k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

自我の歴史(後編)

【お知らせ】これまで毎週木曜に更新してきましたが、今後は、都合により不定期更新となります。申し訳ありませんが、読者の皆さんにはご理解をお願いします。

 前編に続く後編である。前編では、およそ中世時代までが語られた。後編では、主に自我を取り巻く現代の課題やこれから人類の進むべき方向性が語られる。

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アトランティス後の第5の文化エポック-現代

 人間の自我の進化の道は、近代から私たちの現代へと至る。ヨーロッパとアングロサクソンの人々によって強く特徴づけられたこのポスト・アトランティス第5の文化エポックは、15世紀に始まる。ルドルフ・シュタイナーは1413年という正確な年号を何度か述べているが、これは紀元前747年と対応する。シュタイナーの記述によれば、ポスト・アトランティス時代の文化エポックはそれぞれ2160年間続くからである。したがって、第5のエポックは第4の千年紀、西暦3573年まで続くことになる。ここで再び、このようなリズムの基本的な側面に言及しなければならない: あるエポックの終わりと、それに続くエポックの始まりが正確に述べられているとても、それらは重なり合っている、ということである。衰退していくエポックは、次のエポックの最初の3分の1【約700年間】まで響き渡り、次のエポックは、前のエポックの最後の3分の1にすでに関わっているのである。このような発展の時期が本当に「純粋」であるのは、その中間部分だけであり、例えば、この千年紀の第2世紀の初め(約2,133年)からの第5の文化エポックだけである。その終わり(2900頃)から、第6文化エポックは、すでに共に響き始めているのである。そして、現代の出来事を徹底的に理解するためには、さらなる発展の法則に触れなければならない:その中心を軸として時代が反映されることである。

 

20 Volker Fintelmann / Steffen Hartmann, Mit Widar Zukunft schaffen, Stuttgart 22022- を参照。

 

 このように、現在の第5のエポックは第3のエポックであるバビロニアとエジプトを反映し、第2のエポックは第6のエポックに、第1のエポックは第7のエポックに反映される。これは非常に複雑に見える。しかし、世界の進化のような複雑なプロセスが「単純」であるはずがない。中世の人々が、人間を包括的な大宇宙の小宇宙と見なしていたように、私たちはそれを人間の有機体と比較することができる。自我の発達に焦点を当てた以下の記述を理解する上で、このような相互浸透は何度も現れるだろう。結局のところ、ゴルゴダの秘儀による時の転換点、火星の衝動が水星の衝動に取って代わられたことは【訳注】、その瞬間の出来事でも、外的な出来事が起こった数日や数週間の出来事でもない。それは非常に長い時間をかけて準備されたものであり、実現するためにはそのような時間が必要なのである。

【訳注】今の地球期は、前半の火星期と後半の水星期に分かれている。ゴルゴダの秘儀の出来事がそれらを分けているのである。

 私たちは、キリストの力としての真理を、悟性魂の文化の傑出した担い手であるポンテオ・ピラトとの特別な出会い、そして「真理とは何か」という彼の問いの中でも見てきた。今、この第五の、"私たちの "文化的エポックの中心的な発展課題は、自我によってもたらされる第三の魂的分肢-意識魂の形成である。この魂があって初めて、自我が自己としての意識を形成することが可能になるため、ルドルフ・シュタイナーが時折用いたように、この魂は自己意識魂と呼ぶこともできる。シュタイナーはその著書『神智学』の中で、魂のこの部分を次のような文章で特徴づけている。

「たとえすべての個人的感情がそれに反抗したとしても、真理は真理である。この真理が生きている魂の部分は、意識魂と呼ばれるべきである」。21

 意識魂は、あらゆる共感や反感から自らを解放し、自らを貫いて存在する純粋な真理に導かれることを許す。そしてそれは、ギリシア文化時代についてすでに述べた良心の力と結びつく。この良心の力から、自我は現代に不可欠な2つの要素、義務と責任を受け取る。世界の法則に恣意性はなく、厳格な規則性が支配しているように、真実に生き、良心が織り込まれた自我は、創造的世界のこれらの法則から逃れることはほとんどできない。ルシファー的存在は、神霊的意志からの自由は、まさに自らが従うべき自身の法則を、自我が自分に与えることにあると信じ込ませようとする。しかし、これは、今日多く体験する完全な無秩序、恣意性、混沌につながる。

  今日、多くの人々にとって、義務とは好ましくない言葉である。しかし、少し前までは、それは高貴な美徳であった。「身を捧げる」という活動の言葉を見れば、義務とは社会生活にとって欠くことのできない精神的な力であることがすぐにわかる。例えるなら、電車の運転手が、ある駅で降りて休憩を取ろうと思い立つ。列車はしばらく停車し、旅行者は乗り継ぎの列車に乗り遅れ、重要な約束に間に合わなくなり、大混乱が起こる。仕事の世界全体も、交通における協力関係も、その他多くのことも、引き受けた仕事を果たさなければならないという義務から生じている。

 

2I ルドルフ・シュタイナー『神智学』GA 9, Dornach 1994, p. 47.

 

 概念としての責任は、義務ほど否定的に判断されることはない。しかし、それは実際に生きられるのだろうか。人々は、人と、それに付随する他の霊的存在との相互作用におけるその深い意義に気づいているだろうか。責任Veantwortungという言葉は、それが何を意味するのかを表している。私たちは、なぜ何かをしたのか、あるいはしなかったのか、なぜ一日の間に特定の感情や思考が私たちの魂を駆け巡ったのかという疑問に答えantwortenなければならない。より深い意味では、人生計画や運命に従うかどうか、意図を果たすかどうか、善に加担し悪に加担しないかどうか、真実の中に生きるか嘘の中に生きるかどうか。世界の道徳的、倫理的なものが人間に遭遇し、彼に最も近い第3階層の霊、天使、大天使、原力(アルカイ)から質問を受ける。そして彼は答えを出さなければならない!自我が肉体から離れ、その故郷である世界に住み、そこで働く階層的存在と関係を持つとき【つまり睡眠中】、毎晩このようなことが起こる。

 現在を簡単に見てみると、個々の人間が、自分の自我の一部である魂の要素に正当性を与えるために、それをめぐってどれほど懸命に戦わなければならないかがよくわかる。敵の勢力は、自我が存在しない一瞬一瞬を利用して、エゴイズムの中で自我を盲目にしたり、冷たい知性の中で自我を麻痺させたりするのだから、それは日常の闘いである。真実の代わりに嘘があり、義務の代わりに独断があり、責任の代わりに冗長な言い訳がある。そして、自己としての自我がその独自性において個性を形成しようとするところ、それが流行であるという約束によって画一化される。しかし個性化の兆候は、今日すでに数多く見られる。今日、幼い子供たちでさえ、「やりたい」と言ったり、はっきりと「ノー」と言ったりする。免疫学と呼ばれ、"自己はすべての非自己を認識する!"を科学的信条とする、自己の科学、個性の科学がいかに出現したか。そこで、「認識する」という動詞は重要である。というのも、これを、意識魂を道具とする自我が今、学んでおり、その力と活動へとますます形づくろうとしているからである。つまり、自己自身とそれ以外の世界を最大限の明瞭さで認識することである。そのためには光が必要だ。ドイツ語では、この必要性は、何かが彼に理解される(何かが彼を照らす:einleuchtet “einleuchten”=理解する)とき、明らかになる。

 私たちは再び、人間を取り囲み、その領域へと拉致し、きらめく光で目をくらませ、あるいは重力の闇で光をかき消す、対抗する力に遭遇する。人は、それらの間に立ち、見いだす。ルシファーとアーリマンの間にある自分の中心に、「わたしは世の光である」(ヨハネ8:12)と自らを語る力が宿っているのだ。人工的な電気の光に溢れ、大都市の星空が持つ光り輝く力をかき消してしまうこの世界では、一人ひとりが本当の光の源が何であるか、そして自分自身が光を生み出す存在であることを自ら発見しなければならない。この自己生成的で、独創的で、何よりも個性的な光は、その源泉を人間にもっている。

 天才的な作家であり詩人であった男が、この光を自分の中で体験し、人生の過程でそれを失い、ついには狂気の闇に堕ちた。フリードリヒ・ニーチェは、この信じられないような告白を『楽しい学問』の中で詩の形で書き、『Ecce homo』というタイトルをつけている:

「そうだ!私は自分がどこから来たのか知っている!そうだ!私は自分がどこから来たのか知っている!私は炎のように飽くことなく輝き、自らを焼き尽くす。光は私がつかむすべてとなり、石炭は私が去るすべてとなる。」

 前述した真実、義務、責任、光といった自我の要素に続いて、私たちはもうひとつ、勇気という要素に出会う。世界の勇気は長い間人類に寄り添い、人々に発見や発明を促してきたが、今やますます自我の要素となり、意識魂の発達と結びついている。ルドルフ・シュタイナーがこのようなイメージを与えているように、人間の萌芽を創造したトローン、意志の霊は、勇気の海の中を「泳ぐ」のである。勇気は、実体的に創造者の意志の力と実質的に結びついている。自由への能力を持つ存在、人間を創造するには神の勇気が必要だった、というようなことを考えるのは確かになじみがないとしても旧約聖書の中で、"その時、神は人を創造したことを悔いた"(創世記6:6)という記述に出くわすと、深い感動を覚える。(創世記6:6)

 大多数の人々が神から完全に背を向けて他の勢力に加担している現代において、神は再び後悔しているのだろうか?はるか昔、神は、その力の一部である子原理を、個人的個性的自由への、ますます困難な道を歩む彼らの助けとなり、同行者となるために。人々に送ることを決心した。キリストとして私たちの意識の中に生きているこの神の三位一体の子なる原理には、「人間」というこの激しく争われる進化の事象に関与するために、長い間、ある存在が結びついてきた:太陽の大天使ミカエルである。ルドルフ・シュタイナーはミカエルを「自由の真の英雄」と表現している。彼はまた、勇気の宇宙的担い手でもある。

 自己認識によってもたらされ、これまで以上に自由となる自立と結びついた、まさに私たち本来の個性への発展的な歩みにおいて、私たちには、何よりもまずキリストと、キリストに仕えるミカエルという助け人がいる。私たちの中心的器官である心臓において、私たちの周囲と内部の両方を知ることは、自己認識の一部である。これについては、次の章で詳しく説明する。たとえば、ミカエルがドラゴンを足下に押さえつけ、手なずけるときなど、彼らの援助は人類にとって実に根本的に効果的なものとなりうるからだ。しかし、特定の個人とその個人的な道にとっては、彼自身がそれを望む場合にのみ、助けられ、支援を見出すことができるということが前提条件となる福音書の中でキリストが病人に、「あなたは癒しを得たいのか」と繰り返し問いかけるのは、このことを指している。自由の能力を得るための前提条件は、人々が積極的に助けを求めていることを表明することである。そうすることで、人々は、同行者と支えを、しかしただ自分自身の活動と調和して、見出すことができる。もしこの言葉が今日それほど誤解されていなければ、ミカエルとキリストの両者が人間の自由な成長に対して抱いている敬意についても語られることができるだろう。【訳注】

【訳注】ミカエルとキリストは、人間の自由を決して疎外しない。個人の自由が尊重される。それは、困難にあるときもそうである。助けを求められることによって初めて助けることができるのだ。

 

 私たちの自我が、意識魂とともに進歩するために必要なもう一つの要素は、敬虔である。ルドルフ・シュタイナーは1909年のベルリンでの講義で、「魂の生命のメタモルフォーゼ」について語ったとき、このつながりを示した。彼は、魂の特定の性向を魂の主要な構成要素と結びつけた。怒りは情動魂、真実は悟性魂、そして敬虔は意識魂である。

 現在におけるその成長の進歩に不可欠な自我の要素が、理解不能、あるいは無意味なものとして経験されるような形で覆い隠されていることに驚かされる。敬虔は、宗教と強く結びついた魂の気分である。それが宗派を指すのではなく、自己と魂が自らの起源、霊的な故郷とつながり続けたいと切望し、実際にこのつながりを積極的に求めようとするものである限り、敬虔を宗教生活の一部と分類することは正当化される。私はまた、自然の中でもそれを発展させ、あるいは芸術作品に没頭する中で、霊的なものを感覚的に現わすこともできる。例えば、誕生と死の瞬間など、人間にも適用できる。魂の力としての献身を意識するようになれば、超感覚的と呼ばれる世界への入り口として、また私たち自身の人間としての本性がそこに由来する世界への入り口として、献身に出会うことができる。謙虚さや従順は、敬虔と結びついている。ここでもまた、ルドルフ・シュタイナーは『人はいかにして高次の世界の認識を得るのか?』の中で、かつてアポロ神殿で「汝自身を知れ」と書かれていたように、霊的な神殿に入ろうとするすべての人が門の上で出会う文章を、ここでも述べている:「精神の高みには、謙遜の門をくぐることによってのみ登ることができる。」22

 ラテン語由来のdevotion(恭順)という言葉も登場するが、これは敬虔さと訳され、また服従とも訳される。恭順であることは、敬虔という魂の力に根ざしており、自己を他者に捧げ、奉仕のために他者に向かう能力は、今日の服従とはまったく異なる意味を持つ。すべての社会的職業はこの力から働き、すべての「奉仕」はこの根源から生まれる。

 

22 ルドルフ・シュタイナー『高次の世界の知識を獲得する方法』GA io, Dornach 199o, p. 20.

 

 福音書では、「聖木曜日」の晩の【イエスの】洗足のイメージはこれを表している。至高の自我であるキリストは、はるかに不完全な弟子たちに「恭順」し、彼らの足を洗う。ヨハネによる福音書(13:1-20)のこの文章を読み、もしかしたら、ペトロの憤慨と熱心な承認に微笑むなら、この世の法則を発見するだろう:高次の存在、つまりその発達がより進んでいる者は、「低次の存在」、つまりその発達がまだそれほど進んでいない者に仕えるよう求められているのである。義務という魂の力を考えれば、「そうする義務がある」という意味にもなる。ここでもまた、現在の状況を見れば、人間になることを巡っていかに争われているか、ダーウィニズムが、いかに上位者が下位者に対して行使する権利があると思われる力を賞賛しているかが明らかになる。自分の魂を積極的に感じ、そこで献身に出会うなら、それが、まったく、他のものが自らを注ぎ込み、そこで愛情をもって受け止められる器であることが体験されるようになる。福音書のイメージの中でも、献身は隣人への愛という独特の力を内に秘めている。私は隣人を自分のように愛するべきであるからだ!私は、この世界の諸力の被造物である自分自身への愛にとどまり、そして私のうちで築き上げたこの愛を隣人に与えることができるし、そうしんければならないのだ。

 これらの記述の中で、私たちは、【霊的】ヒエラルキー存在が自らを犠牲にして自我に与えた活動の要素にますます満たされながら、自我が、初期の自立性を体験できるようになった地点に至った。自我は、出生-受胎前の長い時間の流れを振り返り見て、時間の転換点、ゴルゴダの神秘で自己の誕生を経験し、人生の最初の3年間の幼児期-誕生から死に至る時間にたとえられる-に入った。西暦4千年に、自我は、意識魂の獲得により、自己の第3年期を終え、私は、自分を自我として、自己として認識する、と自分に語るようになる。私たちが現在理解している時間の尺度で測ると、まだまだ長い道のりがある。プラトンが世界年25,900年と表現した宇宙時間の現実では、人間は「近い」未来にこのゴールに到達するだろう。これまで述べてきたこと、すなわち創造の歴史はすべて、人間と呼ばれる宇宙的被造物を形成することを目標としている。それは、実際にはまだ存在していない。というのも、それは存在するようになる過程、つまり継続的な 「なりつつある 」状態にすぎないからだ。それは、この現実の中に、自己において自由と愛を結びつける世界的要素を形成する者である。そしてそれは、その時、自分自身から切り離された動物、植物、石(鉱物)という自然の3つの王国を再結合させる、さらなる第10のヒエラルキー秩序を確立する者である。【訳注】

【訳注】地球の人間以外の諸存在は、今の人間が発展していけるよう原人間から切り離されたものであり、それらの再統合、救済が今後の人間の使命となる。言わば、神の創造の行為に人間が参与するのであり、それにより人間は第10のヒエラルキー存在となるのである。

 

 ポンテオ・ピラトが悟性魂文化の代表として「真理とは何か」を問うたとするなら、自我は、意識魂を通して「自由とは何か」を問う。私たちがすでに出会ったキリストの言葉は、この2つを結びつける。「そして真理はあなたがたを自由にする。」真理は、自由の種が埋められることのできる魂と霊の土壌を作り出し、そこから自由が花を咲かせ、遠い将来には強大な樹木へと成長するのである。精神科学の言葉では、この木は霊我と呼ばれる。自身を自己として認識する自我である。【訳注】

【訳注】自我は元々自分自身を認識する主体であるので、この場合の「自己」とは、その霊的出自を含めた本来の姿ということであろう。

 自由とは何なのだろうか。この問いは、単なる論理では答えられないし、知性の巧みさでも確かに答えられない。この問いに、思考によって答えることができるのは、もはや脳に縛られることのない「心蔵の思考」が形成されたときである。意識魂の発達において、悟性魂の形成により基礎づけられた真理は、まず、今日の飢え渇きや喜び苦しみのような自明の魂の特性となることを望む。そうしてその後、初めて、この "真の "真理は、自由という偉大な本質の把握へと私たちを導くことができるのである。このようなことは、意識魂の時代の終わりには、人類に可能となるだろうし、個々人には、今日においても既に起きているのである。サウロとしてユダヤ教の神秘体系に入門した使徒パウロは、現代とその先の時代にとって輝かしいその例である。彼は、地上的宇宙的な復活者、キリストを、その新しい姿で最初に知覚した人物である。ダマスカスでの経験の後、彼は、霊我がそこに放射する完全に発達した意識魂をもって生きた。ルドルフ・シュタイナーが繰り返し引用したガラテヤの信徒への手紙の重要な言葉「私の自我は、神のために生きるために、律法のために律法を通して死んだ。私は、キリストとともに十字架につけられた。私は生きるが、もはや私が生きるのではなく、キリストが私の中で生きるのだ。」(ガラテヤz:19-2:o)。

 これは自由の、最初の、そして最も深い特徴である。この認識には、これらの思考が人生の伴侶となるとき、到達することができ、それは、魂から絶えず新たに語られ、瞑想により強められる。シュタイナーは、ルシファーが私たちの中に作り出す自由の幻想について語る。この幻想は、今日の世界に広く浸透しており、そこから革命が起こり、勇気ある自由の戦士として私たちが経験する個々の人々を通して、貴重な形で表われている。それは欺瞞という意味での幻想ではなく、自由であるもの、そして個人にとってなり得るものの予感なのだ。なぜなら、ルシファーには、人間に自由をもたらすという宇宙的な使命があった。その結果、神との分離、ルシファーを敵対者とする矛盾が生じるが、それは最も深い意味での犠牲であり、世界的使命なのである。だからこそ、ルシファーも遠い未来に神の起源に戻り、救済されるのだ。

 私たちは現在、自由の全容をばくぜんと想像することしかできない。私たちは、それを、聖霊の力と結びついたキリストの実体として経験することができる。人間の構造では、自由がそこで実現する霊我を見ることもできる。ルドルフ・シュタイナーの『自由の哲学』で模範的に体験されるように、現在の人間にとって、自由は、それが私たちに触手をのばしてくるとしても、常に新たに獲得されるものである。自由が人間の自我の一部となるのは、聖パウロのように、私たちがこう言えるときである:「生きているのは私ではなく、私の中におられるキリストであり、目覚めた霊我として私の自我の中におられる方です。」そして、ゲーテの『ファウスト』には、この現代的人間のドラマの中心的モチーフのひとつである、人間に対する天からの約束がある。「常に努力する者を、我々は救済できる。」

 アリストテレスの考えがこれにつながる:「自由よりも安全を好む者は、当然、奴隷のままである。」ルドルフ・シュタイナーの、同様に人生の意味を示す文章により補足される:「私たちは過去の奴隷であるが、未来の主人である」I3

23 ルドルフ・シュタイナー『薔薇十字の神智学』GA 99、1907年5月31日の講義。

 

 自由は未来からやってくるものであり、私たちの自我はそれに向かって努力し、それを自分自身の要素にしたいと願い、それを切望する。しかし、それは勝ち取らねばならず、ただ与えられるものではない。これは、アントン・キンプラーが次のように定式化した3段階のプロセスにつながる:「個人的な過去の奴隷であったり、現在の主人であろうとする者は、未来の奉仕者にはなれない。」24

 

 私たちは、人間の自我の創出から誕生まで、そしてその少し先、つまり地上での人生の最初の3年間に比較できる期間までの進化の道筋を描いているこの章の最後に至った。ルドルフ・シュタイナーがよく言うように、自我はまだ幼年期であり、乳飲み子あるいはベビーである。私たちは、自我がいかにして最高位のヒエラルキー存在によって、固有の意志実質の犠牲として創造されたか、長い時間をかけて、共通の人間の自我としてあったものが、次第に個別化し、ついには、自らを形成する道の道具、手段として使用するために、肉体と魂という「殻」をますます掌握していったかについて体験してきた。私たちは、現在の地球に至るまでの宇宙全体の発展、自然の王国、ヒエラルキーが、いかにこの自我の発展と結びつき、相互に依存しているかを経験してきた。下降の道がいかに転換点を経て、今再び上昇の傾向を示しているか、そして、抵抗の力、悪がいかにこの自我の道の仲間であり敵対者となったかを。

24 Steffen Hartmann, Wege zum Geist. Zum Lebenswerk von Anton Kimpfler, Hamburg zoi6, p. p. から引用。

 

 私たちは、自我が、いかにして創造の実質に、意志そして、段階的に拡大していった要素を受容したかを体験した:知恵、運動を通じて出会う能力、時間と空間がどのようにして彼に体験可能となったか、思考、感情、意思という魂の能力の萌芽がどのようにして植えられたか、身体の四肢がどのようにして徐々に発達し、形成されるようになったか、死ぬことと死がどのようにして彼に近づいたか、その他もろもろである。そして、私たちの惑星の大きな第4の発展期に、どのように、創造された宇宙全体において、自我が、愛と結びついた自由の担い手となるための前提条件である新しい要素が、常に加わったのかを。現在のあらゆる恐怖や障害にもかかわらず、私たちは、自我がこの道を確実に進むことができるという確信を経験する。なぜなら、善き意志をもてばいつでも助けてくれる力強い助け人が、自我の側にはいるからである。それは、目覚めて、自身の自分をはっきりと認識していること、完全な自我存在、霊の現存以外の何ものでもない。両手を広げて私たちを受け入れてくれる未来に従うという、魂の勇気もまた、こうして表現されるのだ。未来の 「奉仕者」になるために。

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 自我の歴史は、人間の歴史そのものでもあるが、その歴史はまだ、自我が生まれたばかりの、人間の3歳頃に相当するという事である。

 個体発生は系統発生を繰り返すと言われる。人間一人(個体)の発達は、人類という種(系統)そのものの発達の段階を繰り返すのである。従って、逆に個としての人間から人類全体の発達の歴史を類推することも出来るだろう。

 人間の自我の模範あるいは原型はキリストである。自我が誕生して以降は、その成長が人類の課題である。その方向性を示すのがキリストである。いわゆる高次の自我と一体になる道を歩むこととも言える。

 現在の人間を構成するメンバー(要素)は、肉体、エーテル体、アストラル体そして自我であり、自我が下位のメンバーに働きかけて変容させていくというのが、人類の未来に向けての使命なのだが、そのためにも自我が成長していかなければならない。それに必要なのは、愛と自由である。 

 従って、この歩みを妨害しようとする勢力がもっとも毛嫌いしているのがやはり愛と自由なのであろう。今の世界で起きていることは、この二つを巡る闘いの現われなのかもしれない。