k-lazaro’s note

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二人の子どもイエス-神殿の出来事 ③

ドゥッチオ「神殿の12歳のイエス

 「二人の子どもイエス」に関わるテーマとして「神殿の出来事②」を書いてからだいぶ時間が経過してしまったが、今回は、ようやくその第3回目となる。

 「二人の子どもイエス」というのは、イエスには、マタイ福音書の伝える子どもイエスと、ルカ福音書の伝える子どもイエスの二人が存在したという、近代においては初めてシュタイナーが明らかにした真実をいう。

 この二人のイエスは、幼年期を終わった時(12歳の時)に起きた、ルカ福音書に書かれている「神殿の出来事」を経て、一人となったのである。これが、シュタイナーが明らかにしたキリスト教における重要な神秘である。

 それは、しかし、それまで全く隠されてきたのではない。キリスト教界の一部とその意図をふまえた芸術家達により、密かに芸術作品の中に表現されてきたのである。それを明らかにしたのが、デイヴィッド・オーヴァソン氏の著作『二人の子ども』とヘラ・クラウゼ=ツインマー氏の『絵画における二人の子ども』である。

 「神殿の出来事」については、導入として、これまでオーヴァソン氏の著作に基づき述べてきたが、今回はクラウゼ=ツインマー氏の著作に触れることとする。

 

 これまで触れたオーヴァソン氏の主張は、簡単に言えば、神殿の出来事は、一種のイニシエーションであったとするものである。古代宗教では、選ばれた者に密かにイニシエーション(秘儀参入)が行なわれてきた。それは、神殿の奥深く等の神聖な場所、秘密の場所で行なわれ、人の魂的・霊的実体が身体を離れ霊界に赴くというものである。そのまま霊界に留まるのが、人の死であるが、イニシエーションの場合は、そこで得た認識を持ってまた身体に戻ってくるのである。

 ただ、イエスの神殿の出来事は、もちろん、これがそのままあてはまるものではない。共通するのは、人間を構成する要素、実体が分離し、新たなものが生まれたということである。

 

 先ずこのことを前提として、二人の子どもイエスにおいて何が起きたのかをこれから見ていくこととする。

 

 ヘラ・クラウゼ=ツインマー氏は、このことに関連して先ず概略次のように述べる。

 この神殿の物語はルカ伝にのみ伝えられている。それは、ルカ伝第2章41節以下(この部分は、②に掲載されている)にあり、神殿での12歳のイエスの話が語られている。

 イエスが12歳になった時、両親に連れられ、過越の祭のためにエルサレムへ行ったが、帰る際に両親とはぐれ、3日後に神殿で見つかった。神殿でイエスは、教師たちの真中にいて対話しており、聞く人々はみな、イエスの賢さやその答えに驚嘆していた。両親はこれを見て驚いた、という物語である。

 この文章を読んで感じるのは、両親にとって奇異なことが起きたということである。両親が以前の経験からは全く考えられなかった彼らの息子のふるまいに驚いているのである。また、迷子になり親に心配を掛けながら、やってきた親に対して。彼は、疎遠な感じをもたせてもいる。

 「全く明らかに、この出来事は、イエスのこれまでの幼児時代の物語から逸脱するものである。イエスは無関心で冷たいような心情をもって、両親が心を痛めて彼を捜していたことを無視しているように見える。彼の答えは謎に満ちており、何か重要なことが生じたに違いないことに気付かせる-それは、変容、それ以前にその子どもに見られなかった意識の突然の覚醒である-。」

 つまり、迷子になっている3日間のうちに、その子どもはすっかり様子が変わっていたのだ。子どもが学者達と対等に話ができるほどに賢くなっていたのである。そして、その親に、まるで「他人」に対するような親しみのない態度を見せたのである。

 

 クラウゼ=ツインマー氏は、ルカ伝のこの部分を、ルドルフ・シュタイナーの語っていることをふまえて、次のように説明する。

 「2人の少年はナザレにおいて友達として一緒に育った。ルカ・イエスは生まれてすぐナザレに戻り、マタイ福音書のイエスは、エジプト逃亡の後に初めてナザレ(Nazare,Nasirä)の入植地に両親と共に移り住んだ。」

 ルカ福音書でもマタイ福音書でも、イエスが生まれたのはベツレヘムであるとしていることは同じであるが、実はその後の物語が異なっている。誕生時に、イエスを拝礼したのは、ルカ福音書では羊飼いであり、マタイ福音書では王あるいはマギ達である。一般的に我々の知るイエスの誕生物語では、羊飼いと王が一緒に出てくるのだが、両福音書ではその片方しか出てこないのだ。更に、マタイの子どもは、ヘロデ王の迫害を逃れるためにエジプトに逃亡するが、この物語は、ルカ福音書には出てこない。イエスの住まいはナザレと言われるが、マタイの子どもがナザレに住むようになるのは、逃亡先のエジプトから戻った後なのである。そこで二人の子どもは出会い、友達となったのである。

 2つの福音書の記述のこのような違いが、そもそも二人の子どもイエスの存在を示しているのである。

 

 当時は、過越しの祭でエルサレムに行く習慣があった。双方の両親は、他の多くの巡礼者達と毎年行っていたが、しきたりにより、彼らは、彼らの子ども達を、およそ12歳になった時、初めて連れて行った。そこで、あの霊的ドラマが神殿において起きたのである。それは、次のような出来事であった。

 「ソロモン系の子供において、高次の成熟と目覚めた精神的力を小さい時から示していた人格(存在)が、その器たる体を去り、他の子供の魂へ移った。同時にそれは、既に少年達が交流を深める中で、ずっと、長い間知られることなく、少しずつ実行され生成してきたもののクライマックスであった。今、成長と生成を成し遂げる中で、人が持ちうる最高の精神的能力が、ナタンの少年の体と生命と魂の器の天的実質に働きかけ、作用し、自身を刻印しなければならなかったので、ソロモン少年の自我-力が、その高次の知性を他の魂の純粋で天使のような器に注ぎ込んだのである! それにより、命の木と智慧の木から生成し別れた潮流が一緒になって、『至高の父の子』、創造する世界ロゴスにふさわしい肉体の家を建てる前提条件を作り出したのである。それは、30歳から33歳までの間[1]、神的炎の力に耐えることができる家というだけではなく、同時にまた神の力に貫かれた知・情・意に合わせて整えられた、最高の純粋性と精妙さを備えた道具である。」

 ソロモンとは、ユダヤダヴィデ王の息子の一人で、王位をついた者である。彼は、高度な知恵の所持者として知られる。ナタンとは、ダヴィデ王のもう一人の息子で、祭司職を代々受け継ぐこととなった一族の祖である。マタイの子どもは、ソロモンの系統に、ルカの子どもはナタンの系統に属する者なのである。

 二人の子どもイエスは、このように、ダヴィデを同じ祖とするが、その次の代で別れた別々の先祖をもっているのだ。そしてこのことを、2つの福音書に記載されたイエスの2つの系図が端的に表わしている。その2つの系図は、ダヴィデまでは同じ先祖をたどるが、その次の世代から別々の名前が続くのである。ここでも、聖書自体が二人のイエスの存在を示しているのである。

 

 このように神殿の出来事は、ソロモン・イエスの個我が、ルカ・イエスの体に移るという、神秘的な出来事だったのである。それは、クラウゼ=ツインマー氏によれば、イエスの「洗礼における最高の行いのための前奏、予行でもあった」という。

 というのは、イエスは、30歳の時に、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けるのだが、この時に、イエスの個我(ソロモン・イエス)はその肉体を出て行き、代わりにキリスト霊がその体に降ったからある。正しくイエス・キリストとイエスが呼ばれるのは、この時からなのである。

 

 クラウゼ=ツインマー氏の説明は続く。

 「神殿での12歳の場面で、私達は、『二つが一つになる』という古い言葉が成就する瞬間を見る。

 この出来事の後、自我の去ったソロモン少年は衰え、すぐに亡くなる。ルカ少年の若い母もまもなく死んでしまう。とても年を取っていた彼女の伴侶がこの頃同じようにこの世から去っていたソロモン系のマリアとナタン系のヨセフは、自分たちの家族と共に一緒になる。従って、ソロモンのマリアは、他の子ども達の他に、「実体」としては彼女の子どもである(あるいは彼女の子ども「でも」ある)が、外形的には今や、継(まま)子とみなされるべき少年の母親に再びなるのである。」

 

 二人の子どもイエスの秘密を密かに伝えている絵画については、これまで、一見同じ聖家族が描かれているようで、詳しく見てみると、別の2つの家族、つまりマタイのイエスとルカのイエスの家族が描かれたものであったり、マリアとイエスの聖母子像にもう一人の子ども(マタイのイエス)が描かれていたりというような絵画を見てきた。それらは、常識的思考では、何の問題も含んでいないように見えるのだが、二人のイエスという考えを持って注意してみると、その真の姿を現わす絵画であった。

 では、この神殿の場面についても、その様な絵画は存在するのだろうか。存在するのである。オーヴァソン氏もクラウゼ=ツインマー氏も、それを示す絵画を挙げているのだが、先ず、引き続き、クラウゼ=ツインマー氏の本から紹介しよう。

 

 その様な絵に入る前に、クラウゼ=ツインマー氏は、そのような秘密を隠していない、といことは、ルカの文書に書かれているもののみを説明している絵を例として示している。

 それは、ドゥッチオ(1255-1319年)の絵である(上図)。

 「神殿の中庭、あるいは玄関ホールにいる少年と、彼の話を聞いている6人-左右にそれぞれ3人-の髭をつけた祭司達を描いている。左からマリアとヨセフがやってきている。彼らの身振りには、驚きと、探し当てた幸運が混じった多少の非難を見ることができる。『どうしてこんなことをしてくれたのです。私達は、3日間もあなたを捜していたのですよ。・・・』そして少年は、それに動じず、彼らに対して彼のふるまいの必然性について教えている。ジオット(スクロヴェーニ礼拝堂)、あるいはションガウアー(コルマール)、彫刻作品としてはティルマン・リーメンシュナイダー(クレーグリンゲン)とその他の多くの者の作品の光景も同様である。」

 神殿の出来事の秘密とは、ルカが語っていないことにあるのであり、これらの絵が、ルカの記述にただ忠実であるということは、いかなる秘密も含んでいないということである。これらに対して、同じ出来事を描いていながら、秘密を内蔵している絵があるのだ。

 その様な絵としてクラウゼ=ツインマー氏が先ず挙げるのは、ベルゴニョーネ(約1450—1523年)のミラノの絵である。

 通常は、二人のイエスなどと言う考えは異端であるので、あからさまにそれを分かるように描いたのでは、作者はその命に関わるので、大抵は偽装している。あるいは、あいまいな表現にとどめているものである。

 しかし、この絵は、見た者を最初からその謎に直面させる。なぜなら、1つの画面に明確に二人の子どもイエスが存在しているからである!

 

 この絵の解説は④に続けることとする。