k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

メディア界による「霊的なものに対するワクチン」①

トールキン

 「ソロヴィヨフのアンチキリスト予言と現在の世界情勢」で、予言と現在の世界情勢の関連に関するインゴ・ホッペIngo Hoppe氏の論稿を紹介した。現象として現われている実際の出来事は確かに異なっているが、その背後の本質は、ソロヴィヨフが予言物語で語っているものと同じであることが示された。

 世界政府に向かおうという流れは、その外的な側面であり、内的な側面としては、「世界観」の変化があるという。それは、唯物主義的世界観が「崩壊」したことに起因するが、それに代わって登場してきた「霊的世界観」は、実際には偽物であり、真の霊界を歪めたものとなっていると批判された。

 今回は、この霊的世界観を巡る、別の論稿を紹介する。

 著者は、このブログでその著作の一部を取り上げたことのあるアンドレアス・ナイダー氏であり、これまでの論稿と同じく『超自然と下自然の間の人間』の中に掲載されている。

 

メディア界による「全ての霊的なものに対するワクチン接種」

 ナイダー氏は、シュタイナーの考えから見た現代の情勢について、エーテルへの覚醒を巡って戦いが起きているとして、次のようにまとめている。

 

-19世紀の半ば以来、我々は、闇の霊達の転落の結果、一層危険をはらんだ形を取った強力な唯物主義に関わっている。

-我々は、しかし、この転落により、シュタイナーの霊学の形で、霊界の真の認識が到来してきている状況をも見ている。

-唯物主義は、先ず2つの仕方で作用している。1つは「民族優生学」にまで至る唯物主義的医学的人類学として、1つは、心霊主義の形の霊的唯物主義である。

-カリ・ユガの終焉以来、エーテル体は、物質体の硬い境界から解放され、それによりエーテル体の新しい霊的知覚能力が生じている。

-しかし、以前の輪廻から、エーテル体に死んだ書き込みが含まれており、それは、意識的に把握されないと、ルチファーとアーリマンの攻撃ポイントになる可能性がある。

-20世紀の初めから、同時に、無意識的な霊界への境域通過により、そもそも無意識的な霊界体験が強まっている。

エーテル体験への意識的な覚醒と、唯物主義に押しとどめようとすることの間のこの戦いの場で、現在、特に、真の霊界認識を妨げようとしている西のオカルト的権力指向が勝っている。その霊として、今日の若者のメディア世界に目を向けることができる。

 

 「闇の霊達の転落」とは、1879年にミカエルとアーリマン的な天使存在(ドラゴン)の戦いが天界で行なわれ、ミカエルによって打ち負かされたアーリマン的な天使存在が地上-この場合は人間の意識-に転落させられたということである。

 この結果、世界の唯物主義的傾向が強まったのだが、他方で、シュタイナーの霊学、即ち人智学が地上に誕生することができたという。また、人間には、エーテルへの覚醒、つまり超感覚的認識が生じており、これによりキリストのエーテル界への再臨を体験することができるようになるのだが、闇の霊達はこれを阻止しようとしている。これの地上における先兵となっているのが西側のオカルト結社であり、今、エーテル界を巡る戦いが行なわれているのである。

 

 ナイダー氏は、ここで、人類をエーテル界を含む霊界から目をそらさせようとする試みがこれまで行なわれてきたとして、シュタイナーの予言した「全ての霊的なものに対するワクチン」について語る。

 このワクチンは、現在のコロナ危機により導入されたワクチンではないかという指摘もあり、このブログでも既に取り上げているが、ナイダー氏のここでの解釈は少し異なる。

 「シュタイナーは、闇の霊達の影響は、特に、子ども-青年に有効となるだろうとみていた。

 『闇の霊達にとって重要なのは、地上において広がり、その中で、光の霊達が自分たちの正しい方向に働き続けることのできるものを混乱させ、誤った方向にもたらすことである。・・・闇の霊達は、魂から、そのできるだけ若い内に、肉体を通して、霊性への傾向を追い出すワクチンを発見するように、彼らに食料を与える者、つまり彼らがそこに住むこととなる人間達にインスピレーションを与えるだろう。』

 ワクチンとは何か。体に、それが拒むべき胚芽が接種されるのである。それによって、体は、この胚芽に抵抗するようになるのだ。故に、人を、霊性に対し抵抗するようにしたいなら、人間に、霊的なものをただ萌芽的に、つまりは病気的な形で接種しなければならない。すると、人はそれを拒み、霊的なものをその真の形では認識できなくなるのである。」

 闇の霊達は、子どもや若者達をターゲットとしており、主にメディアによってそれを行なっているという。ただ、偽りの霊性が故に、霊界の真の認識を求めることになりうるので、若者のメディア全般を否定するものではないとする。重要なのは、メディアでの偽りの霊性と霊的唯物主義への傾向を見抜くことである。

 ナイダー氏は、以上のことをふまえて、20世紀以降の、青少年を対象とする小説や映画等のメディアの隠れた側面を述べていく。

 以下、その部分の抄訳を記載する。

 

20世紀の終わり以来の増大する青年へのメディア世界の影響

 世紀の変わり目に、子どもと青年の世界は完全に変化した。この頃から、新しい神話の特別な形式と呼べる内容が洪水となって押し寄せたのである。それらは、古い神話やメルヘンのように、我々を、別の現実、見かけ上の超感覚的世界と、そして多くの場合、エーテル界と接触させるものであるからである。

 例えば、ルイス・キャロル不思議の国のアリス、ピーター・パンは、これらがもっとファンタジックであった19世紀や20世紀初めとは異なっていると考えることができる。この領域は、子どもと若者の文学だけでなく、そのメディア一般を支配している。

 一方に、トールキンの指輪の王[指輪物語]を筆頭とする古典的ファンタジー小説があり、彼に追随して、オンラインゲームに至る、いわゆる「ハイ・ファンタジー」の無数の模倣者がいる。これに加えて、90年代と2000年以降には、魔術的イメージや儀式を用いる現代の平行世界を舞台とするハリー・ポッターが加わった。既に1995年に現われた「黄金のコンパス」も同様のものである。至る所で、神話的、魔術的力と存在が出現している。ハリー・ポッターによって、新しい神話が世界中に広まるという新しい次元が現実になった。

 その結果として、21世紀の最初の10年の間に、ファンタジーの世界に新たな要素が加わった。ステファニー メイヤーのBisシリーズを筆頭とする、ヴァンパイアとゾンビ小説などの空想小説、都市ファンタジーである。そこに、悪魔ハンターや堕天使の小説が加わってきている。

 しかし、死者や境界現象を扱う小説も常にでている。

 

ファンタジー-ドラゴンとの戦いあるいは単なる逃避?

 これらの文学は、少数の例外を除いて、イギリスとアメリカに由来することが特徴的である他方で、これら全ての小説は、エーテル界とも呼びうる、別の、超感覚的世界に関係しているが、その世界は、たいてい非常に薄暗く、不気味である。その場合、死者の世界も出てくるが、それは不気味で破壊的である。それにより、西のオカルティズムに由来するとして既に述べたようなモチーフが浮かび上がる。

 ファンタジーの父であるトールキン(1892-1973)に目を向けると、彼には、このジャンルの原モチーフも見られる。彼は、第1次世界大戦に従軍し多くの友を失った。その戦争は、恐ろしい破壊をもたらす物質的な戦いであった。彼は、人が、自分をただの物質と見なすと、破壊的な結果に陥ると言うことを、明確に見たのである。そこで彼は、釣り合いを取るものとして、上昇を可能とするものを、彼が「新しい神話」とよぶものを求めたのである。

 彼は、元々、言語学者、神話学者であった。彼は、ゲルマンとアングロサクソンの言語に取り組み、エッダと古アイスランドのサーガ等の古い文献をよく知っていた。彼は、その様な神話は、英語を話す民族には存在しないと考えた。そこで、自分の民族に、言わば自分たちの霊的根源を再びもたらそうと、新しい神話を贈ったのである。それは、最初、人間の前に地上で生きた、人間の始祖を扱った。

 彼は、創世神話の形にしていたが、子ども達に頼まれ、小さな民族、ホビットを創作したのである。

 これにより、我々は、ファンタジー文学の本質的要素、つまり逃避的傾向に至る。このホビット世界には、彼が、破壊的であるとみたもの、つまり技術は何も存在しない。「指輪の王」は次のように始まる。

 「ホビット族は、目立たないが、非常に古い民族である。以前は、今日より豊かであった。・・・土地が豊かで、彼らは、道具を使うのはうまかったが、鍛冶のフイゴ・・など、複雑な機械はわからなかった。」

 トールキンには、超自然と下自然の2つのモチーフがある。超自然は、エルフによって、下自然は、サウロン、指輪の王によって代表されている。

 サウロンには、強力な同士、サルマンがいる。その名付け方に、アーリマンとの類似を見ることができる。トールキンは、神話学者として、ペルシアの闇の力の名を知っていたのである。(訳注:アーリマンはゾロアスター教の悪の神の名でもある)

 指輪の吸引力は、唯物主義の力を表わしており、闇の霊達が及ぼす働きの直接的な表現となっている。その吸引力は、非常に強く、最後に、ホビットのフラドは、それを捨てるのを躊躇するようになる。しかし、小さな奇跡によりそれは捨てられる。こうして、中つ国は、闇の力から救われるのである。

 シュタイナーは、教育学コースで、第1次世界後の状況について、若者達が、ドラゴンを避けるようになったと語っている。

 「20世紀初めに多くの者達が、心の中で経験しているのは、心情的・本能的に、ドラゴンを目の前にしているが、ミカエルを見ることができないといことである。故に、彼らは、できるだけドラゴンから離れようとするのだ。」

彼らは、もはやドラゴンについて知ろうとしない。彼らは、ドラゴンの領域から出ていきたいので、年を取ることから逃げているのだ。これは、若者の運動の一側面である。彼らは、ドラゴンに勝つ見込みを持てないのだ。

 この若者に、当時のトールキンと彼の共闘者も属していた。指輪の王の関係するサークルがあり、ナルニア王国のCSルイスもそれに属していた。彼らはみな敬虔なクリスチャンであり、無神論者ではなく、自分の作品を宗教的確信から発表していた。

 「信仰上の啓示を、人間の認識の流入から厳しく守ろうとする人々においては、人間は、その様な道において、アーリマンの影響に入り込む可能性があるという、無意識の恐怖がある。」

 アーリマンとの格闘は、結局、信仰のために避けられる。霊的認識(その様な道)によって、人間は、アーリマンの手に陥る可能性があるので、人は、人々をそれから守るのである。しかし、アーリマンとの格闘は、霊的認識の道によってのみ行なわれるのである。

 ある場面で、トールキンのファンタジーの後退的傾向は明瞭になっている。・・・

 トールキンにより道を付けられたファンタジー文学は、結局、逃避の運動を示している。人は、そこではまだ霊的認識なしで、心の力のみでドラゴンと戦うことができた工業化前の世界に戻ることにより、霊的認識力の把握によりドラゴンとの戦いを避けるのである。

「古代において人は、ドラゴンを取り出すことにまだ関わっていたが、必要な量の死の力を一緒に得ることができたので、ドラゴンを屈服させることがまだできた。当時、人は、その体験に、心の力で克服することができるだけの知性的なものを付与していた。今日、ドラゴンは、強烈に客観化しており、外から我々にやってきて、魂の存在としての我々をむさぼり食うのだ。・・・15から19世紀に人間は、ドラゴンに対して無力となった。物資的世界への信仰に次第に陥った時代である。」

 トールキンは、外的に客観化したドラゴンを感じた。彼は、闇の霊の転落を予感したのである。しかし、彼は、新しい神話では、ドラゴンと戦う適切な武器を見いだすことができず、古い手段に頼ったのである。

闇の霊達は、指輪の王で、シュタイナーが、西のオカルティズムの現象形態として語った形で、つまり地上につなぎ止められた死者達として現われている。指輪の幽鬼達(訳注:サウロンに仕える邪悪なるしもべ)は、前世で、指輪、物質主義の誘惑に引き込まれたことにより、死んでもそれから自由になることができず、指輪の王、サウロンに使われているのである。

 「人間の魂は、純粋に霊的存在であり、肉体に対して完全に自立していることを知っており、しかし、人間に唯物主義的心情を育みたい秘儀参入者は、何を望むだろうか。彼らは、できるだけ多くの魂が、生きている間に、ただ物質的な概念だけを受け入れるようにしたいのである。それによりこの魂は、地上世界に留まるよう準備されるのだ。このことをよく知り、あの関係をよく認識している友好関係が築かれると、この関係は、この人間の魂が、死後に物質界に留まるようにするのである。この友好関係は、多くの場合悪意ある権力の中にあるが、この魂が、死後、この兄弟団の勢力圏内に来るようにすると、この兄弟団には、とてつもない力が生まれるのである。」

 トールキンの描く死者の参入の仕方は、西のオカルティズムの目的についての、シュタイナーの記述に性格に一致している。彼は、唯物主義への転落の背後で何が働いているかを無意識に知っていたが、それに対抗する手段を知らなかった。

 

 ハリー・ポッターにおいても、西のオカルティズムの形態に密接に付属する悪の出現形態が見られる。それにより、霊的なものはすべて、驚異的、破壊的な形で現われる。そしてそれは、地上につながれ、破壊的な作用を及ぼす死者の世界から生まれるのである。しかし、ハリー・ポッターの魔法使い達の周りの混乱は、闇の霊達の転落による悪、結果と古い手段により戦うことができるという、ルチファー的幻想を呼び起こす。

 今日の若者も、当然、ドラゴンの実在を感じている。しかし、ファンタジー文学で目覚める希望は、過去の手段によりドラゴンと戦えるということなのだ。

その場合、エーテル体への死んだ書き込みも呼び出される。ルチファーは、体験の古い段階に人間を留めようとするものだからである。彼は、意識的な体験で、認識を前提とするエーテルへの現代の覚醒を妨げようとしている。ドラゴンからの逃避は、アーリマンを避けるが、ルチファーに導くのである。

 「原初の存在に留まること、根源的で素朴な、人間を支配している神的善を保持し、自由が完全に用いられることから退こうとすることは、全てが人の自由の発展に向かっている現在のこの世界にいる人間を、しかし、現在の世界を否定しようとするルチファーへと導く。」

 確かに、指輪の王の最後に、指輪を破壊するという大きな使命は果たされるが、「善き神々」、エルフ達は、人間から去って行くのである。それにより、ドラゴンとの戦いも終わる。全叙事詩は、従って、後ろを向いた性格を常にもっているのだ。

 

映画とファンタジーロールプレイングゲームサウロンの自己主張

 トールキンの創作したジャンルの後退的なイメージ、ファンタジーは、20世紀の終わりに、拡大の新たな頂点に達っした。

 90年代の終わりに、ピーター・ジャクソンの映画化が現われた。パラドックス的であるが、コンピューターの世界へと広がったのである。

 トールキンは、本でも私生活でも、テクノロジーに批判的であったからである。最初は、テープレコダーにも拒否反応を見せたくらいである。

 更に一歩進めたのは、ウオクラフトの世界のオンラインゲームである。指輪の王を手本にして、世界中でインターネットの中で、若者がゲームをしている。彼らは、ルチファー的なドラゴンとの戦いに没頭しているのである。また同時に、アーリマン的技術によって画面に釘付けになっているのだ。トールキン的に言えば、サウロンの指輪に占有されているのである。新しい神話によってドラゴンとの戦いに勝利するというトールキンの希望は、今やここにおいて、すっかりとその幻想的性格を示している。

 

ロマンチック及び都市ファンタジー-霊界はベールで覆われる

 子どもや若者の文学等に現われているものは、19世紀の心霊主義の霊的唯物主義の現代版である。

 ステファニー・メイヤーは、J.Kローリングの後に世界的に成功した作家である。彼女は、モルモン教徒の両親に生まれ、30歳の時に一組の恋人の夢を見た。ベラとバンパイアのエドワードである。その物語は最も成功したバンパイア・サーガとなり、新しいジャンル、ロマンティック・ファンタジーを生み出した。

 バンパイアとは、19世紀にドラキュラ伯爵の形で世に出てきた。それは、バルカンの民族的サーガであり、その小説の作者ブラム・ストーカー(1847-1912)が発表する以前は、全く知られていなかった。バンパイアは、死者だが、不死であり、地上的なものから自由になっておらず、人の血を求める。ゆえに、それは、シュタイナーの語る、闇の霊達の転落後に、唯物主義により唯物主義的観念に貫かれた死者達の似姿である。彼らは、死後、物質界に留まり、闇の霊達のとりこになり、破壊的な働きをする者達である。彼らは、霊的な認識を欠いて、地上に縛り付けられたのだが、地上的愛が、死後の生において変化することによっても、その緊縛は強められる。

 「しかし人は、物質的存在と生きることにより、地上界で感覚的考え方により得たものへの愛の力を霊界に持って行く。その愛は、既に、物質界で、その物質界を理解することにより発展したものにより既に燃え上がっているのである。現代の自然科学によるその世界観的体験は、心情として受け入れられると、それに対する愛を発展させるのである。愛は、それが広がる場所に応じて、高貴なものにも低次なものにもなるものである。人が死の門を通り、地上界に破壊の中心として留まり続けなければならないなら、多くの愛をも育んだのである。留まらなければならないということは、純粋に自然的な概念に結合した結果であるから。しかし、この愛を破壊的な行いに用いており、その行いを愛しているのである。自分自身で、破壊的な行いを愛していると見なすように定められているのである。」

 バンパイアにおいては、彼らは、愛しているが、その愛は破壊的に作用するのだ彼らは、言わば、唯物主義的心情の死者である。それまでその様な小説を考えたこともなかった若い小説家は、どこからこの夢を得たのだろうか。ローリングと同じように、彼女は、自分の知らない存在に憑依された犠牲者なのである。(訳注)

(訳注)ハリー・ポッターの著者のローリングは、列車に乗っているときに、突然そのもの語りの着想を得たという。つまりインスピレーションを得たのである。バンパイア物語の『トワイライト』の作者ステファニー・メイヤーは、その着想を夢で得たという。つまり二人とも、何者かからインスピレーションを受けたのであろう。

 

 シュタイナーは、今日、闇の霊達の転落以来、人は、思われている以上に夢により霊界からインスピレーションを受けていることを示した。この人間が、霊的なものに明瞭な認識を持っていないと、内面では唯物主義的であると、闇の霊達の道具になるのである。

 第2のジャンルは、都市ファンタジーである。それは、より荒涼としており、暴力的で、リアリスティックである。ここでは、バンパイアと人狼だけでなく、デーモンとして闇の霊的存在が現われる。そこでこの小説には、デーモン・ハンターが出てくる。ここには、明瞭に、闇の霊達の似姿を相手にしている。この小説では、物質界に直接接する世界(訳注:本来それはエーテル界である)は、実際上こちらでもあちらでも境界が存在せず、脅威をもたらす、不安にさせる仕方で現われており、出版社のその宣伝では、「超自然的なものがドアをたたくとき、あなたは、開けるだろうか?」と問うメッセージが使われている。

 人は、この小説によって、闇の霊達はまだ物質界に接するエーテル界で生きており、ミカエルにより堕とされていないと言う印象を持つ。しかしそれにより、エーテル界から、本来の霊界の真実と相容れない、闇の印象が生まれる。それによって、超感覚的なものの誤ったイメージが作られ、これによって、若者は、霊的なものへのワクチンを接種されるのである。

 このジャンルで成功しているのは、カッサンドラ・クレア[「シャドウハンター」シリーズ]である。

 このような小説では、物質主義的なものの克服やより高次の認識が、超自然に対峙する下自然を認識するために、必要とされず、そもそも霊的次元は問題とされていない。脅威をもたらす超自然的なものを排斥し、それから自由になることが重要なのである。

 19世紀の心霊主義の直接の子どもである、死者を知覚する能力持つ少女の物語がある。ケリー・アームストロング等である。この小説では、誰も、人の霊的本性を実際に把握することはできない。それが、著者達の気づいていない、この全てのたくらみの背後にある意図である。

 西のオカルティズムとカトリック教会が、輪廻の思想を覆い隠そうとしていることについて、シュタイナーは、語っている。

 「ある指導の下にあり、輪廻転生の教えが真理として人々の間に現われるのを望まなかった人々がいる。それを望まないなら、その教えを隠し、秘密にしなければならない。そのために、人々は、死と誕生の間の生の真の観察からそらされ、この秘密なしに、誕生と死の間の生を受け入れ、そのようにこの地上生を継続している存在がそこにいるかのように、霊媒から説明を受けるようになるのである。

 この分野で起きる全てのことには、多くの計算がある。その様なことを企てるオカルティストは、左の道に属するとき、当然ながら、ある秘密から人々を切り離すためにすべきことを知っているのである。」

 左道の西のオカルティストと高教会(訳注:主にイギリス国教会の伝統派)の近くにいるオカルティスト達は、19世紀の心霊主義霊媒術をとおして、この糸のもとに共に働いていた。そして、死と新しい誕生の間の生に覆いを掛けることにより、輪廻転生の考えを抑圧したのである。心霊主義について、シュタイナーは、語っている。

 「全く唯物主義的な性向は、しかし、唯物主義を信じないのではなく、唯物主義の中で、霊的世界観を求めるために、ルチファー的なものをその世界観の中に持つと言うことはあり得る。19世紀の人間の典型は、頭は完全に唯物主義的性質であるが、心は霊的なものを憧憬していた。このような場合、そうした人間は、物質の中に霊的なものを求めるのである。そして、霊的なもの自身に物質的形態を与えるのである。

 その様な人の背後に全てを見通している人物がいるとすると、この人物は、その様な人を軽くあしらっているのである。この人物は、この人間を、他の人々が霊的なものを物質的に見るように仕向けるように準備することができ、うまく、人々を光の背後に導くことに成功するのだ。」(訳注)

(訳注)キリスト教は一般的に輪廻転生の教えを持っていない。シュタイナーによれば、それは、人類の発展の一時期に必要なことであった。しかし、霊界の認識においてそれは不可欠の思想であり、人類はそれを取り戻さなければならない。シュタイナーの本来の使命は、このことにあったと言われている。

 

 結局は唯物主義的性向の人間は、霊界についての明瞭な考えを持っていない。それにより、悪の実態について誤った観念を持つのである。ルチファーとアーリマンの2つの悪の形態を区別できず、混同するのだ。

 「両者を区別せず、ごっちゃにすると、アーリマンのイメージ、アーリマンの世界として人を欺くものを、ルチファーがアーリマンを助けるので、受け入れ、ある誤りを真実として甘受するよう切望するようになるのである。

 この驚くべき事実が、最高度に生じた。本来は、アーリマンの誘惑により、唯物主義の時代にのみ栄える誤りが、ルチファーが内側から助けることにより受け入れられることになったのである。アーリマンは、外的な現象の把握に紛れ込み、欺く。しかし人は、世界観におけるその様な唯物主義的考えを煽る様な切望を、人の内面でルチファーが覚醒させない場合には、その策略に陥ることはない。」

 唯物主義的世界観で働いているアーリマン的闇の霊達が、認識されないのは、ルチファーが、同様に知られることなく、この唯物主義に、エーテル体へのあの死んだ書き込みに由来する憧憬が、それにより一見満足させられる一種の偽りの霊性を紛れ込ませるからである。このようにして、霊的唯物主義に奉仕する本や映画などがどんどん現われており、それにより、霊的なものの真の性格を覆い隠しているのである。

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 エーテルを巡る闇の霊達の攻撃の道具としてのメディアに関わる話は更に続く。②では、日本のアニメについても触れられる。