闘争が始まり、今や人間のさらなる発展に伴っているが、宇宙全体にも影響を及ぼしているのである。

 アトランティス後の第4の文化エポックであるグレコ・ローマ時代には、人間の自我は肉体と魂との結びつきがますます強くなる。彼の意志の方向は、宇宙的起源から離れ、完全に地球に向いている。人間の自我は、創造の、霊的な生きている世界を、ますます影として、反響としてしか経験しなくなる。感覚によって知覚できる物質的な世界は、自我にとっては、もはやこの創造の世界には見いだせない創造主の意志の結果でしかない。

 このことは宇宙そのものの死につながる。これは人々の気分であり、ギリシア語ではオルクス、あるいは冥界と呼ばれ、古ゲルマン語ではヘルと呼ばれ、後に地獄となる。死は生に対してますます力を増していく。このような気分から、ホメロスの「冥界の王より上界の乞食のほうがましだ」ということわざが生まれたのである。

 偉大な秘儀の場所はなお存在する。そこでは、神々に対する意識を保とうと試みられている。しかし、それらはもはや人々にとっての現実ではなく、エジプト文化エポック末期以上にイメージと化している。演劇は、神的霊的な現実を伝えるイメージの世界として登場する。人間はその観客となり、見世物となり、衣装は再び脱がされ、舞台は解体される。

 それまで開示されていた神々の思考はますます不明瞭になり、ますます単なる鏡像になっていく。ギリシアは哲学の国であり、そこでは、もはや宇宙的知性の啓示ではなく、その人体への反映である新しい種類の思考が生まれる。この鏡像の活動を、今や目覚めた自我が行うのである。

 アリストテレスとアレクサンダーの共同の活動の中で、ギリシア思想は頂点に達した。古代最大の哲学者アリストテレスは、後に大王と呼ばれるアレクサンダーの師となった。アリストテレスは思考の本質、論理の法則を一から探究した。彼はこれを徹底的に行ったので、18世紀のカントやヘーゲルは、論理学はアリストテレスの時代から一歩も進歩していないという結論しか出せなかった。アリストテレス主義のもう一つの極は、感覚的経験である。アリストテレスは、生活のあらゆる分野において包括的な科学的経験的方法を展開した。

 弟子のアレクサンダーは23歳で東方への大遠征を開始した。10年以内に、今日まで知られている最大の世界帝国が誕生した。学校と劇場はいたるところに設立され、ギリシア人の文化的衝動、特にアリストテレス主義はアジアのほぼ全域に広まった。アレクサンダーが自軍の撤退を余儀なくされたのは、インドの手前になってからだった。アレクサンダーの帝国は、彼がバビロンで早すぎる不慮の死を遂げた後、急速に崩壊した。一方、アレクサンドロス主義の文化的衝動は、基本的に現代に至るまで、多面的かつ実り多い影響を与え続けた。

 地球の発展における転換点は、グレコ・ローマ文化エポックの第一期から第二期への移行期-したがって、これはいわゆる中世をはるかに超えた、キリスト教以後の時代にも及ぶ-にあることを認識することが重要である。このことは、トマス・アクィナスアリストテレスの著作を集中的に研究したドミニコ会の例を見ればわかる。当初はギリシアとその文化が中心であったが、中世の後半にはローマ文化が支配的になった。それは今や思想の把握というよりも、法を通じて人々の共存の枠組みを提供する法的生活を創造し、増大する世界権力として人類の自覚を生じさせながらも、同時に自らを権力と結びつける国家生活を確立した。自我は、紀元前4世紀、ギリシアアレクサンダー大王がその最初の始まりにおいてすでにそうであったように、肉体に結びついた意志を掌握した。民族の戦いや戦争は、もはや感情の世界、情動性からではなく、征服、獲得の表現として行われるようになった。そこには、エゴ、自我の中のエゴイズムが、発展の本質的な力として表れている。

 第3の文化的エポックでは、特に感覚の世界が、自我に把握され、感覚魂の独立した一部へと形成されたのに対して--モーセヘブライの民に与えた十戒を思い出してみよう--、今や、魂の中間的な一部である悟性・心情魂が、自我によって創造され、浸透されている。肉体の道具である物質体、生命体、感覚【アストラル】体は自我によって刻印づけられ、自我が自らを形作る際に道具として奉仕するために、この魂の諸メンバー【構成要素】が加えられるのである。魂は、自我にとって肉体と精神をつなぐ構成要素を形成し、ギリシア神話ではディオニュソスアポロンに代表されるように、対立するもの、あるいは極性を調停し、均等化する機能を担う。ファウストにこの出来事を正確に表現させたのはゲーテである:

 「私の胸には二つの魂が宿っている、残念なことに、一方は他方から離れようとしている。一方は、粗雑な愛欲のために、しがみつく器官でこの世にしがみつき、もう一方は、塵から高貴な祖先の領域へと強制的に持ち上げる。」19

 第三の魂のメンバーである意識魂に引き継がれることになるこの魂の形成は、まだ始まったばかりで幼く、すでに個人というよりは人類的【集団的】なものである。しかし、第三、第四、そして第五の文化的エポックでは、人間の自我は、それまで組み入れられてなかった魂を組み入れることに従事する。

 

19 『ファウスト』第1部「門の前」。

 

 したがって、これらの時代は、ルシファー的霊が、自我をますます大地と、ひいては肉体と結びつけようとする衝動を抑えるために、特別な力をもって自我に接近する時代なのである。一方、アーリマンの霊たちは、自我をより早く、より永続的に地上のものと結びつけるために、自我を引っ張る。彼らは、宇宙的な創造の世界から地球へ、そして人間へとますます流れていく知性を利用して、人間の中で人間の思考、つまり独立した思考の一部が生まれるようにする。これは、ゴンディシャ=プールにあったハルン・アル・ラシード(紀元763〜809年)の宮廷で特に集中的に見られる。当時の学問はすべてここに集められ、促進されていたが、他方、中央ヨーロッパでは、例えばカール大帝(768-814年)はまだ読み書きができず、大変な苦労をして読み書きを学ばなければならなかったのである。

 この時期、宇宙的霊的領域で劇的な出来事が起こった。第三の悪、太陽デーモンが出現し、そのデーモンは破壊し妨げる力を直接自我に向けるようになったのである。ルドルフ・シュタイナーは、この出来事について西暦666年を挙げている。福音書記者聖ヨハネの啓示、彼の黙示録、考え得る最大の未来像の中で、666という数字は、致命傷を負って海から立ちのぼる獣とドラゴンと、一体化して悪の三位一体を形成する、大地から立ちのぼってくる二本角の獣と関連づけられている。

 この第三の悪のオカルト的名称は「ソラト」である。私たちは劇的な世界の出来事を感じている: 自立しつつある自我が、地上での存在に必要な肉体と魂という「殻」を介して、二方向から攻撃され、進歩を阻まれているのだ。そして今、他の2つの存在と同様に邪魔をするだけでなく、破壊しようとする太陽の悪魔による、自我そのものへの第3の直接攻撃がある。同時に、人間だけでなく、宇宙としての地球全体が死の呪縛に陥り、死の危機に瀕している。先を見通している "賢明な "世界の導きは、すでにこれに対する対抗する力を形成している。太陽の霊、子なる神、創造的言葉【ロゴス】は、はるか昔に始まった宇宙の高みから地上への旅を完成させ、神の霊を自身に受け入れ、3年の間それと内的に結び付き続けられるように、ツァラトゥストラの自我を通して肉体と魂の形成という比類無い道を歩んだ人間の中に転生したのである【訳注】。この唯一、二度と無い出来事によって、地球と人間の将来の可能性の萌芽がつくられた。これは、神から付与されたヒエラルキーの道を、人間と、それとともに「地球」が歩み続けることができるようにするための、あらゆる癒しの力を秘めている種である。そしてこれは、人間の成長の中心的要素である自由が侵害されないように、すべてオープンに行われたのである。

【訳注】ツァラトゥストラゾロアスター)は、マタイ福音書の伝えるイエス受肉し、ヨルダン川でキリスト霊を受けるその器(肉体と魂)を準備した。

 

 ゲーテが詩的に描写した魂の二重性、そう分裂を視野に入れると、今やバランスを取り、癒す中心の力が加わったのであり。だからキリスト・イエスは、心で把握された古い敬虔な認識から救い主とも呼ばれたのである。この中心によって、太陽の霊キリストを通して、自我の発展と未来にとって決定的な新しい要素、「真理」が植えつけられた。それは明るい太陽の存在であるキリストの一部であり、福音書に描かれているように、キリストは真理なのである。ヨハネによる福音書では、真理は、7つの「私は言葉である」(「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6))の言葉の一部である。それは、弟子たちに対する別れの言葉にも、父なる神の力として、また自由との関連で何度も登場する。"真理はあなたがたを自由にする" (ヨハネ8:3z)最後に、それは、キリストの、悟性魂の代表者であるローマのピラトとの対話の重要な部分を形成している。「そこで、ピラトは彼に言った。ではあなたは神か?イエスは答えられた;私はこのために生まれ、真理を証しするために世に出た。真理に属する者は私の声を聞く。ピラトはイエスに言った、"真理とは何か "と。」(ヨハネ18:37-38)。そして、彼に罪がないことを見いだしたので、彼を裁こうとはしなかった。

 驚くべき、そして悲劇的な出会いである!真理の本質は、真理について問う悟性魂文明の人間と出会うが、彼は、それを認識できない。真理が個々の人の中に現れるのは、ようやく意識魂を通してだからだ。しかし、彼は自分の魂で真理に触れ、自分が話している相手の潔白を体験する。だが、彼は、その後、彼に死を宣告しなければならない。世界の運命がそうさせるのだから。とてつもない悲劇がここに広がっている。

 そして、このアトランティス後の第4の文化エポックには、ギリシア悲劇の世界にすでに存在していた、自我と結びついたもうひとつの精神的要素がある。良心である。良心は真実と非常に密接な関係にあり、健康な感覚の持ち主なら誰でも知っているし、たとえば嘘をついたときに経験する。

 地上に向けられた自我は、働く神々の経験を次第に失っていき、キリスト後の8世紀から9世紀にかけて、カンタベリーのアンセルム(1033-1109年)などによって、神の証明という認識の最初の努力に至るようになる【訳注】。13世紀には、秘儀参入者ですら霊的世界を見通すことができなくなるほどに(ルドルフ・シュタイナーの研究によれば、これは1250年に起こった)、人々にとって霊的世界が暗黒化したと言わざるを得なくなった。人類は、5000年以上続いた暗黒時代(カリ・ユガ)の絶頂期にいるのである。しかし、ゴルゴダの秘儀以来、新しい光が地球に、ひいては人間の自我にも植えつけられた。世界の光、太陽=キリストの光である。地球もいつか太陽になるのである。この光は、最初はほとんど見えなかったが、その後今に至る意識魂が発達する時代になると、ますます勢いを増して燃え上がる。神的・霊的世界との新たなつながり、新たな霊視力が、自我から、人間から、生まれ始めるのだ。エッダの神話では、光の神バルドルはヘルスの領域から戻り、兄のヴィダーがフェンリスの狼を屈服させた後、再び「上の世界」に入る。狼の口はまだ大きく開いているが、もはや噛みつくことも貪ることもできない。私たちの現在を照らす未来のビジョンである。しかし、クリスマスのメッセージの中で天使たちが羊飼いたちの心に向かって宣言しているように、それは人々がそれを望み、善意の人々でなければ実現しない。これらの言葉は、私たちがそれを聞く耳を持つならば、世界意識魂から私たちに響く。それは、癒しの力によって浸透し、私たちを再び上へ、「下」である地上の暗闇と重苦しさから、天使の聖歌隊のハレルヤが響き渡る高みの霊的な光へと導いてくれる。「いと高きところには神に栄光を、地上には善意の人々に平和を。」 2O

【訳注】神の存在を証明するということは、それ以前は自ずと神の存在を感じ取っていたものが、そうではなくなり、知的に理解する必要が出てきたと言うこと。直接霊界や神霊を体験する霊的認識力が失われてきたと言うことである。

【後編に続く】

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  自我の歴史は、アトランティス後の文化期を追う形で、第4文化(ギリシア・ローマ)期に達した。最後に中世時代の状況が語られ、話しは、後編の第5文化期へと続いていく。

 上の文章には、感覚魂、悟性魂、意識魂という言葉が出てきたが、これは人智学における魂の分類であり、人の魂は順次この順で新たに生み出されてきたとする。キリストの時代には、まだ悟性魂の時代であり、ピラトはそのためにキリストの真実を認識できなかったのだ(完全には認識できなかったがおぼろげに予感はできた)。

 意識魂は、霊的性質をももつものであり、その発達は、近代以降、現代人の使命となっている。それには、自我が大きな役割を担っているのだ。

 キリストは、人類の「模範」であり、人類の自我でもある。パウロが語っているように、「私の中にキリストが生きる」ようになるのが、今後の人類の理想なのである。