k-lazaro’s note

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シュタイナーの悪魔論 ー ルチファーとアーリマン

クレタのセオファニス「キリストの磔刑

 これまで人類の霊的進化に対抗する勢力として、アーリマン、ルチファー、ソラトという「悪魔」に触れてきた。今回は「悪魔」の問題についてもう少し詳しく考えたい。

 

 先ず、そもそも悪とは何かという問題から始めよう。これは実は非常にやっかいな問題である。全能にして絶対善の神がこの世を造ったとするなら、どうして悪がこの世に存在するのかという問題が生まれてしまうのだ。これは、神学者達を長年悩ませてきた問題なのである。これを神義論または弁神論という。4世紀から5世紀の神学者、聖アウグスティヌスは、神義論を提唱した最初の人物で、「彼は悪がそれ自身で存在するという考えを否定し、悪を、自由意志の人間の乱用によって引き起こされた善性の退廃として考えた」という(ウィキペディア)。

 では、シュタイナーは、悪についてどのように考えていただろうか。『シュタイナー用語辞典』(西川隆範著)には次のようにある。「本来の善が進化せずに、過去の姿を保つのが悪である。本来の善が誤った方法で用いられると悪になる。・・・人間は善悪を選択できることによって、自由を獲得できる。自由が発生するために、悪は発生する必要があったのである。善悪の道徳衝動はアストラル体にある。」

 この文章の中に、悪魔の存在理由も語られている。「地球期」における人間の霊的進化において最も重要なのは、自由を獲得することである。自由とは自分の意志で選択できるところに生まれるものである。もし、善き神々のみが存在して、人間を導いているなら、そこに自由はない。善だけでなく悪も存在しなければならないのだ。その悪を実際に体現するのが悪魔なのである。

 天使などの霊的存在も進化していくのだが、その進化の道をあえて進まず、以前の状態に留まろうとする霊達が存在した。これらの進化から逸脱した、停滞した霊的存在達が「悪魔」なのである。従って、人間の霊的進化(自由や自由意志からの愛の獲得)の獲得のために、悪魔は存在しているとも言えるのである。

 

 また悪魔にも種類がある。人智学派においてよく語られるのは、ルシファー(ルチファー)とアーリマンである。

 ルシファーは「(地球の前の段階である)月進化期に進化を完成しなかった天使・大天使である。」(『人智学用語辞典』以下同じ)進化を完成させなかったというのは、月進化期の状態に留まったと言うことである。本来、月進化期に天使の位階にいるなら、現在の地球期には天使の上の大天使に、大天使であったなら権天使(アルカイ)に昇っているはずであるが、これらの霊はあえてその道を歩まなかったのである。いわゆる堕天使となったのだ。マルコ福音書では、デーモンと呼ばれている。

 これに対してアーリマンは、聖書でサタンと呼ばれている存在である。エクスシアイへと進化せずアルカイにとどまっている存在、月進化期の前の太陽進化期に進化を完成せずに堕天使となったの存在である。

 

 悪魔というと、人を誘惑しあるいは災いをもたらす存在と考えられるが、実は、ルチファーとアーリマンの働きはそれだけではない。もともと人類の進化の上で悪が必要とされたと語ったが、今の人間が地上で生活する上で、彼らはある一定の役割を果たしているというのである。自然の一要素のように、彼らなくして成り立たない一面があるのである。

 今回は、これらを前置きとして、ルチファーとアーリマンの役割について解説している論稿を紹介する。

 キリスト者共同体の司祭であったハンスーヴェルナー・シュレーダー氏の『必要な悪』からの一節である。

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Necessary Evil 必要な悪

 

悪の二面性

 ここで、悪に関する基本的な事実を説明しよう。それは、悪が二重の役割を担っているということである。古代では、人類の精神的な敵は一つではなく、二つの形で現れると信じられていたようだ。例えば、ホメロス(800BO)には、オデュッセウスを二方向から脅かすスキュラとカリブディスの絵がある(『オデュッセイア』12)。また、中国の陰陽思想も、もともとはこの極性に基づくものであったようだ。しかし、その後、この事実は人類の意識から完全に消え去ってしまったようである。この二千年の哲学や神学には、この悪の二面性についての記述はない。そして、この事実は、悪の問題についての最近の研究においても、少なくとも私が知る限りでは、何の役割も果たしていないのである。

 

黄金の中間(中庸)の道

 その二重の性質は、悪を理解する上で基本的なものである。私たちは、ルドルフ・シュタイナーに、悪の二面性の本質についての知識を負っている。彼は多くの文脈で、世界と人間の中に善と悪の対立があるだけでなく、何よりも悪と悪の対立があり、その間に善が位置していると指摘したのだ。

 この考えは、魂におけるある種の美徳を考えることによって、最も容易に把握することができる。すでにアリストテレス(300年頃)は『ニコマコス倫理学』(2.2)の中で、徳は常に二つの一面的な逸脱の間の中心点として現れることを示した。

 このように見ると、徳のある行動は臆病と無謀の間に挟まれ、お金の正しい扱い方は欲ばりと無駄な浪費の間にあることがわかる。秩序の美徳は、衒学と無秩序の間にあり、自制心は、放縦と麻痺した抑制の間にある。自己を正しく認識することは、傲慢と自己蔑視の中間に位置し、健全な感情状態は、溢れるような暖かさと冷徹さの中間に位置する。

 この事実は、さまざまな一面性を貫く「中庸の道」という絵の中に美しく表現されている。

 一旦発見されれば、この視点は、世界のどこにでもある相反するものを見て、それらの間に属する中間または平均を見出すことにつながる。この基本原則は、私たちの魂の生活(意識と無意識の両方を含む心理の内容として大まかに定義できる)だけでなく、身体と霊も特徴づけるものである。精神生活においては、私たちは抽象と空想の両極端に脅かされている。身体的な部分では、禁欲主義と肉欲に脅かされている。真の健康は、身体の溶解(発熱)傾向と硬化(硬化)傾向の中間にある。あらゆる病気は、健全な力のバランスから一方向または他方向に逸脱したことを意味する(アルフレッド・シイツの著書『悪の謎』も参照)。私たちは、ここに地上生活の基本的な法則を見ることができる。ここには、私たちを一面的なものへと二方向に導くような力が働いているのだ。これは、人間の男性的な一面性と女性的な一面性をも含んでいるだろう。

 

ルシファーとアーリマン

 よく見ると、上記の一面性の中に明らかになった極性の本質を見ることができる。この極性は、すべての一面性の背後にあり、実はすべての一面性の基礎となるものである。私たちの中には、私たちを自分たちの外に導き、私たちを幻想的に拡大しようとするものが働いている。無謀、無駄な浪費、無秩序、放漫、傲慢、溢れんばかりの温情、空想、官能、熱病はこちら側にある。他方では、臆病、貪欲、衒学、麻痺した抑制、無価値感、冷淡、抽象化、禁欲、硬化など、自らを硬化させようとする動きがある。

 一方では、地上のものやその必要性を無視したり、その重要性を過小評価しようとする努力がある。その極端な形は、現実からの完全な逃避に終わる。もう一方では、地球に対する渇望があり、最終的には地上的なものに対する自分自身の喪失につながることがある。これらの傾向は、躁鬱病の人格を交互に支配する。つまり、人生を謳歌する過度の楽観と、何の希望もないと思われる深い鬱の間で気分が揺れ動くのである。

 

 これらの一面的な相反するものを並べてみよう。

 無謀 - 臆病

 浪費 - 貪欲

 無秩序 - 衒学

 放蕩 - 麻痺的抑制

 傲慢 - 劣等感

 ファンタジー - 抽象性

 官能 - 禁欲

 炎症 - 硬化症

 マニア - 抑うつ

 地上からの逃避 - 地上への渇望

 分解傾向 - 骨化傾向

 

 さて、これらの極性をはっきりと見たので今や、次のステップを踏み、一面的な極端さの中に、次のことを認識することは難しくないだろう。- 人間の生活で重要な役割を果たしているこれらの一面的な極端さは、単なる「力」ではなく、私たちの側に立って、私たちをどちらかの方向に迷わせようとする実在の存在であるということである。私たちを脅かす二つの特徴的に異なる誤りと誘惑があり、私たちはその間に常に自分の道を見つけなければならない。これが、私たちが考えなければならない二つの悪の力なのである。

 この真理が伝統的なキリスト教の形式ではまだ認識されていないという事実が、果てしない誤解の原因となっている。「悪」は、「善」の上に、そして「善」に対して、素朴に配置されててきたが、「善」がそれによって容易に対極の一面性へと傾くという事実が顧みられていないのである。もし悪を地上への傾向、物質主義、地上的なものへの渇望に見るなら、善は地上から目をそらすこと、地上的なものを否定する宗教性にあるに違いない。この種の宗教を、私たちもよく知っており、それは中世のキリスト教だけでない。それは、地上を涙の谷と見なし、天国を楽園と見るものだ。

 しかし、その場合、人は両極端の中間、つまりバランスを見出すことなく、もう一方の一面性の犠牲になってしまう。このように追求された「善」は、善ではなく、むしろ誘惑であり、地上から離れることはキリスト教の理想ではありえない。理想は、地上の渇望と地上の逃避の中間に、天を失うことなく地上に立つ可能性に、地上への愛を目覚めさせるような形で霊性に目を向ける能力に、求めなければならない。

 ルドルフ・シュタイナーは、この内なるバランスを次のような一節で表現している。

 

 真に実用的で物質的な生活を求めよ、

 しかし、その生活の中で活動している霊の経験を麻痺させないような方法でそれを求めよ。

 霊を求めよ、しかし、超感覚的なエゴイズムによって養われた超感覚的な快楽のためにそれを求めてはならない。

 むしろ、物質界における実践的な生活の中で、無私にそれを適用したいから、それを求めるのだ

 

 私たちをバランスから引き離し、自分の道に引き込もうとする存在には、ルドルフ・シュタイナーの精神科学において二つの名前が与えられている。ルシファーとアーリマンである。これらは霊的な存在である。パウロはエフェソの信徒への手紙の中で、彼らについてこう述べている。「私たちは血と肉に対して戦っているのではなく,むしろ悪の霊的な力(訳注:力は複数形)に対して戦っているのです」(6:12 JHH)

 この事実は,悪を理解するために不可欠な知識を私たちに教えてくれる。すでに述べたことから、私たちはこれらの存在の二重性を特徴づけることができる。ルシファーは、私たちを自分たちの外、自分たちの上に導く力だが、同時に私たちを地上とその責任からの逃避に等しい幻想と空想に絡めとる。利己主義とエゴイズムは、ルシファーの仕事と密接に関係している。アーリマンは、物理的、物質的な存在だけが本物であり、地上の存在が人生の真の安寧と充足をもたらすと私たちに告げる力を持っている。アーリマンは、冷たく硬い感情や地上への渇望、さらには恐怖を通じて、硬化をもたらす。

 

悪の二重の役割

 悪の二重の性質について、もう一つ基本的な事実を指摘することが重要である。悪は、常にどこでも悪の効果をもたらすわけではない。悪は、適切な状況下では、何か良いものを生み出すこともあるのだ。毒は、適切に用いれば、治癒のための薬として用いることができる。敵対する力の二重の性質は、人間の存在と世界において、二重の役割を果たす。つまり、他の要因によって、善も悪ももたらすことができるということである。

 上に挙げた一方的な極端さを再検討してみると、その二重の価値が見えてくる。それらは、常に善と対立するものとして特徴づけられる必要はない。例えば、大きなデパートを歩くとき、財布をしっかり握りしめ、「節度ある欲」を出すことは、ある状況では非常に良いことだ(書店も同じような誘惑があるのかもしれない)。人によっては、本屋さんで誘惑に負けてしまうかもしれない。例えば、困っている人のために寄付をするときに、お金を「浪費」することは非常に良いことかもしれない。

 私たちの魂には、お金にしがみついたり、浪費したりするように仕向ける力がある。私たちはこれらの力を利用して、正しいこと、適切なこと、善いことを行うことができる。上に挙げた他の種類の極端な一方的な態度についても、同様の例を挙げることができる。禁欲と官能もまた、人生において善に奉仕する場がある。これらの力が危険となるのは、私たちがそれらに自分を奪われ、私たちに仕えるのではなく支配されるときだけである。その時初めて、これらの力は私たちの人間性を脅かすことになるのだ。制限の範囲内では、その活動は有益である。

 ルシファーの力は、特に幼年期と青年期に強力である。この年齢における彼らの活動は、子供を地上の重苦しさから解放し、新鮮さと熱意を与えるので、完全にポジティブである。アーリマンの力が私たちを支配するのは晩年である。アーリマンの力は、成熟と、時とともに得られる知恵を生み出すのに役立つ。成熟と知恵は、アーリマンの力が直接の原因ではないにせよ、これらの力なしには存在しない。

 私たちを大地に押しつけるような、硬直したアーリマンの力に早くからさらされることは、子供にとって有害である。残念ながら、これは多くの教育システムで珍しいことではない。子供の発達の道程では、深刻な困難が生じるだろう。一方、高齢の男性や女性は、人生に対する子供のような態度に簡単に戻ることはできない。子供のような素朴さは、年老いた人間には似つかわしくない。よく知られているマタイによる福音書18章3節の「幼な子のようにならなければ、天の国に入ることはできない」(JHH)という言葉は、このことと矛盾しない。この言葉は、子供が生まれながらにして持っている魂の資質を、大人が霊的現実にアクセスするためには、より高いレベルで意識的に再び獲得しなければならないことを意味している。不思議と驚きを感じる能力、献身、他の人間に対する無条件の開放性、子供を取り囲むすべてのものに対する自然な愛情は、大人になって生まれれば、美徳となるのである。

 アーリマンとルシファーの力は、適切な時期に現れれば、有益な影響を及ぼすことができる。このように、悪の力が意味のある役割を果たすことがあるというのは、理解できない見解ではない。悪をもたらすものも、適切な状況、適切な場所で発生したとき、良いものを生み出すこともあるのである。言い換えれば、悪とは、善が間違った場所や間違った時間に発生したものである。火はその適切な場所では善であり有用であるが、その境界を突き破ると破壊的であるのと同様に、悪の影響もまた然りである。

 悪の両面性は、歴史にも見ることができる。過去において、ルシファーの力は「適切な場所で」人類の発展に多大な貢献をしてきた。特に、知識と芸術の創造に対する私たちの探求を呼び起こしたのは、ルシファーの力である。知識と芸術はルシファーからの贈り物なのだ。

 このことは芸術活動についても容易に理解できる。もし、私たちが自らを高め、地上の事実や現実から解放する能力と衝動を持っていなかったら、芸術はどこにあるだろうか。子供は、遊びや空想生活の中で、すでに無意識のうちに芸術家になっている。ルシファーの贈り物は、人間の生活を非常に豊かにする形で、ここに働いているのだ。

 知識についてはどうだろうか。子どもの「知りたい」という欲求の問題を考えるとき、私たちはすべての「知る」ことの原点に直面することになる。ルシファーは、直接与えられたものを超えて、その背後にあるもの、あるいは「下」にあるものを見つけようとする。このことは、旧約聖書の冒頭に見ることができる。ルシファーはアダムとエバに「知識の木」から食べるように誘惑する。これには、良い面もある。善と悪の区別がつかない者が人間と呼べるだろうか。ルシファーという名前がラテン語で「光をもたらす者」という意味であるのには理由がある。人類は彼の光り輝く贈り物に恩義を感じている。しかし、その光は偽りの光、つまり外見だけの光を放つこともあり、その光は人間にとって危険なものとなってしまうのだ。

 アーリマンもまた、人類にとって肯定的な意味も持っている。アーリマンは人類が地上に関心を持つように仕向けなければならない(ルシファーはある意味、その逆をやっている)。アーリマンは、人間が「汗水たらして」地上のものを使い、(芸術における)美しい外観の世界を創造する能力だけでなく、技術の助けを借りて、壮大で頑丈な、地上に役立つ具体的な王国を創造する能力を獲得するように仕向けるのである。

 ここで働いているのが本当にアーリマンであることは、我々の技術文明の破壊的な影響によって十分に明らかにされている。「アーリマン」という名前は、ペルシャ語の「アングラ・メインユ」に由来し、「悪霊」という意味である。冷たい破壊力としての悪の本質が、彼の中に完全に表れている。

 

世界の矛盾

 両方の敵対者とも、人類にとって大きな、包括的な意義を持っている。このことは、自然界全体における彼らの働きを考えると、よりよく理解できる。最初に人間界における作用を考えたが、彼らは宇宙的な存在と力として、宇宙という大きな文脈でも私たちと出会うことになる。彼らは、地球そのものを含む地上のすべての生命の形成に関与している。

 私たちは、地球を硬くするもの、重力を発生させるもの、地球に物を縛り付けるものなど、すべてにアーリマンの働きの影響を認める。これとは対照的に、「浮揚」と「分解」の力は、周辺、宇宙の高みから働く。地球の表面から離れれば離れるほど、私たちが扱っているのは物質ではなくなる。この周辺から流れ込んでくる「浮揚」の力があるからこそ、植物は重力に逆らって上に向かって成長することができ、物理的には「遠心的な力」として効果を発揮しているのである。

 自然界の生命はこれらの力の間で展開され、これらの力がなければ自然は存在できず、どちらか一方だけが影響力を発揮すれば、たちまち終焉を迎えてしまう。

 暑さと寒さの相反する力は明白である。寒さには収縮と硬直をもたらす力があり、熱には膨張と溶解をもたらす力がある。光と闇にも同じような極性がある。

 これらの事実は自然の摂理に属するものである。しかし、それらが実は高次の秩序の一部でしかないことがわかると、これらの一方的な極端さが、いかに素晴らしい形で自然の有益な働きに役立っているかがわかるのである。

 次のように問うことができる。それは常にそうだったのか?それとも、地球上の進化の初期には、私たちが当たり前だと思っているこの自然の秩序が、最初に創られなければならない段階があったのだろうか?世界の創造に敵対者を組み込んだのは、世界の創造に責任を負う霊的存在たちの闘争に先行する宇宙の行いなのだろうか。そして、この闘いは今日も人間の魂の中で続いているのだろうか。

 私たちはここで、敵対者がより高い法則性に従うとき、その活動が善に役立つことを最初に見ている。物理的な世界で働く力として、私たちは彼らが自然の王国の中で強大な位置を占めていることも見てきた。彼らの敵対的権勢のある部分は、彼らが人間の領域だけでなく、創造全体の固有の部分でも活動していることを考えれば、おそらく明らかになるだろう。

 ここで、人類の東(アジア)と西(アメリカ)の極性もまた、この両極の力の包括的な性格を現していることに、一応触れておこう。

 

中庸

 自然界には、重力と浮遊、光と闇、暑さと寒さ、昼と夜など、一面的な極端さがあるが、それらはすべて、中庸、つまり地球上の生命が存在できる中間の場所に奉仕している。この中間の場所は、植物、動物、人間にも存在し、これらの両極端の間のバランスに自由を見出し、これらの対立物の間で、またその助けを借りて生命を発展させている。中庸はしっかりと固定されたものではなく、生命の脈動的な質を持ち、冬と夏、朝と夕方では異なる様相を呈する。

 いわば王的な主権を持って、自然はこの相反するものを自らの目的のために利用し、豊かな多様性をもって自らを顕現させているのである。複雑な生命を持つ自然は、相反するものがあるからが現れるのではなく(機械論的、アーリマン的思考)、むしろ相反するものは、地球上で可能な豊かな生命を創り出すために、存在するのである。

 人間についても同じようなことが言えるだろうか。私たちの中には一面的な両極端が完全に存在しているが、私たちは「中間」、つまり私たちの完全な人間性を発展させるために日々奮闘しなければならない。それは単に「場所に固定されたもの」ではなく、常に新しく見つけられなければならないのである。

 私たちはすでに、お金との関係においてこのことを見てきた。ある時は「合理的な貪欲さ」、またある時は「気前の良い浪費」が必要かもしれない。善は、目を覚ました心の存在によってのみ再創造される。

 このことに、人間であることの偉大さと自由を見ることができる。善は私たちによって創造されなければならない。私たちの側にいる二人の敵は、私たちの中にある重要な中間を、絶えず疑問の中に投げ入れることによって、呼び起こすのだ。私たちの本質的な人間性は、それもまた天と地の間に形成される自然の生命のように豊かで多様な生命において、精神と物質の間で生きることによってのみ発展させることができるのである。フリードリヒ・シラーは、『人間の美的教育について』という本の中で、この秘密のようなものを、一連の書簡の中で表現している。彼は、人間は「必然性」を二つの側面から経験するという考えを示している。「感覚的駆動力」が肉体的に、「形態的駆動力」が道徳的に力を発揮するとき(第14書簡)の、「自然の必然性」と「理性の必然性」である。シラーは、人間がこれらの一面的な極端さと必然性を、芸術的な創造過程に注意を向ける「遊戯への衝動」と呼ぶ中間の要素によってどのように解消しバランスをとることができるかについて示している。この「遊戯衝動」は、相反するものを統合することができる、より高次の第三の要素である。私たちは、ルシファーとアーリマンが自然の一面的な極端さの背後に存在する存在であることを見てきた。人間の魂の中で、人間性の本質が徐々に創造されていく領域で起こる、相反するものの間の繊細な相互作用を見守る、中庸、中間を見守る誰か、存在がいるのだろうか?

 この問いかけによって、私たちはキリストの神秘に触れることになる。この時点で、私たちは単に福音書の中の一枚の絵を挙げたいと思う。私たちは、そこに次のように読む。

「彼らはイエスと二人の者を十字架につけた。一人は片側に、もう一人は反対側に、イエスはその真ん中にいた。」(ヨハネ19:18)

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  ルチファーとアーリマンの中間にいてその均衡を保つ存在、それがキリストである。聖書によれば、イエス・キリストゴルゴタの丘磔刑を受けたとき、その左右に、一緒に磔にされた二人の罪人がいたという。シュタイナーは、これがルチファーとアーリマンであったとしている。

  ところで、福音書は、この場面で興味深い会話を伝えている。

 

 十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。

 もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。我々は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。

 そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。

 イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。(ルカ23章)

 

 犯罪人の一人が、キリストに救いを求め、それが認められたということである。シュタイナーによれば、これはルチファーであったというのだが、これは何を意味するのだろうか。

 悪魔は、神々の遠大な計画のもとに生まれたものである。悪魔もこの世界の存在の一部であり、いずれ悪魔もまた救済されなければならないのである。