k-lazaro’s note

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「二人の子どもイエス」とは ㉓

システィーナ礼拝堂天井画

 久しぶりに「二人の子どもイエス」(ルカ福音書の伝えるイエスとマタイ福音書の伝えるイエス)のテーマに戻る。本ブログの目的の1つは、このテーマを多くの人に知ってもらうことであった。このテーマは、キリスト教の核心に関わり、また同時に極めて秘教的な内容であるが、聖書や他の様々な文献、伝承、そして美術作品に密かに埋め込まれており、見る目をもった者には検証できるものである。

 これを実際に検証したのがヘラ・クラウゼ=ツィンマーやデイヴィッド・オーヴァソンであり、その成果がこれまで紹介してきた二人の2冊の本であった。

 さて、二人の子どもイエスの秘密を込めた作品の多くは、ルネサンスに多く見られる。この時代の巨匠と呼ばれるほとんどの芸術家が、この秘教的知識に触れていたようである。このブログでも既にラファエロについて触れているが、今回紹介するのは、彼に並ぶ天才芸術家、ミケランジェロである。

 デイヴィッド・オーヴァソンの『二人の子どもイエス』からミケランジェロに関する記述を以下に紹介しよう。 

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ミケランジェロ‐システィナ礼拝堂の天井画

 システィナ礼拝堂のミケランジェロによるフレスコ画は、16世紀の10年代に製作されたものであるが、驚くべき芸術作品の一つである。この作品は正しくもフィレンツェの絵画作品の傑作とみられているが、ミケランジェロ自身はフレスコ画を彼の真の仕事とはみなしていなかったという事実を考慮すると(1509年に彼の父宛の手紙にそのように記している)、彼のなしたものは更に驚異的に思える。

 この傑作には当然のことながら多くのことが語られているが、私の知る限り、どの歴史家もその最も深い秘密について認識することはなかった。システィナ礼拝堂の天井画は、一人の教皇(ユリウス2世)を満足させ、すべての未来の教皇の宗教生活に奉仕するために描かれた。これが置かれている教会の軸線は、聖ペテロ自身の(棺の)軸線と全く平行であり、それはあたかもキリスト教の中心教義と自身をそろえているかのようである。そのような作品は、かくして西洋キリスト教の生命の心臓にあるのである。しかし、それは、彼が望むいかなる主題あるいはテーマでも描くことが許された天才によってデザインされ、そしてそれは二人の子供という隠れたテーマをオープンに扱うことに成功している(注)。

 

 (注) 礼拝堂自体は、教皇シクストゥス4世 Sixtus Ⅳ dell Rovereの監督のもとに建造され、1483年8月15日にマリア被昇天に捧げられた。それは困難な時代であった。その内部は簡素で、巨大な絵画のギャラリーとしての目的があることを示している。床の区画は、ミケランジェロの天井画を反映している。

 

 私は既に、ミケランジェロが礼拝堂の天井に描いたイエスの「先祖」の複合体に触れた。同じ文章で、ミケランジェロが、マタイ伝が提示する42人の名前の系図のリストに基づいていると指摘した。このことは、彼がイエスのソロモン系統を描いていることを意味している。

 系図のテーマのこの短い概要は‐天上のフレスコ画が描かれた外観に流れる幾つかの聖書のテーマの一つに過ぎないが‐多くの繊細なテーマのシンボリズムを隠している。この系統を深く考察するなら、システィナ礼拝堂における神秘的なシンボリズムの基本的な要素の少なくとも一つの深遠さに気づく。

 系図にかかる肖像画の比較的大きな部分は半円形部の両サイドに描かれている。礼拝堂の入り口の内壁の円形部は聖家族自身を描いている。左側では、体を丸め厳しい表情をした、ヨセフの父親であるヤコブが描かれている。彼の背後にいる子供はヨセフで、女性はヨセフの母親である。

 円形部の右半分では、ヨセフは今や成人として描かれている‐最近の修復まで、彼の姿は、フレスコ画の劣化ではっきりとはしていなかったが。マリアは膝に少年イエスを抱いており、イエスは左手をもう一人の少年に向けている。時間による劣化や不適当な修復で絵が書き換えられてしまっており、その少年がもっている容器に何があるのかを正確に知ることはもはやできない。-おそらくそれは水、あるいは炎であろうが。

聖家族


 もう一人の子供が誰かは知られていない。芸術史家シャルル・デ・トルネイは、この第二の子供が小さな洗礼者ヨハネであるとする驚くべき結論に達した。しかしこれには何の証拠もなく、ジョヴァンニは系図の中で何の役割も持っていない。実際、トルネイは、この絵の一般的な先入見を持った見方に陥らなければ、彼がこの集団について書いていることの背後にある深い意味を持ったあるものを見たかもしれない。トルネイは、全く正しくも、この第二の少年が胴と頭を、見る者から背けていることを観察している。この姿勢は、(これもまた全く正しい)ミケランジェロによる重要な発明であると彼は述べている。彼は、これを20年後、メディチ家の礼拝堂の聖処女像においてその胸にいる子供を彫る時に用いた。この創意に富む図像には深い驚きを与える何ものかがある。おそらく初めて、「見る者から(それは即ち世界から、また拝礼する者から)頭を背けるイエス」の像に我々は直面するのである。多くの芸術史家がメディチ家の礼拝堂の聖処女とイエス像の一般的でない様式についてコメントしているが、私の知る限り、トルネイは、この彫刻とシスティナ礼拝堂の絵のこの部分との関係を指摘した最初の人物である。

 システィナ礼拝堂の天井の絵画の原型に、我々は、正確に同じ姿を見るので、彫刻の子供イエスフレスコ画の子供を同じものと見るように-そう言ってもいいであろう-誘惑されるのである。円形部で聖処女の膝にもたれている第二の子供がもう一人のイエスであることを私は疑っていない。このことは、聖処女の腕にいる子供はソロモン・イエスで、地上に立っているのはナタン・イエスであることを意味している。

 ミケランジェロの一連の作品の秘密の一部は、人物を同定することにかかっている。この芸術家は、同定することを助けるために先祖の名前をその像の十分近くに置いた。しかし、この聖家族において彼はそのルールを破っている。ミケランジェロは、この絵において二人の子供のどちらもイエスとして意図的に同定されないようにしたかのようである。

 

 イエスの血統の最後の世代を指し示すこの二つの円形部は礼拝堂の入り口の上部にある。ミケランジェロ特有のシンボリズムの方法では、我々は、礼拝堂の下に向けてジグザグに先祖を追うとき、振り返って、東の端にある祭壇-もともとは系図の始まりであったもの-に向かう。ミケランジェロが天井画を終えた時、この始まりは、アブラハムとその直近の一族により印されていた。後に図像の計画が変更されたため、この部分は現在、彼の巨大なフレスコ画最後の審判」により占められている。大規模に意味を転換することにより、先祖たちを系図的に完成するのは、礼拝堂の空間の向こう側に、審判の席に座る大人のキリストを置くことによってなされた。そのシンボリズムは、本来は空間と時間の両方に関わるものであった。-聖家族の子供は、水平に礼拝堂の反対側を向いて彼らの初期の先祖たちを見つめている。初期の先祖たちに代えて最後の審判を置いたことにより、空間的、時間的な意味が変化し、新しい意味が礼拝堂の上部の空間に吹き込んだ。さあ、ミケランジェロの天才に感謝しよう。子供とキリストは互いに礼拝堂の同じ高さで見つめ合うのである。より深い意味で、時間と空間は、一つになった。過去(先の世代)は、未来により-時の最後に審判を下すキリストの姿によって-置きかえられたのである。

 聖家族の二つの円形部の間の上には、本をぱらぱらとめくっている姿の預言者ゼカリアの絵がある。彼の背後には、軽快な服装の少年たちが立っている。一人はもう一人の少年の首に親しげに腕を回している。実際、天上の預言者の多くは、彼らの預言とは関連もなさそうな一組の少年と関係している。ゼカリア、ヨエル、イザヤ、エゼキエルそしてヨナスはすべて、二人の裸のあるいは半裸の少年たちが背後にいる。ヨナスの脇の怪物の背後には、二人の少年の頭が見える。(私は、両方とも少年であることを疑っていないが、巨大な魚に近い方の少年は、少女であり、ニネヴェを擬人化する意図があると示唆されている。)

ゼカリア

ヨエル


 二人の例外があり、ダニエルは、(彼の本を支えている)一人の少年をもち、ジェレミアの背後には女性に見え確かに服を着ている女性がいる。

 この一組の人物が深い意味を持っていることは疑いない。ゼカリアの場合、このシンボルは彼自身の預言からとられただけでなく、二人の子供のテーマにまで触れるものである。それは、ゼカリア自身の「二人の聖別された者」がやってくるという文章-それはおそらくクムラン文書に現れる二人のメシアに対して最も近い旧約聖書の言及である‐に関連している。(紀元前520年頃に書かれた)ゼカリア書で、預言者は、黄金の燭台と、7つのランプ、そして二本のオリーヴの木について天使と対話している。ゼカリアは、天使に、燭台の両脇のオリーヴの木について尋ねている。

 

 彼が私に、「これが何かわからないのか」と言ったので、わたしは「主よ、わかりません」と答えると、彼は、「これは全地球の主の御前に立つ、二人の油を注がれた人たちである」と言った。(ゼカリア書4:13-14)

 

 ゼカリアの背後の二人の少年を「二人の油を注がれた人たち」として描くことにより、ミケランジェロは、この予言者の像の下のルネッタ(円形部)に描かれた二人の少年(訳注:前述のヨセフの家族の二人のイエス)が誰であるかを強調しているようである(注)。

 

(注) トルネイは、裸あるいは半裸のgenii(子供達)の様々なペアについて別な解釈をしている。ミケランジェロが二人の子供を伴う予言者たちを描いていることを認識して、彼は、これを、魂の二つの能力に関連するプラトンの教義を示唆するものとしている。この見解を支持する証拠は見当たらないようであり、トルネイが引用する以前の様々な類似物-主にニコロとジョヴァンニ・ピサノからのもの-は、これらのgeniiが翼を持っており、おそらく天使であるという事実によって正しくないことが分かる。ミケランジェロ預言者に、プラトンのパエドロスを読むのは間違っていると私は感じている。ゼカリアの背後の二人の少年を、ギリシア人の一つの書物よりこの予言者により書かれた文章に関連するものとして読む方がミケランジェロの象徴的技法にはかなっている。システィナ礼拝堂は、主にキリスト教の作品であり、ルネサンスの初期の段階で人気のあった新プラトン主義やプラトン的傾向はわずかに見られるのみである。

 

 ミケランジェロは、確かな確信を持った二人の子供という秘密についての彼の知識を偽装する苦労をしなかった。おそらく彼の唯一の偽装は、二人の子供に名前を与えることをしなかったことである。システィナ礼拝堂に散りばめられた他のキリスト教シンボルが異端審問の関心をそらすので、その図像はその背後に完全に隠されてしまうと、ミケランジェロは確信していたのは間違いない。すべての芸術家が彼のような自信を持っていたのではない。-言うまでもなく彼は天才である。結果して、二人の子供というテーマは、通常、曖昧さをもたらすためにすっかり隠されることとなった。するとそれは、二人の子供のテーマが明確に描かれていても、ほとんどの場合、その作品が他のシンボリズムのテーマにより説明されうるということを意味する。ローマの心臓にある巨大な天井画は、この一般的ルールの例外である。

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 イエスが二人いたとする考えは、勿論、公教的キリスト教にとっては異端である。それを説く者には死がもたらされる危険があったので、それを表現する場合は、第2の子どもを、例えば洗礼者ヨハネに擬するなどしたのである。ミケランジェロは、この例外であるというのである。