k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

「二人の子どもイエス」とは ㉔

タイナッハの教示画の全景

 秘教的キリスト教に伝えられてきた「二人の子どもイエス」の教えを公に説いたり、表現することは異端とされ、それは死をも意味した。しかし、それを密かに描く絵画や彫刻等の美術作品も存在した。これまで、これを研究したヘラ・クラウゼ=ツィンマーとデイヴィッド・オーヴァソンの著作を中心にそれをみてきたが、今回は、別の本を紹介したい。
 それは、エルンスト・ハルニッシュフェガー氏の『タイナッハの教示画の世界像 バロックの神秘』という本である。これには、邦訳があり、工作舎から刊行されいる。この本の著者略歴によると、ハルニッシュフェガー氏は、1924年ドイツ・ライプツィヒ生まれで、大学で美術史や哲学を学んだとされるが、フランクフルトの自由バルドルフ学校の校医を務めたとあるので、職業は医師であろう。バルドルフ学校に関係しており、この本の内容から見ても、ハルニッシュフェガー氏は人智学派であることが想像される。
 タイナッハの教示画とは、ドイツのバーデン=ヴュルテンベルク州のバート・タイナッハという小村にある教会の、17世紀に半ばに描かれたバロック様式の翼付き祭壇画で、そこには、「ルネサンス・オカルト哲学の中核思想であるキリスト教カバラの世界体系が多彩に表現されている」という。それはまた、ドイツの薔薇十字運動の影響下にあったとされる。
 著者は、この絵を、カバラのセフィロトとシュタイナーの思想をふまえて解釈するのだが、そこに、二人の子どもイエスが描かれているというのである。
 以下、該当する部分を、工作舎刊(松本夏樹氏訳)より引用する。

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バロックの神秘

エルンスト・ハルニッシュフェガー著

 

七 破風とオベリスク

 地上的世界が、かつて人間が星々とその運動から神の支配を体験した天上のコスモスの穹窿に覆われているように、神殿の壁の正方形の上に高次な魂の諸領域の表現である破風の三角形が休らっている。この諸領域はかって観想的意識へ啓示として下つたが、今日ではもっぱら集中的な霊的修練を通して予感されるだけである。だがこの魂的実体から、今日のわれわれの日常的存在もまた発している! ここから、後でしばしば驚くような決断が不意に生じる。それは献身的な援助であり、真実の言明、日常的エゴイズムを軽蔑する高邁な公正さである。賢明な決心と決断への直覚は、もはや地上的ではないこの魂の世界から意識の中へと輝き出る。個々の人間の生を啓発するそうした体験は、模範的かつ尊重すべきものとされ、聖書の叙述のような聖なる物語の中や、また真の文学である英雄諄や伝説の中に、倫理的生を導く理念や規範として指摘されている。その成就は、心の中でひとつの恩寵として感じられ、感謝と共に受け取られる。われわれは、そうした行為が自分の意志の力ではなく、むしろ神的な助力、「ゎれらの内なるキリスト」に由来することを体験し聞く。

【中略】

教示画の部分(聖母と二人の子どもイエス

 霊的 - 人間的な層と神的な層との間にある境界領域の、明らかな強調がひとつのきっかけとなる。こうし視点から画面全体およびセフィロトの樹との関連で、破風の構成を今一度詳細に考察してみよう。
 霊・魂・体それぞれ三つのグループへの、セフィロトの既述の分類と同様に、左・右・中央に並ぶ三本の「柱」を考えることができる。審判と恩寵の面の間には、中央の柱がそびえている。この柱は、庭に歩み入る人間から上昇し、中心にキリストの立つ地上の円である庭を超えて行く。さらに、シェキナーあるいは「黙示録」の「女」(「ヨハネの黙示録」一二)とも解釈できる、弦月中に伏在する太陽面を象徴する月の像へと上昇する。つまり、人間の地上での使命の未来的展望に至る道を上って行くのである。その上に二人の子供と共にいる母が現われてくる。この真珠の額飾りを付けたティフェレートは、マリアの像の壮麗な再解釈で、愛の象徴であるペリカン、生命の印である卵を抱く雌鶏、死の暗示である鳩に取り巻かれている。彼女の背後には、受胎告知と、神殿で教えを説く少年イエスの二つの場面が描かれ、この再解釈(意味の変化)の正しさを証明する(引用者注)。そして一番上に、すべての創造の原 - 意志であるケテル、エン・ソフの流出である第一のエロヒム玉座についている。

(引用者注)この神殿の場面は、ルカ福音書に描かれており、二人の子どもイエスのテーマにとって大変重要な意味を持っている。この場面が描かれていると言うことは、暗に前景の二人の子どもが二人のイエスであることを示しているのである。

 さらに詳細に眺めてみよう。キリストが立つ生命の水の岩には「我」という文字があり、マリア - ティフェレートの下にはヘブライ文字で、「汝」と書かれ、そして第一のセフィラの下には「彼」と書かれている。この三つの言葉「我―汝―彼」によって、教示画は、より明確に人の子の受肉の図として、また人間の霊の秘儀参入の図として特徴づけられるのではないだろうか?

 だがさらにそれ以上の暗示が この図の中にはある! マリア像の背後、教えを説くイエスの上げた手から、 マリアの頭部へと一本の対角線が走っている。二本目の対角線は、鳩に生命の枝を捧げている少年の下げられた手から出発して、 マリアの頭部でもう一本交叉する。四角形を、 つまり地上的場面を貫通している対角線は、地上で起こる出来事は霊的世界において先行して生起し、神的なものに条件づけられていることをここで教えようしているのである。マタイとルカによる二つの系図へと、われわれの思考は向かわざるを得ない。そこには二人の異なる少年イエスが描かれている。ルドルフ・シュタイナーは、世界を決定づける、この二人の少年同士の複雑な関係を描き出す。宇宙的な世界精神であるキリスト(この深い洞察からなる像については、後の考察で明らかにされる)は、ソロモンの家系の少年イエスが人類文化の全密儀を通じて持ち来たった世界経験を必要とした。しかしまた一方、原罪に触れていない人間存在の核をもキリストは必要とし、この存在だけが、太陽の霊を肉の内に住まわせることを可能とする透明性を獲得できるのである。地上の罪へと堕ちた人間を神が謙譲と共に再び連れて行くという、 シェキナーの約束(原注50参照)が果されるなら、そのとき地上の運命は太陽の永遠性と新たに結合されねばならない。このように教示画は、神の三位一体とその地上的領域での反映像との間に、そうした出来事の原現象である救済の準備と、神と世界との新たな融合とを、二人の少年イエスに示している。ひとりはもう一方のために死へと赴いて己れを捧げ、その一方の少年は神殿で、両親と学者たちの驚く中、始源の叡智を初めて告知し得たのである。 マタイの述べる、叡智に満ちた幾多の受肉を通じて豊かになった少年の魂が、ルカの述べているナタン系の少年イエスの表現できないほどの純粋性へと入る過程はひとつの密儀であり、 このみごとな教示画の構成における第二の中心をなしている。地上的な知は神の啓示に己れを捧げる。かくして初めて、高次の叡智たるソフィアは地上のひとつの肉体の中に存在することができ、すべての人間の目に触れるかたちで生かされるのである。

 死と生と霊的誕生の三つは、すべて神の企てから、互いの活動の犠牲となるために派生した。ティフェレート - マリアと二人の少年は各々独自の在り方で己れを犠牲に捧げている。すなわち救世主の母として、地上の叡智の贈り主として、そして原罪を変化させる意識の未来へと向かう道、人類に与えられようとする犠牲の道の先行者として。世界精神の歴史、地上の現在、そして人類の未来を、教示画は神的予見の内にありながら地上の像として捉える。霊的過程が肉体的知覚によって把握され、真の意味での感覚の純粋な象徴となっている。

 ペリカンの像は、こうした愛の事象にふさわしい。この鳥がいるのは、金で囲まれた黒地にヘブライ語で「汝」と書かれた下、つまり、人間のもとでの愛の、そして神への愛の言葉の下であり、そこで己れの胸の血で五羽の雛を養っているのである(「一一 動物の象徴」参照)。四肢を広げた人間から生じる地上的数の五という数字が、 ここで意図されている受肉への道を指示しているのだろう。

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 工作舎刊の本から引用させてもらったが、実は、訳者の松本氏は、ハルニッシュフェガー氏のこの解釈について、教示画に関わる当時のキリスト教カバラ理念にこのような考えが包含されていたかは「いささか疑問」としている。
 これは、おそらく、シュタイナーの説は、あくまでシュタイナーが独自に唱えたものであり、ルネサンスに遡る歴史的背景はないと考えているからであろう。
 だが、これまで紹介してきたように、これは、ルネサンス期に西洋で新たな輝きを発したが、当然ながらキリスト教の誕生以来連綿と密かに受け継がれてきた秘密なのである。
 また、薔薇十字運動も秘教的キリスト教の流れの中にあり、薔薇十字運動もまたこの教えを伝えてきたと考えられる。実際、この教えは、ルネサンス期にイタリアを中心とする地域にのみ伝わったのではなく、大陸の他の地域とイギリスにもその影響がみられるのである。
 なお、イギリスでのそれを、デイヴィッド・オーヴァソンが、『二人の子どもイエス』とは別の本で述べているので、これもいずれ紹介したい。