k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

キリスト教芸術におけるブッダ①

福音書を朗誦している聖ヨサファト(12世紀のギリシアの写本より)

 このブログの主なテーマの1つである「二人の子どもイエス」という考えは、シュタイナーの「キリスト論」の一部を構成するものである。今回は、シュタイナーの「キリスト論」で論じられている別のテーマについて述べてみたい。

 シュタイナー及び人智学にとって、キリストは、特定の宗派により崇拝される神というより、宗派の枠を超える普遍的な存在であり、その意味では、キリスト教信仰の対象でありながら、それを超えた存在である(その本質を宇宙的キリストと表現する人智学者もいる)。自然科学が自然を支配している法則を探求するように、キリストは、人智学=霊学において探求されるべき、霊界の中心的存在なのである(それは同時に、人類の進化を導く存在であり、人類の理想でもある)。

 特定の宗教を超えるということは、逆にそれらを内包しているとも言える。かつてキリストは太陽神であったのだが、古来、世界の多くの宗教は、太陽を神聖視しており、その意味では、キリストを知っていたのである。人類史において様々な宗教が生まれてきたが、キリスト以前の宗教は、キリストに収斂し、また後の宗教はそこから滋養をえて新たに生まれてきたのだ。

 「万教帰一」という言葉がある。同じ1つの宇宙に存在する限り、その宇宙の根本に存在する法則や神霊存在は同じはずであるから、各宗教の違いは、その時代や地域、民族の状況の別に基づくもので、人間の方のそのおかれた条件による違いと考えるべきだろう。

  

 太陽霊であった高次の霊的存在キリストが、ナザレのイエスが30歳の時に、その体に受肉し、イエスは、イエス・キリストとなった。その後、イエス・キリストは、33歳の時にゴルゴタの丘磔刑を受け、死して、後に蘇った。そして今、キリストは地球霊となっている、とシュタイナーは主張している。

 キリスト霊は偉大な霊的存在であり、通常の人間が受け入れることのできるような存在ではない。特別な体が必要であったのだ。それを準備したのが「二人の子どもイエス」であり、この二人の子どもイエスが1つになることによってこそ、キリストを受け入れることのできる体、器ができたのである。それには、そしてそれが起きたのが、イエスが12歳の時の神殿での出来事によってなのである。

 この二人の子どもは、マタイ福音書とルカ福音書がそれぞれ述べている子どもである。同じくユダヤダヴィデ王の血筋であるが、二人はそれぞれ別の霊統に属する。マタイ福音書の子どもは、ゾロアスターの、ルカ福音書の子どもは、ブッダの霊統の下にあるのである(ゾロアスターとは、あのゾロアスター教の開祖のことであり、ブッダとは仏教の開祖のゴータマ・ブッダのことである)。

 このことからも、キリストの誕生に向けて、それまでの霊的潮流がそこに収斂していったと言うことが理解されるだろう。

 今回述べたいのは、このうちブッダとイエスの関わりである。

 ゴータマ・ブッダは、涅槃の境地に達して、以来、この世に再受肉することはなくなった。しかし、その後も、霊界から霊感を与えて人類を導いてきたのである。イエスの誕生という、人類の歴史にとって極めて重要な時にも、それに関わっていた。

 シュタイナーによれば、ルカのイエスの誕生物語で語られている、羊飼い達に出現した天使の群の中にブッダが存在していた。そして誕生後も、このイエスに関わっていたというのだ。

 

 さて、このようなことは当然、歴史的資料では確認のしようがない。

 しかし、一般論的に、仏教がキリスト教に影響を及ぼしたということなら、当然あり得ることである。仏教は、インドを発祥の地として、キリスト教のようにその誕生の地を超えて世界中に伝道されており、イエスの生きた時代にはエジプトに仏教の宣教団が滞在していたという。

 福音書のイエスの生涯の物語にも、仏陀との類似性が指摘されており、その他にも、両宗教には、教義や宗教的儀式、習俗等にも類似点が見られるという。

 このようなことから、仏教のキリスト教への影響を認める議論、研究が昔から存在してきたのである。

 

 例えば、ウィキペディアを見ると次のような例が掲載されている。

・1883年に、東洋学と比較宗教学の草分けであるマックス・ミュラーがこう力説している:

 「仏教とキリスト教が驚くほど一致していることは否定できない。そして、同様に仏教がキリスト教より少なくとも400年以上前に存在していたことも認められるに違いない。さらに、仏教が初期キリスト教に影響を与えた歴史的経路を誰かが私に教えてくれれば、私はきっと非常に感謝するだろう」

・19世紀終わりには、ルドルフ・ザイデルが仏教とキリスト教の寓話と教えの中に50の類似点を見出している。

・1918年、エドワード・ウォッシュバーン・ホプキンスは以下のようにさえ言っている。

 「結局、イエスの生涯、誘惑、奇跡、寓話、そして弟子までもが直接に仏教に由来するのだ。」

 また近年では、

・ブルクハルト・シェーラーは以下のように述べた:

 「福音書に対する仏教の強い影響に注意することが重要である[…]数百年以上前から、仏教の福音書に対する影響が知られ、両宗教の学者によって認められてきた。」

 彼はジョン・ダンカン・マーティン・デレットの研究『The Bible and the Buddhist』の結論に同意し、「私は多くの仏教説話が福音書に含まれていることを確信した」と書いている。

 

 更に、ウィキペディアでは、聖母マリア観音菩薩との関係も触れられている。

 「観音菩薩聖母マリア:中国学者のマーティン・パルマーは、おとめマリア(聖母マリア)と観音菩薩の類似性について述べている。観音菩薩はインドやチベットにおける男性のボーディ・サットヴァ、アヴァローキテーシュヴァラの中国名である。アヴァローキテーシュヴァラは、トルコへのネストリオス派の宣教の後、最初の一千年紀の間に中国で徐々に女体化が進んだ。台湾の仏教組織の慈済基金会もこの類似性に気付いていて、聖母子像に特に似せた観音菩薩と子供の図画を画家に注文している。」

 なお観音菩薩の関連については回を改めてまた触れたいと思う。

 

 以上のようなことからすると、仏教とキリスト教に間に何らかの交流、影響関係があったのは間違いないように思われる。では、この点に関してシュタイナーは、具体的にどのように語っているだろうか。

 先ず、シュタイナーは、「ブッダ伝承のキリスト教文学への興味深い混入」について指摘している。

 これについては、ヘラ・クラウゼ=ツィンマーの文章から引用する。

 「ルドルフ・シュタイナーは『マルコ福音書補説』第9講の中で次のように語っている。キリスト教の聖人とされるヨサファトのキリスト教物語は、ブッダの若年期の伝説を物語っている。ヨサファトはバルラムという名のキリスト教修道士に会い、キリスト信者となる。ヨサファト(その名は、ルドルフ・シュタイナーによれば、幾重にも改変されているが、本来は“ボディサットヴァ〔菩薩〕“に由来する)において、キリスト教的意識がブッダキリスト教へ導き入れている。歴史的ブッダについてはそのようなことは何も語られえないが、『そこから、仏教またはブッダの後の形がどこに求められるのかということについて人々が知っていたことが窺える。時が過ぎる間に、仏教はキリスト教と、隠れた世界において合流していたのである。』」(『絵画における二人子どもイエス』)

 ここにでてくるヨサファトのキリスト教物語とは、中世のキリスト教小説で、次のような物語である。(上図)

 インドの国王アベンネルは子ヨサファトがキリスト教徒になるだろうという予言を恐れるあまり、ヨサファトをあらゆる快楽に溢れた宮殿に閉じ込めてしまった。それにもかかわらず、彼は病者・盲人・死人に会うや真剣な考えを抱くようになり、陰者バルラムが商人に変装して訪れ、勧めたのに従いキリスト教に改宗してしまう。父は王国の半分をヨサファトに譲るが、ヨサファトはまもなく王冠を捨て陰棲し、父をも改宗させ陰者として没した。

 この物語は、聖歌作者としても著名な8世紀の神学者ダマスクスのヨアンネスが元々の編者とされる(11世紀のアトスのエウテュミオスとする説もある)が、明かにゴータマ・ブッダの伝説が元になっていると考えられるものである。

 中世のキリスト教界、キリスト教徒においては、無意識のうちにブッダの影響が受け入れられていたのである。

 さらにクラウゼ=ツィンマー氏は、このような事例が、美術作品にも見られるという。

 「美術作品の例に関しては、次のように補足することができるだろう。パヴィアPavia〔イタリア〕のシエルドーロCiel d’Oro のサンピエトロ教会堂(何より聖アウグスティヌスの遺骸がそこに埋葬されている)のように由緒あり歴史的に大きな意味をもっている教会では、(今は空となっている)ティンパヌム〔玄関上部の半円形部分〕の頂点には、ブッダの形姿-あぐらをかき、両手を太ももに置き、アジア的な幅広い顔と垂れさがった耳をして、大きな翼を持っている-をもった者が座っている。それは天使存在としてのブッダである。」

 残念ながら、クラウゼ=ツィンマー氏の本にこの像の写真は掲載されておらず、ネットで検索しても見つけることはできなかった。(これを知っている方があればご教示願いたい。)

 しかし、これとは別に、クラウゼ=ツィンマー氏は、『絵画における二人子どもイエス』に、ブッダとの関連を示すキリスト教絵画を載せて解説しているのである。

 これについて②で述べることとしよう。