
最近、熊が山から人里に出没した、熊による人的被害が発生したというニュースが相次いでいる。理由としては、山のブナやミズナラの実の不作、小熊が多く生まれたことにより熊の餌が不足しているということがあるらしい。また一度人里で餌を得た熊が人間への警戒心を失い、繰り返し町に出没するようになったという説明もある。
しかしそれにしても、今回の様子を見ると、それは1地域、1固体だけでなく、全国的に一斉に起きている現象であり、熊そのものの生態が変化しているようにも見える。
これについては、暖冬の影響で冬眠期間が短縮され、冬でも活動する熊が増加した、春の気温変化で山の花や実の時期がずれ、熊の食料サイクルが乱れているというような説明(AIによる)が有効かもしれない。
しかし、別の説明も可能かもしれない。
自然科学者のルパード・シェルドレイクは、「形態形成場」を唱えている。それは、生物の成長、形態、行動を組織化する目に見えない場で、電磁場や重力場のように実在するが、物質的ではなく、情報的な性質をもつ。階層的で、細胞レベルから器官、個体、社会まで存在するという。
これをもたらすのは、その場そのものに独自の構造があるからであり、「過去に存在したあらゆるシステムの形態形成場が、その後も同様のシステムに働きかける、いいかえれば過去のシステムの構造が、空間と時間を超えて影響を蓄積させ、その後に生まれた同様のシステムに作用する」ということである。
これを示す事例としてシェルドレイクは、次のようなものをあげている。1匹のラットにある新しい行動パターンを身に付けさせると、その後に生まれてくる“同種の”(つまり直接の子孫だけでなく)ラットは、これを以前よりも早く身に付けられるようになるという実験があるというのだ。これには、確かに親から子への遺伝というような説明は当てはまらない。同じ種を結び付ける何ものかがある、それは、シェルドレイクによれば、形態形成場ということである。(この形態形成場と人智学でいうエーテルの類似を考える人智学者もいる。)
これを上の問題に当てはめると、たまたま人里に出てアーバンベア(Urban Bear)となった熊がいて、その習性あるいは学習内容が形態形成場をとおして、他の熊も身につけてしまったということである。このような仕組みならば、全国的に一斉に生じているというこの事態も説明が付くだろう。
これに似た理論が、かつて存在した。1970年代に生物学者ライアル・ワトソンが著書『Lifetide(生命潮流)』で紹介した逸話に由来する「100匹目の猿」というものである。宮崎県・幸島のニホンザルが、イモを水で洗って食べる行動を始めた。この行動が群れ内で広まり、ある閾値(100匹)を超えると、地理的に離れた高崎山の猿にも同じ行動が見られるようになったというのである。ある行動や意識が一定数に達すると、物理的接触なしに集団全体に伝播するということである。しかしこれは、ワトソンの創作であったらしいが。
ではさらに、人智学的な視点で考えるとどうなるだろうか。
シュタイナーは、動物は集団的魂を有しているとしている。動物は人間と異なって、固体として魂をもっているのではなく、種として一つの魂をもっているというのである。これにより、熊の問題を考えると、1固体の学習により、この集団魂がその能力を得て、それが他の各固体に及んだということである。
集団魂というものを考えると、動物は本能に基づいて行動すると言われるが、これの説明も可能になるだろう。動物は、種として存在しており、個々の動物は、その本能=集団魂に従って行動しているのだ。従って、一固体自体としては、その行動は限られているのである。
一方、人間は、個々人が独自の存在であり、一個人が一つの種であると言える。そしてそれにより個々人が自由をもっているのである。自由の根源は、自我である。それは、人間にあるが、動物にはないものなのである。
ただし、この議論にはさらにちょっと複雑な補足が必要である。
実は、人間が、肉体・エーテル体・アストラル体、そして自我を有しているように、動物も植物も、また鉱物も有しているというのだ。ただ、動物で言えば、その自我が集団魂であり、それはアストラル界にあるというのである。また植物の自我は下位の霊界に、鉱物の自我は上位の霊界に存在するのである。
これに対して、人間は、4つ全てを物質的世界に有している、つまり自分の肉体に収めているのである(肉体の中に全体が入っているのではなく、はみ出ている)。
なかなか複雑な話しである。
当然のことだが、動物は人間と密接な関わりを持っている。人智学視点では、動物や他の自然存在は、人間の生存や霊的進化を支えるために生まれてきたものであり、今は自らを犠牲にしているのである。また上の説明からも分かるように、人間と同じように霊性を備えており(仏教でも、人間だけでなく他の自然存在も仏性を備えていると考えられている)、その発展は未来に予定されているのだ。
つまり、それらは人間のコンパニオン、仲間なのである。汚染したり破壊したり、虐待してはいけないのだ。仲間として大切に扱うべきなのだが、人間中心の思考により、人間が勝手に支配できると思って、好き勝手をしているのである。
今の熊の行動は、ある意味、こうした人間のおごりに対する彼らの警告なのかもしれない。
※ブログを再開していますが、やはり能力的問題により、今後は不定期掲載とします。