k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

日蝕の隠れた影響

 4月8日に、アメリカで皆既日食が見られるのだが、これに関わる「陰謀論的」話題もでてきているようである。

 ブログ「In Deep」さんが、この日蝕について興味深い記事を載せている。

https://indeep.jp/i-was-aiwass/

 そこで、当ブログでも日蝕をテーマとする人智学派の記事を取りあげてみようかと探してみたのだが、適当なものが見当たらないため、これは断念し、今回は、デイヴィッド・オーヴァソン氏の『日蝕の本The Book of The Eclipse』より、秘教的観点から日蝕の意味を解説した部分を紹介することにする(文中には、シュタイナーの名前も出てくる)。

 オーヴァソン氏のこの本は、1999年の出版で、これは同年に英国南部で日蝕がみられることをきっかけに書かれたようである。彼は、序文で、日蝕が多くの人の心を捉えており、メディアが盛んに取りあげ、ノストラダムスがこの日蝕を予言していたというような主張(オーヴァソン氏はこれを否定)も見られる状況を背景として、「私の目的は、日蝕が人々に影響を及ぼすこと、及ぼしうることを-ただし、人々が普通考えるようにではなく-示すことである。」と述べている。

日蝕は英語でeclipseだが、この言葉は、月食の場合も使われる。その言葉の前に太陽あるいは月と付けば日蝕、月蝕の区別は付くが、eclipseのみだと実際にはどちらを指しているか分からない。むしろその場合は、両方を指すことが多いと思われるので、単に「食」と訳す。)

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食と私たち

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  コロンブスアメリカ原住民の話は、不思議な関連性を持っている。この謎を調べ始める前に、厄介な言葉を定義しておかなければならない。占星術の文脈で使われる場合でも、しばしば混乱を招くネイティブという言葉である。この言葉はラテン語のnatus「誕生」に由来し、私たちに馴染みのある現代の言葉「ネイティヴィティ、誕生」をもたらした。占星術では、ネイティブとはチャートが配された人物のことである。ホロスコープそのものを「ネイティヴィティ」と呼ぶこともあるが、後述するように、すべてのホロスコープが生まれた瞬間に作成されるわけではない。

 記録に残っている最も古い日食は、紀元前721年3月19日に起こったものだと思われる。これは月食で、当時天文学研究の最も重要な中心地であったバビロンから見ることができた。現存する文献から、バビロニア人が日食のメカニズムを理解していたことは明らかであるが、それでも日食の原因に関する迷信的な考え方が世界から払拭されたわけではなかった。後期ギリシアでも、この宇宙的イヴェントに常に驚き、それを恐れるべき霊的出来事と見なし、あるいは特別な兆しと解釈した。「オリンポスの神々の父ゼウスは、真昼から夜を作り、輝く太陽の光を隠した。人々をおそれが襲った。」(

 これは、パロスのアルキロコスギリシアの紀元前7世紀の詩人)の失われた詩の断片であるが、紀元前648年4月6日に起きた皆既日食の実体験を指しているとする学者もいる。

 ピンダルがテーべに宛てた後世のピュティアの頌歌では、詩人は日食をテーマにしており、冒頭で、すべてを見通す太陽の目-現代の占星術にも受け継がれているが、エジプトの神官ピンダルの時代に遡る伝承-と人間の視覚を結びつける行で始まる。ピンダルも、天界の出来事は地上界にも影響を与えると認めていた。:

 「太陽の光!太陽の光よ、遠くを見る者よ。私の目の母よ!至高の星よ、日中にわれらから奪い去られよ。なぜ汝は、これほど暗い道を突き進み、人間の力と叡智の基調を当惑させるのか。」

 この詩は、テーベではほぼ皆既日食であった、紀元前463年4月30日の日食に関するものであろう。

 日食を観測し、詩人たちが太陽の死を嘆いたことに加え、古代人は日食も利用していた。ロムルスによるローマ建国にまつわる伝承ほど、古代人が日食をチャンスの窓とみなしていたことを裏付けるものはない。ローマの占星術師タルティウスによれば、ローマの創始者は太陽が皆既日食のときに受胎したとされ、プルタークによれば、ロムルスは太陽が月に食されたときに都市を築いたとされている。

 古代の日食で最も有名なのは、おそらく紀元前585年1月28日の皆既日食であろう。哲学者タレスが予言した古代最初の皆既日食だとする説もあるが、どうやらその時刻や日付よりも、それが起こる年を示していたに過ぎないようだ。タレスは確かに、月が地球の影をくぐると月食になることを知っていた。

 この日食には二重の意味で有名である。ヘロドスによって、リディア人とメーデ人との闘い間に起きたと言及されているからである。この出来事は、戦士達には恐ろしいものであったので、戦闘は中止されたのだ。

 V・ル・カンピオンがギリシャの歴史家ヘロドトスの著作の現代版に描いた木彫りの挿絵に、日食が描かれている。しかし、ヘロドトスはその『歴史』の中で、日食が戦いに影響を及ぼしたとして、いくつかの日食に言及しており、この図が紀元前478年2月17日の日食に関連している可能性もある。それを、ペルシャ軍司令官、クセルクセルが、ギリシア遠征の前に目撃していた。軍司令官は、予言者を呼び、その意味を尋ねた。彼らは、その日食は予兆であり、ギリシアの都市が滅亡することを告げていると言った。この賢者たちによれば、太陽はペルシャ人の象徴であり、月はギリシア人の象徴であった。

 ル・カンピオンのイラストは、宇宙的に不正確な方法でグラフィックを配置しているが、日食の驚くべき力を劇的に伝えている。暗い放射を背景に太陽の縁を見せ、強烈な月の体(図をよく見ると、同心円で形成されていることがわかる)を囲むことによって、画家は日食の強烈なドラマの一端を捉えることに成功している。

 私は、この絵に描かれている女性が歴史の女神クリオであることは間違いないと考えている。一方、この人物は預言者であり、クセルクセスのギリシア軍に対する成功を予言しているのかもしれない。

 実際、日食が多くの人物の個人史を書く上で重要な役割を果たしていることを考えれば、クリオが最もふさわしいだろう。このことは後ほど、有名な人物の数多くのホロスコープを検証することでわかるだろう-そのすべてが、日食の劇的な働きを何らかの形で示している。

 占星術師達が日食について同意しているように見えるのは、日食の影響が劇的であること、しばしば恐ろしいものであることである。一時期、日食の評判はドラマ以上のものと結びついていた。日食は人類の災いのほとんどを引き起こすと広く信じられていたのだ。これが、日食が初期に恐れられていた理由のひとつであろう。

 14世紀、ヨーロッパの多くの占星術師は、1345年の恐ろしい疫病(現在では黒死病と呼ばれている)の始まりとその期間を、1345年3月18日の夜に起きた月食でたどった。占星術の伝統に従い、当時の少数の占星術師が、その食が実際にペストを始めたと主張したが、少なくとも何人かは、その爆発的な拡大が単に困難な宇宙的瞬間に起こっただけだと確信していた。

 その食は、正確に午後9時28分に、月は天秤座の7度にあった。私は、黒死病に特別な関心を寄せていた13世紀のフランスの占星術師、ジョフリー・オブ・モーが記録したデータと比較するために、イギリスのオックスフォードでこの数字を計算した。ジェフリーによる同時代の写本(あるいは、少なくとも14世紀の中世の写本)が、オックスフォードのボドリアン図書館に残っている。彼の著作から、ジェフリーはこの街で研究し、おそらくは空を観察していたようだ。ジェフリーによれば、食は月の出の1時間後に起こり、かなりの時間見えたという。

 困難な宇宙の瞬間は、残りの惑星が2つの星座に力強くまとまることで表現された。不思議なことに、この日に関する記録を残している何人かの占星術師は、食が最初に形成されたとき、(月を除く)惑星は水瓶座牡羊座のどちらかのサインに集まっていたという、その根本的な意味を理解していないようであった。実際、もし中世の天文学者たちが、その後に発見された天王星海王星冥王星という惑星の存在に気づいていたら、の日食が巻き起こした影響から、さらに悲惨な結果を読み取ろうとしたことだろう。反対側に掲載したチャートは、この月食の時の空を示しており、惑星は風通しの良い水瓶座と炎のような牡羊座の2つの巨大なグループに配置されている。

 現代の惑星であろうとなかろうと、中世後期のヨーロッパで黒死病ほど悲惨なことはなかっただろうし、当時の多くの占星術師が、黒死病の宇宙的起源と起こりそうな結果について何か語っていたとしても驚くにはあたらない。

 中国からの交易路に沿って広がったペストは、1348年までにエジプトに到達し、あっという間にヨーロッパに広がった。同年にはウェーマスで猛威を振るい、翌年にはイングランドの人口の3分の1が死亡した。ヨーロッパでは4年間続いた。実際、黒死病はその世紀のヨーロッパで最も重要な出来事であり、人口の大幅な減少によりその影響は数十年間続いた。黒死病はヨーロッパに20世紀の2つの大戦争を上回る犠牲者をもたらした。イングランドとフランスだけでも、少なくとも人口の3分の1、場合によっては半分以上が死亡した。1347年から1351年の間に、7500万人がこの病気で亡くなったと言われている。

 もちろん、「死」(当時そう呼ばれた)がヨーロッパに到達したのは1345年の食の後のことである。通常であれば、食とその3年後に起こった出来事を結びつけることが正しいのかどうか、疑問を抱かざるを得ない。実際、後述するように、この時期のズレは、中世の占星術の食-予言とまったく一致している。

 ジョフリー・オブ・モーによれば、日食は3時間29分54秒続いた。機械時計が、まだ正確でなかった時代におけるこの時間の正確さは、食の継続時間を決定するのになぜ熱心であったのかについて疑問をもたらす。

 後述するように、占星術の伝統は常に、優れた占星術師は特定の日食の継続時間を知ることで、その日食が俗世の、つまり地上の次元にどれだけの時間にわたり影響を及ぼし続けるかを知ることができると主張してきた。言い換えれば、ジェフリーが食の影響を予見できることを考えると、「死」の恐ろしい災いが始まるまでの期間と、それがいつまで続くかを確立することに熱心だったのである。

 ジェフリー自身の計算方法は、現代の占星術師が使うようなものではないが、彼はペストが5年5ヶ月続くと結論づけた。実際のところ、彼は1年ほどの誤差があったようだ。

 もしジェフリーが伝統的なルール、つまり食の影響は食そのものの継続時間と同じ年数続くというルールを適用していたら、彼の予測はもっと正確だっただろう。1カ月ほどの差はあれ、3時間29分は3年半になる。ペストは一般に1347年に始まり、1351年に終息したと言われている。食理論から言えば、ペストは、規定の期間内に始まり、同様の期間内に終わったことになる。

 問題は、黒死病は食から実際に予言されていたのか、ということである。この質問に確実に答えるのは難しい。というのも、14世紀の写本には、この予言を主張するものがいくつかあるが、どれが日食の後に書かれたものなのか、必ずしも特定できないからである。

 日食の研究だけに基づいて疫病のような出来事を予言することは、非常に考えにくいことであると私には思われる。もちろん、個人的なチャートから、ある人が特定の病気や疾病に罹患するかどうか、あるいはそれによって死亡するかどうかを予測することは十分に可能であるが、単に食から集団伝染病を予測することはまったく別のことである。

 一般的に言って、私たちが考えているものよりも劇的でないホロスコープに基づく14世紀の予言は、かなり悲惨なものであった。バシニーのジョンは、13世紀半ばに人口の3分の2が死亡し、35年間続く「一般的な死亡率と疫病」を予言したようだ。彼の予言の根拠ははっきりしないが、1345年の合(日食ではない)に言及している。彼の予言の少なくともひとつ、1356年にフランス王が捕らえられるという予言は、フランスのジャン2世がポワチエイングランド軍に捕らえられたときに的中したようだ。

 15世紀の大修道院長トリテミウスは、数世紀前の占星術の文献に精通していた、秘教的な伝承の偉大な学者の一人であったが、黒死病は予言されていたという意見を持っていた。彼の膨大な記録から、「全世界で疫病が流行し、人命が恐ろしく、計り知れないほど失われる」という劇的な予言が記されているのに気付く。近代史家のリン・ソーンダイク(トリテミウスの要約を記録した)は、その中の注目すべき特徴のひとつは、ペストの蔓延が「小さな獣」によるものであるという示唆であったと述べている。14,15世紀において、伝染病は空気により運ばれると信じられていた(天秤座の空サインにおける月食水瓶座の空サインにおける惑星の集合の重要性ゆえに)。1896年にボンベイを襲ったペストに関する医学的調査が行われるまで、科学者たちはペストがノミによって媒介されることを認識していなかった。

 際立つのは、1895年3月の食(インドのペストが始まったとされる)が、1345年からヨーロッパで何百万人もの人々を絶滅させた中世の黒死病が始まったとされる食と同じ度数であったことである。

 

1895年3月26日の日食: 05.31牡羊座

1345年3月18日の日食: 06.14牡羊座

 

 食と病気との関係についてはほとんど研究されていないが、牡羊座-天秤座軸のこの度数とエピデミックの間にはある関連があるようである。1876年、インドで伝染病が大流行し、それは、伝染力の強いエピデミックとなり、インドの英国官僚から特別報告が出されたほどであった。1876年3月25日、牡羊座5.32で日食が起きた。1894年には、イランと中央アジア、ロシアを経て中国まで、疫病が大流行した。これは前年の後半に始まったが、1894年9月29日には、同じ牡羊座と天秤座の軸上にある天秤座6.04で日食が起きていた。

 

 医学の発達した今日、日食が、黒死病のような伝染病と何らかの関係があると考えるのは愚かなことかもしれない。しかし、日食にまつわる迷信の多くが否定されるべきだという点には同意するものの、過去の占星術師たちが自分たちを表現した象徴的な言葉が、現代では必ずしも十分に理解されているとは限らないと言わざるを得ない。私たちには迷信に見えることでも、彼らにとっては知的な象徴主義以外の何ものでもなかったのだ

 その一例が、グロスコペトラと呼ばれる宝石に関する記述である。この魔法の石は人間の舌のような形をしており、月食のときに空から降ってくると信じられていたという。この石は、セレノマンシー(月によって占いを行う技術)を助けるものとして、熱心に求められた。

 この迷信は今となっては愚かに聞こえるかもしれないが、その裏にはある意味が隠されている。かつて、食が起こっている間、全世界が変化すると信じられていた-それには十分な理由があった。舌のような石は、そのようなコミュニケーションが可能であることを示すしるしだった。このシンボリズムの背後にある考え方は、月を地球に固定する影の円錐が、神々とコンタクトをとるためのまれな機会を提供する、一種の暗い通路、あるいは霊のトンネルであるというものだったようだ。

 新月(の終わり)を認める古い儀式の多くは、神々への通路が閉ざされた-新しい三日月により宇宙的に告げられる閉鎖-ことを司祭たちが告げていた時代の名残なのではないだろうか。

 日食は宇宙の安全弁であり、邪悪な力を定期的に宇宙に逃がし、人類に害を与えないようにするものである、とオカルティストが主張するのは、この「神々への通路」が定期的に存在するという考え方があるからである。日食では、このような神々との接触やコミュニケーションは、まったく別の次元のものであり、さらに神聖で強力なものであると信じられていた。ある種のオカルト理論によれば、日食の影のレーンは、秘儀参入した神官たちが高位の神々と交信し、発見された重要な問題を彼らに投げかけることを許したという。このことが、古代人が北欧に点在する神秘的なストーン・サークルを作った根本的な理由だと主張する学者もいる。これらのサークルによって、神官たちは日食の到来を正確に予知し、そのような荘厳な時に神々と交信することができたのである。人身供犠(現在ではこのようなストーン・サークルと不可避的に結びついている)という考えは、宇宙の通路が開かれる神聖な瞬間に、神々を鎮めるべきだという退化した考えだったのかもしれない。

 ヨーロッパに数多く存在する古代のストーン・サークルや巨石が天文観測所であることを天文学者が認識し始めたのは、比較的現代になってからである。この発見は、ほぼ同時期に何人かの人物にもたらされたようで、これらの古代のサークルについて、非現実的で想像力豊かな主張がなされるようになった。例えば、ストーンヘンジ、エーヴベリー、キャラニッシュのような、より複雑なサークルは、巨石コンピューターであると示唆されているのである。これは真実からは遠いが、しかし、このようなサークルが、(とりわけ)太陽や月の現象を予測するために作られたものであることは間違いないだろう。巨石コンピューターとは言い難いが、サークルとそれに関連する建造物は、高度な太陽・月齢カレンダーとして設計されたようだ。

 カレンダーであるがゆえに、より複雑なサークル(そしてこの有名なストーンヘンジを含む)は、食現象と必然的に結びついている。この真実は、現代の天文学者がサークルと太陽・月の現象との関連を考え始めるずっと前、19世紀に知的な神秘主義者たちによって認識されていた。秘教主義者のルドルフ・シュタイナーは、古代北方神秘学派が宇宙現象を研究するためにストーン・サークルを利用していたと指摘した。彼は、日食を予知できることが重要であると主張した。なぜなら、日食の間、司祭たちは霊的世界と特別な関係にあったからである。

 もちろん、現代の考え方からすれば、この考えは突飛なものに思えるが、しかし、私たちが抱いているような、自分たちの総体的な目的のために、石の上に人身御供を捧げる神官たちの劣化したイメージよりは、はるかに真実に近いものであろう。

 今や、古代のストーン・サークルの秘密が明かされることはないかもしれない。人生の目的に対する考え方が変わっただけでなく、この4、5千年の間に人間の精神も大きく変化したことは明らかである。ひとつ確かなことは、古代世界のサークルや石塚はすべて、太陽と月を経由して人間と宇宙とのつながりを構築しようとする試みであったということである。このような構造物は、これらの天体(場合によっては重要な恒星)の位置を極めて正確に測定するものであるため、食を予測するためにも使われたのは確かであろう。

 高度な数学によって食の時間を計算することは可能であるが、天文学者が任意の場所や地域の皆既日食を予測できるような単純な日食周期は存在しない。時間だけでなく場所にも関係する食の広大な周期があるとすれば、それはまだ認識されていない。したがって、トーンヘンジやその他のストーン・サークルが、古代において食の正確なコンピューターとして機能したと想像するのは愚かなことである。たとえそうであっても、サークル、外周の岩、可動式の棒や石(目印として穴に刺すことができる)があれば、古代の天文学者は、食の時期をおおよそ知るために重要な太陽と月の位置を知ることができたと考えるのが妥当である。

 古代において、目に見える月食のタイミングを予測することは容易ではなかったに違いない。日蝕の時間と場所は、もっと難しかっただろう。この難しさの一端は、1919年の日食の見える範囲を表すために描かれた図から読み取ることができる。

【以下、古代遺跡の説明が続くが省略】

 

 古代人が日食や月食の時期を予測する方法を開発しなかったということは、たとえ日食の正確な観測地点が彼らの手の届かないところにあったとしても、である。

 

・・・このような建設に伴うあらゆる困難にもかかわらず、ストーンサークルやケルンが食予測装置として建設されたという事実を説明することにしたのには、重要な理由がある。この理由は、古代の人々が精神生活において食の影響と重要性を認識していたと、秘教の文献が主張しているという事実と関連している。ケルン(石塚)通路はそれ自体、月食と日食の両方を引き起こすシャドー・コーン(影の円錐)と同じような働きをする、建築されたシャドー・コーンに過ぎなかった。ムナイドラで見られるような丸窓や、ラフクリューのような場所で見られる通路は、化学的に静止させた画像ではなく、生きて動いている画像を扱う高度なカメラに過ぎない。

 食が「霊的世界へのトンネル」を提供するというこの考え方は、エジプトのオカルト伝承から残る最も古い秘教文献の中で、非常に生き生きと表現されている。デルフィの司祭プルタークの著作には、月食オシリス神が棺に入れられたのと同じとみなされるという記述がある。同じ文章によれば、「そこに月が落ちて日食になったと彼らが考える地球の影」はティフォンと呼ばれている。ティフォンとは、悪の力の主神セトの名前のひとつであり、セトはアペップという名の蛇の姿で現れたことを知れば、その意味は明らかになる。エデンの園に棲んでいた古代の蛇(オールド・サーペント)も、もともとは月食と、月食が起こる影のような光のないトンネルと結びついていたようだ。

 後世のローマ史家は、地球に近づいており、食をほとんど擬人化した言葉でとらえることが多かったようだ。彼らの考えでは、食は地球の災難に対する自然の苦痛のしるしであった。この嘆く自然という考えの周辺には、多くの奇妙な話が生まれた。ローマ帝国の歴史家たちは、都市の創始者であるロムルスが死んだとき、6時間の暗闇があったと主張している。ちょうど、キリストがゴルゴダの丘で死んだときも、地上を覆った暗闇は6時間続いたと言われている。これらのローマ時代の物語がエジプト時代の物語と共通しているのは、食そのものよりもむしろ暗闇、つまり影に重点が置かれていたことである。

 キリストの磔刑で起こったとされるいわゆる「日食」は、光のオカルト化を象徴する以上のものである可能性がある。錬金術の文献では、マギを生まれたばかりのイエスのもとに導いた星が普通の星ではなかったように、キリストの死で地上を覆った暗闇も普通の日食によるものではなかったと指摘されている。このヘルメティックな思考は重要である。なぜなら、この犠牲の瞬間、つまり世界の歴史において唯一無二の瞬間、キリストの死によって克服された悪が世界から逃げ去り、地球は文字通り暗闇に包まれたことを思い起こさせるからである。私たちは、十字架にかけられたキリストの両脇に太陽と月が描かれた何万枚もの絵画や木版画によって、この宇宙的瞬間を思い起こす。

 異教の文献のかなりの部分において、劇的ではないにせよ、月食とデーモンの力との間に同様の結びつきが描かれている。マヤのある年代記では、日食の間、「暗闇の間、怪物が地球に向かって頭を下げた」と言われている。この記述を詩的な自由から生じたものと見なすことは可能だが、仮に詩的な自由ではなかったとしたらどうだろう。マヤの儀式を行った秘儀参入者の司祭がアストラル次元で見ることができたと-彼らはこの "トンネルのビジョン "を持っていたと?もし彼らがこのヴィジョンを持っていたとしたら、そして彼らは魔術的な能力を持っていた、あるいは持っているふりをしたとしたら、彼らは間違いなくその期間、怒りを静めるために、関係する悪魔やスピリチュアルな存在に祈りを捧げるだろう。従って、司祭たちが、食がいつ起こるかを知っていることは、最も重要なことなのである。

 もちろん、このような日食に対する考え方は、現代では好まれないものである。実際、食により、宇宙と対話することを祭司達に許す内的ヴィジョンあるいは能力は、もはや現代人にはない。石器時代の建設者は我々より劣っていると考えがちである。しかし実際には、石器時代の人々の中で最も高度な進化を遂げた人々は、建築の原理や工学だけでなく、空についても並外れた知識を持っていたことが証拠によって示されている。おそらく彼らは、こうした才能とともに、私たちが失ってしまった内なる霊的なビジョンも持っていたのではないだろうか。

 ストーンヘンジを天文暦として最初に説いたと思われる傑出したヘンリー・ワンジーは、1796年にこの真実を直感していた。彼は、"学識あるバラモン"(当時ヨーロッパでは、高次の魔術に精通した尊敬すべき学者と信じられていた)は、ワンジーの同時代の人々よりも、この有名なサークルのデザインをもっと理解しているかもしれない、と書いている。ワンジーは、ストーンヘンジの真の謎は、単にその石の構造にあるのではなく、その建設の背後にあったはずの精神的な目的にあることを認識していた。

 1623年に製作されたスペインの光学に関するタイトル頁の非常に素朴な版画に、この感情が見られるかもしれない。

 この木版画の主役である一対の眼鏡には、太陽と月の像がはめ込まれている。これは、男女の右目は太陽に、左目は月に支配されているとする秘教的な占星術の伝統とまったく一致している。この木版画で非常に魅力的なのは、2つの眼鏡の間に、ブリッジのアーチの下にある小さな目の像を指す不思議な矢印が描かれていることだ。この小さな目を、秘教の伝統である内的ヴィジョンの第三の目と結びつけたくなるかもしれないが、それは間違いである。この場合、真ん中の目は通常の視覚を意味する。この素朴に見えるイメージの背後にある考え方は、私たちが太陽と月の目で世界を見るとき、脳は、私たちがただ一つの目で世界を見ているかのような錯覚を起こすということである。私たちの脳は、外側の二元性から一つの秩序を作り出し、それが知覚行為を生み出すのである。このように、この象徴は生理学的かつ精神的な真実を指し示している。私たちが現実を正しく認識するのは、私たちは、個人の太陽と月が並ぶときだけ、ひとつのトンネル・ビジョンに相当するものにおいてなのである。

 この単純なアイデアの背後にある意味合いは、非常に注目に値する。内なる視覚を象徴する中央の小さな目は、脳の中で起こる神秘的な化学反応を指し示しており、物理的な目はその延長線上にある。目と脳をつなぐ視神経は、秘教的な用語で言えば、外宇宙で日食の太陽、月、地球をつなぐ影のトンネルに相当する。

 視覚と食のつながりに関するこの洞察は、秘教主義者たちにも失われてはいない。秘教思想の深いレベルでは、大宇宙における食は小宇宙、つまり人間の小さな世界における瞬きに相当する。目の瞬きと宇宙のもっと大きな時間とのこの関係の意味合いは、現代の秘教学者ロドニー・コリンにより探求された。彼は、30分の1秒が「認識の瞬間」であり、これは通常の状況下で物理的な物体を認識し識別するのにかかる時間であると指摘した。これは、目の瞬きの時間に非常に近い。

 コリンは、皆既食の時に月の円盤が太陽の円盤の上にぴったりと重なるという不思議な事実を紹介した後、このことは、誰も特別なことだとは思わないほど、よく知られていると注意を向けている。しかし、この記事にあるように、もし月の幅があと100マイルほど広ければ、あるいは地球からの距離があと数マイルほど遠ければ、この皆既日食は不可能だっただろう。宇宙は、月と太陽が互いを打ち消し合うような皆既日食が起こるよう、注意深く調整されているようだ。

 日食が影のトンネルであることはすでに書いたが、日食の場合、トンネルは月の本体を通り抜け、太陽へと続いているように見える。月食の場合、トンネルは暗い月へと直接つながっているように見える。後者の食は秘教学者を悩ませ、詩人たちの想像力をかき立ててきた。月食は、宇宙の魔法がかかった時間、邪悪なセトの策略による太陽神オシリスの死を表しているようだ。その時、人間のもろいイマジネーションは、強烈な攻撃にさらされるのだ。注意を向けたり瞑想したりして月食の影響を感じようとしたことのある人は、なぜ古代人がこのような日食を「邪悪」あるいは「悪魔的」と呼んだのかを容易に理解するだろう。

 月食の最も劇的な2つの色ですら、邪悪な予兆を連想させる。最も不穏なのは赤食であり、それに幻惑的な黒食が密接に続いている。

 赤食は、中世の文献では「血の日食」と呼ばれることもある!- この効果は、地球と月の間にある大気の屈折効果によるものだが、明るい月の顔を劇的に血なまぐさく見せる効果がある。

 黒食は、地球の大気が浮遊塵で重いときに起こる月食である。このような条件下では、上層大気中の太陽光の屈折が吸収され、月の円盤が見えなくなる。月が完全に消える

 

 黒食は、地球の大気が浮遊塵で重いときに起こる月食である。このような条件下では、上層大気中の太陽光のt-フラクションが吸収され、月の円盤を見ることができない。月は地球の影の中に完全に消えてしまう。この種の黒食は、1964年4月19日にふたご座28度で記録されたものである。この場合、塵による汚染は過度の火山活動によるものである。古代エジプト神話の邪神セトは「黒い神」と呼ばれることもあれば、「赤い目の神」と呼ばれることもあった。このような連想のニュアンスは、影の神であるセトの他の属性で深まっている。ウドヤット(ホルスの目)と対照的な力を持つ魔法のお守りのひとつが、月と結びついた左目から作られた「セトの目」である。エジプト神話における「目」の重要性、日食や知覚の神秘との宇宙的な関連性は、左目や右目の数多くのイメージに表れている。エジプトの『死者の書』に描かれたこの例は典型的で、知恵の神トトの手に神聖な目が描かれている。

 このセトの目の意味は、古代エジプト人の最も重要な原初的シンボルのひとつである太陽鳥、ハヤブサと結びついていた。この鳥の右目は太陽、左目は月と言われていた。神秘的な宇宙の鷹の背後には、エジプト人によって「両目を司る者」と呼ばれた、ほとんど忘れ去られた神が立っていたことが、何人かのエジプト学者によって指摘されている。この隠された顔は、太陽と月の二元性を調和させる内なる人間、霊的存在であるように思われた。この神性は、2つの目に入る2つの光の流れを1つの知覚に結びつける知覚行為に相当するものであった。この古代の神智学の中では、影の月神は光に満ちた太陽神と同じくらい重要だった。

 

 人間の認識とは、非常に複雑なプロセスであり、視神経の暗いトンネル-そこで、ある錬金術、それは少しも理解されていないが、により、絵だけでなく意味のある知覚に翻訳される-に差し込む光の流れに関係している。かつては、人類を導くスピリチュアルセンターには、外側のビジョンと同様に有効な内なるビジョンがあることに疑いの余地はなかった。今日では、内なるビジョンはほとんど萎縮してしまったか、ユーモラスな絵の題材になってしまったようだ。・・・

 

 日食や月食の宇宙的な「瞬き」を、高次の意味の発達、宇宙の意味を探すことの出来る内なるビジョンと結びつけるのは突飛だろうか。もしそのような関連付けが有効だとすれば、古代の神官たちが食に伴う月と太陽のリズムを明らかにする建物を建てようとした少なくとも一つの理由が明らかになるだろう。

 視覚の謎、つまり太陽光が脳とつながる2つのトンネルによってどのように変換され、光を意味のある視覚に変えるのかという謎は、深遠な文献や芸術の永遠の謎のひとつである。ユダヤ人画家、フェイ・ポメランスによる最も注目すべき現代絵画は、視覚と日食の間のこの難解なつながりを、説得力のあるイメージで描いている。・・・

 

 日食の瞬間、世界は何らかの変化を遂げるのだろうか?信じられないが、科学的な証拠によれば、そうである。現代の研究は、液体や液体に浸された物質が何らかの形で変化することを明らかにしている。この意味は大きい。私たちの肉体は、約80パーセントの水からなる垂直の柱である。

 毛細管ダイナミクスの科学は、L.コリスコ博士が1920年代に、秘教主義者ルドルフ・シュタイナーの提案によって開発された。彼女の綿密な研究は、濾紙の絵が日食中に根本的に変化することを疑いの余地なく示した。

 日食、月食、そして惑星食の間に作られた多くの濾紙写真(クロマトグラム)は、日食の瞬間に、液汁の吸収率とパターンは根本的に変化し、認識可能なリズミカルな(つまり、カオティックでない)サイクルに従って変化する。この研究は、食の効果は、それらが目に見えることに依存しないと主張する占星術の伝統を支持すると思われる。1955年11月29日、スイス(実験が指揮されていた場所)で部分月食が見えたときに作られたフィルターペーパーの図は、世界のその【スイス以外の】地域から見ることができなかった食の間に作られた他の写真との顕著な違いを認めなかった。

 同様に興味深いのは、太陽と他の惑星の掩蔽(星食)もクロマトグラム(樹液パターン写真)に影響を与えたという事実である。43ページの2つの画像は、リトマス紙上の鉛溶液の通常の沈殿(左)と、1926年に太陽と土星が重なったときの沈殿を対比したものである。コリスコ博士自身は、自分の研究結果が、通常の化学分析では把握できないような「未知の力」が物質そのものの内部で働いていることを指し示していると考えていた。彼女が日食中の実験を好んでいたことは、いくつかのメモから明らかであり、皆既日食の影響を測定するために、かなりの距離を移動して、皆既日食が見える場所に実験室を設置していた。1961年2月15日にボルディゲラ(北イタリア)で起きた皆既日食の研究と、1936年にブルッサ(小アジア)で起きた日食が塩化金に与えた影響の研究は、特に実り多いものだった。

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 先に照会した    In deepさんのブログでは、NASAが8日の日食と合わせて、日食中の地球の大気の層の調査のため3発のロケットを発射するとされており、そのロケットの名は、APEP (アペプ)だという。

 このアペプというのは、エジプトの蛇の神のようだが、なぜ今回の日蝕の調査ロケットの名になったかという理由は、上の文章にあった以下の部分に示されているようである。

 「月食オシリス神が棺に入れられたのと同じとみなされるという記述がある。同じ文章によれば、『そこに月が落ちて日食になったと彼らが考える地球の影』はティフォンと呼ばれている。ティフォンとは、悪の力の主神セトの名前のひとつであり、セトはアペップという名の蛇の姿で現れたことを知れば、その意味は明らかになる。」

 アペプは、もともと日食と深い関係があったのである。

 NASAは、もともと、そのロケットに「アポロ」だとかギリシア神話に関わる名を付けてきたので、今回も同じような流れなのかとは思うが、この符合はどうだろうか?(どうして不吉な神の名を使う?)

 最後の方に出てきたL.コリスコ博士(Lili Kolisko、1889年9月1日 - 1976年11月20日)であるが、彼女は、シュタイナーの重要な弟子の一人で、シュタイナーの示唆の下に、物質界への天体の影響などを研究したようで、上述の実験は、鉱物的物質における「エーテル形成力」の働きを調査したもののようである。

 

 さて、オーヴァソン氏によれば、食は「霊的世界へのトンネル」だという。食の時に、霊界とのつながりができるというのだが(それは物理的次元にも影響を及ぼす)、それは良いことと悪いことの両面があるのではなかろうか。

 霊的存在には、良いものもあれば悪いものもあるからだ。

 私には、やはり日蝕は凶兆に思われて仕方ない。この時に際して、悪い霊がむしろ地上に解き放たれるとすれば、そしてそのために地上において、その活動を待ちこがれる人間達が、悪しき儀式を行なうとすれば、彼らは何を行なうだろう。

 日蝕に際しアメリカでは、州兵の動員が予定されている、非常事態が宣言されるという情報もあるようである。大変多くの人が見物に集まることから、実際に交通渋滞や、物流の停滞なども心配されているが、またテロを起こそうとする者にとっては格好の状況だとも考えられる。

 世界に混乱が広がっている中で、その多くの原因を作っていると思われるアメリカで起きる日蝕の後、世界の混乱は更に拡大していくのだろうか?