k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

メディア界による「霊的なものに対するワクチン」②


 ①では、霊界(エーテル界)の認識から人類、特に若者をそらすために、歪んだエーテル界のイメージを注入する「ワクチン」がメディアを通して行なわれているとして、いくつかの海外のファンタジー文学が分析された。

 トールキンら初期のファンタジー文学にも問題がないわけでは無いが、彼らは敬虔なキリスト教徒でもあり、その様な視点からの物語であったのに対して、現代的ファンタジー文学においては、霊界が暗黒界として描かれ、マイナスのイメージが支配しているようである。またその背後には、作者に、こうした物語のインスピレーションを与える存在がいることも示唆された。

 さて、今回は、その続きであるが、前半とは異なり、多少肯定的な評価がなされる作品もあり、その中では、日本のメディアについても触れられている。以下、その部分の抄訳を掲載する。

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物質界に直接接する霊的世界

 シュタイナーが物質界に直接接する霊的世界と呼んだのは、エーテル界である。彼がこのような表現を使ったのは、この世界が我々のすぐ近くにあるからである。この世界で、19世紀の40年代以来、ミカエルと闇の霊達の戦いが起きて、その結果、闇の霊達は、その世界から物質世界、我々の地上的意識に転落したのである

「物質世界に、直接、別の超感覚的世界が隣接している。この超物質的世界が、この時代ほど強力に働きを及ぼす時代はなかった。ただ人はそれに気づいていないのである。人の魂の周りで、恐ろしい状態となっていても。」

 シュタイナーは、闇の霊達の転落に関する更なる秘密を語っている。それを知っている西のオカルティストたちは、それを知っていることが大事であることを明かそうとはしないのだ。その際、彼は、エーテル界に、過去の人々がその存在を経験したことがないエレメンタル霊が存在していることに注意を促した。彼は、これを、誕生と死のエレメンタル霊と呼んだ。エレメンタル霊は、誕生と死を生み出すためにおり、神々は、誕生と死を生み出すために、生に対して敵対的で破壊的な性質のこれらの存在を用いなければならなかった

「これまで秘儀に参入した者は、この誕生と死のエレメンタル存在について広く人々に語ってはならないことを自分の厳格な使命と考えたのである。」

 シュタイナーは、現在のエレメンタル霊について更に語っている。神々は、全発展期間中にある特定の時点に至ると、以前は人間の支配から除いていたある力を、人間の支配下に譲り渡さなければならない。それは、アトランティス時代にも行なわれた。アトランティス時代の中頃に、成長力を、成長力に結びつくエレメンタル存在を人間に引き渡したのである。しかし、人間はそれをきちんと扱わず、誤用したので、結局アトランティスは沈んだのである、

 後アトランティス時代にもそれは行なわれたが、それは、誕生と死のエレメンタル力である。それによってのみ、自然科学と技術の成果、近代の技術的発見が成し遂げられたのだ。全ての技術的発見、特に電気は、エレメント的力が神々から人間に移行したことの表れである。

「文明は前進しなければならない。我々の時代と未来の文明は、次のようになる。誕生と死のエレメンタル霊は、ある時点までは、人間の生成消滅においてのみ、神々の指揮の下に働いていた。エレメンタル霊は、それをもって誕生と死において働いていたその力により、技術、工業そして商業などで働いている。・・・アトランティスと同様に、今、商業的、工業的、技術的文明として開始されているものには、第5文明期の崩壊に導くものが含まれている。我々は、カタストロフィを引き起こすに違いないものに働きかけ始めているのである。

 それは回避できるのだろうか。シュタイナーは、この発展には、回避できない鉄の必然性が問題になっていることを指摘している。全ての発展形態は、上昇の期間だけでなく、下降の期間があり、それにより新しい発展プロセスが始まるのである。この法則は、7の通じに反映している。上昇の3つの期間、中心期間、そして下降の3つの期間があるのだ。

 西の民族の秘儀参入者には、境域(訳注)に、一面的な体験が現われる。

(訳注)「境域」とは、物質世界と霊界の間の境のことで、通常の意識ではこれを超えることはできない。そこには、監視をする霊的存在がいる。しかし、シュタイナーによれば、霊的進化により、今、人類は無意識のうちにこれを超える体験をしているという。

 

「境域を超えると、人は、以前見たことのないアーリマン的デーモン、死、病気、破壊等のデーモンをお供にする。それは、人を、超感覚的認識へと目覚めさせ、それが、人を霊界に至らせるのである。」

 しかしこの存在は、メディア制作者、著者、映画制作者等として活動する者にとって、全く意識されず、その作品に紛れ込んでいるのだ。

 以降において、更なるジャンルに向かうが、そこでは、「超自然」ではなく、人間自身により作られた技術の破壊的力として、「下自然」が現われている。

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 物質世界の中に人の肉体があるように、エーテル界の中に人のエーテル体がある。霊界もいくつかの領域に分かれているのだが、その中で、エーテル界は、最も下位の、ということは最も物質世界に近い霊界である。

 そして今、人類は、このエーテル界を認識する新しい霊的認識能力を獲得しつつあるのである。

 一方、人は、自我意識の発展のために物質世界に受肉する必要があったのだが、本来霊的存在である人が物質世界に受肉する(誕生と死を経験する)ためには、誕生と死のエレメンタル霊の働きが必要であったと言うことらしい。そして、近代以降、この霊の働きにより、商業的、工業的、技術的文明が発展してきたということであろう。

 その霊は、下自然(物質以下の世界)を志向しており、無意識の中で人間にその様な影響を与えているのである。

 これらをふまえて、次は、メディアの別のジャンルについて語られる。

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サイエンス・フィクション-霊的構成物の現代の形態

 20世紀の80年代から、サイエンス・フィクションサイバーパンクと呼ばれるジャンルが発展してきたサイエンス・フィクション自体は、19世紀の半ばから、主にアングロサクソン空間で発展してきた。

 60年代のフィリップ・K.ディックに始まり、その後継者には、ウィリアム・ギブスンやタッド・ウィリアムズ(「アザーランド」)らがいる。4つの「アザーランド」小説では、重度の昏睡状態にあり、インターネットの深層に捕えられている子ども達を、大人達が探しに行くというものである。その前提になるのは、ほぼ全ての感覚がインターネットと完全に融合しているインターフェースである。

  20世紀の終わりに、同じような設定の映画「マトリックス」が書かれた。ここでも、人類は、ネットワークの支配下にある。服従しない人間達が、下自然と闘っているのである

 ここでも、下自然に対し超自然を対峙させることには成功していない。

 超自然を対峙しない、下自然との関わりを扱うもう1つのジャンルは、ディストピア小説である。

 ジェームズ・キャメロンが、最初の映画ターミネーターの着想を得たのも夢であった。

 ここで何が描かれているのだろうか。主役の女性(ジョン・コーナーの母)の行為は、別の時間にあり、天使の時間意識を前提にしている。天使の体の最下層の要素は、エーテル界であり、天使にとって、人が体験するように、物事は時間的に順番に生起するのではない。従って、天使は、人の全生涯の出来事を一度に見る。映画のシリーズでは、主人公達は、ターミネーターの知らせにより、自分たちの未来の運命を知る。ここに、対応する鏡像が現われている。エーテルの霊的現実では、人間の上に立つ天使は、運命の流れの眺望をもっているが、ここでは、スカイネット-その名はエーテルを示唆している-の組織のために働く、人の下に位置する機械、サイボーグが、それをもっているのである。霊界への境域で、霊的な力が純粋に破壊的なものとして体験される。これは、西のオカルティズムの同じシグナルである。

 ここでも、転落した闇の霊達の模像がある。しかし、本来のエーテル界は決して見られない。

 同じような模像は、「スーパーナチュラル」でも見いだせる。

 霊的唯物主義は、霊界を真似る。歪んだ形で霊界を示して、霊的視野にベールを掛けるのである。これに「ワクチン」が成立する。誤った霊性が接種されることにより、全ての霊性への拒絶が生み出されるのである。

 霊的唯物主義の歪んだ像に対しては、本来の正しい像を問わなければならない。

 

エーテルの真のイメージ?

 エーテル界の真のイメージを示す例を見てみよう。

 アヴァターの成功の理由は何だろうか。そのストーリーも脚本構成も特にオリジナルであると言うことはない。監督のキャメロンは、いくつかの素材から構成したのである。彼は、彼の頭の中のイメージを映画化するためにコンピューター技術を一緒に発展させてきた。それた彼のオリジナリティである。

 しかし、技術面がこの映画の成功の理由ではない。アヴァターは、現在の世界的な様々な危機的状況を反映しているのだ。自然破壊、軍産複合体により破壊、利益優先の経済状況等々 我々の惑星が存続を続けるためには、それらを止めなければならない。ここにも、トールキン以来の、エコロジー的メッセージが見いだされる。

 キャメロンは、ターミネーターからの転換をアヴァターで見せている。ファンタジー的世界、惑星パンドラに、そう遠くない未来の軍事-工業複合体を対峙させているからであるパンドラでは、知恵の木、人間の堕罪に対し、生命の木、天国的生命界が対峙している。ノアの洪水以前の原初的人間、植物、動物世界が、軍事-工業的拡張主義と対決しているのである

 惑星の住人ナヴィがエイワと呼ぶより高次の実在が存在する。ナヴィの霊的な生命力、ナヴィを導く力であり、全生命を貫いている。全生命は、それによりつながっており、それは、共通の結節点、魂の木に流れている。ここで人は、初めて一種の超自然に出会う。この生命の木は、今日のインターネットの肯定的な対極像のように見える。この木に、ナヴィ達は、ログインできる。生物界の全ての記憶、体験が流れ込んでいる。一種の集合的記憶エーテル的心象、アカシック・クロニックである。外的物質に浸透する霊的生命原理への洞察は、事実上、エーテル界の正しいイメージと呼ぶことができる。

 キャメロンは、ターミネーターの下自然から、一種の超自然に転換したのである。

 しかし、後味の悪さもある。破壊都市の悲惨な戦いで終わるからである。

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 ここでは、キャメロン以外の作品も語られているが、それらは省略した。スカイネットが支配する未来像は、おぞましいものであるが、シュタイナーは、蜘蛛のような半機械の生物が地球を覆っている未来世界について語っており、これを思い出させる。

 これに対して、アヴァターで出てくるネットワークは、生命の木であり、生物全体を根底で支えているエーテル界を思わせるものである。

 次は、いよいよ日本のメディアが登場する。

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宮崎駿と日本アニメの世界

 エーテル界の真のイメージの2つの例を更に指摘しよう。それは、アメリカではなく、日本に由来する。そこでは長年、アニメやマンガの世界で、今日のポピュラー文化におけるエーテルの感覚的イメージが見いだされる。宮崎駿の、もののけ姫千と千尋の神隠し、天空の城、ナウシカのような作品、また久保帯人のブリーチのマンガシリーズ等を通して、日本を見ると、ここでは、よりリアルなものとそうでないものがあるが、エーテル界への関係が、特に芸術的観点でも、存在しているようである。ここでは、キャメロンの映画以上に、「すべての霊的なものに対するワクチン」という意味で、対抗イメージの感じはしない。むしろ、これらの映画に長く取り組むほど、エーテル領域への繊細な感受性の感覚が生じる。ここで出会うのは、破壊的な力、地上に緊縛された死者だけではない。マンガとアニメのアジア的世界に、エーテル界、そしてまた死者の世界の脅威への心配が生きており、従って、破壊ではなく、超自然との関係の破壊ではなく、それを守り育むことが重要なのである。

 中国のタオイズムとも似た、日本の神道信仰に由来する自然と死者へのこの尊敬的態度は、宮崎の作品で、人間の技術の破壊的力と対決している。今では、人間の手に移行した、エーテル界に関する中で既に部分的に触れた破壊的なエレメント的力に対して、ここでは、友好的な、自然との平和的な交流の意味で働く存在が対峙しいている。それにより、人間は、超自然に近づくと、破壊的な力とのみ関わることとなるアメリカの映画とは異なり、良い霊と悪い霊と関わるようである。

 宮崎駿においては、70年代、80年代の初期の映画で既にエーテル世界と向き合っていた、彼の全作品で、これが表現されている。宮崎は、1941年1月5日に、東京で、航空機部品製造事業家の次男として生まれた。彼は、1963年に東映スタジオに入る前に、4年間、政治学と経済学を学んだ。80年代初めに、彼は、それまでで最大の作品、ナウシカの制作を開始した。この作品のヒロインがナウシカというのは偶然ではない。なぜなら、ホメロスがオデッセイで描いたパイアケス国の王女(ナウシカ)は、このギリシアの神話では、オデッセイの記憶力がそこで再生、強化されるエーテル界のイメージとなっているからである。1984年に完成したこの映画で、宮崎駿の原モチーフが既に現われている。即ち、空気、軽さのエレメント、飛翔、脅威にさらされた自然、自然のエーテル力を維持するための格闘とその破壊に対する戦い、死者への尊敬をもった交流である。ナウシカの成功により世界的名声を得た彼は、スタジオ・ジブリを設立して、そこで、彼は、以降、自分の作品を制作していく。それにより彼は、日本を代表するアニメ作家となったのである。もののけ姫を制作した後、彼は、若い才能に席を譲るために、監督の引退を表明した。しかしその後、復帰し、千と千尋の神隠し等の作品を制作していった。

 宮崎映画は、なにより、アメリカのプロダクションの影響を受けることなく、歪みや、意味のない暴力、他人の不幸を喜ぶような傾向を持つことなく制作されたことで、際立っている。宮崎は、オリジナリティーをもって自分が創作した物語を、子どもの視点で、ユニークな仕方で伝えることを理解している。彼は、その際、しばしばヨーロッパの文明空間からそのモチーフを得ている。ナウシカは、ホメロスのオデッセイ、天空の城の雲に浮かぶ島、ラピュタガリバー旅行記ハウルの動く城は中世のメルヘン、ポニョはアンデルセンの人魚姫によっている。

 宮崎においては、自身のイメージ言語により、実際にエーテル世界に接近することが可能となっているのだ。彼が、最も印象的にこの軽さ、エーテル的なものの世界を描いているのは、1986年のジブリ作品、天空の城ラピュタである。この作品では、二人の主人公が空の上のラピュタに昇っていく。それは、雲の中に浮かぶ島であり、その城は、生命の秘密を隠している。その一人、シータは、浮遊する力を持つ宝石をもっている。この映画で描かれているのは、重さのない、つまり地上世界ではなく超自然の世界である。

 従って、宮崎駿の映画にはほとんど、対抗する2つの前線が現われているのがわかる。外界の背後にあるより高次の自然を知っている、シータとパズーのような人々と、人間の破壊的物質的世界を代表する、政府のエージェントのムスカのような人々である。

 シータ達が天空の城に行き、そこで見たのは、平和な自然の風景であった。ここにも、宮崎の超自然の理解が現われている。そこには、破壊を行なう人間はおらず、むしろ、自然の力に似た、動植物たちを世話するロボットがいるのである。シータ達は、ムスカに捕まるが、彼に打ち勝ち、ラピュタを離れる。巨大な木により爆発を免れたラピュタの上部の平和な町は、天空へとどんどん昇っていく。

 破壊的力、技術の下自然への入り口が、人間達に与えられたが、彼らは同時に、超自然を知覚することもできた。それは、ラピュタの二人の子孫、ムスカとシータにより代表されている。しかし、人々は、破壊的力を、軍隊のように、自己の利益のために乱用したので、城は、人間が到達できる天空に留まることができず、消え去ったのである。

もののけ姫」では、自然の霊的な力がまだ完全に消えていない中世の光景が描かれている。イノシシの形をした自然霊を殺したアシタカは、自分に掛けられた呪いを解こうとする。彼は、自然を破壊する人間達と、鹿の形をした神が支配する森の霊や動物たちとの戦いに巻き込まれる。この生命の支配者に、若いオオカミ少女もののけ姫が仕えている。人間の自然に対する破壊的な支配と、治癒的であるが悪いもののようにも見える自然の力の戦いが、ここでも、宮崎駿の主モチーフを表わしている。

 千と千尋で、宮崎駿は、アニメにより、より高次の別の世界の雰囲気を創造している。

 ブリーチでは、尸魂界(ソウル・ソサエティ)という死者の世界が描かれている。・・・

 ここで特徴的なのは、死後の生が発展の道とみられていることである。それは、時間が経過した後、生あるものの世界への再受肉へと導く。神秘儀参入者達は、尸魂界、死者の世界に入っていけるが、その世界は、外側のルコン区域と中心のセイレイテンの2つの区域に分かれている。・・・

 特別なのは、作者の久保帯人が、この世とあの世の関係と相互依存をかなり正確にイメージして描いている事である。この実際に霊的にインスパイアーされたマンガ世界が、日本で大きな成功を収めていることは興味深い。

 これらのイメージは、未来にとってどのような意味を持っているのだろうか。これらのメディアの内容は、世界的に、大部分の若い世代にとって、一種の理想像の役割を持っている。超感覚的なものについてのよりリアルなイメージは、若い人達が、真剣に霊界に取り組むことになるのだろうか。

ミカエルの使命は、それにより思考の影が再び生命を得ることになる力を、人のエーテル体にもたらすことである。すると、命をもった思考に、超感覚的世界の魂や霊達が近づいてくるようになる。解放された人間は、かつてそうであったように、それらと共に生きることができるようになる。人間は、それらの働きの地上における模像にすぎない。」

 超感覚的世界の魂や霊達は、少なくとも、日本のアニメ映画で、人間達に近づいてきている。しかし、その人間達がそれに対して行なっているのは、自分のエーテル体を活性化することではない。自分の肉体を鍛えることである。剣術等で。闇の霊達が住むようになった領域、つまり感覚界に結びついた思考を変様する必然性は、インスピレーションを得た東洋のメディア世界でも、明白になっていない。身体的格闘術は、おそらく霊的修練の予備段階と見なされうるだろう。アニメやマンガで優勢なイメージは、これに対して、自立した思考を麻痺させるように働く。特有のイメージ豊かな表象は、最初に発展すべきものではないからである。その限り、このメディア自身は、霊界の真の学問の代用品、即ち、子どもと若者の場合には、人間に適した霊的教育法とは決してなり得ない。

 

霊学とミカエルの使命を巡る戦い

 ミカエルは、アーリマンによって意識を混濁させられ、エーテル界にただ闇を広げようとしている天使達からエーテル界を開放しようとしている。ミカエルは、1879年の彼の統治の初めから、人間の思考により到達可能な霊的世界、物質界に直接接した世界を体験させることを望んでいる。そのため、彼は、闇の霊達を地上に、即ち人間の物質的意識に転落させたのである。そこで、それらは、医学的人間学の歴史に見られるような働きをしたのである。

「この天使存在達は、地上に転落し、滴下により、ここで災いを引き起こそうとしている。ここで、この知識を誤った方向に導き、それから善い力を奪い、それを悪しきルートに導こうと、即ち、向こう側で、霊達の援助により獲得することができなかったものを、1879年以来転落したので、ここで人間の助けにより、達成しようとしているのである。彼らは、正しい成熟期に、群衆統治の知識、誕生・病気・死等々の知識を人間の間に広げることの内に存する善き世界計画を破壊しようとしている。」

 しかし、ミカエルの働きはパラドックスである。彼は、よりによってなぜ闇の霊達を人間の物質的意識に転落させたのだろう。その転落には、別の結果が存在する。それによって初めて、思考を通して形成される霊学が発展したのである。思考は、霊的なものに迫るには、物質において言わば、疲れるまで働かなければならないのだ。

人は、唯物主義への転落をただ目にし、そしてそれを悲しむことができるだけである。しかし、この時代に観察することができるのは、物質世界に限られたが、魂の内面では、人間の、純化された、自己自身の内に存立する霊性が、体験として発展したのである。この霊性は、今、ミカエルの時代には、もはや無意識のままに留まることはできない。自己の特性を意識しなければならないのである。

 1879年以前には、霊界への参入は、思考の道によっては可能でなかった。人が、霊界に入ろうとすると、意識は、完全に覚醒したままではいられなかった。シュタイナーは、この霊学の先駆者を薔薇十字会と呼んでいる。しかし、彼らは、自分たちの知識を広める際に、霊学を用いることはできなかった。従って、彼らは、公に現われることもできず、知られることなく、選ばれた個人的な弟子にのみ関わったのである。公開するには、普遍的に思考が用いることのできる学問が必要だからである。その代わり、彼らは、「薔薇十字の図」と呼ばれる一種の図版の教科書を持っていた。シュタイナーによれば、

「正しく没頭すれば、人は、この図を通して、窓のように、霊界をのぞき見ることができる。彼らは、それらの図で感情的に体験できるものを、彼らが図の意味や解釈を与える以上に、記述した。そしてしばしば、この図で、その人物の体験のそのような言葉が語られるのを聞くと、思考によっては正しく理解することができなかった。彼らが与えるのは思考ではないからである。しかしそれは、重要な作用を後に残したのである。・・・自分の内に生きているが、概念化できない認識を得たという感情が生まれたのである

 それは、14世紀から18世紀終わりまでの人間性において、感情によって、神的なものを広範囲に告げて広めた仕方の1つなのである。この時代には、多くが、人々の間で思考を使わずに、やりとりされたのである。」

 1879年から、ようやく霊学は可能になったのだ。それ以前は、感情でのみ把握されていたので秘密にされていた超感覚的世界の知識を公にすることが可能になったのである。先入観のない思考により把握されることが可能になったのである。

 しかし、闇の霊達は、この道を妨害しようとしている。

「しかし、この天使的存在達が地上に転落し、この知識を誤った方向に導こうと、それから善の力を奪おうとしている。」

 そして、超感覚的な知識を誤った方向に導く主要な手段の1つが、これまで述べた、メディアなのである。メディアはまた、まだ若くて完成していない思考により、可能な限り早い時期に、霊界の認識を妨害するために、特に若者に向けられている。

その際に特徴的なのは、西洋のインスピレーションを受けたメディアでは、闇の霊達の霊的リアリティの反対像が描写されていることである。そこでは、物質界に直ぐに接する霊界は、闇の霊達で溢れており、逆に、ミカエルとの戦いが消え失せ、エーテル界での戦いでこの霊達が勝利を得たかのような印象が常に与えられることである。

 今日のように、多数のこうしたメディアの内容が現われる以前、著者は、個人的には、霊界に接近する素朴な試み、つまり曖昧さや異質さが問題だという印象を持っていたが、今日においては、その創造物を意識することなく、全ての霊性に対するワクチンという意味で、霊的リアリティを暗黒のものにする目的にのみ役立つ、霊的リアリティの正確な対抗イメージがここでは問題であると確信している。

 このメディアの内容は、従来のものを越えている。それは、表象力を感覚世界に固定するのだ。しかしさらに、霊的なものへの対抗イメージを拡散することにより、それに対するワクチンとなるのである。それは、闇の霊が支配する下自然のイメージである。

 このようなワクチンの攻撃を意識することが、今日の若者の教育において大変重要である。

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 ナイダー氏が日本のアニメに触れているのは驚きである。宮崎作品などは、やはり海外でも有名なようである。また作品が知られているだけでなく、その内容についてきちんと分析がされ、一定の好評価がなされている。
 宮崎作品には、シュタイナーの語るエーテル界と通底するものがあるようである。
 実は、シュタイナーは、日本から発する唯物主義的インパルスは強いと言うようなことも語っている。現代の日本文化には確かにその様な傾向は否めないだろう。しかし、一方で、人智学派から評価される一面もあるようだ。全ての現象に善と悪が混在しているのだ。あるいは、唯物主義的傾向を世界に発する日本にも、それゆえに、真の霊界に向かうインパルスが、霊的存在により与えられているのかもしれない。

 さて、今回は、シュタイナーの語る「霊的なものに対するワクチン」として若者のメディアが語られたのだが、コロナ・ワクチンにもそのような影響を指摘する声がある。ワクチンにも、実際にはいろいろあるのかもしれない。
 本来なら、人類は、今後、物質世界の認識に、霊的な認識を加えていかなければならない。そのために、エーテル界(そしてそこでのキリストの再臨)を認識する能力が自然に備わっていく時代が来ているのだ。
 これは、闇の霊達にとっては大きな脅威である。これを必死で妨害しようとしているのである。現代世界の様々な危機を、このような視点で見ることも必要だろう。
 危機の多くは、確かに人間が造り出したものだ。戦争の原因はまさに人間にある。病気の多くも実は、人間由来であると言える(有害な物質による汚染等)。二酸化炭素とは別に、気候変動、災害の増加すら、シュタイナーによれば、人間の唯物化の結果なのである。
 一方で、それらに人類を導く存在もいる。危機を造り出す人間の背後に霊的存在がいるのである。こうした真実を先ず知ることが必要なのだ。