k-lazaro’s note

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キリスト教芸術におけるブッダ②

ベルゴニョーネ「イエスの神殿奉献」

 この項目の①では、主に、歴史的研究から指摘できるキリスト教への仏教の影響、つまり外的に現われた歴史的事象を見てきた。それに続き、今回は、シュタイナーに従って、ブッダキリスト教の関係に関わる隠れた歴史を覗くこととする。

 

アシタとシメオン

 ①で、ブッダが、ルカ・イエスの誕生の場面に天使の一群の中で臨在していたことに触れた。そしてその後も、ブッダとルカ・イエスの結び付きは続いたのだが、シュタイナーによれば、それは、イエスのオーラ(アストラル体)のなかにブッダが存在するという関係となったのである。霊視能力を持つ者には、イエスの背後にブッダが見えたということである。

 さて、ブッダ(ゴータマ・シッダルタ)の誕生説話には、次のような物語がある。

「シッダルタ王子が生まれたとき、インドにひとりの賢者がいた。アシタである。彼は、いま菩薩が生まれた、と霊視する。彼は王城でこの子どもを見て、感激する。そして、泣きはじめる。“なぜ、泣くのだ”と、王はきく。“王よ、不幸なことがあるのではないのです。生まれたのは菩薩であり、やがて仏陀になります。私は老人なので、仏陀になった姿が見られるまで生きていることができません。それで、泣いているのです”と、アシタは答える。やがて、アシタは死んだ。」

 また、ルカ福音書には、イエスの誕生後の出来事として次のようなことが語られている。

「律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。 シメオンが “霊” に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。“主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです・・・” シメオンは彼らを祝福した。」

 この2つの物語は、時代は異なるが、人類史上において同じように偉大な2人の人物の誕生に関わるエピソードである。その類似性は、①で述べた仏教のキリスト教への影響としても捉えられるのだろうが、実は、シュタイナーによれば、この2つはながっており、合わせて1つの物語を構成しているのである。

 同じように生まれたばかりの赤児に対面したアシタとシメオンとは、2つの時代を隔てて生きた同じ一人の人物だというのである。まだブッダとなっていない赤児のシッダルタと会い、そのブッダとなった姿を見ることができないとして涙を流したアシタは、ルカ・イエスの生まれた時代にシメオンとして再受肉し、それによりイエスのオーラの中にブッダの姿を見ることとなり、ようやく念願がかなったというのである。

 上図は、「神殿の12歳のイエス」の作者ベルゴニョーネがルカ福音書のこの場面を描いたもので、ヘラ・クラウゼ=ツインマー氏が『絵画における二人子どもイエス』に掲載している絵である。赤児のイエスに両手を差し出している右側の人物がシメオンである。(ただし、ツインマー氏は、ここでは、上記のアシタとの関連については述べていない。)

 

 上の絵は、通常のキリスト教絵画であり、絵の表現自体には何ら違和感はない。しかし、キリスト教絵画の中には、常識的なキリスト教絵画論では理解が困難な絵も存在する。絵の表現内容に仏教の影響が強く感じられる絵画である。

 次に、これについて、同じくクラウゼ=ツインマー氏の本から紹介しよう。

 

グリューネヴァルトのイーゼンハイム祭壇画

 先ずグリューネヴァルトのイーゼンハイム祭壇画である。この絵は、そもそも今回のテーマとは別に非常に興味深い絵で、人智学派にも注目されており、人智学派によりいくつかの本も出されている。探求すべき様々なテーマを含んでおり、別の回で今後も取り上げる予定である。

 この祭壇画は、元は、アルザス地方(現在はフランス領)のコルマールの南方に位置するイーゼンハイムの聖アントニウス修道院付属の施療院の礼拝堂にあったが、現在はコルマールのウンターリンデン美術館に収蔵されている。祭壇の扉の裏表にいくつかの絵が描 かれており、表の扉を開くと見える第2面の中央のパネルにイエスの誕生の場面が描かれている。

 以降は、クラウゼ=ツインマー氏の文章を引用する。

 それは、絵画の次の部分に対する解説である。

 「彼のイエスの生誕図(全体図は下に掲載)の左側半分に、この画家は誕生を待っている女性を描いた。色彩のある大きなオーラは、赤色の冠と共に内側の輝きを保持しながら、マリアの頭と上半身を包み込んでいる。天上の輝きのように白く、彼女の顔は、この美しい彩りの光球から、中心点として浮かび上がっている。赤い炎のような冠が彼女の頭を覆っている。

 霊的存在達の全軍勢が、この「永遠の聖母 Madonna Aeterna」に続いている-先頭にいるのは、天使達によって運ばれ、言いようのない仕草によって母を熱望している、今生まれようとしているイエスである。赤と黄金色に包まれた彼の後ろに、緑色の姿が浮いている。しかしそれは他の全てのものと違って翼を持っていない。その黒い髪は、明白に東洋風な顔-ブッダ的人相-を取り巻いている。明るく、外に向かって緑色を強めるオーラが、頭を取り巻いている。両手は、胸の前で礼拝するように指を伸 ばして合わせており、両目は伏せている。この人物は、内省し深い祈りに沈潜しながら、受肉しつつあるイエスの道行き-純粋に霊的な存在から母の生命と魂の組織に一層結びついていく階梯-に同行している。

 従ってここでも、ブッダの秘密が聖母像に反映している。それは、誕生以前の出来事の中に現れ、規則通りの姿を現す。一方、ウルビーノでは、具象的ではないが、多くの個々の事象がそれを明らかにしている極東的空気に取り囲まれて、既に生まれた子どもが、地上の生の中でまどろみ夢見ている。」

全体図

 ルカ福音書のイエスの誕生に際しブッダが臨在していたとシュタイナーは述べているが、ここにはまさにそれを示唆する情景が描かれていると言えるだろう。

 なお、上に掲載した図を見ればわかるように、この中央パネルは一つの場面であるが左右に分かれており、上で述べられているのは、このうちの左の部分である。そして、ツインマー氏はここで解説していないが、右にも(生まれたばかりのイエスを抱いた)マリアが描かれているのである。つまり明確に異なる二つの「世界」が一緒に描かれている一つの絵に「二人のマリア」が存在しているのである。左半分は明らかに霊的世界を表現していることから、著者が説明しているここに描かれたマリアは、一般的には、「聖なる処女性」などを象徴する元型的なマリアと解釈されているようである。このマリアは、大きなおなかをしていて、まだイエスを身籠っており、従ってイエスはまだ地上に誕生してはいないが、ここに描かれた者達の中で、右半分の地上世界に一番近い位置にいる。天界から地上界への移り行きが完成したのが右半分の絵という訳である。ここに「二人のマリア」を見ることも可能である。このことは別の回で触れたい。

 

 このような絵を描いたグリューネヴァルトとは一体何者なのであろうか? これも興味深いテーマなのだが、彼と秘教サークルの関連を指摘する説があるようである。

 さて、上のクラウゼ=ツインマー氏の文中に「ウルビーノ」という言葉が出てきた。実は、グリューネヴァルトの絵の前に、ツインマー氏はこの「ウルビーノ」の絵について述べている。これもまた驚くべき絵である。

 ③では、これについて触れることにしたい。