k-lazaro’s note

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ルドルフ・シュタイナの現在の活動

 シュタイナーは1925年3月に亡くなったのだが、シュタイナーが自らの次の転生について語っていたことは、このブログの記事で以前触れられていた。今回は、これに関連する記事なのだが、以下の文章では人智学協会(運動)の歴史に関わる記述もあり、人智学協会の歴史についてある程度知識がないと理解するのが難しいと思われるし、そうしたことに関心の無い方にはあまり意味のないものかもしれない。また、私自身も、それらについてはまだよく把握していない状況である(まあ,今回だけでなく、これまでの記事についても、十分理解しているかというと心もとないのだが)。

 そのようなこともあり、実は、これを掲載するかは迷うところであったが、この問題について、日本では私が見た限り情報があまり伝えられていないようなので、問題提起の意味も込めて載せることとした。

 本文の前に、予備的情報をまず提示しておきたい。

 

 現在に至る人智学協会は、一度再編されている。つまり、当初の人智学協会は神智学協会から分かれて設立されたのだが、それは、現在の協会と組織的に異なるものである。最初の協会において、シュタイナーは、役員として位置づけられることはなかった。会員ですらなかったようである。しかし、その後、人智学運動は困難に直面し、結局、シュタイナーは、運動を立て直すために、新たに人智学協会を組織して、自らがその先頭に立つこととしたのだ。

 この間の経過ついて、ウィキペディアでは次のように説明されている。

 「協会の発展的解消と再編

 会員数の急激な増加と、それに伴う組織内の人間関係(方向性)の複雑化、人智学に基づく学校や病院などの関連組織の創立に伴う問題、さらには協会外で強まる人智学に対する反対運動により、人智学協会の組織は根本的な刷新を迫られる。とりわけ、シュタイナー自身の手によって設計され、人智学運動の中心となっていた木造のゲーテアヌムが放火によって1922年の大晦日に焼失したことは決定的な出来事であった。

 シュタイナーは1923年にヨーロッパ各国に自立した“邦域協会”を設立し、同年クリスマス期に、それらを包括する形での“普遍アントロポゾフィー協会”を約800名の会員と共に設立した(クリスマス会議)。この協会の設立に際してシュタイナーはアルベルト・シュテッフェン、マリー・シュタイナー、イタ・ヴェーグマン、エリーザベト・フレーデ、ギュンター・ヴァックスムートらと共に協会理事会を組織し、自身は創立理事長に就任する(このとき、中央経営陣である協会理事会はドルナハのゲーテアヌムに移されたので、以降同協会本部は「ゲーテアヌム」と呼ばれるようになる)。そして、この協会こそが“現存する”アントロポゾフィー協会なのである。」

 この説明は、客観的にはそのとおりなのだろうが、本質の部分では不十分であるように思われる。確かに、学校や病院などの関連組織の運営などの業務も加わり、協会の組織・運動が拡大したことに伴い、組織的、人的問題が生じてきたことは確かだろう。運動面、思想面、方向性の相違、対立も生まれたであろう。しかし、それらは協会が一端解散されることとなった本質的理由ではない。トマス・メイヤー氏などの指摘するところでは、結局、それは、当時の協会員たちのシュタイナーの意図に対する無理解だったのである。

 前の協会と後の協会との大きな相違は、それに対するシュタイナーの協会への関わり方にある。前者において、シュタイナーはその中で役員とはなっていなかったのだが、後者においては、その理事長に就任しているのである。

 前者の場合、それはシュタイナーの存在とは別に(もちろん緊密に連携するが)、自立的な組織が目指されたと言うことであろう(結果してそれは果たされなかった)。だが、後者は、シュタイナーと一体化した組織となったのである。これは、実は、秘教的には、シュタイナー自らが協会のカルマを引き受けるということなのである。

 しかし、これは、それまでの「霊界(霊的ヒエラルキー)」の意図にはないことであったという。シュタイナーの様な秘教のマスターは、公的な職についてはならないというルールがあるというのである。だから、あえて彼は最初協会に入ることもしなかったのだ。

 しかし、事態は切迫していた。このままの人智学協会(運動)が続けば、それまでの努力が水泡に帰すおそれが出てきたのである。それでやむなくシュタイナーは、方針を転換したのだ。それは、実際には、きわどいかけであったようである。「霊界(霊的ヒエラルキー)」がその後、どのように反応するかが分からなかったからである。

 しかし問題は更に続く、上に「クリスマス会議」という言葉が出てきた。それは、新しい組織を誕生させるための重要な儀式を伴っていた。ここでシュタイナーは、会員達の覚醒を促したのだ。

 だが、下の文章にもあるように、それはどうも失敗したようなのである。そしてそれは、シュタイナーの死後、協会指導部の内紛、マリー・シュタイナー、イタ・ヴェーグマンら旧指導部の追放という事態を生むことになる。

 この対立はやがて修復されたようだが、協会の以降の指導部は、クリスマス会議の失敗という認識に立っていないようである(メイヤー氏はこのことを批判している)。クリスマス会議の失敗を認めることは、以降存在してきた指導部の正当性に疑問を投げかけることになるからであろう。

 

 さて、以下の記事は、『ヨーロッパ人』誌2024年3月号掲載のものである。ダフネ・フォン・ボッホという方が著者だが、実際には、文章の多くは、トマス・メイヤー氏の著作から取られている。

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ルドルフ・シュタイナー-彼の存在と現在の活動についての質問

 

 最近ロシアで行われたアーリマンの受肉についての講演の際、私は何人かの聴衆から、ルドルフ・シュタイナーの現在の場所と現在の活動についてのさらなる情報を尋ねられた。私はこの質問に自分の言葉ではなく、トーマス・マイヤーの著書『巨人の肩の上の小人のように』からの引用で答えた。その中には、ルドルフ・シュタイナーによる現在の活動への言及も含まれている1

 これらの記述は、最初のゲーテアヌムが全焼した後、1912年から存在していた人智学協会を再び設立するというルドルフ・シュタイナーの考えから始まる。この出来事は1923年のクリスマス会議で行われ、今日では「あの」クリスマス会議として知られている。

 二重の角括弧内は、私が追加したものである。

ダフネ・フォン・ボッホ

 

 このルドルフ・シュタイナー人智学協会を再創立したこのクリスマス会議はどのように行われたのだろうか?1912年以来、シュタイナーが会員になることなく存在していた人智学協会が、新たに設立された協会の会長職を引き継ぐことになったのである!

 

クリスマス会議と地上のミカエル学校の前史

 前史は1923年の夏と秋に遡る。この年は、ゲーテアヌムの火災で廃墟と化した旧協会が、各国協会の設立によって再度強化されることになっていた年であった。このようにして、シュタイナーは麻痺した協会を「活気づける」-シュタイナーはかつてこう言ったように-ことを望んだのだ。

 D.N.ダンロップとエレノア・C.メリーが企画したペンメーンマウルのサマースクールで、シュタイナーはイタ・ヴェークマンに、協会の新たな設立が必要かもしれないとほのめかした。イタ・ヴェークマンが、設立すべき「新しい秘儀」についての質問を投げかけたのもこの場であった。

 しかし、シュタイナーはここ数ヶ月の各国での設立の進展に満足できなかったようで、すべての国を包括する国際的な協会を設立するという考えを持ち出さなくなった。このため、神智学協会が設立される1923年11月17日にハーグで開かれた会議で、-オランダの国内協会が設立されるとことになる-現実的な危機に直面した。ウィレム・ザイルマンスの証言によると、シュタイナーは打ちひしがれたようにホテルのロビーに現れ、一言も話さなかったという。「何かあったのですか」というイタ・ヴェグマンの心配そうな質問に対して、彼はこう言った。「メンバーは望んでいません......彼らは善意に満ちていますが......私はどうしたらいいのでしょう......?私はどうしたらいいのだろう......?」

 そこでシュタイナーは、自分が会員でもなく、ただそこで活動していただけの協会を放置し、新しい協会を設立することを控えようと真剣に考えた。憂慮したイタ・ヴェ-クマンは、その時、ペンメーンマウルで約束したことを思い出し、協会を離れないように頼んだ。それが転機となった。彼は、彼女が助けてくれるならと承諾した。別の日、オランダの全国協会が設立された。会長にはウィレム・ツィールマンスが就任した。...

 しかし、忘れてはならないのは、協会を再興し、会長職を引き継ぐという決断は、シナリオ1ではなく、シナリオ2【次善の策】だったということだ。そして、クリスマス大会の開幕前夜、シュタイナーは、まず開幕日の組織上の詳細を説明した後、この事実を思い起こさせ、この試みは、事態を十分に深刻に受け止めなければ、やはり自分が協会を脱退することになりかねない、と緊急に述べている。彼は、「事実は、物事は非常に、非常に真剣に、非常に真剣に、現時点ではとらえられなければならないということです。そうでなければ、人智学協会を脱退しなければならないという、私がしばしば口にしてきたことが実際に起こらざるを得なくなるでしょう」3 この言葉で、秘儀の形成の全サイクルは、締めくくられた。そしてこれらの言葉はまた、クリスマス会議への辛く深刻な前奏曲を形成しているのである。このサイクルでは、本当の意味で人類史上最も重要な秘儀について、惜しみなく説明されている。これらは、前章で述べた、超感覚的なスクールにおけるミカエルの偉大なイニシエートの教えの地上でのイメージなのである。

 強調しなければならないのは、1923年11月17日にシナリオ2が実現する直前、ルドルフ・シュタイナーが、クリスマス会議の開幕前夜にシナリオ1を思い出させていることである。それゆえ、このことは背景にあり、ゆえに、当初、それは実現しないままとなっているのだ。

 しかし、1924年の出来事の進展、とりわけシュタイナーの死後の進展を理解したいのであれば、当初実現しなかった協会のシナリオを忘れてはならない。それは真剣な意図であった。そして、秘儀参入者の真剣な意図は、精神的なゲームではなく、それが可能になったり必要になったりするときはいつでも、実現を待っているものなのである。

...

 

「クリスマス会議の衝動は打ち砕かれた。」(R.シュタイナー)

 AAG一般人智学協会内では今日に至るまで、一般的に完全に無視されている、確固たる基盤の上に成り立っている旧会員による様々な声明がある。その内の、1924年の晩夏、すなわち晩夏の最終日[1924年9月20日]に閉会したドルナッハの振り返りの最後の7時間の頃のもの二つを取りあげよう。

 最初のものは、オイリュトミストのマリア・イナ・シュウルマン(1894-1977)が書いたもので、彼女は、有名な人智学者で青少年向けの本の著者であるヤコブ・シュトライト(1910-2009)と会った。

 シュトライトの報告によれば、「1950年代のことです。著者はマリア・イナ・シュウルマン夫人(音楽家マックス・シュウルマンの妻)と会話をした。私たちは、ルドルフ・シュタイナーが亡くなってからの人智学協会の懸念について話しました。彼女は初期のオイリュトミストの一人で、ルドルフ・シュタイナーのもとでオーベルファーのクリスマス劇で天使を演じていた。そして彼女は次のように話してくれた:

 “クリスマス会議の話し合いが終わった後、私は舞台の後ろの大工仕事場の方に座っていたのですが、そこには公演の前後に休めるソファのある芸術家コーナーがありました。ルドルフ・シュタイナーがレクチャー・シアターから奥に来ました。私がそこに座っているのを見て、「これであと10年は大丈夫だろう(!)」と言って、彼は去っていきました。晩夏(1924年)、私は同じ場所でのイベントの前に、芸術家たちのコーナーに座っていました。ルドルフ・シュタイナーが講演にやってきたのです。ルドルフ・シュタイナーは私を見て、はっきりとこう言いました:「クリスマス会議は失敗した。」彼はそのまま歩いていきました。私は深いショックを受けました。私は2年間、この体験を夫に話す勇気さえなかったのです。- そして、この発言の証人として、遺産管理局に報告書を提出しました。" 4

 二人目の証人はブルーノ・クリューガー(1887-1979)で、元人智学者、弁護士、シュタイナーの生徒である。シュトライトは次のように報告している:

 “私たちが会った1970年代当時、筆者は、上記の[[スイスの人智学協会の]]会報の編集者であり、ルドルフ・シュタイナーの重要な共同者であることを知っていたので、シュトゥットガルトに滞在している間に彼を訪ねることにした。(さらに一人称で): シュトゥットガルトの教師セミナーで講義をしたとき、私はクリューガー博士に電話をかけ、話をしたいと頼んだ。今朝11時から11時15分に来てください!私は力強い声の強烈な個性を発見した。彼は私にいくつか簡単な質問をし、それから主に彼が語る会話となった。それは2時間続いた!かれは、人智学協会に関しては、1923年のクリスマス会議について意見を述べた。- 彼は1924年の夏の終わりにドルナッハに来て、ルドルフ・シュタイナーに出会い、シュタイナーは、すぐに彼に近づいてきた。クリューガーは、彼の驚くべき声を聞いた-「クリスマス会議の衝動は打ち砕かれた!」

 クリューガー博士がそう言ってシュタイナー博士の言葉を口にしたとき、それは痛ましい叫び声のように聞こえた。しかし、シュタイナー博士はこう続けた。「クリューガー博士、10月にドルナッハに来てください。私たちはすべてを新しくしなければならない。」“

 ブルーノ・クリューガーの報告から明らかなように、クリスマス会議だけでなく、シュタイナーが19番目の授業の「クラス」と呼んだ、その後に設立された地上の「人智学的ミカエル学派」も粉砕されたのだ。そうでなければ、なぜ「すべてを新しく」しなければならないかという理由がわからないからである。

 否定的な意味をもつこのシュタイナーの言葉は、1924年に収穫された、カルマの講義の高揚から農業コースまで、例を挙げればきりがない大きな収穫から何も奪うものではない。しかし、シナリオ2が継続できなかったことは明らかである。そして今日に至るまで、このことは一般に単に無視されている

 

1924年9月28日の最後の要求

 シュタイナーは、カルマの講義が終わり、最後の反復レッスンの1週間後に、健康を害してこの要求を終えることができなかった。

 ここではそのすべてには触れない。繰り返しになるが、私たちは、クリスマス会議でシュタイナーが新協会の会長職を引き継いだ後に取り組んだすべてのことに光を当てることができる、ある特定のモチーフを選び出したいだけである。断片的に残るが、すべてはこの「ミカエル思想」のスピーチに集約される。そして、このことについてルドルフ・シュタイナーは次のように述べている。

 「近い将来、ミカエル思想が、少なくとも12人の4倍の中で完全に生かされるようになり、12人の4倍の中で、自分自身によってではなく、ドルナッハのゲーテアヌムの指導陣によってそのように認められるようになり、そのような12人の4倍の中で、ミカエル祝祭ムードのために、指導者たちが生まれるようになれば、ミカエル潮流とミカエル行為を通して、将来人類に広がる光を期待することができる。」5

 秋の初めからまもなく、ミカエル祭の前夜にかけて、従って、晩夏のクリスマス会議や高等学院の否定的な発言の後、このような希望に満ちた真剣な展望が語られたのだ。シュタイナーがゲーテアヌムで創設した教育機関の力に対する最後の希望を示しているのだろうか。そう解釈することもできる。しかし、確かなことは、「近い将来」に48という数字に達しなかったということである。

 ルドルフ・シュタイナー自身が指摘したように、48は12の4倍【訳注】で構成され、12は世界史におけるすべての偉大な同胞団設立の数(使徒たち、聖アーサー騎士団など)であることを考えるならば、シュタイナーの最後の言葉は、未来への約束として理解することもできる。未来とは、彼の人生をはるかに超えたものであり、彼自身が代表を務めるゲーテアヌムの指導者たちを超えたものでもある。

 

【訳注】ここで触れられていないが、4とは、人間の構成要素である肉体・エーテル体・アストラル体・自我を示す数でもあり、このことが「4倍」の背景にあるのかもしれない。

 

 シュタイナーの死後、後のゲーテアヌムの指導者たちが大失敗した今日から見れば、この見解は唯一現実的なものであるように思われる。言い換えれば、4×12人の共同体の形成が必要であるという訴えは、クリスマス会議と高等学院の失敗した衝動の半径をはるかに超え未来に至るものであり、その未来では、1923年晩秋のシナリオ1が、潜在的段階から現実の段階へと出現することになるのである。

 議論を先どりすれば、「ゲーテアヌムの指導者たち」は、遅くとも1935年に、最後の要求のミカエル思想を最も真っ向から否定し、シュタイナーの献身的な協働者を理事会と協会から追放したとき、秘教的に自らの動きを封じてしまったのだ。...

 より広い意味で重要なのは、D.N.ダンロップは、1930年に重病を患った後、アーサー王同胞団に似た「同胞団」を創設するという考えを抱いていたという事実である。このような衝動は、この闘病中に起こったキリスト体験の中で彼の中に生まれた。彼の魂の友であったエレノア・C・メリーが、しばらくしてそのことについて彼に尋ねたとき、彼はただ「自分は、未来を見た」と答えたのである6。...

 1960年4月、ヴィレム・ツィールマンス・フォン・エミショーヴェンは、ドルナッハで開かれた総会で、多くの人々を驚かせたが、オランダ全国協会がAAG 一般人智学協会に復帰することを発表した。この一歩の前には、多くの議論があったが、最後には初代会長のアルバート・シュテッフェンとの間で行われた。後者はこの一歩を歓迎したが、それはおそらく、ツィールマンスがいかなる条件も課さなかったからであろう。「なぜ」という質問に対して、ツィールマンスは「時間が差し迫っているから」、そして「私たちがそれを望んでいるから」と答えた7

 明らかにこれは、シュタイナーが、運動の最高潮を予見して、2度にわたって語った【20】世紀末に関して述べられたものである。それは、人智学運動の初期の時代からすぐに転生してくる、よりアリストテレス的な志向を持つ弟子たちを含む、アリストテレス的な魂とプラトン的な魂の偉大な統一である。再統合により、世紀末の【受肉した】魂達が協会とのつながりを見出す可能性が提供されるのだ。これがツィールマンスの暗黙の希望だったのである。

 ミカエル学院の第4段階は、地上における2番目の段階である。それは当然、以前のルドルフ・シュタイナーの「個性」individualityの新たな受肉と結びついている。生前のルドルフ・シュタイナー自身からも、そのような受肉についてさまざまな言及があった。

 おそらく最も有名な発言は、シュタイナーが、教師カロリーネ・フォン・ヘイデブランドに対して、西ヨーロッパのシェイクスピアの町ストラットフォード・アポン・エイボン【訳注】で行ったものだろう。                             

 

【訳注】ストラトフォード=アポン=エイヴォン(英: Stratford-upon-Avon)は、イングランド中部のウォリックシャーにあるタウンかつ行政教区。

 

 これは1922年の復活祭の頃に起こったことで、ヘイデブランドはこの発言をシュトゥットガルト・ヴァルドルフ・スクールの教師仲間であるヴァルター・ヨハネス・シュタインに伝えた。シュタインは日記にこう記している。「ヘイデブランドは語った。1922年のストラトフォードで、ルドルフ・シュタイナーは、彼が80年後にアメリカに戻ると言った、と。」8 新しい活動の始まりは、おそらく80年の後と考えられているのだろうということは-シュタイナーは、確かにこのことを視野に入れており、未来の誕生ではないからだ-ヨハンナ・フォン・カイザーリンクのあまり知られていない発言からも明らかである。それは次のようなものだ:

 “博士がかつて私におっしゃいました。-その時は誤解していましたが:

 「アメリカで、敵対勢力は、私が向こうにいるときにこそ、その力を最大限に発揮するのです。」“9

 悪が "その力を最大限に発揮する "とき、悪の深淵と秘密の秘儀参入者は、離れていることはない。(シュタイナーからヨハンナ・フォン・カイザーリンクへ)。

 彼は、いわば、台風の目(よく知られているように、最大の静けさが支配する場所)にその対抗する働きを確立し、ここから放射するのだ。そしてここから、世界における新たな働きのために、最強の弟子たちとミカエルに奉仕する者たちを準備し、霊感を与えるのである。そして、超感覚的な世界ですでに準備された、厳格に規律づけられ、当初は世界によって認識されず、妨害されることもない新しい同胞団を造り出すのである。...

 第一クラスの第二部と第三部は、機関においてはなく、D.N.ダンロップがすでに創設を意図していた新しい同胞団の小さなサークルの中で実現されなければならない。D.N.ダンロップは、未来を見通していた。

 その未来は今、現在となっている。

 

[ダフネ・フォン・ボッホ博士による要約・編集]

 

1 Thomas Meyer, Like dwarves on the shoulders of giants - The Michael School and its four phases to date, Perseus Basel, 2020.

2 Emanuel Zeylmans, Willem Zeylmans von Emmichoven - ein Pioneier der Anthroposophie, Arlesheim 1979, p. 124 (E.Z.による引用は省略)

3 "Introductory words before the lecture on 23 December 1923", Dornach (GA 232), ed. 1998.

4 この対談と次の対談は、Jakob Streit発行の『Mitteilungen der Anthroposophischen Vereinigung in der Schweiz』(2003年復活祭)に掲載された。

5 最後の住所は1924年9月28日、ドルナッハ(GA 238)。

6 Eleanor C. Merry, Memories of Rudolf Steiner and D.N. Dunlop, Basel 1992, p. 52.

7 Willem Zeylmans, quoted in: s.o. ( 2), S. 343.

8 ライナー・モネによるトーマス・マイヤーへのインタビュー(www.perseus. ch/PDF-Dateien/MeyerInterview.pdfより引用。

9 『Der Europäer』Vol.22, No.9/10 (July/August 2018), p.11.

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 さて、上の文章では、人智学運動についての、20世紀末に関する見通し(予言)が述べられていた。それは、シュタイナーと共に初期に人智学運動を担った人々が、シュタイナーのように、その死後にすぐに転生してくる、そして「アリストテレス的な魂とプラトン的な魂の偉大な統一」が行なわれると言うことである。アリストテレス的な魂、プラトン的な魂とは、ギリシアの偉大な二人の哲学者に関わる二つの霊統が存在しており、それが、人智学において合流するという事である。この二つの流れは、古くから存在し、それぞれ別の道を辿ってきたようなのであるが、両者は、今後協力し合い、それにより人智学の運動は最高潮の時期を迎えるというのである。

 予見された時期は既に過ぎ去っており、その予見が正しかったのかどうかについては議論がわかれているようである。実際、振り返れば、その様な時期は存在しなかったとも見えるが、時期がずれた、今後そうなるといことかもしれない。

 さて、最後にシュタイナーの転生に関して、「彼(シュタイナー)が80年後にアメリカに戻ると言った」とする文章が出てきた。この意味が、少しメイヤー氏の文章ではわかりにくいような気がする(私のドイツ語力不足が何よりの原因だろうが)。

 「80年後にアメリカに戻る」というのは、その時に、シュタイナーの「新しい活動」が始まるという意味で解釈すべきだとメイヤー氏は述べているようである。死後80年後となれば、シュタイナーは2002年頃(1922+80年)に転生したこととなるが(その場合、シュタイナーはまだ若いので、現時点ではまだ活動を開始していないように思われる)、活動の開始が2002年頃となれば、このことについてメイヤー氏ははっきりと書いていないが、当然、シュタイナーの誕生はそれよりもだいぶ前と言うことになるだろう。

 ヘイデブランド氏の証言がそのように解釈できるかと言うことだが、確かに、その頃に「戻ってくる」とは、その頃に「戻って活動している」ということであるとの読み取りは可能であろう。

 また、「80年後」の原文は、「in 80 Jahren」であることから、ドイツ語としては、他に、「80年の内に」と訳すことも可能らしいので、そうとすれば、受肉自体は80年以前のある時期と幅をもつことになる。そしてその場合、80年という年数を示したのは、やはりこの頃に活動を始めるという意味を込めたと理解することも可能だろうか?

 いずれにしても、私たちは、シュタイナーと共に同じ時代を生きているのかもしれない。

 

 ちなみにアントロウィキでは次のように解説されている。

 「エーレンフリート・プファイファーはW.J.シュタインの日記を引用しているが、その日記はルドルフ・シュタイナーから次の転生についての発言を引き出したとされる同僚の教師の言葉を引用している:

 ルドルフ・シュタイナーは1922年にストラットフォード・アポン・エイボンで、自分自身について非常に直接的な発言をしている。W.J.シュタインの日記には次のように書かれている:"キャロライン・フォン・ヘイデブランド(シュトゥットガルト・ヴァルドルフ・スクールの同僚教師)が言うには、1922年のストラットフォード(イーヴン)でシュタイナー博士は、自分は80年後-それは2002年となる-にアメリカに戻ってくると言った。

 

(ルドルフ・シュタイナーは現在21歳である。マスターがそのような姿を現すことができ、公に著名な仕事が展開されるようになるのは、早くても40歳になってからなので、彼の世界的な仕事が世間に明らかになるのは2042年になってからである)。

 

 しかし、このようにしてシュタイナーから得た引用に信憑性が認められるかどうかは疑問であり、また、救いの約束という意味での“ルドルフ・シュタイナーを待つ”ことが誰にとっても有益かどうかも疑問である。シュタイナーは正確さだけでなく完全性も重視すると主張しているのだから、もしこの情報が重要であれば、次の転生を別の方法で伝えただろうと推測できる。加えて、シュタイナーは個人崇拝を確立しようとする傾向に対して極めて批判的であった。このことは、シュタイナーが常に強調していた自由(自律性、独立性)の強調や、いかなる教条主義も否定していたことからもうかがえる。彼自身の意見では、ルドルフ・シュタイナーの次の転生についての議論の関連性は、おそらくほとんどないだろう。」

 

 本文では、人智学協会の秘教的意味にも触れられていた。人智学協会というものは、オカルト史的には、シュタイナーの創立した神智学の分派というように位置づけられるだろうが、シュタイナーからすれば、唯物主義を乗り越える、来るべき時代のために霊界から要請されたものということができる。具体的には、上の文章にあるように、霊界におけるミカエルの秘儀の学院を地上にもたらすことであろう。

 それは、人類の霊的進化を進めるための一つの必然として求められたものである。

 しかし、協会が、人間により組織され、人間が関わるものである以上、そこには人間特有の問題が伴わざるを得ない。多くの者が関わる組織ゆえに、妬みや嫉妬、利己主義、打算等々を離れた人間ばかりとはいかないのだ。そしてそれが、霊的敵対勢力のつけ込むところなのである。

 私には、今の人智学協会指導部を批判できるほど知識はないが、メイヤー氏らの論考に出会ってからは、少し距離をおき、客観的に見るようにしたいと思うようになっている。

 協会の指導部は、ゲーテアヌムに本拠をおいており、確かに多くの人智学者を代表するものであることに変わりはないだろうが、批判的視点なく何でも受け入れてしまうのは危険である。人智学は宗教ではないのだ。もとより、盲目的に信じるものではない。