k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

クラウス・シュワブとは何者か?


 前回「グレート・リセットとオカルト・コントロール」で、WEF会長のクラウス・マーティン・シュワブ氏の素性に疑問があることに触れた。今回は、これの続きである。

 

 シュワブ氏の経歴につては、ウィキペディア等で知ることができる。その英語版や日本語版を見てみると、前回のクーパー氏の文章とほぼ同じ内容を確認できる。
 これを見ても、当然だが特に違和感は覚えない。しかし、クーパー氏がシュワブ氏の素性に疑問を提起し、「シュワブとは何者か?」と言っているので、更に、「Who is ・・」で検索してみたのだ。すると、シュワブ氏の素性に疑問を呈する記事がいくつか出てくるのである。

 その1つに「Who is Klaus Martin Schwab?」という記事があった。これは、クーパー氏の文章に通じる内容であった。著者は、「by Anon」とあり、いわゆる陰謀論の情報源とされる「Qアノン」が連想されるように、「anonymous 匿名」ということだろう。

 

 文章は、「ここでの調査結果はすべてインターネット検索によるもので、したがって誰でも入手可能である」として始まる。そして先ず、言われているのは、「ウィキペディアに両親の名前がないのは赤信号」というのである。たが、実際には、現在のウィキペディアには両親の名は出てくるので、この部分は違う。(ひょっとして以前はそうだったのかもしれない。)

 その後、経歴が詳しく述べられ、またそれに伴い、ある一族の名前が続々と出てくる。それが、やはり前回出てきた、ボドマー図書館の創設者であるマルティン・ボドマーの一族で、シュワブ氏との深い関係が語られているのである。(クラウス氏のミドルネームは、マルティン・ボドマーの「マルティン」でもある)。

 また、「シュワブ」という名字についてである。クーパー氏は、「“シュワブ”(スイス人の間では、国境を越えたドイツ人に対するしゃれ)は、一家を“庶民”、“民衆の人々”として描いているようだ。さて、理想主義と冷笑、どちらなのだろうか」と述べ、庶民派を気取るかのような偽名であることを示唆していたが、ボドマー一族との関係で、やはり本名でない可能性が指摘されているのだ。 

 現在のWEFの施設もこの一族に縁のある土地にあるようである。

 一体シュワブとは何者であろうか、WEFとは何のための組織なのだろうか?

――――――――

クラウス・マルティン・シュワブとは何者か?

 

by Anon

 

 ここでの調査結果はすべてインターネット検索によるもので、したがって誰でも入手可能である。

 

彼の人生

 ウィキペディアに両親の名前がないのは赤信号である。彼は1938年3月30日にドイツのラーベンスブルクで生まれた。スイスの大学で経済学と工学の2つの学位を取得し、ハーバード大学J.F.ケネディ行政大学院で行政学修士号を取得した。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスなど、世界各地から17の名誉博士号を取得している。

 他の資料では、もう少し詳しく書かれている。父親がオイゲンという人で、ドイツのラベンスブルグにあるエッシャー・ウィスというスイスの大企業の子会社(エンジニアリングとタービン建設を中心としたスイスの工業会社)で、工場長をやっていた。彼は1899年にスイスで生まれたが、ドイツのパスポートを持っていた。母親については、両親ともにスイス人であること以外は何もわからない。

 クラウスは、ドイツのラーベンスブルク(スイスとの国境近く)とチューリッヒ(スイス)近くのアウで育ち、スイスの小学校で2年間(1945年〜1947年)過ごすことになった。これについては、後でまた触れることにする。その後、ドイツに戻り、そこでシュポーン・ギムナジウムに通う。

 シュワブは「Gastgeber der Mächtigen(強者たちの宿主)」という本の中で、自分の少年時代と生い立ちについて少し語っている。その中で、オイゲン・シュワブは、ドイツからスイス国籍を取得しようとしたが、スイス連邦裁判所に拒否されたことが書かれている。"このトラウマ "があったからこそ、クラウス・シュワブは50年以上スイスに住んでいながら、スイスのパスポートを申請しなかったのだ。これは現在でもニュースになっている。

 第二次世界大戦中、ラーベンスブルクは連合軍捕虜の配給センターであり、彼の父親は赤十字で活動していた。どうやら、彼は(ドイツ国民として!)連合国との協定締結に協力したようである。

  防衛産業が盛んでない都市は空爆の対象にならないという連合国との協定を、ドイツ国民である彼が取りまとめたという。

 1957年、19歳の時にスイスに戻り、1958年から1966年までの8年間、彼は学業熱心で、すべての学位を優秀な成績で取得した。チューリッヒエッシャー・ウィス社で働き、フランクフルトのVDMA(機械・プラントエンジニアリング協会)のCEO補佐を務め、修士取得のためアメリカに渡り(彼はとても頭が良かったので、1年間飛び級できた)、ヘンリー・キッシンジャーやケネス・ガルブレイスと知り合った。だから、彼は非常に人脈が広かった。帰国後、ベルン大学から名誉博士号を授与された。なんという経歴だろう。

 今や、一気にスピードアップする。30歳で帰国した彼は、そのままチューリッヒエッシャー・ワイス社の役員に就任し、エッシャー・ワイス社をスルザー社に統合する責任者となり、暇を見つけてはジュネーブのCentre d'Etudes Industriellesで教授として働いていたのだ。そして、2年後に突然、すべてを捨てて、1971年1月24日に世界経済フォーラムを立ち上げた。

 それ以来、彼は、ダボス会議の警備のため税金を得ている。スイス中から軍隊と警察を集め、この私的なパーティーに、誰も押しかけないようにしている。ダボス会議は4日間開催され、約4300万スイスフランの税金が使われる(軍隊と警察を含む)。時々、ピエロの集団から「抵抗」があるが、それは明らかにコントロールされた反対運動であり、まともな神経の持ち主が誰も参加したくないようにするため、今日まで偽物が続いているのだ。

 

 2020年、彼は『COVID-19:グレート・リセット』という本を書いた。ペーパーバックは7月20日に出版されたが、これはでっち上げが始まってから7カ月後のことだ。

 

 では、クラウス・シュワブとは何者なのか、疑問は尽きない。謎を探ってみよう。

 一つ気になることがある。前述のように、シュワブはアウというところの小学校に通っていた。チューリッヒ湖畔のヴァーデンシュヴィルとホルゲンの間にある小さな町だ。オーは村の名前であると同時に、興味深い歴史を持つ半島であり、「シャトー・オー」と呼ばれる大邸宅があること以外は、あまり見るべきものはない。

  この半島は、1650年にハンス・ルドルフ・ヴェルドミュラー将官チューリッヒの裕福な絹織物商の家系)から400年以上同じ家の手に渡っている。彼は30年戦争で財を成し、ベネチア人(フェニキア人)のために働いていたこともある。ウィキペディアによると、彼にはHans Georg Werdmuellerという兄弟がいて、ヨハン・ハインリッヒ・ラーンJohann Heinrich Rahnの叔父にあたるという。この名前は、後々のために覚えておこう。ヨハン・ハインリッヒ・ラーンは数学者で、「Teutsche Algebra」という本を書いている。これはヨハン・ヤコブ・ボドマーによって出版された

これらの名前から、チューリッヒで最も古い民間銀行の一つであるRahn + Bodmerにつながる。

     市松模様、壊れた十字架、そして404に注目

 1887年、裕福な時計商ハインリッヒ・モーザーの未亡人、ファニー・モーザー・スルザー男爵夫人(スルザー社)がこの家と領地を購入し、1917年にハンス・フォン・シュルテス・ボドマーとヘレーネ・ベルタ・シュルテス・ボドマーに売却された。ハンスはエッシャー・ウィス、ブラウン・ボベリ&シエの役員を務めていた。このことは、クラウス・シュワブの父親とつながっている。ボドマー家はチューリッヒの旧家(15世紀)で、絹織物メーカーとして財を成した。

 クラウス・シュワブの話に戻ろう。彼がアウにいた1945年から47年の2年間は、シュルテス・ボドマー家が現所有者であった。クラウスとその両親は、この城の客人として暮らしていたのではないかと推測している。

 Geniではヘレーネ・ベルタの兄弟は分からないが、MyHeritageでは3人の兄弟が判明している。ハンス・コンラッド・フェルディナンド・ボドマー、ヘンリー・マーティン・レオンハルト・ボドマー=アベッグ、そして末っ子のマーティン・ボドマーだ。マーティンを調べてみると、面白くなってきた。


  ウィキペディアによれば、彼は、スイスの愛書家、学者、コレクターである。ジュネーブ郊外のケルニーにあるボドマー図書館(Fondation Martin Bodmer)が有名である。彼は、ボドマー・パピルスと呼ばれる書籍やパピルスを収集した。

 

 なお、ボドマー家の家紋は、上のロゴと同じものである。

 

 ボドマーは、シュワブの父と同じ1899年、5人兄弟の末っ子として生まれ、製糸業で財を成した。母の死の翌年、1927年にアリス・ナヴィル(ネヴィルと思われる)と結婚し、3男1女をもうけた。19歳のとき、「世界文学」(Weltliteratur)の蔵書を集め始める。1939年までに6万冊を収集した。彼の教育についてはあまり書かれていないが、1940年から1971年に亡くなるまで、国際赤十字の副会長(シュワブの父にリンク)を務めている。蔵書が大きくなりすぎるため、ケルニーに移転することになり、1951年にボドメリアーナ図書館が発足した。

 財団のホームページにはこうある。

 「この間、ボドメルは、ゴーティエの田園地帯(いわゆる「グラン・コロニー」)周辺に、全部で50ヘクタールを超える隣接するいくつかの区画を取得し、一つの領地に統合して、ケルニーに永久に居を構えた。そのうちの1区画であるハチウス荘は、チューリッヒの図書館のための2つのパビリオンに生まれ変わった。」

 

  スイスのような小さな国で、5万m2もの土地とは、すごいものだ。地図上の赤い部分がそのおおよその広さである。なぜ、それが重要なのか?ケルンには、WEF本部やクラウス・シュワブなど、不気味な人物や施設がたくさんあるからだ! マーティン・ボドマー財団はWEF-HQから徒歩15分のところにあり、シュワブ自身もWEFの敷地に隣接して住んでいる。もしかして、この巨大な本部はマーティン・ボドマー氏の土地に建てられたのだろうか?もし、そうだとしたら、もう一つのつながりがある。


 マーティン・ボドマー・ナヴィルは、コレクターであると同時に、出版者でもあった。彼は1930年に隔月刊の文学評論を創刊し、リルケトーマス・マン、R・カスナー、ホフマンスタールといった作家をゲストに迎え、その年の最高のドイツ語の文章を掲載した。この批評は現在もオンラインで購入することができる。その評論誌の名前は何であろう?CORONAという名前だった。

 マーティン・ボドマーは1971年3月31日、クラウス・シュワブの33歳の誕生日の1日後に亡くなった。1971年1月、クラウス・シュワブは、後に妻となるアシスタントのヒルデ・ストール(Otto Stollにリンク)の助けを借りて、ケルニーでWEFをスタートさせた(同じ年)。二人はダボス近くのSertig Valleyで結婚した。二人の子供、NicoleとOliver Schwabは共にWEFに勤務している。

  マーティンの妻Alice Elsa Navilleについてはあまり知られておらず、写真も経歴もないのが不思議である。分かっているのは、彼女がアンリ=アドリアン・ナヴィルの娘であることだけだ。

 ナヴィルという名前は、国際赤十字エッシャー・ワイス、ブラウン・ボベリ・シーにつながるものだ。彼女の父には、アルベールとロベールの2人の兄弟がいた。兄のロベールは、義兄の実業家カール・マーティン・レオンハルト・ボドマー(通称レオ)と共に、チューリッヒ近郊のシャムで義父の製紙工場を経営していた。ネット上ではあまり情報がないが、チューリッヒの豪邸に住んでいたことが分かっている。その豪邸は現在、[9.11の]WTCテロの主契約保険会社であるスイス・リー・グループが所有している。

 私はようやくレオの写真を一枚だけ見つけることができた。この写真は、クラウス・シュワブ(Klaus Schwab)に酷似している。自分の目で確かめてほしい。

 レオ・ボドマーは1880年生まれで、この写真では57歳である。シュワブが生まれる6月前の1937年9月に撮られたものだ。どういう関係があるのだろうか。これは間違いなく家族的なつながりがある。レオ・ボドマーは父親かもしれないし、叔父かもしれない。誰が知るだろう。しかし、同じ名前が何度も何度も出てくるのだ。

 この一族がしていることを見てみよう。ハロー・ボドマー(1930-2015)は、2012年に唯一の孫であるヘンリー・C・ボドマーを養子に迎え、一族に名前(とお金)を残すことができるようにした。彼は娘しか持たなかったので、ボドマー家の姓は消滅してしまった。ショーは続けなければならない。その間に、彼はアトキンソンと結婚し、タルサ・オクラホマでの石油ビジネスにつながった。

 しかし、なぜシュワブという苗字なのだろう。苗字なのか、それともまったくのでっち上げなのか。

 「シュワブ」という言葉は、昔も今もドイツ人に対する民族的な中傷として使われている。ポーランドでは、"Szwab "は勤勉な人を表す言葉だが、それはポジティブなものではなく、強欲の表れとして捉えられているのだ つまり、ユダヤ人的な色合いがある。

 私の考えでは、彼がシュワブという名前を使ったのは、まず第一に、自分の正体を誰にも知られないようにするため。第二に、WEFがドイツ人によって作られたのではなく、スイスで創設されたという事実から目をそらすためだ。そうすれば、父親とスイスの市民権についてのお涙頂戴話も説明がつく。そのストーリーには説得力が無い。彼の父親は、非常に影響力のある家系で、クラウス・シュワブはスイスの市民権を申請しなかった。彼は既に持っていたからだ。

 一つ確かなことは、いわゆるエリートは皆縁戚関係をもっており、その広告塔の一人がクラウス・シュワブだということだ。ロックフェラーやロスチャイルドのように、シュワブはフェニキア海軍の高官であり、自分がファシストでないことを装う必要さえない。露骨な専制と抑圧によって、大衆をさらに服従させたいという彼の欲望は、完全に明白である。

――――――――

 最後の文章で、「いわゆるエリートは皆縁戚関係をもっており」という言葉が出てきたが、原語は、「related」なので、必ずしも血筋や婚姻による関係にあるとは限らないだろう。だが、エリートや富豪などという言葉を聞くと、広瀬隆氏の『赤い盾』を思いだし、やはりこのような人々は「血」でつながってるのだろうなと思うのである。

 同じ階層の人々の間の結婚が多くなるのは普通だが、実際、欧州の王家、貴族はみな親戚のようだ。なおさらこうした古い勢力にとって、「血」はやはり重要なのかもしれない。

 シュタイナー的に言えば、かつて血によって、古い霊視力は世代を超えて伝えられてきたのである。しかしそれは、現在においては、克服されなければならないものでもある。その新旧の対立がまた歴史を動かしているのである。

 「フェニキア」という言葉も何度か出てきたが、これは陰謀論でいうところの「ユダヤ人」の祖先に関係するようで、そのような文脈でここでも使われているようだ。

 さて、本文のようにシュワブ氏が「偽りの人物」であるかどうかについて、その真偽を判断する能力は私にはない。
 しかし、WEF以前のシュワブ氏のウィキペディアで見るような経歴では、どうしてもWEFに結びつかないと私には思われる。まあそもそもWEFやシュワブ氏について詳しいわけではないせいもあるが、どうしてこの人が、あのように大きな影響力を持てるのかが不思議なのだ。ウィキペディアの簡単な記述では、両者を結びつける何らかのものが欠落しているように感じ、やはり何か隠された背景があると思わざるをえないのである。

 しかしそれにしても、本文の冒頭にあったように、今回の内容は、インターネットにより知り得ることであるなら、つまり誰でもアクセスできる情報ということになる。人物を「創作」するにしても、これではやり方が安易ではないかとも思われる。

 だが、彼らは、そのようなことも心配していないと考えることもできよう。その様な主張には、「陰謀論」のレッテルを貼れば良いのである。多くの人は、日々の大量の情報に溺れ、マスメディアの情報を批判的に判断することができないからである。コロナやウクライナ問題で明らかなように、ネットにはその真実に迫る情報が公開されているのに、主流マスコミの情報のみを受け入れているため、いつまでも偽りの世界から抜け出せないという状況になっているのではなかろうか。それもまた恐ろしいことである。

グレート・リセットとオカルト・コントロール

イングランドブリストルセントジョンズゲートウェイに描かれたチャールズ2世の紋章


 WEF(世界経済フォーラム)の年次総会(ダボス会議)が、今月スイス東部のダボスで開催された。それに関するニュースが、今年はいつにも増して駆け巡っているように見える。「いつにも増して」というのは、いうまでもなくコロナ問題によって、以前に増してその悪名とそれへの関心が高まったからである。ツイッターには、その参加費が600万円などという情報もある。それを聞いただけでそのいかがわしさが分かるような気がするのだが、日本からも大臣を初め大勢が参加しているようである。

 さて、この組織の会長を務めているのが、この名も最近よく目にするようになっているのだが、クラウス・シュワブ氏である。今回は、彼について触れた興味深い論稿を紹介する。

 

 著者は、リチャード・クーパーという方で、イギリス出身で、大学では歴史、美術史などを学び、現在は、2020年の第一ゲーテアヌムの開館100周年を記念して立ち上げた「Anthroposophicum」という組織で、人智学的なテーマで執筆活動、講演やセミナー等を行う活動しているようである。

  この論稿の正確な執筆年代は分からないのだが、内容からして2021年かとは思われる。テーマは、グレート・リセットとその背後にあると思われるオカルト的人心操作術ということで、歴史の背後には、大衆に知られずに、それを動かす者達がいて、オカルト的手法で大衆の思考をコントロールしているというものである。コロナ問題やグレート・リセットについても、そうした背景において見ることができ、現在の状況には、それを創り出した長い前史があるというのである。

 まあいわゆる「陰謀史観」に属するものであるが、驚くべきは、シュワブ氏の公になっている経歴にについて疑問を呈していることである。これについては、本文の後に再度触れることにする。

 

―――――――――

グレート・リセット:  オカルト・コントロールの正体と原理

リチャード・クーパー

 

 2020年のいわば出遅れた人たちのために、我々は、地政学的な舞台で、政治的イデオロギーと思考の大衆支配の遠大な側面を扱っている。まず、この文章に注意書きを設けよう。このテーマを、人は受け入れるか入れないかである。そうでない人にとって、彼らのそれはいわば主流メディアである。2020年から2021年にかけて、政府が見せる矛盾、驚き、無策ぶりには大きな謎はない。人類のための「プロジェクト」の名前はグレート・リセットであり、2020年半ばに世界経済フォーラムの創設者である「クラウス・シュワブ」がそのキーテキストを執筆している。この分析は、我々が直面している状況の深刻さに対するブースターにはならないし、不穏な現実に対する「ワクチン」にもならない。むしろ、私は、まだ読み、考えている人たちのために書くのである。知識のある少数のためにこれに関連する物事を概説しようというのではない。このテーマは、政治的信条に関係なく社会に示唆を与えるものである。注意深い読者は、我々が意図的に政治的な落とし穴を避けようとしていることに気づくだろう。

 

 ここで、私たちの基本的な用語の概要を説明しよう。- 私たちがここで分析する「ガバナンス」は、政治とは異なり、抽象的でも理想的でもなく、統治する「システム」に対する心理的反応を通じて働きかけ、それを形成するものである。人類の地政学的な舵取りとしての統治を行う人々は、ヘーゲル弁証法とオカルトの使用に精通している。つまり、彼らは、歴史の展開の中で、またそれに先立って民衆を支配するためのイデオロギー、そして作られた真実の力と使い方を理解しているのである(訳注)。

 

(訳注)ヘーゲル弁証法とは、ドイツの観念論哲学者ヘーゲルが提唱した哲学概念。対立する2つの事物や命題は、その対立を通して、新たな・より高次の事物や命題へと発展するとする。その過程は、「正(テーゼ)」「反(アンチテーゼ)」が、「止揚アウフヘーベン)を経て「合(ジンテーゼ)」となると表現される。これを、歴史を動かす原動力と考えれば、そのためにあえて対立を生み出すという考えもありうる。ある秘教的団体は、そのような戦略をもっているという。実際に、アメリカの対外戦略に影響力を持つという「ネオコン」グループには、このヘーゲル哲学の影響があるという。またブッシュ親子大統領が属していたと言われる「スカル&ボーンズ」という秘密結社も、このヘーゲル哲学を用いているという指摘がある。

 

 広い範囲での思考のコントロールは、戦略的かつ日常的なものである。それは、公的な情報機関を通じて行われる。メディア、教育、そしてそれが政治的な目的のために悪用されている限り、文化において。社会の中で大衆には知られずに、オカルト的霊的エスタブリッシュメントは、様々な広報活動を通じて、現実の霊的理解に対する国民の無知を理解しながら、隠れてあるいは公に強制力を行使している。つまり、このような集団にとって最悪のシナリオは、その様なシステムからの理解が、第一に、現在、存在していないし、組織的な目に見える形で存在するには程遠いということ、第二に、現在の社会経済や政治の問題を解決、変革、克服する手段は、オカルトとオカルト史への理解にあるという理解が広まることであろう。

 

 社会支配のテクニックを、メディアを通じて明示的に、知る人ぞ知るサインやシンボルで大衆に明らかにすることは、いわば、これらの隠された策略を危険にさらすどころか、隠された利益やアイデンティティを最大限に保護することになるのである。このようにエリートがやっていることを明示的に宣伝すること、すなわちパブリック・リレーションズは、そうしたテクニックの教育や意識的な理解と混同されてはならないのである。歴史的事件の象徴的側面の暴露は、オカルト的象徴主義の無意識的な影響範囲そのものを単に拡張する効果を持ちうる。どうしてそうなるのだろう?(訳注)

 

(訳注)パブリック・リレーションズ(英語: Public Relations; PR)は、主体と公衆の望ましい関係を構築・維持する営みである。(ウィキペディア)これは、関係個人や組織が共通理解を持ち円滑に物事を進めるというようなことだが、ここでのオカルト団体の意図は、大衆を操作することであり、あえてオカルト的シンボルをさらすことが、その影響力
を強めると言うことである。


 秘密結社という言葉で扱っているのは、巨大で確立された象徴のネットワーク、文化的参照、強力で表向き名誉ある組織であり、展開される心理テクニックの文脈を十分に理解するためには、ある程度の敬意をもって近づかなければならない。モットー Honi soit qui mal y penseは、中世フランス語の格言で、「悪く思う者は恥じろ」という意味で、通常「shame on anyone who thinks evil of it」と訳され、イギリスの騎士道団体ガーターイのモットーとして使用される。現在のフランス語では、この言葉は隠された意図や利害関係の存在をほのめかすために使われることもある。この信条は、このような秘密結社がその政治的目的を心理的に隠す方法の原則であり、政治やスパイ活動における秘密行動の調査を避けるために使われる「もっともらしい否認」という用語と密接に結びついている。第二の原則は、「反対勢力を先導する」という表現に集約される。レーニンの言葉であることは未確認だが、つまり、反対勢力を倒す最良の方法は、それを率いることなのである。

 

 私たちは、意味の伝達、歴史的な物語、そして認識そのものについて、唯物論的で当然と思われていた多くの仮定を完全に覆すことに慣れなければならない。「どのように」コミュニケーションするかは、「何を」、つまり明白な内容と同じくらい重要である。謙遜、皮肉、傲慢はここで見過ごされてはならないし、見過ごすこともできない。

 

WEFのクラウス・マーティン・シュワブとは何者か?

 

 2020 年半ばに世界経済フォーラムのクラウス・シュワブ氏が「COVID-19」という本を書いた。7月20日にペーパーバックが出版された。現在、世界で起きている多くの出来事と同様に、私たちは、世界のエリート組織から、世界的な変化の必要性について聞かされていることに、ますます疑問を抱くようになっている。この人物と本を研究することは、それら自身について情報をえることであるが、しかし、この研究の根底には、事実を隠し、歴史の真の推進力と動機を隠すためにオカルトがいかに利用されているかという重要なケーススタディがあるのだ。

 

 ここで留意すべきは、歴史上の人物の外見、名前、アイデンティティも「イメージ」とみなすことができることである。それ自体が、オカルトメッセージの伝達のための舞台であり、エリート支配の長期プロジェクトに対する所属と忠誠のオカルトサインを読み取るための手段なのである。この意味での舞台とは、背景、枠とキャンバスのことであり、その上で俳優が歴史の展開するドラマの中で自分の役割を果たすことができるのである。世界経済フォーラム(WEF)のクラウス・シュワブのケースは、それを特に明らかにしている。数秘術、偽りのアイデンティティ、伝統的な家系の継承、これらすべてがオカルトの伝統のコミュニケーションに包まれた例であるからである。しかし、ここにはもう一つの要素が加わっている。2020年、彼はコロナウイルス危機の主要なイデオロギー文書の一つを執筆しているからだ。それは、コロナウイルスの危機とグレート・リセットと呼ばれるものとの関連性を、タイトル「COVID-19 :グレート・リセット」に堂々と書いている。ペーパーバックは7月20日に出版された。現在、世界で起きている多くの出来事と同様に、世界のエリート組織から、地球規模の変化の必要性について、言われたことに疑問を持つことが、私たちにますます求められている。シュワブという人物とその著書に関する研究は、それ自体有益であるが、その根底にあるのは、歴史物語の構築においてオカルトがいかに利用されているかという事実上のケーススタディである。

 

 シュワブは1938年3月30日、ドイツのラーベンスブルクに生まれた。スイスの大学で経済学と工学の学位を取得し、ハーバード大学行政学修士号を取得。また、17の名誉博士号を持つ。父親のオイゲンは、スイスの大手エンジニアリング会社エッシャー・ワイスの子会社で、ドイツのラベンスブルクにある工場の責任者であった。第二次世界大戦中、ラーベンスブルグは連合軍の捕虜の配給拠点となり、父親はそこで赤十字の活動をしていた。シュワブ氏は、「Gastgeber der Mächtigen(強者の宿主)」という本の中で、父オイゲン・シュワブ氏が、防衛産業以外の都市は空爆の対象にしないという協定を連合国と結ぼうとしていたようだと述べている。「シュワブ」(スイス人の間では、国境を越えたドイツ人に対するしゃれ)は、一家を「庶民」、「民衆の人々」として描いているようだ。さて、理想主義と冷笑、どちらなのだろうか。これは戯れの矛盾なのか、それとももっと深刻な矛盾なのか。

 

 シュワブはドイツのシュポーン・ギムナジウムを経て、1957年頃、スイスに帰国する。1958年から1966年まで、チューリッヒエッシャー・ウィス社に勤務し、フランクフルトのVDMA(機械・プラントエンジニアリング協会)のCEO補佐を務める。その後、修士課程でアメリカに渡り、ヘンリー・キッシンジャーやケネス・ガルブレイスに出会う。その後、ベルン大学で博士号を取得し、30歳の時にチューリッヒエッシャー・ウィス社の役員に就任、エッシャー・ウィス社をスルザー社に統合する責任者となった。特に、チューリッヒ(スイス)近郊のアウで、クラウス・シュワブは小学校の2年間(1945-1947)を過ごし、その場所はクラウスと切っても切れない関係にあるシャトー・アウの敷地である。ジュネーブの産業技術研究所の教授を務める。2年後、1971年1月24日に世界経済フォーラムを立ち上げた。

 

 コロナから世界経済フォーラム、クラウス・シュワブへのリンクがここにある。スイスの西部、フランス語圏のジュネーブに近いコロニーは、WEFの本部であり、クラウス・シュワブとマーティン・ボドマー財団の本拠地である。ジュネーブ郊外のケルニーにあるボドマー図書館(Fondation Martin Bodmer)の創設者であるマルティン・ボドマーは、パピルス、写本の収集家で、1939年までに6万冊の蔵書を蓄えたという。1940年から1971年に亡くなるまで、国際赤十字の副総裁を務めた。1951年、ケルニーに移転し、ボドメリアーナ図書館が開設された。マルティン・ボドマー=ナヴィルは、出版家でもあった。彼は1930年に隔月刊のドイツ文芸誌を創刊し、リルケトーマス・マン、R・カスナー、ホフマンスタールといった作家を掲載した。マルティン・ボドマーは、クラウス・シュワブの33歳の誕生日の翌日、1971年3月31日に亡くなったが、同じ年の1月、クラウス・シュワブはケルニーにWEFを設立している。

 オカルト的な意味や示唆的なつながりを抜きにしても、利害を共有する産業界の大物達、ベネチア、古いお金、地主のお金、社会的・地政学的に大きな力とリンクする人たちがいるのだ。城壁に囲まれた庭の「向こう側」にある世界観は、現実の世界観と意図が、白塗りされた物語とはかけ離れているかもしれない。

 

フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド:-弁証法的部族主義

 

 オカルト的な見方をすれば、歴史は時間の外にある永遠の視点から研究されるものだと理解しなければならない。これは何を意味するのだろうか。1960年代の悪魔的、唯物論的な文化衰退のプロジェクトは、1980年代の冷戦の切迫した破滅、潜在的な核戦争という物語の下で形成された1980年代の文化と切り離すことはできない。次の、フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド(訳注)の「二つの種族が戦争に行くとき」の歌詞は、1984年に発表された。この年は、市民を心理的に抑圧する全体主義の世界権力の本質を描いたジョージ・オーウェルの有名な本の年である。ここでいう「戦争」とは何だろうか。いくつかのレベルがある。まず、ここでいう戦争とは、もちろん冷戦のことである。核戦争の余波は、当時は「核の冬」と呼ばれ、「必要性に迫られた」孤立、「隔離」をもたらす。

 

(訳注)フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドFrankie Goes To Hollywood)は、イギリスのバンド。1980年代半ばにセンセーショナルなヒットを放った。

略歴:1980年にニュー・ウェイヴ・バンドとして結成。グループ名は、フランク・シナトラが音楽界から映画界に進出することを伝える新聞記事の見出しから派生した「都へ出てきて堕落する」というニュアンスの慣用句的隠語に由来する。プロデューサーのトレヴァー・ホーンに見出され、1983年にZTTレーベルからデビューした。

 

ロナルド・レーガンの声:

紳士淑女の皆さん フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド をお見せしましょう

おそらく最も重要なものです

世界のこちら側This side of the world

そうそう、よくやった!

あなた方は何度でも私たちを有罪と宣告するかもしれません。しかし、永遠の歴史裁判所の女神は微笑み、検察官の準備書面とこの裁判所の判決をぼろぼろに引き裂くことだろう。

検察官の準備書面と裁判所の判決を破って

彼女は、私たちを無罪にするだろう She acquits us

非難せよ 非難せよ 非難せよ 非難せよ

歴史は赦す

"この日が私の死ぬ日になるだろう "と歌いながら

♪Yeahhhhaaaa

(もしあなたの祖母や家族が避難所で死亡した場合、外に出してください。ただし、識別のために最初にタグを付けることを忘れないでください。)

 戦場へ行け 戦場へ行け 戦場へ行け

 

   ここには、2020/21年のロックダウンとの類似点が多い。鋭い読者は、2001年6月22日から23日にかけて行われた上級レベルのバイオテロ攻撃シミュレーションのコードネームである「ダーク・ウィンター」作戦(訳注)の暗い冬」の物語と関係があることにお気づきだろう。2019年のCOVIDパンデミックのために、世界のリーダーたちによって準備訓練が行われたのである。「世界のこちら側This side of the world」は秘儀参入の世界であり、時間を超えてこれらのオカルト的な策略を察知することができる。最初の行の「She acquits us」は、法廷に立つ女神のことを指しており、奇妙な精神性を感じさせる。これは、カルマの法則を覆すことができ、「歴史が彼らを赦す」と信じている人々のことだろうか。vi

 

(訳注)ダークウィンター作戦は、アメリカのアンドリュース空軍基地で2001年6月22〜23日に実施された上級レベルのバイオテロ攻撃シミュレーションのコードネーム。これは、米国に対する秘密の広範囲にわたる天然痘攻撃の模擬バージョンを実行するように設計された。ジョンズ・ホプキンス民間生物防衛戦略センター(CCBS)/戦略国際問題研究所(CSIS)の研究者が主要な設計者、著者、管理者だった。(ウィキペディア

 

へえ

戦争が勃発しても、誰も現れないと思えばいい。

 

 1980年代に「フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド」を楽しんだ人たちは、現在40代、50代の人たちである。そのイメージは、無意識のうちにエーテル体で眠っているのだ。「へえ 戦争が勃発しても、誰も現れないと思えばいい」とは、「目を覚ませ」、周りを見渡して自分の周りで起きている知覚の戦争を認識しろ、という意味に解釈できるかもしれない。

 

2つの部族が戦争するとき

得点はすべてあなたのものです。

 

 ヘーゲル弁証法のレンズを通して地政学を認識することを思い出させるものである。「A point is all that you can score ... when two tribes go to war」は、弁証法の理解への言及である。ここでいう「1」[訳注:A pointのことか?]は合成のことである。この点については、ここでは説明しない。文の後半で歌われるこの象徴的な文章、「私は黒いガスのために働いている」を認識すれば十分である。「黒」は、しばしばオカルトの夜、黒い太陽を象徴するものとして使われる。しかし、「ガス」とは、肺に充満している毒気のことでもある。ここで必要なのは、眠っているときに、自分の心を満たしている思考に気づくということである。

 

COVID-19グレート・リセット

 

 私たちが主流メディアで見慣れるようになったイデオロギーや21世紀のプロジェクトには、次のようなものがある。グリーン・ニューディール、持続可能な開発、国連アジェンダ21、第4次産業革命、デジタル化、テクノクラート・コントロールなど。この本は、読者がすでに準備ができていることを前提としている。だから、著者は、空虚な「より良いものを作るbuild back better」vii 物語である、経済のリセットを確立するのに時間を無駄にしない。

 

 「しかし、深い実存的な危機は内省を促し、変革の可能性を秘めることがある。世界の断層、とりわけ社会的分裂、公正さの欠如、協力の欠如、グローバル・ガバナンスとリーダーシップの失敗が、かつてないほど露呈し、人々は新しく作り直す時が来たと感じるようになったのだ。新しい世界が出現し、その輪郭は私たちが想像し、描かなければならない。」

 

 しかし、変革に必要な内省は、もちろん、支配エリートが行うものではなく、受け継がれていくものであろう。また、それは、参加型民主主義でもない。思想の自由と言論の自由は明確に定義されている。不同意である。いつものように、一致するのが難しい大衆に対して、矛盾が提示される。「実存的」という言葉の使用は、特に、従属的な社会へのプロパガンダによって維持され、作り出された危機に対して特に不誠実なものである(訳注)。

 

(訳注)グレートリセットの論説では、"実存的existentialリスク、危機"というような使い方がされているようだ。生存に関わるというような意味である。問題は、本来、誰がそれを造り出しているのかと言うことである。

 

「病める」船のアナロジーviii

 

 グレートリセットの1.1.1節は相互依存Interdependenceと題されている。国連とWEFにつながりのあるシンガポールの学者・外交官、キショア・マフブバニのボートのアナロジーに、2020年のペスト船のアイデアがトピックとして加えられている。

 

 「もし、私たち75億人がウイルスに感染した客船に閉じ込められているとしたら、ウイルスが通過する廊下や外の井戸を無視して、自分たちの部屋だけを掃除して清潔にすることに意味があるのだろうか。答えは明らかに“ノー”である。私たちは今、同じ船に乗っているのだから、人類は地球全体の船の面倒を見なければならないのだ。」

 

 ボート、病気、航海のアナロジーが印象的である。「海の」法とは対照的な「憲法の」というテーマも、2020年を通じて生まれたさらなるテーマだ。ガバナンスの他に、イメージとストーリーテリングの重要性をここで認める。なされるべき歴史的、政治的なアナロジーがあるのだ。

 

 2020年、人類はどのような星のもとに航海しているのか、主権と自由なのか、それとも私たちの行いを「集団」に従属させる必要があるのか、そしてこの2つをどのように調和させることができるのか、という疑問が生じる。

 

 「COVID-19によって解き放たれた社会の激変は、何年も、場合によっては何世代にもわたって続くだろう。最も直接的で目に見える影響は、多くの政府が責任を取らされることであり、COVID-19への対応という点で不十分あるいは準備不足に見えた政策立案者や政治家に対して多くの怒りが向けられることである。」

 

 グレートリセットの1.2節は「経済的リセット」と呼ばれ、1.3節「社会的リセット」へ続いている。このセクションで、ヘンリー・キッシンジャーは、社会不安と変化を求める声、そしてその繰り返しが、地政学的指導者が今後物語を形成することを可能にすることを、有益に付け加えている。ここで重要なのは、キッシンジャーが暗に示している、歴史が操作された創造物であることに気づいている者こそが、展開される出来事を決定付けるのだということを認識することである。ブッシュがかつて、このような趣旨の次の言葉を述べたように。「あなた方(国民)は歴史を見る。私たちはそれを作るのだ。」

 

 「国家は、その制度が災難を予見し、その影響を阻止し、安定を回復することができるという信念のもとに結束し、繁栄しているのである。COVID-19の大流行が終わったとき、多くの国の制度は失敗したと認識されるだろう。

 

 この本ではさらに、「正しく」反応した国が表わしている属性のリストを紹介している。それは、アジア諸国である。彼らは、より権威主義的な体制、中国の場合はまさに共産主義的な体制を持っていたので、論理的に来るものに対して最もよく準備されていたのである。法律や市民の自由を無視した迅速な決断をした国々は賞賛され、政府によって支えられた効率的で十分な医療制度は賞賛され、最後に、国民が、個人の願望や必要性に関係なく、共通のイデオロギー的善を支持することを目標とする国は、「正しい」願望を持っていると持ち上げられるのである。

 

太陽の前には新しいものはない

 

 この本の最後の部分で、著者は過去数年にわたり顕著だった市民的緊張の「源」をいくつか取り上げている。カテリーナ、黄色いベスト、ブラック・ライブズ・マターなどである。本書によれば、COVID-19による死者は黒人の方が白人より多い。そしてルーズベルトの1930年代のニューディール政策xiは、経済支配の再スタート、つまり重商主義の再導入として新たに包装されている。

 

 「市場の失敗が生じたときにそれをただ非難するのではなく、経済学者のMariana Mazzucatoが提案したように、“持続可能で包括的な成長を実現する市場を積極的に形成し創造する方向に向かう”べきなのだ。」

 

 この本の1.3.4項では、「新しい社会契約」について述べている。しかし、新しい考え方に頼ることを認めるのとはほど遠く、21世紀の歴史はスケッチされているのである。1.4.3項では、中国とアメリカの対立が激化していることが述べられている。このことは、もしかしたら慰めになるのだろうか。このグローバル・ガバナンスの新しい形態の向こうには、東では20世紀初頭の共産主義、中央では国家社会主義、そしてアメリカでは常に監視の目を光らせている企業社会主義のもとでのニューディールと、単に新しく正当化された体制があるのだろうか。

 

 私たちは何を期待すべきなのだろうか?退屈な量の統計とグラフは、あなたを早く眠らせるのに十分である。クラウス・シュワブの素晴らしい本は、見るべきすべてのものをあらかじめ並べている。悪の陳腐さとは、古くから繰り返されてきたドグマのことである。あの信条を思い起こすと、これは、私たちを恥ずかしくさせるのか?-それを見てしまったことを、見せかけ(謎言葉)を見たということを、「恥じる」のか?それとも、私たちの名誉ある伝統や社会には、もっと果たすべきことがあるのだろうか。私たちの主張は後者である。なぜなら、他の人々も、利害関係を認識しており、同様のより高い理想を抱いていると確信しているからである。xii

 

(注)

i ルドルフ・シュタイナー 「このように、ヘーゲルの論理は実際には永遠のものであり、したがって、それは有効であり続けなければならない。私たちはそれなしではやっていけない。もしそれなしで何とかしようとすれば、「ベールを作る」という漠然とした柔らかさに逆戻りするか、人々がヘーゲルを把握できないまま近づいたときにすぐに巻き込まれるようになったものに創始されるかのどちらかである」(社会形態の基礎としての精神科学』GA 0119)

ii 最上級ガーター騎士団は、1348年にイギリスのエドワード3世によって創設された騎士団である。ヴィクトリア十字章とジョージ十字章に次ぐ、英国における最高位の爵位である。

iii クラウス・シュワブ『グレート・リセット2020』より引用、経歴はWikipediaより引用。

iv チューリッヒ湖の半島にあるシャトー・オーは、1650年にハンス・ルドルフ・ヴェルドミュラー将軍(30年戦争で絹織物で財を成し、1650年までヴェネツィア共和国を支援)を始め、チューリッヒの多くのエリート家族の邸宅となっている。1887年、裕福な時計商ハインリッヒ・モーザーの未亡人、ファニー・モーザー・スルザー男爵夫人(スルザー社)が家と領地を購入し、1917年にハンス・フォン・シュルテス・ボドマーとヘレーン・ベルタ・シュルテス・ボドマーに売却された。ハンスはエッシャー・ウィス、ブラウン・ボベリ&チエの役員を務めていた。

v マルティン・ボドマー財団 https://fondationbodmer.ch/produit/corona-nova-1/

vi ルドルフ・シュタイナー「イエスからキリストへ」講義3、1911年10月7日、カールスルーエ、GA0131。「ちょうど物質的次元で、私たちの時代の初めに、パレスチナのイベントが起こったように、我々の時代にカルマの審判者の仕事は私たち自身の隣の高次の世界でキリスト-イエスに引き継がれます。」

vii 「Building Back Better」は、2015年3月14日から18日に日本の仙台で開催された第3回国連災害リスク軽減世界会議で合意された国連の「災害リスク軽減のための仙台枠組み」という文書で初めて公式に記述された。災害復興、リスク軽減、持続可能な開発のための仙台枠組みにおける4つの優先事項の一つとして、国連加盟国によって採択された。2015年6月3日、国連総会で採択された。ウィキペディアに掲載されている。

viii Helen Carr, How the spectre of the Black Death still haunts our collective memory, 6 March 2020, New Statesman.

ix Ron Suskind Faith, Certainty and the Presidency of George W. Bush, New York Times, Oct 17, 2004. 「2002年の夏、ブッシュの元コミュニケーション・ディレクター、カレン・ヒューズについてホワイトハウスが気に入らないという記事をエスクァイアに書いた後、私はブッシュの上級顧問と会談を持った。彼は、ホワイトハウスの不快感を表明した後、当時はまだよく理解していなかったが、今ではブッシュ大統領の核心に迫っていると思えることを私に話した。その補佐官は、私のような人間は「リアリティ・ベース・コミュニティと呼ばれるものだ」と言い、「識別可能な現実を慎重に研究することで解決策が生まれると信じる人々だ」と定義したのです。私はうなずき、啓蒙主義や経験主義についてつぶやいた。すると、彼はこう切り返した。「それはもう、世界の本当の姿ではない」と彼は続けた。「私たちは今、帝国であり、私たちが行動するとき、私たち自身の現実を創り出すのです。そして、君たちがその現実を研究している間にも、また行動して、別の新しい現実を創り出し、君たちもそれを研究して、物事を解決するんだ。私たちは歴史の役者であり、あなた方は、あなた方全員は、私たちが行うことをただ研究することになるのです。」

x 伝道者の書1:9 現代の慣用句として、「太陽の下に新しいものはない」は、しばしば人生の単調さに世の中にうんざりした不平として使われる。ソロモンがこの文を書いたとき、彼は地上での人間の生活の周期性と「ラットレース(がむしゃらな競争)」のためだけに生きることの虚しさを強調したのだ。伝道者の書1章9節

 xi ニューディールとは、1933年から1939年にかけて、アメリカのフランクリン・D・ルーズベルト大統領によって制定された一連のプログラム、公共事業、財政改革、規制のことである。

xii ルドルフ・シュタイナー『神殿伝説』1904 年 12 月 23 日、GA 93。「それゆえ、もし再び新しい内容を、新しい知識とともに、これらの形態に注ぎ込むことが可能であれば、多くの利益がもたらされるであろう。そうすれば、フリーメーソンは再び真の精神に包まれるであろう。しかし、内容と形式は「全体」に属するものです。今日の状況は、私が述べたように、階級(序列)は存在するが、誰もそれを本当にやり遂げたことがないのである。しかし、それにもかかわらず、それらは何の意味もなくそこにあるわけではありません。それらは将来、再び命を吹き込まれるでしょう」。

―――――――――

 クーパー氏の以上の論稿は、前書きで述べたように、グレート・リセットやコロナ問題は、長いスパンで計画されてきたものであること、そのために、人々の心、思考を操作するテクニックが使われてきたことを示唆しているのだが、その中身について残念ながら具体的な説明がなく、フラストレーションがたまる文章である。

 シュワブ氏についても、その名前や出自、係累について婉曲的に疑問が呈されるのみで、実際には何を主張したいのかがいま少し明瞭でない。私もこの文章を最初読んだときは、正直何を言いたいのかがよく分からなかった。

 しかし、今回、ブログに掲載するため、改めて読み直し、また情報収集をしたところ、幾分かクーパー氏の言わんとすることが理解できた。本文に「歴史上の人物の外見、名前、アイデンティティも“イメージ”とみなすことができる」とあるがやはりこれは「シュワブ氏」にも当てはまる可能性があるようなのである。

 これについては、次回に譲ることとしよう。

コロナワクチンによる人間の完全制御

 今回紹介するのは人智学派の医師によるコロナとそのワクチンに関する論稿である。

   新型コロナは、依然として終息の気配を見せていない。日本では、重症化率、死亡率が過去最高レベルになっているが、その原因については明確な説明がなされていない。一方で、諸外国では、ワクチンの害が明らかになってきており、ワクチンの停止を求める声も大きくなってきているが、日本のマスコミでこれを取り上げるものはまだまだ限られているようだ。その結果、日本は、世界の中でブースター接種が今でも推進されているほぼ唯一の国となっている。
 既にこの間の過剰死亡も明らかになっており、今後の被害の拡大が心配される。

 さて、以下の文章では、「過剰影響」という聞き慣れない言葉が出てくる。原語は「Überfremdung」で、ネットを検索すると、「超外国化」という訳語が出てくる。つまり、過剰に外からの影響を受けることを意味するらしい。この他に、あるいは「外部規定」「外部制御」という言葉も出てくるが、趣旨は同じだろう、
 人間は、自由で独立した存在であり、過剰に外部からの影響を受けると、それが身体に悪影響を与えてしまうのだ。人智学派の医学は、人間を、身体、エーテル体、アストラル体そして自我(体・魂・霊と言う場合も)からなる複合的存在とみており、病気も、それらの相互作用から考えている。著者は、このような視点でコロナ問題を見ているのである。
 

ーーーーーーーー

コロナワクチンの接種と外部からの完全制御の原則

人間がいかにして外的な支配を克服するかという問題に関しての最初の総括

 

 (上の)イラストはルドルフ・シュタイナーが描いたものである。黒い人物は地球を内側から支配しようとしている。それは、mRNAテクノロジーが身体を細胞の内側から支配しようとするのと同様である。しかし、絵の中では、この支配をめぐっていくつかの勢力が争っている。結局、左上から差し込む意識的に明るい光が一番強いということになるのだ......。

 

2022年11月 イェンス・エドリッヒ医学博士

 ※ 医学の分野でさまざまな記事や研究を発表している医師であり、献身的なジャーナリストである。彼の記事は、彼の正確で透明な働き方のために特に説得力がある。

 

関心をお持ちの皆様へ

 ウクライナ戦争が、一方でますます私たちの心を占め、独立した認識と判断を求めるテーマを前面に押し出したとしても、コロナの問題をウクライナ戦争の絨毯の下で一掃してはいけないように思う。コロナ危機に関連する措置に責任を負う勢力は、コロナ問題への関心を相対化し、緊急に必要な検証を阻止するために、ウクライナ戦争とそれに関連する感情を前面に出すことに最大の関心を抱いているという印象を受けることもある

 

 しかし、なぜ検証なのか。さて、コロナ時代の当初から、世の中の批判的思考を持つ少数の人々は、コロナとの戦いを口実に導入されたすべての施策が、結局は逆効果になることを指摘していたゆえに、検疫や閉鎖、衛生対策が人々の心理を不安定にし、結果的に健康も破壊してしまうので、病気への「門と扉」を開いてしまうというのが、思考力のある人にとっては論理的結論であった。同様に、ワクチン接種が導入される以前から、微生物学者Prof. Dr. med. S. バクディのような論理的認識力によって、我々の生物に属さないタンパク質を自らの細胞で生産させるワクチン接種は、我々の免疫システムの大規模な拒絶につながり、最終的には生物自体に向かうことになると認識することが可能だったのである。私は、予防接種問題についての最初のビデオインタビュー(https://www.youtube.com/watch?v=MGgaQBfKScU)で、「自分の良心と折り合いがつかないことをするように自分を操られた人は、遅くともそれに気づいたときには、その行為を拒否し、恥じ、罪悪感、あるいは憎しみさえ感じるようになる」という考えを示した。私は、ワクチン接種は、異物から生物を守るという目的を達成しようとするため、細胞の制御する人工RNAによって生体に過度に影響を及ぼし、当然、人間の自分に対する憎悪をもたらし、その結果、自己に対する重度の破壊的自己免疫過程をもたらすはずなので、自己矛盾であると指摘していた。というのも、私たちが、自分で自身を駆り立てた行動のために、たとえ矛盾していても、内心では自己否定しなければならないのと同じように、人間の不可侵性の守護者の身体表現としての人間の免疫システムもまた、自分とは異質の支配に服従する細胞と戦い始めるからである。しかし、この物理的プロセスと魂的・霊的プロセスの調和という考え方は、ある前提をもっている。それは、物質的に考える人間にとって決して自明ではない、すべての魂的・霊的プロセスは、実際に物理的対応物を持つ、あるいは物質的物理プロセスの中で自己を表現しているという前提である(注0)。

 

注0:霊的魂的なものは、常に最終的には物理的物質的プロセスの中に表現され、したがって世界のすべての物質的プロセスも常に霊的魂的なものの力の表現であるというこの考えは、特に中央ヨーロッパでJ・W・v・ゲーテがその科学的仕事の中で実践し、後にルドルフ・シュタイナーによってさらに発展した自然および自然科学の見方に基づいている。イギリスから来た還元主義的な考え方が、世界を物質的にのみ説明しようとしたのとは対照的に、ゲーテは知識と意識の徹底的な訓練によって、世界の霊的・魂的なプロセスを直接作用する力として認識し、それゆえ人間が霊的・魂的なものに関係なくものを理解しようとすれば、それは非合法な還元主義に相当するという結論に至ったのだ。ヴェルナー・ハイゼンベルク、ニルス・ボーア、アルバート・アインシュタインといったドイツを代表する科学者たちは、その後ますますはっきりと、霊的・魂的なプロセスが物質に影響を与えるという結論を出すようになり、長年の研究の末にアルバート・アインシュタインは次のように語った。「そこに霊(精神)が作用しない物質的作用は考えられない。」長年の医療活動の中で、私はこの経験をますます強くすることができた。特に、現代の霊的研究者ハインツ・グリルの示唆によって、この自然に対する見方を現在も続けているので、その間、私はあらゆる病気の背後に働いている霊的力を認識しようとし、人間が結果としてこの過程に直面すれば、病気は知識の霊的過程によって克服できることを多くの方法で体験している。

 

 このような考えから、mRNAワクチン接種技術とそれに伴う嘘や意図が、人間の魂・霊・身体の完全性に深刻な破壊的影響を及ぼすこと、人間は、嘘や暗示に伴う異質な決意から立ち上がり、勇気ある明確な実現へのステップを通じて、より大きな尊厳、精神的自由、自己決定ができる場合にのみ、この完全性を維持・回復できることが早い段階で予見されたのである。

  これらのことは、予防接種が導入される以前から、明晰な思考から、望む者すべてが精神的に洞察することができたのに、まだ十分な人々に見られていなかった。しかし、今や不幸にして、これらのことは広範囲な現実となり、これを認識しようとするすべての人にとって、劇的な結果によって、物質的にも認識できるようになったのだ。

 

 それゆえ、今日、私たちは入手可能なデータから、ワクチン接種は感染症、疾病、重症化、コロナの症例に対して何の予防効果もないばかりか、ワクチン接種率の上昇とともに疾病発生率が実際に上昇していることを知ることができるだろう。このように、ワクチン接種によって総死亡率が低下したのではなく、ワクチン接種を導入して以来、過去20年以上と比較して、国民の総死亡率が大幅に上昇していること、さらにこのことは、依然として、その国の国民のブースターワクチン接種回数や接種率レベルと明確な相関を示していることも分かる。つまり、ワクチン接種の回数が多く、頻度が高い集団ほど、現在の総死亡率は高いのだ。母親のワクチン接種率が上がるにつれて、出生児数が大量に減少していることも分かっている。https://m.youtube.com/watch? v=vZBZL5CXQJ4。そして、この文脈で、相関関係はまだ因果関係を示していないと言われるとき、これらの関係をその因果関係において理解する努力をしようとするすべての人は、その間に入手可能な科学的研究資料を通じて、多数の死亡とmRNAワクチン接種との因果関係は全く疑問の余地がなく、それを認識しようとする意志さえあれば世界中で認識することができることがわかる。

 例えば、ロイトリンゲン大学のアルネ・ブルクハルト教授は、その仕事が世間から激しく非難されているが、この死亡とワクチン接種の因果関係を最新の病理学の手法で実証しているhttps://www.youtube.com/watch? v=jLJXL3YlHKE。(ドレスデンの病理学者ミヒャエル・メルツ博士も同じ結論に達している)ブルクハルトは、ワクチン接種直後に死亡した多数の人々の検死を行った結果、これらの人々の大多数がワクチン接種が死因であることを証明することができた。ワクチンの効果で体が作り始めるスパイク蛋白質を、特殊な染色法で体のどこにでも表示することができ、実際に故人の多かれ少なかれすべての臓器で形成されていたことを認識したのである。ワクチンによってスパイク蛋白が形成された場所のどこでも、実際に解剖されたものは、いわゆるリンパ球浸潤を伴う相当かつ重度の自己免疫過程を示し、対応する組織を破壊し、溶解してしまう。体内で血液を介して広がるmRNAワクチンの最初の標的はヒトの静脈や血管であるため、これらの自己免疫炎症破壊過程は主に血管壁で発現している。これが破壊されたり、血管の内で発生すると、心臓、脳、腎臓、皮膚など、人間のあらゆる臓器で血栓や血管破壊が起こり、多くの検死で、患者の死亡につながったのである。

 

 つまり、この病理を詳しく考察してわかるのは、思考が物質的に可視化されると言うこと、人間が、自分に起こることを許し、mRNAワクチンの中に物質的な相関物を持つ嘘や暗示によって過剰に影響された結果、この自己嫌悪のイメージが実際に体組織の中に現れることである。実際、人間は明らかに、自分が操られることを許した過剰影響の結果として、自分自身の完全性を失った自分を強く拒絶し憎み、場合によっては、人間自身よりも細胞をうまくコントロールできるとする嘘のワクチンによる完全に影響された状態よりも、あえて望んで、死を受け入れるのである。

 

 さて、ワクチン接種によって死亡した人は比較的少数であり、多くの人がワクチンによく耐えたという反論があるかもしれない。この現象を唯物論的に見ると、ワクチンの「バッチ」が違うからということになりがちである。あるワクチンは、もう一方のワクチンよりもmRNAやその他の破壊的な物質の含有量がたまたま少なかっただけであり、したがって、人がワクチンの合併症や致命的な自己免疫過程を起こすかどうかを決めるのは偶然なのである。

 誤った霊的視点から言えば、それどころか、ワクチンなど気にしない方がいい、ましてやそれに関係する過剰影響に腹を立てたり、自分を憎んだりしない方がいい、そう、自己嫌悪で苦しむことなく、ワクチンが細胞を支配することを許すなら、それでうまくゆく、という誤った結果に至ることもあり得る。この場合、自己免疫過程も生じず、ワクチン接種も十分に耐えられると考えられるからである。その様な視点では、過剰影響が起きるままにし、いわゆるポジティブシンキングや自己暗示によってワクチンと「調和」させることで、ワクチンからネガティブな結果を引き出さないようにすることを人に勧めることになろう。しかし、この考え方は正しいのだろうか、そして何よりも責任があるのだろうか。

 

 私の医療活動から顕著になっているのは、現在、予防接種の合併症を起こすのは、主に、魂のどこかで、多かれ少なかれ、半意識的に、「人間は他人にコントロールを渡してはならない、渡したくない」という認識を、あらゆる有効な提案とは逆に、自分の中に持っている人たちだということである。しかし、彼らはその後、社会が煽る強い圧力や巨大な恐怖心によって、この予感を維持し、確実な知識として成熟させることができないと感じ、ある時点でこの予感ににもかかわらず、ワクチン接種を決断したのである。それ以来、彼らは多かれ少なかれ強く抑圧された内なる葛藤の中で、さらにはこの圧力に耐えられなかったという一種の無意識の罪悪感の中で生きてきたのである。特に、その後、予防接種を受けていない人に出会うことで、失われた人間の尊厳の必要性を突きつけられたり、予防接種後の死亡事故の第一報を聞いたりすると、彼らの中で良心が目覚める可能性があるのである。しかし、同じように、そのような状況では、人間は再びこの良心を自分から遠ざけることができるのだ。そして、自分の弱さを思い知らされるため、ワクチンを受けていない相手を羨み、拒絶し、憎むようになるかもしれない。相手を憎み、結果的に不当に非難することで、自分の罪悪感を相手に投影し、自分の中で目覚めようとする良心を感じなくてすむようになるのだ。相手がこのメカニズムを十分に認識していないと、投影によって自分自身にこの罪悪感を感じ、それに嫌気を感じてしまう危険性さえあるのだ。しかし、人間の中で良心が目覚め、それを許した場合、まず一種の重い罪悪感として現われることが多い。これは、免疫システムにより、一種の防衛反応として、過剰な影響を吸収した細胞と戦い、破壊し始める力として身体的に現れるだろう。

 

 非常に印象的で悲劇的な事例が、このプロセスを明確にしている。

 それは、予防接種の問題点や危険性をかなり集中的に扱った友人をもった人の話である。彼をとおして、その人は摂取を避けるべきだと感じていたが、ある朝、職場に入ると、同僚たちからの強いプレッシャーに耐え切れず、「予防接種の車が来るから、ぜひ受けてほしい」と言われ、その日のうちに予防接種を受けることにした。ワクチン接種後、最初はいつも通り仕事をしていたが...。しかし、夕方、ワクチン接種を控えた友人を訪ねると、突然顔が白くなり、気を失い、間もなく到着した救急医から死亡宣告を受けた。死因は、蚊に刺されたことによるアナフィラキシー反応と断定される。その友人との出会いが、無意識に、あるいは半意識に、自分が同僚の圧力に負けて、やりたくもないことをやってしまったことを突然思い出させ、その時、この過剰影響から自分を解放する方法を知らなかったので、予防接種に対する強力なアレルギー性の自己免疫過程が彼の中で頭をもたげ、重症で結局致命的なアナフィラキシー反応に発展したということだろうか。(注1)。

 

注1)アナフィラキシー反応とは、究極的には人体に侵入した耐え難い異物に対する大規模な自滅的反応に他ならず、死に至ることもある。スパイク蛋白がヒトのアレルギー反応につながることは、南アフリカのインド人医師シャンカラ・シェティ https://www.youtube.com/watch?v=m7PokX4kz30 によって印象的に示された。)

 

 自分の意思に反して過剰な免疫を許してしまい、アナフィラキシー反応を起こすという同様のプロセスをしばしば経験し、また患者の正しい認知プロセスによってその反応を克服してきた医師として、この事例を聞いたとき、深い危惧を覚えたのだ。同時に、この人は、あの時、医師やセラピストが次のような考えを伝えてくれていたら、死ななくて済んだのでは」という思いが、内なる確信となって私の前に立ちはだかった。「ほら、今、あなたは自分が過剰影響されることを許した。でも、そのために自分を完全に失ったことを恐れる必要はないし、そのために自分を憎む必要もない......。いや、もしあなたが、自分にかかったプレッシャーに鑑みて、自分に起こった過ちから正しい結果を導き出し、将来、自分の中の理想をそう簡単に忘れさせない強さを身につけるならば、ここであなたを過剰影響したものを乗り越え、そこから新しい力を得ることができるはずです。」

 

 もう一つのケースは、少なくとも同様に印象的なもので、過剰な影響によって起こる自己嫌悪の内的プロセスが、実際に死に至る可能性があることを示しているというものだ。この場合、自己嫌悪はワクチン接種の前から生じており、純粋な唯物論的考察では因果関係を立証できないが、魂的・霊的な観点を考慮すれば、十分可能であることがわかるから、なおさら興味深い。

 長い間、ワクチン接種に批判的で、接種しないことを強く決意していた60歳の人が、医療関係者の娘を通じて、このワクチン接種がなければ家族の生活が成り立たないという申し立てを受け、ついに自分の中の良心に反して、ワクチン接種の予約を手配したという話なのだが......。予防接種の予約の数日前から嫌な予感はしていたが、娘の意思に反して予約をキャンセルする気にはなれなかった。約束の時間のわずか前に、その人ははっきりとした理由のわからないまま亡くなってしまった......。

 

 また、ある人が、予防接種に批判的な別の人と集中的に対話する中で、すでに決めていた予防接種の決心が揺らぎ、約束していた予防接種をキャンセルしかけたが、最後の最後で、まるで反抗するかのように、友人や同僚の説得に負けず、反抗的に接種センターに出向いたケースも知っている。ワクチン接種後まもなく、集中治療室に入院し、複数の明らかな臓器不全で集中治療が必要な病院へ......

 このケースでは、何が原因でこの臓器不全になったのか不明なままだが、彼は、ワクチン接種とは無関係とする説明モデルを正しいものと考え、完全にワクチン接種を支持し続けているのである。入院中に一瞬感じた、知識への一歩を踏み出すきっかけとなる予感を、彼は完全に封じ込めた。しかし、それ以来、彼はなかなか力を取り戻せていない......。

 

 一方、ワクチン接種について「どうでもいい」と思っている人、政府や専門家が正しいことをしている、理由もなくワクチン接種が勧められているのではないと固く信じて生きている人は、意外とワクチン接種の副作用が出ないことが多い...ということである。

 

 このような体験は、人生における病気も、長い間気づかずに過ごしてきた自分の状態が間違っていることに初めて気づいたときに起こることが多いという事実を見れば、大きな意味でよく理解できる。たとえば、長年、抑圧や屈辱を許したパートナーシップの中で生きてきた人が、たとえば、尊厳ある関係とはどういうものかを自ら、あるいは他者と体験した瞬間から、はじめて目に見えて具合が悪くなることが多いのである。自己決定的で自由で尊厳のある関係とは何かということを魂が感じ取ったときに初めて、それまで何年も過ごしてきた疎外された状態をもう望まないという気持ちになるのである。ある意味で、彼は本当の誠実さがいかに美しいかを体験して初めて、失った誠実さに憧れを抱くようになるのだ。自己を見失い、疎外された時代に、そのイメージは完全に失われ、もはや欠落感すら感じなくなっていたのだ。しかし、今、彼はまずこの状態を不満に思い、何かを変えたいと思うようになる。しかし、この状態を建設的に改善する発想や精神的な実質がまだないため、最初は相手に対する罪悪感や無力感、あるいは憎悪の感情が混在したまま動けず、結果的に身体も病んでしまうのである。

 もし、セラピストや医師としてこのような病気に遭遇した場合、病気の魂的・霊的なレベルも含めれば、この人は自分の魂の中で、より自由で、より楽しく、より尊厳のある関係の理想を発展させて実現したいと考えており、そのために、それがどのようにして可能なのか、どのようにして魂の中の破壊的感情を克服できるのかをまだ完全に意識的に見ることができないので病気になったということを認識できるだろう。つまり、病気と向き合うことで強さを身につけ、そこから内なる理想的な関係へと自分を高めていくために、精神的に病気を追い求めたようなものなのだ。このようなつながりに気づいているセラピストは、同時に、その人が新しい関係性の理想に到達するのを助けたいという内なる衝動を感じ、その結果、自分自身の誠実さにも気づくのである。経験上、実際に病気が治まった瞬間、患者はこうした霊的法則に気づき、同時に具体的な人間関係の理想の知識を魂に宿しているセラピストの助けを借りて、そうした関係の理想を実現し、それを自分の人生に統合しようとするのである。

 

 mRNAの予防接種とそれに伴う合併症についても、結局は同じことが言える。予防接種を受けることを許した人が、最初の段階ではそれが自分を外部から過剰影響されることになると疑いながらも、自分が疎外されることを許したことを意識的に自覚し始めると、自分の魂の中にある、自分が疎外されやすい動機も認識し始める。それは、社会から排除されることなく、再び旅をすることを許されたいという動機、あるいは当局が間違うかもしれない、あるいは意図的に嘘を流すという考えにとらわれたくないという動機である。すると、この過剰影響に対する最初の内なる抵抗が彼の魂に蠢くのである。

 この過剰影響の結果、影響された組織に対して大規模な自己免疫過程が発生する可能性がある。しかし、その後に、過剰影響に対する怒りと罪悪感を認識するだけでなく、自分を過剰影響に導いた弱さを認識し、その弱さをいかに克服するかという精神的な実現プロセスを開始するのであれば、話は別である。そうすれば、当人はもはや、起こった過剰影響と自分の中にまだ存在している弱さについて怒ったり憎んだりする必要はなく、この弱さを次の認識の形成のために利用し、その結果、自分を内面的に高めて自由と自己決定のより強い内的力を開発することができるのだ。しかし、そのためには、過ちを認めるだけでなく、そのことで非建設的に自分を責めることをやめ、今後二度と過ちを起こさないように全責任を負うという魂的霊的実質が必要である(注2)。

 

注2:しかし、この本当の意味での「道徳的実質」こそ、過ちを隠したり、その過ちを他人が許してくれることを期待したり(イェンス・スパーンの最新刊「我々は互いに許し合わなければならないだろう」)、全責任を負う代わりに犯した過ちを自虐して自滅することに慣れている現代の人類にはまだほとんど存在しないのである。そのためには、原則として、患者が無意識に働いている暗示や罪悪感、あるいは憎しみの感情を、より真実で建設的な、したがってより勇気のある思考に置き換えるための、認知の精神的プロセスが必要である。この文脈で過小評価されてはならないのは、例えば告解の過程で神に赦されることによってのみ、人間は罪を清算することができるという、教会の広い範囲から人々に植え付けられたイメージである。自覚の作業とその結果としての正しい勇気ある人生の歩みによって、必ず将来的に罪につながった過ちが克服されるという真の考え方は、それゆえ人々の間にほとんど生きていないのである。

 例えば、主治医である私と綿密な話し合いを重ねたにも関わらず、接種した患者は、接種の直接的な結果として激しい頭痛と発熱、疲労感に襲われ、長い間寝たきりの状態になってしまった。この合併症は何日も改善の兆しがなく、おそらくワクチン接種に対する一種の自己免疫反応であると思われたが、それと並行して、患者は最初の自己認識のプロセスを経たのである。彼は、医師である私との話し合いで明らかになったことに反して行動し、良心に反することをすることで自分を惑わせ、その結果病気になったのだと悟った。同時に、この病気や予防接種の合併症が、「政治の提言はもう信用できない、人間はもっともっと自分の責任で物事を考え始めなければならない」ということを少しずつ理解できるようになったきっかけになるかもしれないと、病気の経過の中で気づいたのだ。この自己認識のためには、「どんな病気にも隠れた価値があり、その人が病気を克服するためにそれを認識し、実現したい」という考えを、あらかじめ患者と一緒に考えていたことが前提になる。これまで、怠惰や友人から仲間はずれにされることを恐れて、予防接種の問題を詳しく扱うことを控えていたことに気づき、これからはもっとはっきりとした自己決定で人生を歩みたい、もう外部の意見、気分、感情、強制にあまり左右されないで、内なる慰めや恐れの声にも左右されずにいたい......という内なる強さと勇気が湧いてきたのである。そして、起こった過剰影響をきっかけに、これからは自分の関心事をよりよく発展させていこう、自分の理想や目標にもっと勇気を持って取り組もう、安らぎや習慣、惰性という偽りに包まれた声に打ち勝とう、と魂の中で決断できたから、確かに自己免疫関連の痛みの症状はすぐに消え、患者は力を取り戻したのである。

 

 興味深いことに、この患者は現在でも、嘘や暗示を見抜き、意識的な目標から自分の人生を自分の手で切り開く能力がはるかに強く、最終的にはワクチン接種前よりも全体的な意識、責任感、そして同時に健康強さも示している。このように、彼は明らかに精神的、肉体的な自己決定と自由を獲得することによって、最初の段階でのワクチン接種に伴う過剰影響を克服することができたと言えるだろう。

また、ある患者は、実は弱気になって受けたワクチン接種の直後に来院し、「大きな失敗をして、人生の中で他人との関係で自分の地位や理想を再び失ってしまった」「これからは、将来に向けて精神的な物質力を獲得することに一貫して取り組みたい」と説明した。彼は、将来、暗示や嘘などの社会的圧力に逆らってでも理想を守るために、精神的な明晰さから、より強いバックボーンと運搬能力を身につけたいと考え、何らかの治療訓練を受けたいと考えています。 この人がそれを表現し、自己憐憫や罪悪感、怒り、あるいは自己嫌悪のステージを捨て、もっと意識的に、勇気を持って、自由に生きようと決意したその強さが印象的だった。今日まで、この人はこの道に忠実であったため、将来起こりうる罪悪感や自信喪失、それに伴う予防接種の合併症に、この強さで対処するための基礎が確実にできているのである。

 

 このように、霊魂のレベルを含めると、健康と病気、あるいは過剰影響のいくつかの段階が実際に現れるのである(注3)。第一段階では、人間はまだ健康であり、それはまだ彼を取り巻く世界の知恵に満ちた力と完全に調和しているからである。この健康の第一段階は、それは確かに現代のどの人間にも当てはまらなくなった、人間の一種の「パラダイス状態」と言えるかもしれない。人間が自分の魂に取り込む暗示によって過剰影響が進むと、人間は恐怖、物質的な安全や集団的な帰属への欲求など、自分を無意識の中で異質に支配しようとする無意識の動機によってますます決定づけられ、自分の霊魂の本質から疎外されるようになる。外見的には、直接的に体調が悪いようには見えないかもしれない。しかし、霊的魂的な観点から見ると、過剰影響が進むにつれて、人間には文字通り一種の「分裂」の隠れた特徴が観察される。この分裂によって、人間は自分の内なる意志からある程度切り離され、それによって、自分を内側で分解しようとする異質の力の道具として、ますます自分を作り上げる。特に現在では、そうした暗示や嘘によって人間を自分から遠ざけようとする勢力が、最も多様な形で効果を発揮している。人間がウイルスに左右されると考え、ウイルスが究極的には人間を支配し、それが認識されない限り病気にする霊的・魂的過剰影響の表現として理解されることを認めない、世界と人間に対する還元主義的な唯物論的見解は(注7も参照)、こうした強い暗示の一部であり、人間をコロナ危機に伴う操作的意図に対して脆弱にするものだ。mRNAコロナ接種とそれに伴うプロパガンダの大砲は、それを忌避しようとする者、あるいはこの接種を批判する者を裏切り者として社会的に排斥、あるいは処罰するが、この完全外部規定の原則のこれまでの集大成である。結局、それは人間の魂・精神・身体の自己制御と完全性に外部から介入する姿を示しており、心理制御と操作の最高の「芸術」と密接に関連するのである。

 

注3:過剰影響は、実はこの意味で常に万病の元凶である。一方、回復とは、外部規定を克服し、より大きな精神的自由と人間の自己決定を支持する力である。

注7)ルドルフ・シュタイナーは、例えば、伝染力の強い天然痘の重症患者と同室で長時間過ごすという実験を行った。彼は、病人から発せられる魂的霊的な、かすかな影響を観察し、それが患者の症状をどのように引き起こしているかを認識することができたのだ。しかし、彼は、このように彼自身が天然痘の病気の原因として認識していた、彼が「唯物論的暗示」と呼ぶものには守られており、無傷で済んだのである。

 

 現代のトランスヒューマニズムの「理想」も、デジタルや遺伝子工学的・医学的に制御された世界とネットワーク化することで、人間を「最適化」された外部コントロールに委ね、「改善」することを目的としている。ジョージ・オーウェルの著書『1984年』には、心理的な影響力によって人々をコントロールし、人々がもはやそれを外部制御と認識せず、そこに最高の充足感を見出すという感覚を植え付けられ、「自発的に」この外部制御に従うことを目指す、という言葉で、完全がいぶのイメージが表現されている

 

 人間の遺伝子装置をコントロールするmRNAワクチン接種が、人間を病気から守るために最適化する最も進んだ手段であるという提案に応えた人は、このワクチン接種に対して完全に無意識に行動し、この外部コントロールの原理に対して防衛や自己免疫過程を起こすことはまずないだろう。彼は、遺伝子技術による人間の最適化という「理想」に同調するあまり、外部からのコントロールに何の抵抗も感じずに、自分の中でそれが起こるのを許してしまう。しかし、この外部コントロールの原理が、自立した思考をする存在としての人間をどんどん破壊していること、実際、病気は技術的最適化によって克服しなければならないというイメージが、霊的魂的存在としての人間の実像をどんどん破壊していることを考えれば、自己免疫プロセスが治療への第一歩であることに気がつく............。

 

 なぜなら、完全な外部規定の段階で生きている人間は、まだ無意識に生きており、いつか疎外から生じる破壊的な結果に苦しむときにのみ、この段階で目覚めることができる(注4)のに対し、現在すでにスパイクタンパク質に対する自己免疫過程を発症している人間は、この過剰影響に対して最初の抵抗の感情を内側にもつようになっており、結果として、過剰影響を許した対応する細胞を攻撃し始めるのである。しかし、この気づきを自分の成長のために建設的に利用することができないまま、罪悪感や無力感、憎悪の感情で自らを消耗させてしまうのだ。(製薬業界と政治に騙され、今、私は迷っている。あるいは、失敗し、自分を操られ、今、私は消えかかっている!) 過剰影響に対して建設的な対処をする、という発想がまだ欠けているのだ。しかし、人間は、嘘の犠牲者、あるいは自分の弱さの犠牲者であるという感覚を克服し、知識の明確なステップに立ち上がり、それを通じて、より大きな自由と独立に導くことのできる真の霊的魂的実質を開発し始める場合にのみ、建設的になることができるのである。このように、実体と精神的バックボーンの欠如のために過剰影響を許してしまったことを認識した人は、今後この霊的実体を発展させるために自らを高め、接種によって自らに課した外部規定の原理を徐々に克服できるようにしなければならない。

 

注4:特に現代は、戦争や危機がますます広まり、人々がますます欠乏と必要性の状況に追い込まれる傾向にあり、暗示、感情、誤った判断によって、人々を破壊的な非合理的行動に目に見えて追い込む外部規定の巨大な力を示している。人間はこうして、嘘と操作の力を認識することなく、それらによって自分自身を決定することを許すことによって、自分自身を構成している。早い時期に認識することができない人間は、破壊の結果として生じる欠乏と苦痛を通じてのみようやく、自分が他人によって決定されることを許している力を認識する機会が与えられ、内なる悟りとそれに伴う浄化の過程を通じて、それを克服することができるのである。

 

 ちょうど、最後に紹介した2つの事例が、暗示の圧力の前に、明らかに自分には強くない心の弱さがあることを認識し、自己承認して立ち上がり、この内面の弱さに目覚め、より意識的で勇気ある理想に基づいた、より意識的で責任ある生き方を将来的に送るという決断に自らを高めたように、ワクチン接種に呪縛されてきた人類もまた、自らの内にこのワクチン接種への依存の暗示を克服するために自らを高めなければならない(註5)。だが、外部の権威に服従しようとする束縛の原理が、人間のうちに活動している自由な精神を否定し、それによってますます消滅させることによって、人間を奈落の底に導くことを本当に認識するためには、人間は実際に自分の中の霊を実現させなければならないのである。しかし、自分の中の霊を実現するということは、病気が起こるのは、人間の霊は、病気と完全に意識的に対決することにより力を強めることができるからであり、したがって、病気は究極的には一貫した霊的な認識の過程と発展への歩みを通じてのみ持続的に克服できることを認識することでもある。自分の中に異質なタンパク質として作用することを許したのは、実は魂の中の自由を欠いた動機であり、それが自分に異質なタンパク質を造らさせたのだと認識したときに、人は、自分の中に異質なタンパク質を形成させようとする遺伝的に機能するワクチンを受け入れることができると認識するとき初めて、そう、この接種とそれに関連した暗示や意志の介入が、霊的に言えば、自分自身の中にある異物支配の原理を認識し、霊的な自己決定によってそれを克服することを促進することを認識して初めて、また異物支配のために自分を憎むのをやめ、代わりに、自分の中で今後の発展と認識の歩みを通じて、外部規定を克服し、その結果、自分を外部制御しようとしたものを、そこからより大きな認識力と意識を発展させるように利用し始めるとき、初めて、異物決定と自己嫌悪を特徴とする自己免疫過程の状態から、次のより高い健康状態へと上昇することができるのである。その時、人間は、罪悪感や自己免疫過程により、それに伴う苦しみとともに、自分自身の弱さを自覚し、精神的な自己決定力を高める道を歩み、その中で、これまでよりも大きな新しい健康力を獲得して、自分を高めることができるようになるのである。

 

注5:コロナ接種への依存についての示唆は、基本的に、コロナが劇的な介入と、人間を魂的霊的に弱める物質的な手段で人間が克服できる病気であるという唯物論的な示唆によって維持されている。しかし、本当は、コロナの病気の場合にこそ、魂における無意識の魂的霊的作用と結びついており、コロナの場合は、意図的に人類に真っ向から組織化され、破壊的な物質的手段にも姿を現しており、認識と発達の歩みを通じてのみ克服することができるということが示されている。また、コロナ病を通じて、人間がウイルスと呼ばれる物質的な粒子だけで病気になるという考えは真実ではなく、病気は実際には魂の無意識的働き-それは、人間が自分の周囲から受け取り、ウイルスとみなされるものと結びついている-が作り出すものであることが次第に明らかになってきている

  したがって、ウイルスは、病気の結果として生物が排泄しようとする一種の細胞排泄物でしかなく、他者に対して力を持つのは、その排泄物に関連した無意識の魂的-霊的作用、例えば病人から発せられるものを、その人が認識せず、したがって、その人が無意識に自分に働くことを許す場合にのみである

 

 私自身、コロナ陽性となった人たちに、意識的に物質的な障壁なしに、繰り返し、自分をさらしてきており、その際、最初のうちはまだ一種の無意識の恐怖が自分を襲おうとしていることを観察した。それは、いわばウイルスが自分のところにやってくるかもしれないという物質的な考えと結びついていたのだ。その恐怖が、無意識のうちに筋肉を緊張させ、呼吸が浅くなるといった身体的な症状を引き起こしていることに気づくことで、実はこの無意識の作用が、自分の中で病気のような形で表現されようとしているのだとわかったのである。それを認識することで、呼吸や筋肉が緩み、自分の心の狭さに少し笑ってしまいそうになった。というのは、30年前にルドルフ・シュタイナーの著作ですでに、「人を病気にするのは微生物ではなく、魂や精神の影響である」と読んでいたのではなかったか。

 それが自分の中で徐々に現実のものとなるには、私は明らかに30年の歳月とコロナ危機を必要としたのだろうか。いずれにしても、時には病人の濃厚な咳を顔に浴びたりもしたが、その結果、症状が出ることはなく、検査も陰性であった。一方、私が病気になったのは、医療従事者へのワクチン接種の義務化によって、私の心を深く揺さぶった心理的圧迫に十分対応できなくなったからにほかならない。

 興味深いのは、有名な科学雑誌「The Lancet」でも、PCR検査は病菌のDNAを含む排泄粒子に反応するため、特定のウイルスを検出することはできないと論文で指摘されていることである。つまり、この病気に罹った人は、科学的にはエクソソームとも呼ばれるDNAを含む粒子を本当に排泄していることが、きっぱりと明言されたのである。(Lancet Respiratory MedicineRole of exosome in false-positive covid-19 PCR tests: non-specificity of SARS-CoV-2- RNAin vivodetection explains artificial post-pandemic peaks)。

 ある環境の影響によって過剰影響され、「毒された」細胞は、遺伝子組み換え物質を含むエキソソーム粒子によって、この過剰影響の結果を排除しようとするのである。この物質を、病気の人から発せられる無意識の魂的影響とともに吸収した他の人は、他の人や自分の中にあるこの魂的霊的事象を観察し、認識することを学ばなかったならば、他の人に関連したこれらの無意識の影響の結果として、また自分の中に生じた無意識の反応の結果として、実際に病気になることがあるのである。

 エクソソームはいわゆるウイルス粒子に匹敵する形態を持ち、健康な組織に対して病原性を持つことも知られているため、エクソソームとウイルスは角度を変えて見るだけで、結局同じものではないのか、という疑問が出てくる。ある人は、その粒子が細胞のストレスや病気などの結果として排泄されるという前提から、それをエクソソームと呼び、別の人は、そのようなエクソソームが健康な細胞とドッキングする様子をより観察し、それをウイルス粒子と呼ぶ......

 

 

 彼の中で形成されたスパイクタンパクが、いつまで効果を発揮し続けるかは不明だ。上記のような自己認識の結果として起こる最初のステップは、確かに人間がスパイクタンパクによって過剰影響された細胞に対して攻撃的に振る舞うことをやめることである。自己免疫過程の鎮静化と多くの予防接種の合併症の治癒は、その結果であり、私は今、このような治療的知識と人々の意志のトレーニングの過程で、私の診療所でますます頻繁に観察できるようになっている。この最初のステップでは、本人が取り込んでしまった異質なスパイクタンパク質やそれにまつわる嘘を受け入れ、起こった過剰影響とそれに伴う発展課題の記憶イメージとしてそれらを「見る」なければならない。スパイクタンパク質は、過剰影響の危険を常に本人に知らせるために、長い間、生体内に形成されているのかもしれない。また、誤解は私たちが思っているよりもずっと長く私たちの中に残り、私たちを決定付けることが多い。しかし、それらは何度も表面化し(注5、私自身、物質主義的な考えがまだ強く働いていることに驚いた例参照)、そして、物事の本当のあり方をますます認識するのに役立つのである。このように、スパイクタンパク質は、私たちの中にある既存の誤った考えと同様に、将来的には、人間がますます外部制御に陥る危険性がある場合には、自己免疫の新たな目覚めのプロセスの原動力となる可能性がある。しかし、最良の場合、ワクチン接種から得た教訓を真摯に受け止めた人は、その後、一貫した道、内なる自己教育、意志の弱さの自己克服の道を歩み、それによって、結局、自分の中のスパイク蛋白を徐々に克服することができるということもあり得るのである。そのような精神的自由の道によって、人間はもはや自分の中の異質なものと戦うのではなく、認識によってそれを変容させ、自分自身の真の美しい物質に置き換えることができるようになり、その結果、自分を異質なものとした細胞は、次第に真に独自性を獲得した生命細胞の実質に置き換えられていくと考えられるのである。なぜなら、私たちの体組織は、自己認識と意志の力のプロセスの過程で、外来の腫瘍細胞や、外来の影響の結果としてその中に広がろうとする遺伝的欠陥のある細胞を分解し、細胞内のいわゆる修復プロセスを刺激することによって健康な組織と置き換えることもできると思われるからである。

 しかし、新たに把握した意識と認識のプロセスから発せられるつながりを理解することは、しばしば人々を内なる喜びと勇気で満たす。実際、こうした魂的霊的な自己認識と発達のプロセスが、自立神経と神経ホルモンの分野全体、したがって人間の免疫系と心的外傷後管理のプロセス(注6)にも影響を与えることを理解すれば、将来の科学の中心課題として、これらのプロセスの理解を学ぶ必要性はコロナからの最も重要な教訓の1つとなるであろう。人間や世界の精神的なプロセスやつながりの観察を自然観察に含め、そのプロセスを独立したものとして認識することが急務であろう。結局のところ、精神科学者ルドルフ・シュタイナーは、100年以上前にすでに、人間を病気にするのは微生物や物質的なプロセスではなく、無意識の誤った考えや外的関係に対する恐怖が、人間の魂的霊的実体において問題を発して、人間が魂的霊的な認識実体において内的に強化されるまで病気に追い込むということを、人間は理解しなければならないと指摘しているのである。(注8)同じように、アルベルト・アインシュタインなど近代の代表的な物理学者たちは、世界の物質的なプロセスは、活動する精神なしには考えられないと認識していたのである(注0参照)。

 

注6:エピジェネティクスとは、生体内における、細胞の環境から細胞内部へ、したがって細胞の遺伝情報にも作用し、外部から制御するプロセス全般を指す、と考えられている。どのタンパク質が作られ、どのタンパク質が作られないか、つまり、どの遺伝子が現在「呼び出されて」、どの遺伝子が「眠って」いるのかは、エピジェネティクス、つまり細胞を取り巻く環境が最終的に決定しているのである。DNAの修復過程、つまり遺伝物質の修復過程も、エピジェネティックな文脈の要因によって開始されることがある。今、魂的・霊的なプロセスが自立神経的、ホルモン学的な機能を介して生体に影響を与え、それを決定すると考えれば、魂的・霊的なものからの直接的な影響が、遺伝学の奥深くにあるエピジェネティクスを介して実現できることが明らかになる。どの遺伝子がいつ活性化するかという問題は、最終的にはエピジェネティクスの文脈に依存し、したがって霊的魂的な影響要因に依存することを知れば、人間は遺伝子によって決定されるという考えは欺瞞に満ちていることがわかる。

 

 しかし、人間を捕らえ、内面的に病気へと追いやるのが、いかに魂的霊的過剰影響の事象であるかを知った人間は、このことを認識し、そこから完全に責任ある結果と教訓を引き出した瞬間から、新しい健康力を開発できることを認識することになるのである。そうして、ワクチン接種により過剰影響を許したことを認識し、今、その結果を完全に引き出し、そこから学んでいる人は、自分の中のmRNAワクチン接種も克服できるだろう......

ーーーーーーー

 上の文中に、エクソソームという言葉が出てきたが、これについては、既にこのブログで取り上げている。やはり人智学派の医師であるトム・コーワン氏が、最近研究が進んできた「エクソソーム」が、ウイルスの正体ではないかと語っているのである。エクソソームとは、体の中のあらゆる細胞から出るカプセル状の物質で、大きさは1万分の1ミリ程度しかない。中にはさまざまなメッセージ物質が詰まっていると言われており、この中に遺伝子の働きを制御するマイクロRNAが含まれている。体中の細胞は常時エクソソームを出しているが、病気になるとその分泌量は増えると言われている。
 コーワン氏は、今の新型コロナウイルスについても、その写真がエクソソームと似ており、やはりエクソソームではないかと主張しているのだ。

k-lazaro.hatenablog.com

 また、最後にエピジェネティクスという言葉が出てきた。これはつまり、上の説明にあるように、遺伝子の塩基配列が生き物の全てを決めるわけではないということである。遺伝子の発現は「霊的魂的な影響要因に依存」しており、「人間は遺伝子によって決定されるという考えは欺瞞に満ちている」のだ。だから人間が、あたかもDNAによって全てが決定される、DNAはコンピューターのプログラムのようなものというような言い方は、誤った人間観に導くものである。
 もしそうであるなら、人間は機械論的に把握されなければならず、そこに自由や個性はあり得ないからだ。人間はそれぞれが唯一無二の存在であり、自らが自らを創造していかなければならない。そのような人間のあり方を、肉体もまた担保しているのだ。(既にこのブログで、子どもが、熱を出して、母から受け取った体のタンパク質を自分に合ったものに造り変えていくことについて触れたが、これもそうした意味で考えることができる。)
 現代人は、人間が一種の機械であるとする考え方を幼いときから注入されているが、人間はその誤りを無意識で感じているのであり、それが心身の不調となって現われことがあるのだ。だが、著者が言うように、気づきを得ればそれも克服できるということであろう。

 今のコロナを巡る不条理な動きを見ると、そこに悪意ある意図を感じざるを得ないが、人間の機械論的考え方自体が、やはり霊的な敵対勢力にその起源があるのかもしれない。現在の状況は、長い期間をかけて準備されてきたのである。

メフィストが書くならば


 以前、「獣の世界的イデオローグ」で、世界的ベストセラー『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』、『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』の著者であるユヴァル・ノア・ハラリ氏の仏教に由来するヴィパッサナー瞑想の実践や二元論的世界観について触れた。これはハラリ氏の唯物主義的傾向とどのように関係するのかと疑問に思ったのだが、その後、途中で読むのを中断していた、人智学派の、トランスヒューマニズム批判の著作を再度めくってみたら、ちょうど、これに関する記述に出会ったので、今回はこれを紹介したい。

k-lazaro.hatenablog.com

 著者は、以前にも出てきたアンドレアス・ナイダー氏で、『デジタルの未来?』(2019年)という著作である。

 

 予備知識が必要で、少し難解なので、予め少し補足しておきたい。

 冒頭に、ゲーテの『ファウスト』に登場するメフィストと言う悪魔の名がでてくる。シュタイナーの悪魔論では、アーリマンとこれに対立する(その作用が違うと言うことであり、時に協働する)悪魔としてルチファー(ルシファー)が存在するのだが、現代は、アーリマンの力の方が強まっており、その背景には、アーリマンの地上への迫りつつある受肉も関係している(これについてはこのブログの別項を参照されたい)。ゲーテメフィストでは、これらの区別がなされておらず、これらの2つの側面をもっているとされるが、文中では主にアーリマン的側面で語られる。

 下の文中で、ハラリ氏は、グノーシス的二元論であり、これに対してシュタイナーは一元論とされるが、これは理解が多少難しい。

 前の記事で、シュタイナーは三元論(肉体・魂・霊)であると記したことと矛盾するようだが、こちらの場合の三元論は、人間本性の捉え方についてであり、著者が一元論というのは認識論的意味合いを含んでいると思われる。

 グノーシス的二元論は霊ー肉の二元論で、この場合、霊と肉は対立するものであり、肉の側面、現世は否定的に見られている。これはまさに、ハラリ氏の主張と合致しているようだ。これに対して、シュタイナーの一元論というのは、霊と肉は対立するものではなく、それぞれが真の存在の一側面(人間において両者を仲介するのが魂である)とする立場、霊と物質が統合された世界観であろう。人は、自我を確立するために、外的物質的世界を自分の外の世界としてもったが、実は、外的世界の根底にあるのは、自分の中に存在するものと同じものなのである。シュタイナーの認識論では、人が、外界を認識することにより、本来一つのものであったが今は分裂して存在する、内なる世界と外なる世界が統合されるのである。

 ハラリ氏は、霊ー肉の二元論といいながら、結局は唯物主義的世界観、人間観の持ち主であり、彼にそのようなインスピレーションを与えているのは、メフィスト(アーリマン)ということである。

――――――――

メフィストが書くならば

 旧約聖書ヨブ記は、よく知られているように、ヘブライ語で「サタン」、つまり「告発者」と呼ばれるメフィストの登場から始まる。ゲーテは『ファウスト』でこの場面を「天上」のプロローグの原型として選び、旧約聖書よりもさらに明確にメフィストの告発の役割を強調したのである。ここでメフィストは、天から落ちて離れ離れになった天の兄弟たちが合唱で神の創造物を賛美した後、主なる神の前に現れ、人々に次のように語りかける。

 

 許してください、私は高くは語れません、太陽や世界について何も知りません、私はただ人がいかに苦労しているかを見ています、もしあなたが彼に天の光を与えなかったなら、彼はもう少しよく生きるでしょう。彼はそれを理性と呼び、それだけを必要とします、ただどんな動物よりも獣らしくなるためにです。(V. 271-286)

 

 そして、後にメフィストは自分自身についてこう語る。

 

 私は常に否定する霊だ! なぜなら、生まれるものはすべて、滅びることに価値があるからです。
 ということは、あなたが罪や破壊、要するに悪と呼ぶものはすべて、私の実際の要素なのです。(V. 1328-1344)

 

 ユヴァル・ノア・ハラリは、人間の霊を否定し、非難的で、苦い悲観主義唯物論によって特徴づけられるこの態度から書いている-但し、今は、さらなる調査を必要とする疑わしい変種ではあるが。これは、ハラリが体現しているメフィスト的な主知主義と、今日西洋に広まっている仏教の一形態との組み合わせで成り立っている。このことは、仏教そのものを否定するのではなく、今日、特に西洋の知識人のサークルで実践されている仏教の変種を否定しているにすぎない。30ここで、毎日、2セッションのヴィパッサナー瞑想、時には丸1ヶ月に及ぶ、ゴエンカの弟子、ハラリの瞑想修行と、彼の還元主義・物質主義的進化理解や文化ペシミズムの間にどんな関連があるのかという疑問が湧いてくる。

 

"...むしろ、私たちを悪から引き離せ..."

ハラリの実践するヴィパッサナー仏教は、インド生まれのヴィパッサナー教師サオア・ナラヤン・ゴエンカ(1924-2013)の教えがベースになっている。ゴエンカは1969年以来、アジア、ヨーロッパ、アメリカで数百の瞑想コースを指導し、ヴィパッサナー瞑想の普及に特化した130以上の瞑想センターの設立と発展を世界中で監督してきた31

 

30 例えばグーグルは、中国の瞑想教師チャデメン・タンにシリコンバレーの従業員向けに「マインドフルネス・プログラム」を導入し、それは、その後「Search inside yourself」と題して世界中でセンセーションを巻き起こした。参照:Chade-Meng Tan, Search inside yourself. Daniel GolemanとJon Kabat-Zinnが序文を寄せたベストセラー。トランスヒューマニズム、つまり人間の霊を人工知能に置き換え、消し去ることを企業理念として信奉する技術系企業で、従業員を「鎮静化」するために仏教瞑想を利用するこの傾向は、特に米国でますます強まっている。

31 ヴィパッサナー瞑想の実践については、Culadasa John Yates, Handbuch Meditation, Munich 2017 を参照。 Yates は、10 段階からなるヴィパッサナー瞑想の完全な道を、初めて西洋の実践者に理解できる形で展開している。ヴィパッサナー瞑想の理論的基礎については、Analayao, Perspectives on Satipatthana, Cambridge 2013を参照。 Analayaoはスリランカで出家したドイツのセラバダ僧で、ヴィパッサナー瞑想の基礎に関する西洋の専門家と考えられている。「サティパッタナー・スートラ」は、ヴィパッサナー瞑想やマインドフルネス瞑想の基礎となる釈迦の2つの説話のうちの1つである。第二の説話は、「アナパナサティ・スートラ」と呼ばれるものである。"サティ "とは、パリ語で "心構え "や "記憶 "のようなものを意味する。

 

 ゴエンカが説いたヴィパッサナー仏教の基本は何であろうか?ヴィパッサナーとは「洞察」という意味で、現在、特に東南アジアで修行されている仏教の中で、最も古く、最もオリジナルな釈迦の教えに基づくテーラワーダ仏教に由来している+。この仏陀の教えは、苦しみが、人間を自己としてとらえる欲望によって引き起こされるという洞察を通して、個人がすべての苦しみから解放されるという教えである。この自己は存在にしがみつき、その「しがみつき」の結果、常に輪廻していかなければならない。したがって、「洞察の瞑想」の助けを借りて、地上のあらゆるものに対する、誤って思い込まれている自己の執着を克服することができるのだ32

紀元前5世紀にインドで釈迦が説き、今世紀に入るまでインドやスリランカの仏教僧によって発展してきたこの瞑想法は、現在最も普及している瞑想法であり、最初の段階では瞑想者自身の身体に焦点を当て、特に呼吸に注意が向けられる。

 

32 仏教の基本的な教えについては、ミヒャエル・フォン・ブリック著『Einfuhrung in den Buddhismus』(フランクフルト/M.2007年)を参照。

 

 これは、ジョン・カバット・ジン33やティク・ナット・ハン34によって広まり、西洋の事情に合わせた形で、「マインドフルネス瞑想」とも呼ばれている。しかし、「堕罪」に対するハラリの訴えからすると、我々は、実際には何を相手にしているのだろうか。

 仏教は、個人をこの世の存在に縛り付け、この世の多くの人生で身につけた行動パターンに執着させるもの、すなわちエゴイズムの態度から個人を解放しようとするものである。欧米で仏教やマインドフルネス瞑想を知った人はみな、基本的にキリスト教の隣人愛の教義にも通じる、堕落の結果としてのエゴイズムの克服を目指しているのである。マインドフルネス瞑想の実践者は、自分の行動を洞察し、この行動から自分を切り離すための身体運動を通してこれを行う。一方、キリスト者は、自分の罪を告白し、救い主への信仰と聖餐式への参加を通して、その罪を克服しようとするのである。しかし、エゴイズムからの解放という目的は同じである35

 

33 Jon Kabat Zinn, Gesund durch Meditation - Das grafi° Buch der Selbstheilung (Healthy through Meditation - The Graphic Book of Self-Healing), Frankfurt/M. 2006. Kabat Zinnは、臨床目的でMBSR (Mindfulness Based Stress Reduction) プログラムとしても知られるヴィパッサナー瞑想の「ライト版」 を開発、世界中で成功をおさめた。

34 ティク・ナット・ハン「心の目覚め」を参照。マインドフルネス瞑想やヴィパッサナーのベースとなるブッダの説法のうち、最も重要なものについてティク・ナット・ハンが解説した本。

35 千年紀以降の仏教のさらなる発展と、そこから生まれた大乗仏教金剛界仏教の新形態については、ここでは触れない。ただ、大乗仏教が「菩薩賛」を通じて、もはや個人の解放ではなく、万物の解放に関心を持ち、そこからキリスト教にも似た地上の万物に対する慈悲の態度が生じたことだけは記しておこう。参照:ミヒャエル・フォン・ブリュック/ワレン・ライ『仏教とキリスト教 歴史、対立、対話』 Munich 2000.

 

メフィストの2つの姿

 しかし、ハラリが著書で闘う堕罪の問題は、それとは異なる。彼は、人間個人のエゴイズムではなく、人間同士の愛の欠如でもなく、人間による地球の知的・技術的征服、トランスヒューマニズムに至るまでの技術開発、人間の知性による環境破壊を問題にしているのである。問題は、ハラリが常に戦っている相手であり、彼自身の超知性主義という形で常に彼から隠れている「悪魔」は、人間をエゴイストに変えてしまったものとは異なるということだ。「民衆は、たとえ悪魔に襟首をつかまれても、決して気づかない」アウアーバッハの地下室のメフィストの言葉である。しかし、ゲーテでさえも、メフィストの二つの姿を区別することはまだできなかった36

 

36 ルドルフ・シュタイナーは、ゲーテの『ファウスト』におけるこの問題についてしばしば語っており、例えばGA157号の1915年10.6月の講義を参照。 人智学の発展当初、シュタイナー自身も、常に人間の誘惑者として「ルシファー」だけを語っていた。ゲーテメフィストの第2の側面を「アーリマン」と呼ぶようになったのは、1909年になってからである。1909年1月1日と3月22日の2回の講義(GA107号所収)を参照。

 

 ゲーテではメフィストの姿の中でまだ一つであった悪の二つの姿を明確に区別するのは、人智学の創始者ルドルフ・シュタイナーに任された37

 

37 「敵対する力」は、1913年から1925年にかけて制作されたシュタイナーの大型木彫作品『Der Menschheitsreprasentant』に最も明確に描かれている。両「Widersachermachten」については、フランク・ベルガーLu er.の編集による2つの優れたアンソロジーを参照されたい。

 

 シュタイナーは1910年、この2人の悪の権化を「ルシファー」と「アーリマン」という形で初めて表舞台に登場させた。シュタイナーは、4つのミステリードラマの最初の作品で、主人公のヨハネス・トマシウスに次のように語らせている。

 

魂の世界の前に立ちはだかる2つの力

一方は誘惑者として内に住み、

視線が外に向けられているなら、

他の者が視線を曇らせているのだ38

 

38 ルドルフ・シュタイナー『四つの神秘ドラマ』、『統一の法則』、『第四のイメージ』、GA 14。

 

 このような悪の二つの対立する力の区別に関して、私たちは人間における「悪の進化」と呼ぶべきものを扱っているのである39。近代まで、近代自然科学、ひいては唯物論が出現するまで、人間は、ルドルフ・シュタイナーが「ルシファー」と呼ぶ、人間の中に現れる一つの悪の活動にのみ、かなりの程度常にさらされていたからである。紀元前5世紀に生まれた仏教や、紀元の変わり目に誕生したキリスト教は、それゆえ、これを扱っている。人間を意識魂の発展へ導いた思考の発展とともに初めて 現代の自然科学や現代技術は成立したのである。このような意識魂に特有な思考のあり方により、今、人類はより多くの情報にさらされるだけでなく、アーリマンの効果にもますますさらされるようになっているのだ。

 

39 シュタイナーは『人智学原理-ミカエルの神秘』GA 26で悪の進化を詳細に説明しており、例えばそこに含まれる手紙では、アーリマン領域におけるミカエルの任務について述べている。

 

 仏教の瞑想やキリスト教の救いの教義は、このような現代的な悪の形を認識していない。40 それらは、それぞれの文化的に形成された方法で、ルシファー的な悪の側面を瞑想やキリスト教信仰によって克服しようとするもので、もちろんそれは十分に正当なものである。特に、仏教のマインドフルネス瞑想は、現代に蔓延しているうつ病などの心の問題を効果的に治すのに非常に適している。この仏教の治療効果は、すでに釈迦の「四聖諦」(訳注)の教えの中に、医学的診断と治療という形で内在しているし、もちろんキリストを治療者、「救世主」として捉えたキリスト教の教えにも内在しているものである。

 しかし、悪のアーリマンの側面は、どちらの宗教でも、実際ある意味で避けられている。そして、ハラリがヴィパッサナー瞑想を通じてターゲットとした、彼自身が大いに罹っている主知主義・物質主義という病気を克服するための努力は、これまで見てきたように、効果がないままである

 

40 ルドルフ・シュタイナー人智学的思考法』参照。

41 マイケル・フォン・ブリック/ホァレン・ライ『仏教とキリスト教』参照。History, Confrontation, Dialogue, Munich 2000.

(訳注)、仏教が説く4種の基本的な真理。苦諦、集諦、滅諦、道諦のこと。

 

グノーシス的二元論と自己認識の一元論との比較

  ハラリは結局、私たちが常にすでに死んだ思考の結果から出発していることに由来する、物質的な存在に対する思い違いに苦しんでいるのである。そのため、彼は、人類の、一層迫り来るデジタルの未来に直面し、2冊目の著書『ホモ・デウス』では、地上のあらゆるものを悪神、サタンの創造物と理解し、一方、善きものは、そこに仏教瞑想などの「霊的旅」を通じて戻り、それにより物質生存の害悪から解放されることができる、「霊の奇跡の世界」とする二元論に平板化したのだ42。このようなグノーシス的な世界観は、人間とその進化についてハラリが以前に述べたものからすれば、真に驚くべきものではない。:「二元論は、こうした物質的な束縛から脱却し、まったく見知らぬ、しかし私たちの本当の故郷である精神世界へ戻る旅をすることを奨励する。」

 

42 参照:『ホモ・デウス』op. 253 f. 43 同上。

 

 このグノーシス的二元論は、最終的には悲惨な結果をもたらすが、今日、無意識のうちに現代の傾向として広まっており、第一部ですでに見たように、我々の認識プロセス自体の自己観察に向けて働く一元論によってのみ対処することが可能である。しかし、それによって初めて、意識魂が自分を霊的存在として認識する能力が具体的に実現されるのである。シュタイナーは、この自己創造的な現実認識を次のような、瞑想的な認識体験によって最もよく理解できる文章で表現している。

 「この自己意識的な自我は、それ自身の中で孤立しておらず、また客観的な世界の外で自己を体験するのだが、この世界からの切り離しは、単に意識の現象に過ぎず、それは、魂を世界と結びつける力を意識の外に押し出すことによって、ある発展状態にある人間として、自分の中に一時的な形姿の自我を所有しているということを洞察することにより克服できることが認識されている。もし、これらの力が絶え間なく意識の中に働いていたら、自らに安住する強力な自意識を得ることはできないだろう。自分を自覚している自我を体験することはできなかった。したがって、自己意識の発展は、自己意識をもつ自我が、あるレベルにおいて、自己の認識の前にある段階で、消し去っている現実の部分を除いて世界を認識する可能性が魂に与えられるかどうかにかかっているのだ。このようなことを認めると、哲学の難問に対する答えを、普通の意識に現れる魂の体験に求めることはできなくなる。この意識は、自己意識的自我を強化するよう求められている。それは、この目的に向かって努力しており、自我の客観的世界との関係への眺望をベールで覆わなければならず、したがって魂が真の世界といかにつながっているかを示すことができないのだ。」

 

44 ルドルフ・シュタイナー『哲学のなぞ』GA18号、601頁f。

 

 その結果、シュタイナーの一元論では、認識の出来事そのものを観察することが重要なのであり、それは、通常の認識では感覚の観照に流れ込ませている思考の力を強化することにより、また思考の、それに対応する感覚的現実からの離脱を通じて、この思考が、それ自体において存在する現実-その力は、そこから、外界の物質的現実も我々の体の現実もまた創り出されている力と同じである-として経験されることができることに気づくためである。このように、私たちの考える意識の場には、現実に対するまったく新しい関係が現れ、この方法で瞑想する人は、自己意識を維持するために通常の意識では消滅している、現実を創造する力を、魂の活動を通して自分の意識に引き上げ、現実の自己創造者となることができるのである45。しかしこのことは、人間の未来に対するまったく新しい展望をももたらすのだが、これについては、この論稿の最後に見ていく。

 

45 シュタイナーが開発したこの人智学的瞑想の形式については、Rudolf Steiner, Die Rosenkrexzmeditationを参照のこと。Urbild menschlicher Entwicklung, ed. Christiane Haid, Basel 2013.

 

 しかし、その前に、『人類史』の最後と『ホモ・デウス』の第三部でスケッチされた、ハムリの文化的悲観主義から生まれるトランスヒューマニズムと社会生活の完全なデジタル化の未来像に目を向けてみよう。

 

トランスヒューマニズムによる人類の消滅を語るハラリ氏のスピーチ

 2冊の本のそれぞれの最後で、ハラリの進化観は、人類がバイオテクノロジーの助けを借りて自らを廃止し、機械が生み出す人工的生命に取って代わられるという、ますます悲観的な視点へと導いていく。46

 

 この「ホモ・デウス」、すなわち神的な人間に流れている技術発展という信条は、トランスヒューマニズムのそれ、すなわち無限の有効性のそれである。グーグルの創業者であるミンとラリー・ペイジは、シリコンバレーでは毎日祝われているこの信条の二大使徒である。『ホモ・デウス』の終盤、ハラリは「データ宗教」、アルゴリズム人工知能の発達の帰結を述べて、人間の精神の廃絶が避けられないと結論付けている47

 

46 トランスヒューマニズムについては、トランスヒューマニズムのマル3依存の擁護者の一人であるニック・ボストラムの著作、Die Zukunft der Menschheit, Frankfurt 2018、Superintelligen Senarien einer komm-den Revolution, Frankfurt 2016参照。 最も粗野なエゴ主義の一形態としてトランスヒューマニズム信条を最初に暴露した一人がフランク・シルマッシャーで、彼は2014年に亡くなっているが最も顕著な例である。エゴです。Das Spiel des Lebens, Munich 2014.

47 Homo Deus, op.cit. p. 497 ff.

 

 ハラリは、そうした人間の精神を最初から否定していたのではないか?では、なぜこの精神は自らを廃止するようになるのだろうか。結局、ハラリは、人類の全歴史の中に「見えざる手」、つまり人間の精神のようなものを実在すると認めるという、当初から乗り越えられていない問題に直面することになるのだ。残念ながら、彼はこの認識に対して、方法、つまり人間の精神の実在性を意識する方法を欠いている。

 そして、ハラリの人類普遍の歴史は、論理的には純粋にメフィストフェレス的な結末を迎えることになる。仏教の瞑想で鍛えられた彼は、人間のエゴイズムに対するルシフェルの影響には対処できるかもしれないが、現代のあらゆるテクノロジーと物質主義的な進化論の理解の中でその主な影響を生み出しているアーリマンの霊には対処できないからである。しかし、思考において自己自身を意識できない霊は、アーリマンに取り押さえられた人間的霊にならざるを得ない。したがって、このまさにアーリマン-メフィストフェレス的な精神が彼の内に働き、技術的手段によって自らを廃絶する人類のイメージを展開するが、それはまさにシュタイナーがアーリマンと特徴づける霊力の目標である48

 

48 ルドルフ・シュタイナー人智学的ライツァーク-ミカエルの神秘』GA26 参照。

 

 人間は、上記のように、自分の思考的認識の本来の力を自己創造的に意識化し、それにより意識魂の本来の任務を解決してこそ、この物質主義的思考の中で働いているアーリマンの力を克服しうるのである。「こうして人間は、まず自分の到達した霊性を物質的な内容で満たさなければならなかった。彼は、自らの霊的な本質を、それ以前のものよりも高次なレベルにまで高めた時代に、唯物論的な考え方に陥った。これは簡単に見誤る。人は、唯物論への「転落」だけを観察し、それを悲しむことができる。しかし、この時代の観照は外側の物理的世界に限定されなければならなかったが、人間の純化された、自己自身の中に存立する霊性は、体験として魂の中に展開されたのである。ミカエル時代には、この霊性はもはや無意識の経験にとどまることなく、自らの本質を意識するようにならなければならない。」49

 

49 ルドルフ・シュタイナー 同上、66 頁。

 

人間の能力開発に関する信条

 最後に、ハラリの文化的悲観主義から離れて、私たちの身体の形成のみならず、自然のあらゆるプロセスにおいて、思考に働く力を経験させ、それにより「人間の中の精神性を宇宙の中の精神性に向かわることができる」「知の道」50を形成する、この意識化の過程が、ゆえにこの道が、エゴイズム、すなわちルシファー的な力の克服にどの程度までつながるのかが問われることになる。

 

50 ルドルフ・シュタイナー人智学的指導原理』GA26、第1指導原理。

 

 シュタイナーは、思考だけでなく感情や意志にも関わる第二段階において、定期的かつ体系的な「カルマ的」回顧という形で、自分自身の運命を見つめることができると指摘している51。その時、自分の運命に関わってくる他の人間達がますます視野に入ってくる。自分の人生の歩みが、他人の意図や自分の意図とどんどん絡み合っていることが明らかになる。このような体系になされた回顧とカルマ修練を通じて、人は、自分の運命と、すなわち他者とともに、愛を深めていくようになるのである。人は、自分自身の運命あるいはカルマを、よりよく理解することで、更に発展させることができること、そこに現れるネガティブなパターンや行動様式を、誠実で全面的な自己認識の意味で少しずつ解消していけることを認識している。また、それに対して、もともとブッダが仏教の瞑想の基礎として編み出し、ルドルフ・シュタイナーが推奨する「八正道」は、決定的な支えとなる52

 

51 ルドルフ・シュタイナー『Ruckschau』参照。Ubungen Lur Willenssarkung, ed by Martina Maria Sam, Dornach 2009 and Rudolf Steiner, Entwicklung des Denkens - Stdrkung des Widens, ed by Andreas Neider, Stuttgart 2004.

52 「八正道」についてルドルフ・シュタイナー『昼と年の瞑想』ターヤ・グート編、ドルナッハ2004年、またハラルド・ハースとテオドール・フントハンマー『Ich mochte mein Leben wandelni Ein anthroposo-phisches Achtsamkeitiprogranms - Der achtgliedrige Pfad, Bern 2018, manuscript for download tinter www.achtsamwerden.ch また著者の著書:『Denken mit dem Hertenどうすれば頭から思考を解放できるのか』(シュトゥットガルト2019』も参照ください。

 

 思考と知識という外向きの道と、意志と自己認識という内向きの道という、どちらのアプローチも、人間が発展する能力に基づいており、ハラリ的特徴を持った文化的悲観主義には至らない。むしろ、ヨハネス・グライナーが最近定式化した53 、「私は人間を信じる!」という新しい「ヒューマニスト信条」に至るのだ。私たちは、ハラリの文化的悲観主義に対する我々の批判をこれによって締め括くろう54

 

53 著書『私はあなたを信じる テロリズム-教育の問題?』(ハンブルク2017年、66頁f)ここに引用した文章は、グライナーの著書に登場する「ヒューナニスト信条」からの抜粋である。

 54 グライナーのヒューマニズムの信条は、ハラリの評論家ミヒャエル・シュミット=サロモンが、2014年に著書『HoffnungMensch Eine bessere Welt ist maglich(より良い世界は可能である)』ですでに同様の信条を打ち出していることに触発されたものである。

 

私は、すべての人間を信じます。

私は、すべての人間の中にあるスピリットを信じています。

私は、すべての人間の中にある出会いと変化の能力を信じています。

私は、すべての人間に備わっている発展能力を信じています。

私は、すべての人間が持っている発展しようとする意志を信じています。

私は、自分を信じている人は、他人の支えにもなれると信じています。

私は、自分の中にあるスピリットを認識した人は、他の人の光にもなれると信じています。

私は、人が成長すればするほど、社会に癒しを与えられる存在になれると信じています。

――――――――

 ハラリ氏は、精神(霊)世界が本当の人間の「故郷」としながら、その実、人間に本当の意味での霊性を認めていないようだ。人類はやがて機械と同化するか機械に代わられると考えており、まさにアーリマン的唯物主義的思考そのものである。ナイダー氏が語るように、その主張はそもそも矛盾を孕んでいるのである。

 仏教の瞑想法を実践しており、一見、霊的なものにも理解があるように見えるが、結局、その人間観は、唯物主義的機械的人間観である。瞑想法の実践や「霊」云々の主張は、それに対する単なる飾りである。内実が伴っていないと言えよう。ただ、やはりそれに惹き付けられる人もいるのだと思う。そしてそれにより真の霊への理解が閉ざされてしまうのである。

 トランスヒューマニズム(超人間主義)という言葉は、人間を超える(言わば超人になる)と言いながら、実際には人間そのものの否定である。人類が、霊性を発展させて、今の状態からその上の段階を目指さすべき時代が到来しているのは間違いが無いのだが、アーリマンは、これを阻止したいのであり、人類を誤誘導するために、本来のあるべき姿に対置するものとして、このような言葉を使うのであろう。「作者」としてのアーリマンの言葉の扱いは、巧みである。

彗星の役割とは

 以下の記事は、ずっと以前にできていたのだが、彗星がテーマなので、今度、彗星が話題になった時に合わせて掲載しようかと思っていて、そのままずるずると未掲載できたものである。
 最近、In deep さんの姉妹ブログ「地球の記憶」で「2月上旬に”地上から肉眼で見られる彗星”が”5万年ぶり”に地球に接近」という記事があり、久しぶりに彗星が出現するようなので、これを機会にアップすることにしたのだ。
 ただ、改めて読み直すと、やはり多少賞味期限が過ぎてしまった感があるのだが、申し訳ないが、修正せずにそのまま掲載する。ご勘弁を。

・・・・・・
 彗星も、実際には、その正体がよくわからない天体現象であるようだ。秘教及び人智学の立場では、物質的現象の背後には霊的存在が働いてそれぞおり、それぞれに意味があるのである。彗星は日本語では「ほうき星」とも呼ばれる。その形から来た言葉なのだろうが、偶然にもこの名前は、彗星の役割を表しているのである。
 コロナ禍のなかで、2つの彗星が現れていた。それは災いの象徴なのか、あるいは人類の進むべき未来を指し示すものなのか? 
 今回は、アメリカの人智学者であるジョナサン-ヒルトン氏の論考を紹介する。

ーーーーーーーーー

彗星・・・COVID・・・カタルシス

   ジョナサン-ヒルトン

 

 彗星 その言葉さえも、興奮、恐怖、謎、苦難といった感情を呼び起こすかもしれない。歴史上、目に見える彗星の異常な到着は、恐怖と終末の恐怖を煽ってきた。・・・1665年には、黒死病の前に彗星が出現し、それが原因とされた。1910年、ハレー彗星の出現時に地球がハレー彗星の尾を通過したとき、世界の終わりを恐れて集団ヒステリーが起こった。現在、一部の占星術界では、今回のアトラス彗星は、黒いドラゴンと呼ばれるアーリマンの受肉を予告しているという憶測さえある。神話のイメージでは、ドラゴンはしばしば彗星と結びつけられ、魔法のように現れ、火を吐き、長い尾を引いて天を掃くように走る。

 

訳注)ATLAS彗星 (C/2019 Y4) は、2019年末に発見され、2020年1月に急激な増光を見せたことから大彗星となることが期待されたが、2020年3月末になると増光がストップし、徐々に暗くなった。元々彗星の本体が小さかったため、太陽に近づいたことで彗星が崩壊してしまったと考えられている。

 

 しかし、天文学者たちでさえも謎が多いと言う、この異常な天体の出現をどう理解したらよいのだろうか?ある科学作家が語るように、「彗星は予測不可能な存在である。」

 現在、私たちは2つの彗星に遭遇している。アトラス彗星は、5月中旬までに肉眼で見えるかもしれない、太陽に接近した壮大な彗星ショーの可能性を期待されていた。しかし、4月中旬になると、アトラス彗星は断片化し、バラバラになってしまった。そして、4月11日に第二の彗星が発見されたのだ。3月25日に撮影された天文台の画像に写っていたのである。これが現在の新彗星で、分裂しているアトラス彗星と同じ軌道をたどっているのだ。この彗星はスワン彗星と名付けられ、こちらも肉眼で見えるようになる可能性があり、華やかな光景が期待されている(訳注)。スワン彗星という名前は、白鳥座に由来するものではなく、撮影した恒星カメラ「Solar Wind Anisotropies Instrument」の頭文字をとっただけ。だから、はくちょう座との天文学的な相関はない。

 

(訳注)2020年3月25日に発見された。極めて潰れた楕円軌道を公転する彗星であると報告されたが、現在では、双曲線軌道とされており、一度太陽に接近すると二度と回帰してくることがない非周期彗星に分類されている。彗星は5月3日以降暗くなっている。その後、崩壊した可能性が高いとされる。

 

*****

 

 彗星が通過する星座の霊的な性質に注目すると、スワンが私たちにもたらすものの本質に、どのような光を当てることができるだろうか。スワンが最初に気づかれたのは、みずがめ座が注ぐ水の下を泳ぐフォマルハウト(みなみのうお座α星)の近くだった。水瓶座は、春分点がこの星座に入る、人類が霊我を発展させるべき未来の時代、第6文化時代の星座である。水瓶座は、神界の宇宙的な生水、エーテル的な生命を注いでいるのだ。この星座では、地上世界と仲間たち、そして神聖な世界と兄弟愛を育むことが私たちの課題だ牡羊座は思考とエゴの存在に関連しており、先に紹介したように、もはや脳の中に降りていくのではなく、新しい思考へと上昇し始める思考の「反転」へと移行する。そして、人間を石に変えてしまう思考であるメデューサを倒し、古い先祖返り的霊視能力である海の怪物ケトゥスを倒す、ミカエルの代表であるあの人物、ペルセウスに移っていくのだ。おそらくこの二人は、アーリマン(石のまなざし)とルシファー(海の怪物)のイメージなのだろう。

 ペルセウスの物語全体は、スワンの道の上に、牡羊座魚座の上に、アンドロメダとペガサスを加えた星座で展開される。人間の魂であるアンドロメダペルセウスに救われ、アンドロメダからは白い翼を持つ知性、新しい思考であるペガサスが生まれる。ペガサスの翼にある星は、アンドロメダの額にある星と同じである星図もある。スワン彗星は近日点において、いわば太陽に最も近い頂点に達すると、ペルセウス座からカペラ星の近くにある太陽の戦車隊、馭者座に移動する。馭者座は、天球上で五角形の形を形成している。

 ヘパイストス(足の不自由な神)の息子であり、他の説ではヘルメス/マーキュリーの息子であり、太陽の戦車をイメージした戦車を造って走らせたというストーリーが語られている。ヒンドゥー神話における馭者座のカペラ星は、ブラフマーの心臓と関連付けられている。ギリシャ神話では、ゼウスに乳を飲ませたヤギと関連づけられ、またヤギの角がコルヌコピアに変化し、豊かな命の角となったともいわれる。スワン彗星は、これらの星座を通って天界を横断するわけだが、それらはすべて、何らかの形で人間の新しい能力と未来、さらには太陽の戦車を駆る者になることを指し示している。これはある意味では、太陽のキリスト自我にたとえることがでる。

 

 ルドルフ・シュタイナーは、彗星の核と尾の性質が全く異なることを指摘している。核は有害なアストラル物質を引き寄せ、集め、核の周囲で濃縮されながら物理的宇宙へ進み、物質的な形をとって、有害なアストラル物質を惑星系から運び出すのである。この物質が彗星によって変化し、尾を引いて流れ出るものは、結果として異なる組成を持つことになる。天文学によれば、彗星の尾は何百万マイルにも及ぶという。例えば、ハレー彗星の尾は、太陽から火星の軌道と同じくらい遠く離れた場所で、1億5千万マイルもの長さの渦を巻いている。彗星の予測不可能で不規則な性質は、尾にも当てはまる。もし彗星が重力の物理法則に従って行動するならば、尾は彗星の軌道から流れる方向に掃射するはずで、それはたとえば船の航跡や空気の流れがそれを作る核に従うのと同じである。

 しかし、彗星の尾は、核の方向に従って後ろに流れるのではなく、常に太陽から離れた宇宙の周辺を向いている。彗星が太陽に向かう過程で物理的な太陽系にどんどん掃き寄せられることによって物質化したものは、高密度化した負のアストラル物質として焼き捨てられ、太陽系外に運び出される。アトラス彗星がそうであるように、彗星が断片化し分解されれば、その目的を達成したことになる。シュタイナーは、尾に残った破片や変化した粒子が、実は鉄を含む流星の物質となり、流星群として観測されることを語っている。現代の天文学でも、流星群は地球が昔の彗星の残骸を通過するときに、毎年起こることが確認されている。また、彗星は通常、流星群の発生する星の領域を通過する経路をとることも興味深い。白鳥彗星は、4月19日から5月28日にかけてみずがめ座流星群を、8月中旬にミカエル座流星群を観測するペルセウス座の星々を通過しているのです。

 霊的な力のセンターに引き寄せられ、物質化し、そして燃え尽き、尾に変化して太陽系外に運ばれるこの「アストラル」物質は何なのだろうか。私たちは、霊学から、宇宙意識、宇宙存在のすべてのレベルにおいて、進化の前進に抵抗する逆行する存在も存在することを知っている。また、人類が物質主義、情熱、戦争、欲望などから破壊的で有害なアストラルフォースを生み出し、それが特に日食の時に地球から宇宙へも流れ出ていることを特に意識している。したがって、進化の進展のためには、これらの暗黒と嵐のようなアストラルの衝動を宇宙から一掃することが必要なのだ。

「地球上の人間の生活を考えてみれば、...実際に有害で、生命を妨げるアストラルな存在、アストラルな形態が数多く生じていることを認めることでしょう。人間自身から絶えず、誤った、卑しい、邪悪な思考が流れ出し、これらは...アストラル界に流れ出る...彗星や流星の性質を持つものは、常に有害なアストラル生成物をすべて自分の周りに集め、それらを惑星系から排除しようと努めている。」(シュタイナー)

 このように、霊的な力の中心は、宇宙の有害なアストラルを引き寄せる核を形成し、そこに集めて濃縮し、鉱物にさえなってから、彗星がその任務を終えて消えるように、惑星宇宙からより高い霊的領域の「無」へと変容して運ばれていくのである。現代の天文学でも、彗星が現れることを "出現apparition. "と呼んでいる。

 彗星はどこから来て、どこへ帰っていくのか。

 彗星は天文学定量的な計算に基づいて、非常に偏心した楕円軌道を描き、数年から数百万年まで幅広い軌道周期を持つことが分かっている。スワン彗星の公転周期は11,597年と予測されており、長周期彗星であることが天文学者によって示されている。

 だが、ルドルフ・シュタイナーは、ハレー彗星のように実際に楕円軌道を描くのは短周期彗星だけかもしれないと指摘している。しかし、大半の彗星には軌道がないのである。彗星は計量できない霊的な力として発生し、我々の宇宙で物質化し、その後そこを出て、より高次の存在領域である、現れることのない世界に帰っていく。宇宙空間の "向こう側 "に物質的天体として存在し続けるわけではない。現代の天文学では、証拠はないが、短周期彗星はカイパーベルトの一般的な領域で発生すると考えられている。スワン彗星のような長周期彗星は、オールトの雲という、カイパーベルトの外側から最も近い恒星の途中まで広がる球状の「粒子」の雲が起源と考えられている。現代の天文学は、長周期彗星は、宇宙の果てにあるオールトの雲から太陽に向かって運きだしている可能性があると主張しているのだ。

 下の図は、カイパーベルトオールトの雲天文学的に構築したものだが、これらについてほとんど知られていない。太陽系を包む球体としてのオールトの雲を、じっくりと眺めてみてみよう。これを「粒子」からできているという物質的な視点からではなく、精神科学的な視点から考えてみると、そこから彗星が現れ、私たちの計測できる星系に旅をする「包み込む雲」は、私たちをより高次の意識存在に導くイマジネーションとなり得るだろうか?

 今、宇宙をマクロコスモスの人間として考え、ミクロコスモスである私たちがそれと結びついているとすれば、惑星の領域の中に上昇する意識の領域を見ることができる。意識は存在と関連していなければならないので、私たちがほとんど無意識に加わっているこれらの高次の意識の領域は、存在の領域とも表現され、階層(ヒエラルキー)として知られ、さまざまな時代の文化に従って名前が付けられている。私たちが最も意識しているのは天使という存在かもしれないが、天使の意識の先にも、上昇する存在の領域がある。これらの私たちの肉体と人類の進化に直接関わっているものたちは、私たちの専門用語で「王座トローン」と呼ばれる「意志の精霊」まで上昇するものである。彼らは私たちの最初の始まりを開始し、私たちの中の鉱物、骨格系の基礎であり、土星の領域に現れている。外側の惑星は、私たちの存在と進化、人間の霊的オーラの中で、未来に向かって働きかけ、さらに異なる関係を持っている。

 太陽系外縁部では、12星座の大きな環に出会うが、この環を通して人間の形がつくられ、私たちの「自我」の形が表現されるのである。シュタイナーによれば、真の「自我」そのものは、黄道帯の向こう側に起源を持つ。しかし、これらの周縁の外に存在する階層のランクには、さらに二つの意識圏があり、それらは我々の用語では、セラフィムとケルビム、愛の霊と調和の霊と呼ばれるものである。ルドルフ・シュタイナーは、彗星は星や惑星よりも高い存在であるケルビムとセラフィムに支配されており、ケルビムとセラフィムによって「神の意志による使命」を帯びて太陽系に送り込まれると述べている。彼らの任務は、アストラル(意識)領域を浄化し、人類の進化に特別な刺激を与えることである。彼らは、私たちの進化に参加することなく、至聖なる三位一体の顕現に留まり、人類に新しいものをもたらす衝動を送ることができる、非常に高度な存在なのである。私たちの周りにある領域は、天文学では「オールトの雲」として物理的に表現されているが、この太陽系の外にある至高の意識存在の領域、「太陽ロゴス」との関係を見ることはできるだろうか。

 もし彗星がケルビムとセラフィムによって送られた「神の使者」であるならば、その使命は何なのか?愛と調和の霊によって送られたミッションが、どうして黙示録的と恐れられるものになるのだろうか。愛と調和が人類に黙示録的な恐怖と世界の崩壊をもたらすというのは、パラドックスに思える。しかし、"黙示録アポカリプス "という言葉は、"啓示 "という意味である。もちろん、現代の科学的な人間である我々は、過去の人類のように愚かな迷信に屈することはもうない。そうだろうか?彗星の出現は、今でも人間の魂に何らかの形で共鳴し、期待、恐怖、予感を生み出すのだろうか?彗星は、啓示、変化の新しい衝動をもたらすのだろうか?変化や新しい衝動は、もちろん恐怖や不吉なものを煽ることがある。それは、私たち自身を見ればわかることだ。人類一般にも同じことが言える。新しいものが歓迎されることはまずない。ほとんどの場合、それは抵抗され、時には恐ろしい力と暴力をもって抵抗される。古いものにしがみつき、戦い、時には絶望する。人間だけでなく、霊的存在の領域でも、霊的進歩と進化のための新しい衝動は、猛烈に反対される。霊的な用語でルシファー、アーリマン、アスラと呼ばれる反対勢力は、人類を霊的目標に向かって進歩させるものではなく、別の世界秩序を求めている。

 シュタイナーは、このような問いかけに対して、ある重要な発言をしている。「彗星は、ちょうど霊的生の大きな可能性が人類に開かれる時に地球にやってくる。」「彼らはセラフィムとケルビムによって、極めて明確な衝動をもたらすために、物理的な存在世界に直接派遣される」(Elisabeth Vreede, Letter, June 1929)。「宇宙における進化の進行を正しく維持するために必要な、エレメンタル的な性質のもの、かき立てるもの、ある条件下では、それが彗星の性質である」(シュタイナー、1910年3月5日)。

 その意味で、彗星は進化の流れの中に送り込まれる時期によって、独自の目的を持つ。シュタイナーが自分の時代から語っている例のひとつに、ハレー彗星がある。彼は、ハレー彗星のような短周期の彗星と、周期性はないが、進化を前進させる新しい衝動を送るという特定の任務をもって現れる長周期の彗星との区別を指摘しているのだ。ハレー彗星については、その目的が、帰還の際に「自我」のさらなる発展に必要な進歩的な衝動から、帰還が遅くなり、進化を別の方向に導こうとする敵対的存在によって次第にその任務から遠ざかり、有害なものとなったという進化が描かれている。ハレー彗星の本来の目的は、17世紀から19世紀にかけてヨーロッパの思想界を支配し、自然科学の大発展をもたらした啓蒙主義、すなわち「理性の時代」を準備することであった。

 この「理性の時代」の衝動は、より物質的に世界を理解するために、宇宙に対する霊的な概念から自我を追い出すという彗星の使命であった。これは、キリストの衝動を完全に把握できるようになるためには、自我の進化に物理的な面を完全に取り込むことが必要であるという点で、進歩的な動きであった。シュタイナーは、彗星の出現が、進歩する自我のための新しい能力の発達を助けるのに適した特定の器官を、肉体とエーテル体に発達させる、とまで言っているのである。新しい肉体とエーテル体の器官!?ハレー彗星では、意識的な魂の発達を促すための器官であった。このように、私たちはこれらの彗星の目的の神秘を想像することができる。一見、恐ろしいもの、破壊的なものに見えるものも、実は、最高の領域からの高次の進化的な使命を果たしているのかもしれない。

 では、スワン彗星とその直前のアトラス彗星がもたらす特別な衝動とは何なのだろうか。

 私はアセンションの記事の中で、シュタイナーが20世紀半ばから現在である第3千年紀にかけて起こるアブラハム時代の新たな反転をどう表現したかを話した。シュタイナーは、人間を、脳と肉体的存在に結びついた思考(理性の時代を頂点とする)へと導き、意識魂の時代から霊我の発達と新しい思考-霊視へと向かうにつれて、今発展してきている新しい自然な霊視へと更に導く進歩の反転を述べている。彼はこう言っている。

「私たちは、人類を、単に物理的、感覚的な熟考から、物理的、感覚的な記号の結合から、もう一度遠ざける道を歩んでいます...私たちは、人間が自然の霊視能力、自然の霊視能力の条件に入ることができる道を進んでいるのです。」

 

 彗星の出現が「自我の進歩的進化に適した微細な器官...」を生み出し、彗星が「この進歩した自我が使うことのできるような肉体的、エーテル的器官を獲得する」ことを意味するとしたら、スワン彗星は何を意味しているのだろうか?物質主義的な時代から進化を進めるために、現代に必要な自然な霊視、新しい思考につながる特定の「微細器官」の発達を可能にするのだろうか。そして、そこからどのような反発が予想されるのだろうか。対立する霊的存在たちの活動の中で、人類はどのような形をとるのだろうか。

 現在起きている宇宙的な出来事の全体を把握し、この彗星の出現をその文脈に位置づけることができれば、おそらく私たちの時代にとっての意義が見えてくるのではないだろうか。この宇宙的な出来事には、土星木星冥王星の非常に珍しい会合や、この3つの惑星を取り巻くいくつかの惑星配置、そして2020年12月に接近する大接合などがあり、新しい告知というテーマを担っている。しかし、大きな光は大きな影を生み、過去を維持し、目標に向かう進化を抑制するために、対立がこれまで以上に強く生じることも知っておく必要がある。

 この意味で、人間の生活と同様に、地上の生活におけるすべての変化や移行は、何らかの形で闘争や苦難、死さえも伴う......あるいは、カタルシスと言うこともできる。カタルシスとは、新しいものが生まれる道を開くために、私たちや世界の中にある古いものの痛みを伴う死以外の何ものでもないだろう。カタルシスはイニシエーションそのものと同じくらい古いもので、イニシエーションに必要な部分である。古い自己は、新しい高次の自己が生まれるために死ななければならない。これは霊性開発の道であり、低次のアストラル本性を、私たちの中に聖なる霊が誕生するための純粋な容器へと変容させることであるそれは "私ではなく、私の中のキリスト "の道である。それが新しいイニシエーションなのである。

 コロナウイルスの大流行は、これらの彗星と何か関係があるのだろうか?パンデミックは医学的な問題なのか、それとも生物学的な要素を触媒としたイニシエーション的な問題なのだろうか。私は疫学者でもウイルスの専門家でもないが、現代科学が彗星について言っていることとウイルスについて言っていることには興味深い類似点があり、さらに研究し考察する価値があるように思われる。

 NASAによると、2019年7月現在、既知の彗星は6,619個あるそうである。別のNASAのサイトでは、既知の彗星は3,638個とされています。天文技術の進歩で発見される彗星が増え、その数は着実に増えているようだ。しかし、これは潜在的な彗星群のごく一部でしかない。カイパーベルトには数十億個、遠いオールトの雲にはさらに多くの彗星が存在する可能性がある。彗星に関する知識は、肉眼や双眼鏡で観測できるごく稀な彗星を除いて、すべてこれまでのデータからの推測によるもので、知覚によるものではない。

 ヒトのウイルス群、すなわちヒト生体に存在するすべてのウイルスは、まだ完全に解明されておらず、新しいウイルスが頻繁に発見されている。一般的なヒトのマイクロバイオームに含まれる約40兆個の細菌とは異なり、健康な成人に含まれるウイルス粒子の数はまだ推定されていないが、自然界では一般的にウイルスが個々の細菌よりも10:1で多い(ウィキペディア)。これは、ウイルスを粒子として物質的に見た場合、潜在的に約400兆個のウイルスが存在することを意味する。

 現在のCOVID-19ウイルスは、遺伝物質の集合体であるRNAウイルスである。このため、突然変異を起こしたり、適応したりすることが可能であると同時に、地球の環境の変化に適応するために宿主のDNA物質の進化を動かす役割を果たすという意味で、変異原性または適応原性を有している。適応遺伝子のウイルスは、環境条件が進化・変化したときに、ヒトや動物の新しい生活環境に適応するようにDNAを助けるため、生命を維持するための重要な要素となっている。過去にある種が生き残り、ある種が絶滅した背景には、このウイルスの適応性があると推測されている。

 COVID-19の「目的」という問題を物理科学的なものだけで見てみると、もしかしたらもっと深い精神的な関係を考えることができるかもしれない。もし、すべての物質的プロセスの背後に意識が働いているとすれば、そして、ルドルフ・シュタイナーから彗星の霊的意識と意図を理解するとすれば、COVID-19の霊的意識と意図は何であろうか同じ目的を、より破壊的に見える形で果たしているのだろうか?それはもしかしたら、地球の影、あるいは彗星活動の鏡のようなものだろうか(上のようなもの、下のようなもの)?シュタイナーが彗星を「自我の進歩的進化に適した微細な器官」と表現しているように、彗星がもたらす死や恐怖は、より大きな枠組みの中で、地球における新しい使命の産物であり、もしかしたら創造ですらあるのか

 これらは、彗星の使命を考えるときに出てくる疑問であり、また、パンデミックという大きな使命をめぐって、多くの人が抱えている疑問でもあると思う。彗星やパンデミックという出来事が、新たな進化のステップに進むことになるのかどうかは、あらかじめ決まっているわけではなく、私たち人類がこれらの出来事にどう向き合うかにある。過去の対立勢力、古い権力構造、古い考え方、古い社会形態は、来るべきものに抵抗するのだろうか。もちろん、抵抗することはないだろう。私たちは今、長く偉大な戦い、あるいは人類のカタルシス/イニシエーションの始まりにいるのだ。以前、「グレート・コンジャンクション」についての記事で、このグレート・コンジャンクション山羊座の星に入ることを話した。2020年以降の3サイクル(3×60年)は山羊座に留まり、2199年に新時代の星である水瓶座に入る境界まで、このグレート・コンジャンクション山羊座で繰り返し、この星座の大宣言のテーマを担っていくということである。山羊座は、イニシエーションの星座である。この星座はまた、太陽の存在が、硬化させる低次の地球/月の存在と戦った、天における偉大な戦争の記憶と、そのダイナミクスを伝えている星座でもある。それは、ミカエル勢力が全面的に関与した戦いであった。その結果、太陽の存在が勝利し、秘教では古月期と呼ばれる進化の大きなサイクルの終わりに太陽と地球/月が再会し、英知の宇宙がもたらされたのである。未来への戦いは、愛の宇宙の長期にわたる創造のために行われる。私の考えでは、この間の惑星の出来事も、今回の彗星も、新しいパンデミックも、すべて大転換期の第一段階である。それは、シュタイナーが、彗星との関連で、この特別な構成で、私たちを第6文化時代に導く「宇宙における進化の進行を正しく維持するために必要なある条件」と述べたものである。

 

    ジョナサン・ヒルトン

    2020年5月26日

 ジョナサン・ヒルトンは現在、アメリカのアントロポゾフィー協会ニューヨーク市支部の評議会会長を務めています。彼は40年以上にわたって、さまざまな形でアントロポゾフィーに取り組んできました。彼の仕事には、ウィリー・スーチャーによって開発されたアントロポゾフィーから生じる星の叡智への新しいアプローチ、特に新しい太陽の神秘への道としての1年のサイクルに重点を置いたものがある。

獣の世界的イデオローグ

ユヴァル・ノア・ハラリ

 シュタイナーは、現代の危機の根源は、人類が唯物主義的思考に染められていることにあると見ていた。唯物主義的傾向は、人類の進化の上で必要であったのだが、その進化を阻止しようとする霊的勢力の働きもあって、人類は、唯物主義の奈落にそのまま落ち込んでしまうようになったのだ。
 今は、霊などを語れば、「オカルト、トンデモ」とされ、おおかた否定的反応が返ってくる。唯物主義的傾向をもった本や情報が多数派であり、世のベストセラーも、ファンタジーや小説ではなく学術的著作であるなら、「唯物論的科学」にそったものが主流である。
 本来は、物質的世界は真の世界の一面でしかないのだが、そうした本により物質的世界しか存在しないと思わされているのである。そしてその背後に、そうさせている力が働いていると考えることもできるのだ。 

 今回は、『ヨーロッパ人』誌からイスラエル歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏に対する批判的論稿を紹介する。

 ハラリ氏は、世界的ベストセラー『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』、『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』の著者である。日本でもよく売れた本なので、知っている人も多いだろう。

 私自身は、その名前と彼の本については新聞の広告で知ったくらいで、その本を読んだことはない。ただ、人智学系のトランスヒューマニズムに関する本を少しかじったときに(途中で挫折中)、ハラリ氏の名が出てきて、世界的ベストセラーなのに彼の本が批判的に語られているので、当時は少し不思議に思ったものであった。

 その後、トランスヒューマニズムのつながりでグレート・リセットなどの言葉も知るようになり、一緒にコロナ問題の周辺を追っていると世界経済フォーラム(WEF)なる名前が頻繁に目に飛び込んでくることとなった。そこに共にハラリ氏の名も登場するようになって、ようやくその辺の事情が分かってきたところである。

 ハラリ氏は、WEFのアドバイザーを務めているのである。

―――――――――

獣の世界的イデオローグ

 イスラエル歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは、人間の本質とその未来について、現在、世界の思想市場を席巻しており、今、世界で最も影響力のある知識人の一人とみなされている。世界中の有力政治家が顧問として相談し、「世界経済フォーラム」では、人類の未来がどこに向かっているのか、あるいは向かっているのかを解説している。彼は、人類の歴史を完全に唯物論的に、高等動物の純粋な生物学的・心理学的過程とみなしている-彼らの神々は想像の中にのみ存在する-。しかし、人工知能遺伝子工学との融合により、エリートは「ホモ・デウス」にまで上り詰めるが、大勢は役立たずで、余分な存在になってしまうだろう。

 人類の未来は、人工知能やバイオテクノロジーなど、これまで以上に高度な技術を開発することで、これまでの仕事をどんどん代替することが可能になり、ほとんどの人が役に立たない、余分な存在になっていくというハラリの説は、前回**ですでに扱ったとおりである。21世紀初頭になると、"単純に人口の大部分はもう必要ない "という時代になっているというのだ。

 世界的に強いインパクトを与えているユヴァル・ハラリとは、どのような人物で、どのような考え方を持っているのか。

 

類人猿からの進化

 ハラリは歴史書『A Brief History of Mankind(サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福)』で世界的に有名になったが、この本は全世界で2300万部以上売れたという。人類の始まりから今日の「地球の支配者」までの発展を、純粋に外的な、唯物論ダーウィン的な方法で記述しているのだ。Wikipedia1がその概要で書いているように、250万年前に人間のような生物が6種類存在し、そのうち生き残ったのは1種類だけだった。現在のホモ・サピエンスは、約15万年前に東アフリカのサル科から進化したが、その歴史は7万年前の認知能力の発達から始まったばかりである。- この発達は、純粋に物質的な観点から、しばしば新しく特異な解釈で記述されている。

 人は、時間データも、類人猿からの子孫説も、解釈も、知見ではなく、仮定、推定、信念であることを認識しなければならない。動物が次々と高度に発達し、最終的に類人猿から人間への移行を観察できた人はいない。猿と人間の身体的な類似性から、ある時点で猿から人間へのさらなる発展があったと推論されているにすぎないのだ。-

 しかし、動物は、人間の連続的な発達の様々な段階で、心魂的な一面性として分離されて残った、最後として類人猿が、ということも考えられる。(訳注)

 

(訳注)人智学では、人間が進化するために捨てられた人間の性質の一部を担った存在が動物であると考えている。例えば、人間が知恵を得るには、馬を放出する必要があったという。

 

 もちろん、これは1つの主張に過ぎないが、多くの人々の行動がこれを明白に思わせるものであったとしても、猿に由来するということの明確な知識は存在しないことを示しているのである。

 ハラリは、無機自然界では感覚的に知覚できるプロセスが、同じく感覚世界に属する関係によってのみ条件づけられているのに対し、有機自然界ではそうではない、という科学理論上の基本的な事実を無視している。生物は感覚的に知覚できる物質的なプロセスから理解し説明することはできない。生物において、形、大きさ、成長、動き、行動など、感覚的に知覚できる条件は、感覚的な世界で知覚できる原因によって条件づけられているわけではない。それらは、感覚的なプロセスの上にある高次の統一体の結果として現れるのである。

 生物は、生命力だけでなく、感覚的には直接感知できないが、その影響が感覚世界に現れる魂的な力、霊的な力によって支配されている。例えば、植物の生命力は、周囲からくる物質を、すべての物質が受ける重力の力に逆らってまっすぐ成長する形へと強いる。物質が勝手にこのような形になることはありえない。

 さらに、動物には本物の魂の力が浸透しており、それが外側の運動器官を追い出して、魂の経験の内部空間を形成し、感覚器官を通じて外界と関わり、外界の印象に反応するのである。物質が自力でここまで上がってきたというのはありえないし、観測されたこともない、純粋な迷信である。

 人間の中には、さらに高い力、つまり霊的な「自我」の力があり、それが、身体を水平から垂直、直立に引き上げ、それによって地上の重力の力をできる限り取り除き、思考器官を持つ頭が、いわば自由に身体を運び、使うことを可能にしているのだ。死んだ物質がどのようにして直立し、どのように動くのというのか2

 今日の動物や人間の生体は、それらを構築し、その中に働く超感覚的な力によってのみ説明できるように、人間や動物の進化も、物理的に知覚できる生物に働くこの超感覚的な力からのみ理解できるのである。

 ハラリは、人間が発達させた思考力を、言語的に効果的に定式化された次の文章により特徴づけている。

「我々は世界を支配している。なぜなら、我々は、神々、国家、貨幣、人権など、我々の想像の中にしか存在しないものを信じることができる唯一の動物だからだ」3.

 このように、「人間動物」の思考は、純粋に主観的なものであると主張される。人を惑わせる誤りは、ハラリが2つの全く異なるタイプの概念を同一視していることにある。神という概念は、人間の外にある知覚可能なものを指す知識概念であり、国家、貨幣、人権という概念は、人間を通してしか生まれないもの、つまり知覚されるものとして先ず造り出さなければならないものを表わす道徳概念、行動概念である。後者は、当初は人間の主観的な想像力の中にしか存在しない、つまり純粋に主観的な構成物であることを示唆し、それを同一視することによって神々の概念にも移行しているのである。

 神々は人間の想像の中にのみ存在し、現実には存在しないという判断は、昔の人々も現代人と同じように、原則として神々を認識していなかったであろうという知識を前提としている。なぜ、そんなことがわかるのか?ハラリは証拠を示さない。現在の人々の意識の状態を、過去の状態に無反省に投影し、そこから現在のものが発展してきただけというのは、まったく歴史的ではないのだ。

 しかし、道徳概念や行為概念の主観性も根拠のない主張である。人間はそれらを発明するのではなく(どこからそれを得るのか?)、共通の理念の世界から直感的にそれらを把握する。すべての人間は、その世界の客観的な意味と、実りある、あるいは実りのない現実への参照へと昇り、他の人々と一致することができるのである。思考の内容は客観的であり、それを生み出す活動は主観的である。

 概念や表象を主観的と呼ぶのも、基本的には全く馬鹿げている。ハラリは、自分の思考の結果には客観的な妥当性があると主張している。彼の、概念からなる理論の内容は、概念そのものに適用され、その理論を打ち消すのだ。

 

ホモデウス

 ユヴァル・ハラリ氏は、1000万部を売り上げた別の本で世界的なセンセーションを巻き起こした。『ホモ・デウス-明日の歴史』では、動物である「人間」の未来について、唯物論的なビジョンを描いている。人類はやがてその支配力を失うだけでなく、「人類」という言葉自体も意味を失ってしまう。これは必然的なことだという。

「私たちの大好きなSFの世界では、自由と個人主義の名のもとに機械と戦う人々がいるが、現実には、こうした人間の神話は、カセットレコーダーや雨乞いの踊りのように、とっくに時代遅れになっていることだろう。心配に聞こえるかもしれないが、変化とは常に恐ろしいものだ」4

 自由と個性、精神的存在としての人間、自己決定する自由な個性としての人間は、このように、現実には対応しない主観的な想像という意味で神話となるのだ。ハラリによれば、「人間」はその知性にもかかわらず、コントロールされた動物であり、そのことを彼は次のように詳しく説明している。

今日の脳科学は、人間の思考や行動が脳内の電気化学的なプロセスの結果であることを教えてくれる。これらの知見から、個人の自由な意思決定というイメージは誤りであるという結論に至る5

 この主張を神経科学者やハラリス自身の理論に当てはめると、この理論の思考は脳内の電気化学的プロセスの結果であり、したがって意識の外では現実に対応していない、強制的に生成された主観的観念であることを意味する。その理論そのものが有効性を打ち消してしまうのである。それに従えば、ハラリは、実際にすべての講演と著作を止めることができる。それは何の意味もないのだ。

 それとは別に、この理論自体ももちろん根本的に間違っている。脳内で電気化学的なプロセスが思考と時間的に並行して起こっているという事実から、脳内のプロセスが思考の原因であると躊躇なく結論づけることはできない。ある小さな脳のプロセスがこの概念を引き起こし、別のものがその概念を引き起こし、第三のものが両者の因果関係を引き起こすという認識は、誰も証明することができない。これは最初から無理な話なのだ。

 脳内物質も、どのようにして自分や他人のことを考えるようになるのか。彼の思考について誰もが観察できるのは、それが彼自身の活動によってもたらされたものであり、その内容から、たとえば原因という概念と結果という概念とを非常に具体的な関係に持っていっていることである。これは、脳内で行われるプロセスとは全く無関係に行われる。思考は、脳内の電気化学的なプロセスに基づくのではなく、論理的な、つまり、魂・霊的な内容そのものに基づく魂・霊的な法則に従うプロセスなのだ6

 脳の物質的プロセスを思考の原因として説明するのは、地球上の足跡を、下の地面から上がってきて足跡ができるような力から説明するのと同じくナンセンスである。

 魂・霊的な思考のプロセスは、思考内容とは無関係な痕跡を脳に残し、それらは、鏡越しに見るかのように人間に認識させるのである。そして、思考は「自我」の魂的霊的活動によって生み出されるため、「自我」の意識も同時に発生する。「自我」の霊的本質は、思考の中で、その能動的な産出者として見出だされるのだ。しかし、「自我意識」は、思考活動の痕跡が脳に刻み込まれることによって初めて現れるのである。

 物質的な偏見を克服できず、偏りのない思考の観察ができない人は、それゆえに人間の「自我」を見出すこともできず、動物の物質的なコントロールを空想してしまうのだろう。

 しかし、ハラリに見られるように、これは社会的に悲惨な結果をもたらす。彼は、現代のコンピュータ技術を手本に「有機アルゴリズム7と呼ぶ脳内の「電気化学的プロセス」が、「非有機アルゴリズム」によって補完または置換され、それにより管理システムが「最適化」される未来を予測し、さらにそれを宣伝しているのだ。

 

機械動物

「今日、私たちは、人間と違って意識の影響を受けない、新しい形の知能を持った機械を開発している最中である。機械が私たちを凌駕するようになるのだ。その結果、人間は代替可能な存在になる。非有機的なアルゴリズムが決してうまくできないことを、有機的なアルゴリズムができると信じる理由はない。結局のところ、21世紀の新しいテクノロジーは、個人の力を奪い、代わりに人間以外のアルゴリズムにその力を委ねることができるのである。その結果、大量の役に立たない人間と、最適化された少数の超人のエリートたちが生まれるだろう。」8

 つまり、人間は人間性を失って生物学的機械となり、「意識に影響されない」「新しい知性の形態」に従うようになるのである。なぜなら、純粋に技術的、機能的なアルゴリズムが人をコントロールする機械には、それを道徳的に検証し拒絶するような意識はないからである。また、人間がプログラムしたものであっても、それによる生じる結果は完全に見通せるものではない。マイクロプロセッサのメーカーにしても、「自社のマイクロプロセッサがどのように動作しているのか、細部まで知ることは文字通り不可能」になっている。現代のコンピュータは、人間の理解を超えており、何千何万というそのような機器をつなぐインターネットについては黙するしかない。9

 人間は、人間以外の、魂のない衝動にただ従うだけではいけない。人は、まずそれを、彼の思考のコントロールと道徳的責任の管轄の下に置かなければならない

 ハラリは、彼のシナリオの社会的帰結を次のように説明している。

第一に、人々は完全にその価値を失うこと、第二に、人々は集団としての価値を持ち続けるが、個人の力を失い、代わりに外部のアルゴリズムによってコントロールされること。しかし、システムは、あなたが自分自身のことを知る以上に、あなたのことをよく知っていて、そのため、ほとんどの重要な決定をあなたに代わって行うだろう。それは必ずしも悪い世界ではなく、ポストリベラルな世界となるだろう。」

 西洋キリスト教の知的発展に根ざした基本法によれば、人間の価値は、その無形の尊厳に表れ、それは、精神的・道徳的存在である人間が、本来、自己の知識から自己の行動を自由に決定し、そこで人格を発展させるようにできていることからなる。

 人間は、この尊厳、自己決定的な個性としての価値を完全に失うべきである。なぜなら、ハラリによれば、人間は精神的・道徳的存在ではなく、集団として、群れとしてのみ価値を持ち、その中でシステムに役立つ機能としてのみ利用される動物だからである。監視によって、自分自身よりもよく知っているシステムの決定に従うだけでいいのだ。システムとは誰であろうか?

「...ある人々は、必要不可欠であると同時に解読不能であり続けるだろうが、最適化された人々という小さな特権的なエリートを形成するだろう。これらの超人は、前代未聞のスキルと前例のない創造性を持ち、世界の最も重要な意思決定の多くを行うことができるようになる。彼らはシステムに対して重要なサービスを提供する一方で、システムはそれらを理解し指示することができないだろう。しかし、ほとんどの人間はそのような“アップグレード”を経験することなく、結果として、同じように新しい超人や、コンピュータ・アルゴリズムに支配された下位カーストとなるだろう。人類を生物学的カーストに分けることは、リベラルなイデオロギーの中心的な柱を破壊するだろう。10

 機械アルゴリズムによって「最適化」された、前代未聞の能力を持つ「超人」のエリートがシステムを支配し、他者には理解も解読もできなくなるのだ。一方、大多数の人々は、機械や機械に最適化された超人たちが支配する「生物学的」な下位カーストを形成することになるのだ。-

 しかし、もし彼らがその前代未聞の能力を、自分でも完全には理解していない機械のアルゴリズムに負っているとしたら、彼らもまた他者にコントロールされているのではないだろうか?それも最終的には誰がコントロールするのだろうか?

 

展望

 ハラリは、機械に制御され、基本的に完全に自動で行動する自我のない動物-人間の未来像を描き、その全体が、全体の制御が闇に包まれたままの大きな機械の社会を形成しているという。

 これほど過激で、これほど公然と表現された人類への攻撃はない。その残忍な反人間的システムにおいて、国家社会主義ファシズム共産主義といったこれまでの集団主義的強制システムを原理的に凌駕しているのだ。

 人類発展上の血縁や他の集団による制約から徐々に解放され、自由に自己決定することになる霊的な自我存在としての人間の最大の支援者は、福音書記者ヨハネが、存在するすべてのもの、したがって人間の創造者として描写しているキリストである。キリストの神的な自我という存在の生きた姿が、これまですべての人間の中に入り込んでいたので、キリストはそのことを、次のようにユダヤ人に思い起こさたのである。

「あなたの律法に(詩編82編6節)、“私は言った、あなたがたは神々であると”と書かれているではないか」 (ヨハネ10章)そう、彼は、基本的に人間を自分と同じレベルに置くのである。

「もはや私はあなた方を下僕とは呼ばない。下僕は主人のしていることを知らないのだから。父から聞いたことはすべて、あなたがたに知らせたのです。」(ヨハネ15章)

 キリストは、人々が本来の認識に到達し、その結果、完全な内的独立を得ることができる可能性を開いたのである。

「あなたは真理を知り、真理はあなたを自由にする。」 (ヨハネ8)

 これに対し、ヨハネは預言的黙示録の中で、深淵から立ち上がる「獣」というサタン的で反キリスト教的な存在を描いている(黙示録13章)。ヨハネが「獣」と呼ぶのは、それが、人間という神聖な被造物を獣に変え、それによって創造主の意図した発展を自分の4支配下に置こうとするためである。

 彼の仕事は、もちろん、人々を暗示的に鼓舞し、唯物論的な幻想の論理で、自分は実は動物に過ぎないのだと信じさせることができる限りにおいて、最も成功するのである。ユヴァル・ハラリが「超人」あるいは「ホモ・デウス」と呼ぶものは、「神人」ではなく、実は動物の亜人、完全な動物人間であり、キリストが人間に対して意図したものの悪魔的なカウンターイメージなのである。「深淵からの獣」が動物としての人間を、歯車として機能しなければならない冷たい魂のない社会的機械の中に押し込めるのに対して、キリストは、自分自身を意識している霊的人間を、自己決定と自由をつかむように導こうとする。しかし自由は、すべての被造物を貫く愛を通してのみ、社会的共存において治癒的な効果を展開させるのである。

 人々は、どのような発展を自ら目指すのか、誰に従うのか、重大かつ運命的な決断をますます迫られるようになるだろう。

 

 ハーバート・ルートヴィヒ

* 2022年9月23日、ファサードスクレイパーに掲載された記事である。

《注》

1 人類の歴史を簡単に説明する。ウィキペディア

2 詳しくはこちら:「機械としての人間-正統派医学の唯物論イデオロギーとその影響」(『ファサードクラッチ』2022年4月8日号)。

3 人類略史 - ユヴァル・ノア・ハラリ(ynharari.com)。

4 ホモ・デウス - ユヴァル・ノア・ハラリ (ynharari.com)

5 ウィキペディアに見るホモ・デウス(その3)

6 ルドルフ・シュタイナー:『自由の哲学』第III章、第IX章参照。

7 「アルゴリズムとは、ある問題または問題のクラスを解決するための行動の明確な処方箋である。アルゴリズムは、有限個の明確に定義された個々のステップから構成される。" (ウィキペディア)

注5として8

9 Paul Emberson: From Gondhishapur to Silicon Valley, vol. I, pp.220-221.

10 から引用した。ザ・ヨーロピアン』25巻2/3号(2021年12月・2022年1月)、ヴィンセント・ヴァン・ヴリーズ「中国の健康独裁」、31頁。

―――――――――

 本来、人間は神的存在である。万物そのものが神から生まれたという意味では万物に神性が宿っているのだが(仏教でいえば「仏性」だろうか)、人間は、「神々に似せて」造られた特別の存在なのである。だからといって自分のエゴのために他の存在に苦痛を与えたり、破壊したりして良いというとこでは決してない。むしろ、それらに対して責任を負うのである。

 その特別の証が、人間の自我である。それこそが、本来神界につながるものなのである。それを獲得するためには、今の物質世界とその物質世界を認識する能力が必要であったのだが、そのため利己的で物質界に耽溺する自我の性向も生まれてしまったのだ。

 霊的進化の道は、再び、この神性、霊性を取り戻すことなのだが、一方でそれを阻止しようとする霊的勢力も存在する。シュタイナーの人生は、この勢力との戦いの一生であったのかもしれない。

 今、この対抗勢力により、唯物主義が極度に押し進められてしまい、人類は自分の故郷を忘れてしまっている。その中で、人間を一種の動物にすぎないとする人間観・世界観が支配しているのだ。それは、今や、人から心も奪い、単なる生物的機械とみるまでになっている。

 闇の霊達を率いるアーリマンは、今、自身の受肉を準備しており、世界をそれにふさわしい社会にするため、様々な影響を地上世界に及ぼしている。その1つが、出版物である。アーリマンは、その様な本の著者にインスピレーションを与えているという。その本の実際の作者はアーリマンなのである。

 

 さて話は脱線するが、陰謀論界隈では、コロナに続く世界的危機として食糧不足が指摘されている。最近、「ロシアのウクライナ侵攻」で食糧の危機なる宣伝もされているが、食糧が危機的状況にあるのは現実である。ただ、それはロシアの責任と言うより、その原因は、気候の問題であったり、ロシア制裁による肥料不足、食糧関連施設やサプライチェーンの破壊であったりするのだ。(この辺はよくInDeepさんが取り上げている。地球の最期のときに - In Deep 

 最近は、オランダ政府が、EUの厳しい環境規制を遵守し、窒素排出を削減するため、最大3,000カ所の農場を閉鎖しようとしているというが、これも気候変動への対策と言いながら、食糧の危機の方は増大させるものであろう。つまり「気候変動問題」がその危機を押し広げていると言えるのだ。

 ここでハラリ氏だが、ウィキペディアによると、「彼はヴィーガン(乳製品等も摂らない完全な菜食主義者)でもあり、動物(とりわけ家畜)の置かれている深刻な状況を指摘し、“工業的に飼育されている動物たちの運命は(中略)我々の時代における最も逼迫した倫理上の問題のひとつである”とする。また"サピエンス全史の執筆を通して、動物たちが食肉産業や酪農産業でどんな扱いをされているかということに詳しくなった。私はとてもぞっとして、それ以上そのようなことに加担することはしたくないと思った。" “家畜の飼育を始めたことが人類の最悪の罪だ。”と述べているという。」

 確かに現在の特に、大規模な家畜の飼育方法には問題があることは、人智学派の人々も指摘している(動物に不要な苦痛を与えると、その影響が動物のアストラル体に残ってしまう)。それはそれで解決すべき問題なのだ。

 しかし、「気候変動問題」で酪農を目の敵にしていることには奇異の念を感じえない。上のオランダでは、当然だが農業者達は大反対であるし、当面の食糧危機が予想されるときに今強行すべきこととはとても思えない。ひょっとして、このような主張をする人々には、ハラリ氏のような「動物愛護精神」があるのだろうか?

 人類史的には、農業や牧畜は人口増や文化発展に寄与した偉大な発明である。秘教的歴史では、それには秘儀参入者が貢献しているという。確かに、霊的進化のためには、肉食は避けた方が良いのだが、人々の嗜好もあるし、当面の健康維持にはむしろ必要かもしれない。それを、酪農を廃止して、人工肉や昆虫を食べろというのはどういうものだろう。そこに隠れた意図はないのだろうか?

 最後に、ハラリ氏について、アントロウィキの記事で知った事について触れておきたい。それによれば、彼は、長年、仏教に由来するヴィパッサナー瞑想を実践しているというのだ。そして「彼の二元論的世界観を背景に、彼はこの「精神的な旅」を物質世界の束縛から抜け出すための適切な方法と見なしている」とし、次のような彼の言葉が紹介されているのだ。

二元論は、人々に、これらの物質的な束縛から抜け出し、 私たちにはまったくなじみがないが、私たちの 本当の故郷である霊的世界に戻る旅を促す。... このような二元論的な遺産があるため、俗世の慣習や取り決めを疑い、未知の目的地に向かって旅をすることを「スピリチュアルな旅」と呼ぶのです。

ユヴァル・ハラリ:ホモ・デウス、253fページ。
 私はこの本を読んでいないので、上の引用文の真意はわからないが、この文章をそのまま解釈すれば、彼は、スピリチュアル思想に一定の理解があると考えることができる。これは、彼の唯物主義的立場と一見矛盾するようにも見えるが、どのように関係しているのだろうか。またアントロウィキが、この部分を紹介している意図も気になるところである。
 ただ、いずれにしても、彼の言うスピリチュアルは、シュタイナーのスピリチュアル(真の霊性)とは似て非なるものであろう。
 シュタイナーは、霊肉二元論ではなく三元論(肉体・魂・霊)の立場であり、これが歴史的に二元論に変遷した経過の背景に闇の霊の働きを見ている。肉体ー霊(あるいは魂)の二元対立は、人間の真の本性に対する理解を困難にしてしまうのである。
 唯物主義的傾向をもったものではなく、真の霊性に関する認識を伝える本や情報が、今求められている。シュタイナーは、やがて人智学の本が街中で手軽に手に入る状況にならなければならないと語っていたという。日本で言えば、文庫本としてコンビニで売っているような状況であろう。既にシュタイナーの一部の著作は、実際に日本で文庫本化されているが、まだまだシュタイナーの思想が一般の人達に浸透している状況にはない。人智学派には、アーリマンに負けない活動が求められている。

キリストと菩薩

 本年もよろしくお願いします。

 さて、今年はうさぎ年ということですが、うさぎは洋の東西を問わず縁起の良い動物とされており、飛躍や災害回避などの意味があるようです。その通りの年になれば良いのですが、どうも混迷が更に深まりそうな気配があり、不安も覚えます。
 しかし、シュタイナーは、恐れや不安を抱くことの無意味さ、マイナス面を説いています。恐れや不安を抱かないようにすることが大事だというのです。そのため、「私たちは、来るかもしれないすべてのものに対して、絶対的な平静さをもって前向きに考えなければならない。そして、どんなことが起きても、それは知恵に満ちた世界の導きによって与えられたものだとだけ思わなければならない。それは、私たちがこの時代に学ばなければならないことの一部である・・・」という、瞑想のための言葉を残しています。

 今は、悪が支配する時代のようですが、悪は、そもそも人間が霊的に成長するためにこの世に現われたものであり、実際、逆境を乗り越えることで人は成長します。シュタイナーは、英智に溢れた霊的存在の導きを信じて、勇気を持って、また平静な心で世界の荒波に向かっていかなければならないとしているのです。
 今年も、心が鍛えられる年になりそうです。そのために役立つ情報を今後も発信していければと思います。 

   さて、新年最初の記事は、キリストと菩薩の関係を巡るものです。

             *     *     *
 「キリスト教芸術におけるブッダ」で、ブッダ及び仏教のキリスト教への影響をみた。(釈迦)ブッダは涅槃後、地上に肉体を得ることはなく、霊体の状態で引き続き人類の指導にあたってきたのだが、ルカ・イエスの誕生にも関わっていたのであった。イエスを取り巻くオーラの中に仏陀が存在したのである。

 この項目の③では、ウルビーノの聖母子像を紹介した。それは、仏教の影響を感じさせる不思議な絵であった。聖母子を囲むオーラ(光背)にイエス・キリストの12弟子が配されているのである。

k-lazaro.hatenablog.com

 その絵について、最後に「シュタイナーによれば、キリストを取り巻き、キリストの教えを人間に伝える12の菩薩(ボディサットヴァ)が存在するという。この絵からは、その東洋的雰囲気により、この12の菩薩も連想される。秘教において、“菩薩の総体”はソフィアと呼ばれるが、マリアは時にソフィアとも呼ばれるのである」と書いたが、今回はこれに関係する論考を紹介したい。

 

 その前に、「菩薩」という言葉について簡単に補足しておきたい。ウィキペディアには「菩薩とは、ボーディ・サットヴァの音写である菩提薩埵(ぼだいさった)の略であり、仏教において一般的には、菩提(bodhi, 悟り)を求める衆生(薩埵, sattva)を意味する。仏教では、声聞や縁覚とともに声聞と縁覚に続く修行段階を指し示す名辞として用いられた」とある。簡単に言えば、仏陀になる前の段階にいる修行者なのである。ただ普通の修行者ではなく、特に将来仏陀になることを定められた者とも言えるようである。

 この意味での菩薩はあくまでも人間なのだが、複雑なのは、すでに悟りを得ているにもかかわらず、自身の成仏を否定し、衆生の救済のため活動する菩薩もいるのだ。「これは仏陀自身の活動に制約があると考えられたためで、いわば仏陀の手足となって活動する者を菩薩と呼ぶ。この代表者が、釈迦三尊の文殊菩薩普賢菩薩である。彼らは、釈迦のはたらきを象徴するたけでなく、はたらきそのものとして活動するのである。他にも、観世音菩薩、勢至菩薩なども、自らの成仏とはかかわりなく、活動を続ける菩薩である。」(ウィキペディア

 こちらの菩薩となると、それ自身が信仰の対象ともなっており、むしろ神霊的存在として人間を超越していると言えるだろう。

 このように菩薩は、不思議な位置づけをもっているのである。

 

 ブッダがキリストと関係するように、菩薩も関係する。このことを論じたのが、オーストラリアの人智学者、エイドリアン・アンダーソン氏である。彼は、やはり「ウルビーノの聖母子像」をもとに論じているのだ。今回は、彼の著書『Rudolf Steiner about Leonardo’s Last Supper, the Zodiac and the cosmic Christ』から関係部分を紹介する。この本は、もともとキリストの12弟子と天界の12の星座(黄道十二宮)との関係を、レオナルド・ダヴィンチの「最後の晩餐」を元に論じているのだが、それに関連するテーマとして取り上げられているのである。

―――――――――

第六章 弟子と菩薩:ウルビーノの菩薩像

神秘的な絵画

 イタリアに、12弟子と東洋の知恵の菩薩のテーマについて考えさせる、実に驚くべき難解な絵画が存在する。この「菩薩」という言葉はサンスクリット語で、ヒンドゥー教や仏教で神聖視され、深く崇められている存在を意味する。深く神聖で、慈悲深い魂、半神的な存在とみなされ、さらに進化して仏になる、つまり高い悟りの境地へと旅立つ高尚な魂なのだ。しかし、その慈悲は、高次の世界での至福の存在を捨て、地上を訪れ、人類が悟りの道を見つけるのを助けるほど深いのだ。

 しかし、イタリアにあるこの絵の隠された秘教的な意味を十分に理解するためには、特に最近の修復作業で傷んでいるため、慎重に探索する必要がある。鑑賞してみよう。・・・人は、当然、これを東洋の絵画とみるでだろう。これは、ヒンドゥー教、あるいは仏教のいかなる女神だろうか?あるいは、この人物はいかなる霊的徳を表わしているのだろうか? というのも、この人物は擬人化、つまり精神的な資質の象徴である可能性があるからだ。手がかりは与えられている。東洋美術で「ムドラ」-手や体のしぐさで、見る人にその女神の主な特徴を伝えてるもの-と呼ばれるものを示しているからだ。彼女が示しているこのムドラは、「ヴィタルカ・ムドラ」と呼ばれるものです。このムドラは、菩薩に課せられた課題である討論や教育の意味での「教示」または「教育」を意味しする。・・・

 そして、彼女の頭の周りには、一種のオーラが形成されており、我々は、12人の菩薩を見ているようである。東洋の経典の中には、12人の菩薩がいると説くものがある(例えば、8世紀初頭の中国の経典『円覚経』《あるいは『完全な悟りの経典』》)。ルドルフ・シュタイナーは、12人の菩薩がいると教えたが、これらは12星座の影響を反映していると結論づけるのが妥当だろう。いずれにせよ、12という数字は、東洋の宗教において菩薩と関連している。東洋の経典の中には、菩薩を取り巻く主人を形成する12の神々、菩薩が処方する治癒への12のステップ、または精神的な旅で行われる必要がある12のステージに言及するものがある。人智学からは、菩薩をどのように理解すればよいのだろうか。

 

菩薩たち

 まず、ルドルフ・シュタイナーがこれらの高位の人について語った2つの講義の抜粋をみてみよう。 

 菩薩とは、進んだ人間であり、完全に形成された霊我(訳注)を持ち、その人の中にブディあるいは生命霊の最初の閃光が発達している人です。菩薩は、その意識が、過去世から引き出された内なる知恵(そのことを知っている意識)に完全に貫かれている人間です。

(訳注)霊我とは、人間が霊的発達を遂げると生み出すことができるとされる霊体の1つ。アストラル体に自我が働きかけて変容したもの。生命霊はエーテル体が変容したもの。

 もし、非常に高度な人(菩薩)が、高次の世界での経験から得た霊性の新しい源を地上の領域に入れるように働かけないなら、人間はその生涯において、実際に霊性の潜在能力をさらに進化させることはできないでしょう。死と再生の間に、人間はより高いデヴァーチャン(霊界の一部)(理性の世界)へと昇っていきます。そこで人間は、もし彼が秘儀参入者であれば、より高い領域、彼自身が入ることのできない領域を見て、そこで高次の存在とそれらがどのように作用しているかを見ることができるのです。通常の人間が、肉体の次元からデヴァーチャン(霊界の一部)(死後に)までの領域で自分の存在を過ごすのに対して、菩薩はブディ(より高次の霊界)の次元、あるいはヨーロッパで我々が「摂理」の領域と呼ぶものにまで及ぶのです。

 そこで今、部分的に不明瞭なこの絵を見ると、この女性像は誰か、あるいは彼女は何を意味するのか、という疑問が湧いてくる。この東洋の人物は、12人の弟子たちとどのようなつながりがあるのだろうか。この疑問に答えるには、絵の全体像を見た上で、菩薩、聖霊、太陽神キリスト、12人の弟子の間の関連についてもっと知る必要がある。では、この絵は何であろうか。絵の全貌から明らかなように、これはキリスト教の芸術作品である!この女性像の両脇に、キリスト教の聖人が二人いることに驚き、これはインド絵画ではなく、西洋の芸術作品であることがわかる。特に、中央の人物の膝の上に、かすかにだが、幼いイエスの姿が見えるようになっている。では、この絵は何なのだろうか。1416年、イタリアのウルビーノにあるサン・ジョヴァンニ修道院で、ロレンツォとヤコポ・サリンベーニによって描かれた「洗礼者ヨハネの生涯」という大きな連作フレスコ画である。・・・

 どうしてそんなことが可能なのだろうか。キリスト教の宗教画が、たとえ控えめであっても、菩薩や女神、あるいはヴィタルカ・ムドラを持つ徳の擬人化を描くことができるのだろうか。実は、ルネサンス期の絵画には、キリスト教の高位秘儀参入者のインスピレーションを示す、深い秘教的な絵画が多く、サリンベーニ兄弟は、この不思議な現象において卓越した存在なのである。この二人の画家は、ラファエルやレオナルドと同様に、霊的な源からインスピレーションを受けて、神聖で深い秘教的なテーマを描いた。例えば、彼らは二つのイエス系図をテーマに驚くべき場面を描いた。ルネサンス期の書物には、これらの絵についての説明はない。レオナルドの「最後の晩餐」の背後にある思想と同様に、これらはキリストの秘儀の参入者からのインスピレーションによるものである。

 では、この絵には何が描かれているのだろうか。歴史的な視点からすると、我々が見ているのは、聖母マリアが、金色の輝きに包まれている幼子イエスを膝に乗せている姿である。一方、神の子羊を告げる巻物を持つのは洗礼者ヨハネであり、その左側には別の聖女が描かれている。彼女のヴィタルカ・ムドラの仕草は、実はいずれもイエスを直接指し示している。しかし、彼女自身は坐ったまま宙に浮いているように描かれている。・・・彼女のドレスには多くの星が描かれており、宇宙や星座の叡智を表しているように見える。彼女の頭の周りには、驚くべきオーラと光輪があり、その頂点には旗を持って凱旋するイエスが、残りの光輪は12人で構成されている。この12人は当然ながら12人の弟子と考えられている。

 さて、完全に形成された霊我が、古代ギリシャでは「ソフィア」の位として知られていることは、すでに見たとおりである。ルドルフ・シュタイナーは、「ソフィア」の位とは「私たちの世界の擬人化された全智恵である」とも定義できると説いた。したがって、ルドルフ・シュタイナーが、「菩薩は、私たちの世界の擬人化された全智恵の器である」と教示したのは、非常に意義深いことだ。東洋と西洋の間のギャップが埋められようとしているのだ。また、彼は次のように説明している。

 霊我の段階に存在する霊性は、キリスト教の秘教的知識では、「聖霊」の現れと見なされていました。

 したがって、古い言語では、秘儀参入者、特に菩薩のことを「聖霊に満たされた者」と呼ぶのです。

 この言葉は、キリスト教以前の時代におけるこの言葉、あるいは非常によく似た言葉の用法を知ると、それほど驚くことではなくなる。例えば、ルドルフ・シュタイナーは、次のように説明している。

 小アジアでは、イニシエーションを受けた者は、その魂に何らかの『霊性』を有すると理解されていた。つまり、彼らは今、通常のアストラル性よりも高いものを持っており、さらに、この霊我の性質は聖霊に満たされていると理解されていたのです。

 しかし、我々のテーマに非常に関連することだが、別の機会に、そして間違いなく聴衆が驚いたのだが、ルドルフ・シュタイナーはこう説明した。

聖霊はまた、12菩薩の総体として定義することができます。

 ここに、秘教的キリスト教の根底にある、2千年以上にわたって作り上げられた人工的な障壁を取り除いた、コスモポリタンまたは非宗派的な見解を見ることができる。これらの啓示は、菩薩が宇宙的なキリストの現実の一部を形成していることを意味している。実際、ルドルフ・シュタイナーはこのことを詳しく説明している。ここで重要なのは、1909年10月25日に行われた彼の講義「キリストのインパルスと自我意識の発展」から、彼の言葉を考えてみることである。

 キリストは、宇宙の反対側、つまり、デヴァーチャンを超えた高次の領域から、人間の本性に効力を発揮するのです。キリストは、菩薩たちが地球の領域から離れるときに昇る領域、つまりブディ次元に作用します。彼らは、人類の教師となるために、自ら学び、知恵を得るためにそこに昇るのです。そこで彼らは、その領域の向こう側から降りてくる宇宙キリストに出会います。そして、彼らはキリストの弟子となります。キリストのような存在は、12人の菩薩に囲まれています。12人以上ということは言えません。12人の菩薩が自分の使命を成し遂げたなら、我々は、地球存在の期間を完成していなければならないからです。

 

キリストはかつて地上におられました。地球に降り、そこに住み、そこから昇られました。彼は、別の側からやってきます。彼は、12人の菩薩の中にいる存在で、彼らは地上に運ばなければならないものを彼から受け取ります。そこで、彼らは教師としてのキリストに出会い、彼を完全に意識するのです。菩薩とキリストの出会いは、ブッディ次元で行われます。人々がさらに進歩し、菩薩たちによって教え込まれた資質を発展させたとき、その領域に入り込むのに、より一層ふさわしい存在になるでしょう。その間に、人々は、キリストがナザレのイエスという人間の姿で受肉したこと、キリストの個性の真の存在に到達するためには、まずその人間の姿に理解を浸透させなければならないことを学ぶ必要があります。

 このように十二菩薩はキリストに属し、キリストがもたらしたものを、人類文明の進化における最大の衝動として準備し、さらに発展させています。私たちは12人とその中の13番目の者を見ます。私たちは今、菩薩の領域に昇り、12の星の輪に入りました。彼らの真ん中には太陽があり、彼らを照らし、温めています。この霊的な太陽から、彼らは生命の源を引き出し、その後、地球に運ばなければならないのです。

 上で起きていることは、地上ではどのように表現されるのでしょうか。それは、次のような言葉で表現できるように、地上に投影されるのです。かつて地球に住んでいたキリストは、この地球進化に衝動をもたらし、菩薩たちはそのために人類をあらかじめ準備し、そしてキリストが地上進化にもたらしたものを更に発展させなければならなかった、と。従って、地球上の絵は、次のようなものなのです。キリストは地球進化の真ん中におられ、[その周りの]菩薩はその先遣隊、従者として、キリストの仕事を人々の心と体に近づけなければならないのです。

 多くの菩薩は、こうして人類を準備し、キリストを受け入れるために人間を成熟させなければなりませんでした。人々は、彼らの中にキリストをもつには十分成熟していましたが、キリスト存在のすべてを認識し、感じ、意志するまでに十分に成熟するには、長い時間がかかるでしょう。キリストを通して人類の生命波に注がれたものを人類の中で成熟させるには、キリストの到来を人類に準備させた菩薩と同じ数の菩薩が必要でしょう。彼の中にはあまりにも多くのものがあるので、彼を理解するには、人間の力と能力は、増大し続けなければならないのです。人間の今の能力では、キリストの微々たるものしか理解できないのです。人間にはより高い能力が生まれ、それぞれの新しい能力がキリストを新しい光で見ることを可能にするのです。キリストに属する最後の菩薩がその仕事を終えたとき、初めて人類はキリストが本当は何であるかを理解します。その時、人間は、キリスト自身がそこに生きる意志に満たされるでしょう。キリストは、思考、感情、意志を通して人間の中に引き込まれるでしょう:その時、人間は本当に地上におけるキリストの外面的表現となるのです。

 生命霊が発達し始めた菩薩、あるいは聖霊の秘儀参入者を太陽神と結びつけるこれらの教えは、別の場所にある短い文章で肯定されている。

 菩薩はキリストの周りに集い、宇宙的キリスト-太陽神キリスト-を見つめるという深い至福を味わうのです。

 最後に、12人の菩薩の使命について、次のような言葉がある。

 人類の進化の過程で、新しい倫理的資質が生まれますが、そのような新しい能力が発達するたびに、まず偉大な人物によって地上に顕現されなければなりません...これにより、人間の魂に新しい能力が生じる可能性が生じます...この偉大な魂が菩薩なのです。これらの菩薩はどこから彼らの特別な高い精神的な資質を得ているのでしょうか。デヴァーチャンの上にあるブディ次元で上記の高い、これらの高次の集団の真ん中で王座にいる存在、彼らの教師であると同時に、すべての光と彼らに流れ込むすべての知恵の尽きない泉である存在...キリストです。

 私たちは、12弟子がそれぞれ黄道帯のエネルギーと深く結びついていることを学んだが、イスラエルの12部族が黄道帯であることもまた明らかである。ルドルフ・シュタイナーは、創世記26章4節でアブラハムに語られた「わたしはあなたの子孫を天の星のように多くする」という言葉(これはもちろんイスラエルの12支族を指している)が、実際にはこれらの支族が黄道帯の力の反映であるという意味であると説いている。ルドルフ・シュタイナーは、「天の星のように」というのは、実際には「黄道十二宮の12星座に従って」という意味だと説明しているのだ。イスラエルの支族と弟子達は共に、宇宙的キリスト実在の一部なのである。

 

 ルドルフ・シュタイナーはこのことを強調していないものの、単に「...そして12個の星の輪に入った」(ここでの強調は私、AA.)と述べているが、12菩薩自身は星座の影響の器である。しかし、これは、彼が以前に一度、黄道について使った省略された表現である。

 このように、人間は毎晩、宇宙全体、惑星の動き、星座と自分を結びつけている...毎晩眠りにつくと、人間は12の星すべての中で自分を体験するのである。さて、これらの経験は非常に複雑である...あなたが、獣帯の星座のたった一つの中で経験することは...

 ゆえに、12人の弟子は12人の菩薩に、そして両者は黄道帯につながると理解することができる。どちらも太陽神の謎の一部であり、それによって黄道帯のロゴスにもつながっている。それが、宇宙的キリスト実在であるから。これらの可能性は、ウルビーノの驚くべき絵画作品に関連している。

 

ウルビーノ絵画の秘密

 明白なレベルでは、当時のローマ教会が要求していたように、イエスを膝に乗せた聖母マリアと、彼女の頭の周りにいる12人の弟子たちが描かれ、イエスは再び勝利の身振りで描かれている。しかし、秘教的なレベルでは、そこに聖霊が存在している、ソフィア位階、あるいは菩薩の霊我意識を擬人化した人物像がエーテルに浮かんでいるのである。これこそが、神聖な人間であるイエスの魂の「母」、つまり母体なのである。それは、ラザロ・ヨハネ(訳注)がイニシエーションによって到達し、そして後にイエスの十字架においてより高いレベルへと引き上げられたのと同じ聖霊、あるいは霊我状態である。これが、ヨハネによる福音書(19:25-27)の十字架刑の描写が触れていることである。

(訳注)シュタイナーによれば、ヨハネ福音書の作者であるヨハネとは、キリストにより蘇ったとされるラザロに他ならない。彼は、イエス・キリスト磔刑の場所に、聖母マリアと共にいたのである。

 

ヨハネ19:25 イエスの十字架のそばに、彼の母、母の妹、クレオパスの妻マリア、マグダラのマリアが立っていた。

19:26 イエスはそこにいる母親と、近くに立っている愛する弟子を見て、母親には "親愛なる女よ、ここにあなたの息子がいます "と言い、

19:27弟子には "ここにあなたの母がいます "と言われた。そのときから、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。

 

 ルドルフ・シュタイナーは、十字架の下の場面は、通常の人間的なレベルでは、イエスがマリアの世話をラザロ=ヨハネに託しているが、秘教的なレベルでは、イエスが自身の存在の一部である神のソフィア性質または聖霊性質をラザロ=ヨハネに授けたことを語っていると明らかにしている。この解釈は、福音書の中で、ヨハネが、イエスの母を決して「マリア」と呼んでいないこと、なぜなら彼はソフィアまたは霊我性質を指していることからも、肯定される。この絵は、彼女の頭を取り囲んでいる、この神的な聖霊の実在の中にいる12人の菩薩を描いているのである。彼らのインスピレーションは、その現存の中で彼らが崇拝の念を抱いている、より高次の存在である。つまり、ここでは力を獲得した存在として描かれているイエス・キリストである。そして、赤ん坊のイエスが大人になったとき、菩薩のすべての教えの源であり、すべての知恵である彼は、求めているすべての人のために、聖霊あるいはソフィア性質への道を開くという偉大な使命を引き受けるのである。

 

 ここで考えてきたことから、12弟子がすべて12菩薩の器となるかどうかという疑問が生じる。私は、これがこの状況の真実である可能性が非常に高く、ルドルフ・シュタイナーがこのことを確認しているように見える、と結論づけた。彼は、仏陀ゴータマ・シッダールタがキリストの謎と非常に密接に結びついていることを明らかにしているからである。聖ルカ福音書の講義の中で、ベツレヘムの最初のクリスマスの夜、羊飼いたちが体験した、天使たちの喜んでいる不思議な光景は、実はゴータマのニルマンカヤ(あるいは霊我)に関連する霊的光輝の一部であったと明かしている。このことは、12人の弟子たちが、一種の「天の軍団」として宇宙的なキリストを取り囲む、栄光の12人の菩薩の一部であることを事実上確証しているのである。

――――――――

 以上の文章を理解するには、多くの予備知識が必要であり、私も十分に理解しているとは言えない。

 秘教で言うキリストの「母」とは、ソフィアであり、それは霊化され、聖霊に満たされたアストラル存在でもあるのだ。そして、「聖霊はまた、12菩薩の総体」でもあるという。
 しかし、一方で、菩薩はキリストから霊感を受けて、それを人類に伝える指導者でもあるという。
 つまり、一方で聖霊の一部を構成する霊的存在とされ、他方で、「地上で」人類を導く教師とされているのだ。この菩薩の両義性を理解するには、更に研究が必要である。
 ただ、文章全体を通して、キリストと仏陀、菩薩との間には、神秘的な深い関係があることが感じ取れただろう。

 ところで、前に挙げた菩薩の他に、弥勒菩薩という菩薩がいる。仏教の教えでは、ゴータマの入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、衆生を救うとされる菩薩である。実は、この菩薩にはついては、人智学派でも色々論じられているのだ。シュタイナーによれば、この菩薩は、実在し、未来においてキリスト存在の真の意味を人類に伝えるとされているからである。

 菩薩であるので、時々地上に暮らしているはずであるから(世紀毎に地上に受肉しているようである)、それは誰なのかという議論があるのだ。当然、シュタイナー自身がその候補者の一人となるのだが、シュタイナーはそれを否定したという。

 しかし、秘教においてマスターと呼ばれる者達は、「菩薩」であるとも考えられるのである。