聖なる人物のゆかりのある場所は人々の信仰・崇敬の対象となる。
キリスト教においては、イエス・キリストが埋葬された後に復活したと信じられている墳墓が、エルサレムの「聖墳墓教会」あるいは「園の墓」であるとされ、巡礼者を集めている。
これらはいわば「公式」の聖地であるが、実は、キリストの墓とされる場所は、インド・カシミールや南フランスなど世界各地にもあり、日本の青森県戸来村の墓も、その道では有名である。
近年に話題になったものとしては、2007年にディスカバリー・チャンネルにより放映された、ジェームズ・キャメロンのプロデュサーによるドキュメンタリーで主張された墓がある。
この墓は1980年にイスラエルの旧市街南郊のタルピオットで発見されたもので、そこには10体分の石灰岩の骨壷が見つかり、それにはイエス、マリア、マタイ、ヨゼフ、マグダラのマリアという名前がアラム語で書かれていた。そして、「イエスの息子、ユダ」という刻印もあったという。
さらにイエス、マグダラのマリア、ユダと名付けられた遺体の親子関係がDNA検査で裏付けられたことを考えると、これがイエスとその家族のものである可能性は非常に高いと調査チームが述べているというのだ。
イエスとマグダラのマリアが結婚しており子どもをもうけていたという話は、ダン・ブラウンの『ダヴィンチ・コード』以来有名になった説であるが(これは実は、マイケル・ベイジェントとリチャード・リー、ヘンリー・リンカーンの『レンヌ=ル=シャトーの謎』から借用したものである)、このドキュメンタリーもこの説に乗って製作されたのだろう。
実際には、墓の名前の読み方などには異説もあり、このドキュメンタリーには批判も多いようである。英語版ウィキペディアには、「ドキュメンタリーと本の主張は、考古学と神学の分野の一流の専門家の圧倒的多数、ならびに言語学と聖書の学者の間で拒否されました」とある。
さて、これらの「キリスト」の墓を巡る話は、人智学的視点で考えると、もっと複雑になる。
なぜなら、イエスとキリストを分けて考えなければならないからである。イエスは人間であり、キリストは宇宙的神霊である。そしてイエスは子ども時代に二人存在していたからである。
子ども時代のイエスには、マタイ伝の伝える子どもとルカ伝の伝える子どもが存在した。マタイ伝の子どもの父親は、王家の血筋の年老いたヨセフ、ルカ伝の子どもの父親は、より若い大工のヨセフであった。二人の子どもの二つの家族は、マタイ伝の子どもがヘロデの迫害を逃れるために向かったエジプトから帰ってから、ナザレで、近所同士として仲良く住んでいた。二人の子どもは、12歳の時に共にエルサレムの神殿に赴き、そこで一体となったのだ。
これによりマタイ伝の子どもはやがて亡くなった。またその親のヨセフとルカの子の母親のマリアも亡くなり、このため、残ったマタイのマリアとルカのヨセフが、その子どもを連れて再婚し、二つの家族もまた一つの家族となったのだ。
したがって、この二つの家族のそれぞれの墓も存在したことになるのである。
さて、先に述べた「キリストの墓」だが、聖墳墓教会の方は、326年ごろ、キリスト教に改宗したコンスタンティヌス1世の母ヘレナが、エルサレムを訪れ、当時はヴィーナス神殿となっていた地をそれと認め、神殿を取り壊して建てられたもので、「園の墓」の方は、『ヘブライ人への手紙』(13:12)の記載などから、旧城壁外にある別の場所をそれとしたものである。どちらを認めるかは、宗派によって異なるのである。
キリストは、当時は、磔にされた「罪人」であるので、その墓は、歴史に名を残す王の立派な墳墓のようにはいかない(実際には王の中の王なのだが)である。その場所は、人々の記憶の中にのみとどめられたので、後になって、その場所を特定することは難しくなっていたのだ。
従って、確かに別の場所が真の墓所ということもありうるが、しかし、2000年も前の人間の墓を現代において発見するということは非常に困難だろう。前述のディスカバリー・チャンネルのように、確かにその様に墓石に書かれてあったとしても、そもそもイエス、マリア。ヨセフの名は、当時は一般的な名前であったそうで、それをもって実際にあのイエスの墓であると断定することは、それを支持するよほどの他の根拠がなければ無理なことであろう。
まして、その存在自体が一般的には認知されていなかった(マタイの)子どもイエスの墓のような場合は、不可能と言えるだろう。
と、私は思っていたのだが、ある本から、案外可能性があることが分かった。今回はこのことを記したい。
ミヒャエル・キエンツラーMichael Kientzlerという、ドイツ、カナダ、英国でキリスト者共同体の司祭を務められた方の『購いRedemption キリストの復活と人類の未来』に次のような記述があった(意訳)。
・・・二つの家族は、ナザレで互いに近くに住んだ。大工のヨセフの家族の家は、洞窟の前に造られていた。その場所の上に、今は教会が建てられている。そこは、聖家族が住んだという伝説があり、そこに書かれた文字により、早い持期からキリスト教の巡礼地であったことが分かる。
19世紀、その近くを、ナザレのシスターという修道会の修道女達が、修道院を建てるために購入しようと思った。その土地のアラブ人の所有者は、その土地には、「正しい者」の墓があるとして、高額な代金を要求した。修道女達は、これを購入し、修道院を建設した。
ある日、敷石が崩落し、その基礎の下の空洞から乳香の匂いがした。千年以上にわたり閉じられていた床の下に礼拝堂が発見された。そこには、最初期の巡礼者による壁の書き文字とともに、二つの墓があった。一つの墓は子どもの、もう一つは大人のもので、その入口は、1世紀の習わしで回転する岩で閉じられていた。更なる発掘により、当時の、豊かな家族の家の基礎が見つかった。初期の巡礼と崇拝の証拠も発見された。
居住地内の家に近い墓というのは奇妙である。ユダヤの法では、それは、聖なる人々にのみ許されることであった。・・・
著者は、以上のことをその修道会の修道女から聞いたとしている。彼女たちは、この事実を、ナザレの他の伝承により説明することができなかったという。
この記述を読んで、さっそくネットを検索してみると、先ず次のようなニュース記事を見つけることができた。
修道女がナザレで「イエスの家」を発見した不思議な物語
オーウェン・ジャルス著
2020年12月09日発行
https://www.livescience.com/house-of-jesus-uncovered-by-sisters-of-nazareth.html
考古学者たちは、これがイエスが育った家として崇められた1世紀初頭の家だと考えている。
考古学者ケン・ダーク KEN・DARKのナザレの家に関する新著が、発掘の大部分を担当したシスターのチームとその発見にスポットライトを当てているためだ。
ダークはこの本『The Sisters of Nazareth Convent(ナザレ修道院のシスターたち)』の中で、「女性たちによって始められ、指揮された大規模な発掘調査の最も初期の例のひとつである」と書いている・・・
ライブ・サイエンス誌が2015年に報じたように、この家は岩山の中腹に切り開かれたもので、1世紀初頭に建てられた。人々がこの建造物をイエスの家として崇めるようになったのは、それから数世紀後のことだ。イエスが本当にそこで育ったかどうかは不明である。
考古学者たちは、これがイエスが育った家として崇められた1世紀初頭の家だと考えている。
ダーク氏は、シスターたちが、修道院がこの敷地の隣に建設された際に敷地の一部が破壊される前に、この敷地の発掘を行ったことは注目に値すると指摘した。「中東で最初の "救出発掘"、つまり今回のように建設によって考古学的証拠が破壊される前に発掘を行ったのです」とダーク氏はライブ・サイエンス誌に電子メールで語った。
19世紀の修道女たちによる発見と修道院の発掘記録によって、ダークは、この家が1世紀初頭に建てられたものであること、そして、この場所を保護していた「栄養教会」と呼ばれる教会が4世紀に建てられたものであることを突き止めた。4世紀の巡礼者 "エゲリア "は、4世紀後半にこの教会について、しばしば "Itinerarium Egeriae "と呼ばれる文章に書いているようで、そこには「彼女(聖母マリア)が住んでいた大きくてとても立派な洞窟 "と描写している。そこには祭壇が置かれ、実際の洞窟の中には彼女が水を汲んだ場所がある。」 とある。
この教会を建設した人々は、1世紀初頭の家屋だけでなく、家屋が放棄された後の1世紀半ばから後半に建てられた墓も守るように注意した。人々はそこをイエスの父である聖ヨセフの墓だと信じていたのかもしれない。
教会の発掘調査で、シスターたちは人骨の入った石棺を発見した。
1099年頃に十字軍がナザレを支配下に置くと、彼らはすぐに栄養教会を再建し、軍事的に危険な状況にあったにもかかわらず、かなりの資源をその再建に捧げた。軍事的な立場は、1187年にナザレがイスラム軍に占領されるまでに悪化する。十字軍は、この地域のさまざまなイスラム国家とたびたび戦争していた。
シスターたちの仕事は、教会の最後の日々を明らかにした。礼拝堂の壁に騎士の槍がかけられたままになっているのを発見した。教会の責任者たちは、この場所が破壊される運命にあることを知っていたようだ。当時、イエスの家を守ろうと、急いで封印したことを、シスターたちは発見した。教会は十字軍の戦争で焼き払われたが、イエスの家はそのまま残され、シスターたちが19世紀の発掘調査をするまで封印は解かれなかった。
現代のナザレ姉妹
この修道院は19世紀後半に建てられ、現在はナザレ修道女会が使用している。「人数は少ないが、修道女たちは宗教的な任務に加えて、幅広い慈善活動も行っている。学校を運営したり、病人の世話をしたり、地元のあらゆる立場の恵まれない人々をさまざまな形で助けている」とダーク氏は書いている。
シスターたちは、19世紀末の発掘調査の遺物や発掘記録を今でも見守っているが、当時から行方不明になっている遺物もある。巡礼者や観光客も家やその他の遺跡を見にやってくる。ライブ・サイエンス誌の取材に対し、現代のナザレ修道会は、19世紀の先達の発掘作業に関するコメントを拒否した。
【関連する2015年の記事】
1世紀のイエスの家
2015年3月2日
イエスの故郷ナザレの岩山の中腹に建てられた家は、イエスがマリアとヨセフによって育てられた場所とされていた。考古学者たちは、この建造物が本当にイエスの家であったとは言えないが、その可能性はあると言う。・・・
ここで見られる家は、紀元1世紀に建てられたナザレの2軒の家のうちの1軒である。調査の結果、中世の人々はイエスがこの家で育ったと信じていたことが明らかになった。イエスの時代から数世紀後、この家はモザイクで飾られ、その上に教会が建てられた。この家は1880年代にナザレ修道院の修道女たちによって発見された。最近では、ナザレ考古学プロジェクトがこの場所で調査を行っている。
家が放棄された後、その地域は採石場として使われた。そして1世紀後半、その横に2つの墓が建てられた。ここに見える墓の前庭は、放棄された家を貫いている。今日、考古学者たちは、この墳墓がこの家が放棄された後に建てられたことを知っている。しかし中世の人々は、この墓は聖母マリアの夫ヨセフのものだと考えていた。モザイクで飾られ、家とともに崇拝された。
ナザレ考古学プロジェクト(2004年~2010年)は、ナザレの後背地を調査し、ここに見えるナハル・ジッポリという広い谷を調査した。考古学者たちは、ローマ帝国支配初期のいくつかの新しい遺跡を発見した。考古学者たちは、ナザレとその近郊の遺跡には、ユダヤ教の純潔法で許されている石灰岩の器だけでなく、地元で作られた陶器が多くあることを発見した。考古学者たちは、セフォリスの町に近い遺跡には輸入陶器が多いことを発見した。
紀元1世紀のナザレとその周辺は、ローマ文化を拒絶する保守的なユダヤ人社会だったようだ。一方、セフォリスは、輸入品を含むローマ文化を積極的に受け入れていた。
今日、考古学者たちは、紀元1世紀に建てられたナザレの2つの家を知っている。ひとつは1880年代に修道女たちによって発見されたもので、中世の人々はイエスが育った家だと信じていた。もうひとつの家は、2009年にイスラエル考古局の考古学者による救出作業で発見された。どちらの家も、ここに見える受胎告知バシリカの近くにある。
ナザレでは、古代に利用されていたであろう多くの水源も発見されている。この画像は、今日 "マリアの泉 "として知られている特に有名な水源である。
オーウェン・ジャルス 記
・・・・
記事に出てくる、この考古学的発見を本格的に初めて学術的に発表したケン・ダーク氏は、考古学者および歴史家で、ケンブリッジ大学で考古学と歴史の博士号を取得した後、オックスフォード大学とケンブリッジ大学で教鞭をとった方で、現在はロンドンのキングスカレッジの客員教授をされているようである。
他のネット記事により、更に補足すると、
イスラエルのナザレ中心部にあるナザレ修道院の地下にある問題の家は、多くのキリスト教徒が天使ガブリエルがマリアに子供を授かることを告げた場所だと信じている受胎告知教会の近くにある。
マリアへのお告げである「受胎告知」は、ルカ伝が伝えており、それがあった地名もナザレとされている(マタイのマリアはベツレヘムに住んでいた)。
ダーク氏が、イエス・キリストが少年時代に住んでいた可能性が高いと考える理由は、そのひとつは建築の質だという。この家を建てた人は、石工について非常によく理解していた。それは、古代ギリシャ語で職人を意味するテクトン(ヨセフを指す言葉)と呼ばれるような人物に期待される知識とも一致している、という。
またこれが5世紀から7世紀のビザンチン様式の教会の下にあることである。その教会は380年代に巡礼者が記したもので、『栄養教会』(キリストの養育を意味する)と呼ばれているものであることは「ほぼ間違いない」。この名前は、若い預言者の家があった地下聖堂の上に建てられたという考えに由来する。
教会は巨大で、精巧な装飾が施され、おそらくナザレのビザンチン様式の大聖堂であった。その場所と壮大さは、"この特別な場所が本当に重要だと考えられていた "ことを示している。
この教会に比べて受胎告知教会はよりも小さい。この教会を建てた人たちは、それが重要なことであり、受胎告知に近い、あるいは受胎告知と同じくらい重要なことと考えられていたと思われる。
しかしダーク氏自身は、彼の説を支持する証拠があるにもかかわらず、"決して決定的な事例ではない "と強調している。「一方では、ここがイエスの子供時代の家であったという、まったくもっともらしいケースを提唱することができる。しかし一方で、実際にそれを証明することは証拠の範囲を超えている。」というのである。
イエスの育った家がどこにあったかということは、初期のキリスト教信者にはおそらく周知のことであっただろう。初期であれば、まだ人々の記憶は失われておらず、証人や伝承が残っていたと考えられる。それに基づき、キリスト教信徒や教会は、その地に教会を建てその場所を保護すると共に礼拝の地としたのである。
受胎告知の地と近いと言うことは、まさにその近辺に家もあったと言うことを意味すものである。
また十字軍に際して、騎士団がこの地に執着したことにも隠れた理由があるかもしれない。周知のように、初期の十字軍に関わった神殿騎士団は、実際には秘教団体であり、イエスの隠された秘密を知っていたと思われる。イエスの生家であれば勿論重要であるが、その墓についても、誰のものであるかを知っていたのかもしれない。
逆に、現代の修道会が、記者の発掘に関するコメント要請を拒否したということは、その墓の問題に関わるのかもしれない。「正統派」の見解では、子どものイエスの墓などあり得ないからである。
しかし、一方で、上の記事に、問題の墓は、家が使用されなくなってから建てられたとあることはどのように解釈すべきだろうか(後にその場所に改葬された?)。またルカのマリアを考えれば、墓は、2つではなく3つあるはずである。このことも引っかかる点である。
一方で、家が2つあったという記述は、マタイとルカの二つの家族の家を思わせる。
ダーク氏のいうように、墓についても、可能性はあるが断定はできないということになろうか?