k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

キリスト教は普遍的か?

 シュタイナーの思想の中心にはキリストがいる。従って、人智学はキリスト教とは異なるものの、キリスト教的色彩が強くなる。場合によっては、これは、別の宗教的バックボーンをもつ人には、シュタイナーを受け入れるときに障害となるだろう。それは、無宗教の人でもまた同じかもしれない。

 しかし、人智学は宗教ではない。キリスト者共同体というキリスト教団体の結成にシュタイナーは助言を与えたが、シュタイナーがそれを主宰したわけではない。人智学自体は、精神科学とも言われるように、霊的な事柄についての「科学」、普遍的な学問なのである。

 キリストという存在は、シュタイナーにとって、「信仰の対象」ではない。「認識の対象」と言えるかもしれない。キリストは、宇宙の創造に関わる霊的存在であり、人間であるイエスとは異なる存在である。キリスト教以前にも存在しており、その時代、地域、民族の別により異なる名前で呼ばれてきたのである(例えばゾロアスター教アフラ・マズダ)。

 キリスト教は、このキリストによって生まれたが、カトリック正教会プロテスタントなどの歴史的なその姿は、やはり時代と地域、民族の特性に応じて現われてきたものであり、本来のキリストの教えとしての「キリスト教」という意味では、その一部を含んではいるものの、そのすべてではないのである。

 そのような「キリスト教」は、仏教やイスラム教などの、別の宗教をも包含する、もっと普遍的なものである。時代や民族によって異なる霊的世界が存在するわけではない。霊的世界の捉え方に違いがあるとしても、同じ一つの霊的世界が背後にあるはずである。この普遍的な霊的世界に基づくのが本来の「キリスト教」である。これからすれば、既存のキリスト教宗派も、仏教などと同じく相対的な位置づけとなるのだ。ローマ・カトリックも、実際にはカトリック(普遍)ではないのである。

 人智学とは、この本来の「キリスト教」を求めるものなのかもしれない。

 以前、輪廻転生についての記事で紹介したピエトロ・アルキアーティ氏が、こうした問題について触れた『キリスト教からキリストへ』という本を出されている。1995年のドイツ語版が初版のようであるが、今回は、1996年の英語訳から、その一部を紹介したい。

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キリスト教は......すべての宗教より偉大である

 ルドルフ・シュタイナーはかつて、「キリスト教は宗教として始まりましたが、すべての宗教よりも偉大である」と題する講演を行いました。これまで述べてきた考え方を総括する意味で、この思想を考えてみたいと思います。まず、シュタイナー自身の言葉です:

 

「科学そのものは退化し、外界を崇拝するものに過ぎなくなりました。今日、これは頂点に達している。キリスト教は、強力なカウンターバランスを提供し、感覚世界に溶け込むことを防いできました。...中世には、科学とキリスト教の間にまだつながりがありました。しかし、今日、私たちがキリスト教の深さと意義を完全に理解するためには、超感覚的な知識の深化、知恵そのものが必要です。そこで、キリスト教を霊的観点から見てみましょう。これが次の段階-神智学的【訳注】キリスト教、霊的科学的キリスト教です。

 

【訳注】ここでは「神智学」という言葉が用いられているが、この講演は、シュタイナーがまだ神智学協会に在籍していた時代に行なわれたからである。シュタイナーの立場では、これは、「人智学」あるいは「精神科学」という言葉で置き換えても良いだろう。

 

 外界の知識や科学は、どんなに努力しても、精神的な深化を促すことはできないでしょう。それどころか、ますます技術を扱う手段、外界を支配する手段になっていくでしょう。ピタゴラス派の人々にとって、数学はまだ高次の世界、宇宙の調和の領域を認識するための方法でした。しかし、今や数学は、技術・テクノロジーを発展させ、外界をコントロールするための道具となりました。外界の知識や科学は、ますます世俗的で非哲学なものになっていくでしょう。人々は、代わりに霊的な源に接近する必要があります。これらの源泉が切り開く進化の道は、霊的なキリスト教の道です。霊の科学は、すべての魂的、霊的生活に必要な衝動を提供することができるようになります。

 科学はますます技術的な方向性を持つようになるでしょう。そして、大学はますます技術専門学校に似てくるでしょう。...物質主義が台頭する時代には、宗教が必要でした。しかし、人々が再び霊の世界を自ら体験し、もはや宗教を必要としない時代がやってくるでしょう。新しい知覚の能力は、霊的なキリスト教がなければ発達しません。それは、キリスト教の結果として登場するのです。このことが、私が皆さんにお願いしている言葉の根底にあるのです: キリスト教は宗教として始まったが、あらゆる宗教よりも偉大なものなのです。

 キリスト教の賜物は、未来のすべての時代に引き継がれます。宗教が存在しなくなった後、人類の最も重要な衝動の1つが生み出されるでしょう。人類が宗教的生活の必要性を克服したときでも、キリスト教は残るでしょう。それがもともと宗教であったという事実は、人類の進化と結びついています。それは、包括的な世界観としては、あらゆる宗教よりも偉大なのです。」

 

 . 同じ講義サイクルの別の講義で、ルドルフ・シュタイナーはこう言っています:

 

 「宗教が、知識の中に取り込まれたとき、古い形態の宗教-そこでは、進化を導く知恵は信仰によってのみ得られる-がもはや人々に役に立たなくなったとき、キリスト教はまだ存在するのだろうか」と、私たちは自問することができます。しかし、信仰にのみ基づく他の宗教は残ることがありませんが、キリスト教は残ります。キリスト教は、もともと宗教であったにもかかわらず、あらゆる宗教を凌駕する存在であるからです!これは薔薇十字の知恵です。キリスト教の原初の原理は、他のすべての宗教のそれよりも包括的なものでした。しかし、キリスト教はまた、宗教という概念そのものよりも偉大なものです。信仰の外皮が剥がれ落ちれば、その内なる核、つまり叡智の形そのものが現れます。キリスト教には、信仰の外皮を脱ぎ捨てて、知恵の宗教となる能力が生来備わっています。精神科学は、人類にその準備をさせるのに役立ちます。人類は古い宗教と信仰の形態がなくても生き延びることができるでしょうが、キリスト教がなければ生き延びることはできないでしょうキリスト教はあらゆる宗教的形式を突破するために存在するのです。人間の魂を満たすキリスト教の核心は、人々があらゆる単なる宗教的生活を卒業した後でも、そこにあるのです。」(1908年3月24日の講演、GA102)。

 

 ルドルフ・シュタイナーキリスト教の本質について語ったこれらの考えは、真のキリスト教が、全く単純に人類の本質であることを明確に示しています。キリスト教の未来は、人類の未来です。しかし、私たちが関心を持っているのが人間であるならば、まったく、なぜキリスト教について言及する必要があるのでしょうか。それは、「キリスト」と呼ばれる存在が、人間になることによって、人類の進化のあらゆる未来の段階を、絶対的にリアルで顕在的な形で予め示し、体現した霊的存在であり、したがって、それらをすべての人間一人一人が潜在的に有効となるようにした存在であるからです。だから、私たちは、キリストに浸透されることによって、ますます人間らしくなるのです。完全な人間性を獲得する手段は、キリスト存在によって示された方法以外にはないのです。私たちの真の完全な人間性は、現在の私たち自身の中に探しても見つけることはできません。見つけることができるのは、キリストと呼ばれる存在においてのみです。

 これとは別に、「キリスト」や「キリスト教」という言葉が、過去において、キリスト教の、人間的に、文化的に一時的な形態と-そして[キリストについては]これまでの私たちの意識の進化の度合いからして得ることができるキリスト存在の限られた概念と-同一視されてきたという文化的・歴史的事実があります。この事実が、多くの誤解を生んできました。現実と言葉、言葉と現実を同一視してはなりません。同じものが、異なる言語で様々に表現されているのです。ですから、インドでも日本でもアメリカでも、どこでも、「キリスト」や「キリスト教」という言葉を使わずに、ゴルゴダの神秘と愛の存在についてすべてを語ることができるはずだ、と私は想像します。そうすれば、重大な誤解を避けることができるでしょう。

 ルドルフ・シュタイナー自身、1922年にウィーンで開催された東西会議で一連の講演を行いましたが、そこでは少なくとも部分的に、「人智学」や「人智学的」という言葉を使わないようにすることが彼の意図でした。彼はこれを実現し、その事実を誇りに思っていたのです(GA257、1923年2月28日と3月3日の講演を参照)。彼が伝えなければならなかったことの本質は、たとえその言葉そのものを使わなくても、間違いなく人智学でした。

 ルドルフ・シュタイナーの精神科学は、キリストという存在に対して、「キリスト」という言葉そのものに劣らず本質的な方法でキリストを特徴づける豊富な名前を、実際に私たちに与えてくれるのです。キリストは、「太陽の存在」、「愛の存在」、「人類の代表」、「人の子」、「カルマの主」、「復活者」、「帰還者」、「菩薩の師」、「聖霊の授与者」「宇宙の言葉」「ロゴス」「宇宙の意味」「自我の存在」「私という存在」「自由を可能にする者」「完全で神聖な人間」「宇宙の父の子」「子なる神」... と呼ぶことができます。

 キリスト教以前の古代の密儀の秘儀参入者が、地上に向かって降臨する太陽の存在を指定した名前を使うこともできます。インドでは「ヴィシュヴァ・カルマン」、ペルシャでは「アフラ・マズダ」、エジプトでは「オシリス」、ユダヤでは「ヤハヴェ」[訳注]などです。私は、このリストを完成させることができません。太陽系の中心的存在であり、すべてを包含する存在の名前は、他にもたくさん考えることができると思います。

 

[訳注]厳密には、旧約聖書の神ヤハヴェとキリストは異なる存在である。ヤハヴェは月の神である。しかし、月が太陽の光を受けて光り、太陽の存在を示しているように、旧約聖書では、キリストはヤハヴェを通して語ったのだ。

 

 もし私たちが、特定の言葉から自分自身を「自由に」するこの運動を拡大し、すべての人間の進化のすべての未来の段階を体現する理想と、言葉を超えた本質的な方法で自分自身を内的に結びつけるなら、私たちは皆、完全に自由にするものにアクセスすることができます。人間性の本質としてのキリスト教は、特定の個人や集団の所有物、特権、独占物ではありません。この「完全な人間存在」を知覚する者は、自分がこれまでなってきたものに満足することはできません。私たちは、すでにあるものを通して人間性を経験するのではなく、目指しているもの、なりつつあるものを通して人間性を経験するのです。人間とは、私たちが[現在]何であるかではなく、私たちが何になりつつあるかということです。私たちはキリスト教徒ではありませんが、キリスト教徒になりつつあるのです。ゲーテは彼の「ファウスト」を次の言葉でまとめています: 努力の絶え間ない努力に従事している・・・ この努力する人間こそが、本質的な人間であり、人間そのものなのです。

 私たちの過去は、私たちを互いに区別し、したがって私たちを分離しています。未来は、絶対的な始まりの交わりの中で、すべての人々をもう一度結びつける可能性を持っています。重要なのは、まだ到達していないものを目指して努力することであり、すべての人が自分自身を、初めからのスタートとして経験するのであれば、すべての人は普遍的な交わりに参加することになります。人間になることは、一人ひとりの人間の、しかし共通の課題です。私たちが過去の経緯からヒンズー教徒、仏教徒ユダヤ教徒イスラム教徒、「キリスト教徒」、「人智学者」と名乗ることは、普遍的な人間性を実現するためには全く関係ないことなのです。これは、最後の2つのカテゴリーにおいて特に強調刷る必要がありますなぜなら、多くの人々は、その名前自体によって、あるいは精神科学の考え方によって、キリスト教はすでに自分が持っているものだと考える誘惑に駆られるからです。しかし、もしそう考えるなら、彼らは、自分のキリスト教の欠如を証明することになるだけなのです。

 

完成の展望

 ルドルフ・シュタイナーの精神科学によって知ることができるキリスト教の普遍的な側面の将来の展望を示すために、人間と地球の進化の集大成として生じる完成の性質と形態を簡単に見てみましょう。

 ルドルフ・シュタイナーは、この完全性を、3つの鞘に包まれた人間性自我からなるものと説明しています。この人間性自我は、キリスト自我です。すべての人間の自我は、愛の存在の中で、統合されると同時に、完全に個性を保つことになります。私たちの進化のサイクルにおいて、キリストの自我は唯一可能な大宇宙の自我であり、惑星「地球」全体を包含し統一する自我です。キリストの自我に、アストラル体エーテル体、身体を提供することが人類に許されています。

 人間のアストラル体は、人類が自らの中に開発し保存していく驚異と畏怖の力すべてで構成されるようになり、人間のエーテル体、キリスト自我の第2の鞘は、共感と愛の力すべてで形成され、人類がキリストに提供できる肉体的ファントム体[訳注]は、良心と道徳的責任の力すべてで構成されます。この三重の身体は、同時に、動物界、植物界、鉱物界の復活した身体となるのです。

 

[訳注]シュタイナーは、復活したキリストの身体をファントムと呼んでいる。それは身体そのものではなく、それを保つ原型のようなものらしく、エーテル体的なものという者もいる。キリストのこの3重の体は、人類全体により造られると言うことだろうから、当然、人間のそれらとは本質的に異なるのである。

 

「地球が究極の目的を達したとき、地球の最高の実質として何が残るのでしょうか。キリストの衝動は地球に存在し、霊的な実質性としてそこにありました。それは残り、地上の進化の過程で人間に取り込まれていくでしょう。しかし、キリストはどのように生き続けるのでしょうか。地上に3年間住まわれたとき、彼は、ご自身の肉体、エーテル体、アストラル体をもたず、ナザレのイエスの三つの体の鞘をまといました[訳注]。しかし、地球がその究極の目標を達成したとき、それは人間のように、キリストの衝動に完全に対応する完全に発達した存在となるでしょう。しかし、キリストの衝動はこの3つの体の鞘をどこから引き出すのでしょうか。ゴルゴダの秘儀から始まった人類の進化の過程で、地上に発生したものからに他なりません...。

 

[訳注]ここでのキリストとは、宇宙ロゴスとしてのキリストであり、人間イエスとは異なる。キリストは、イエスヨルダン川での洗礼の時に、イエスの体に降ったのだ。それはイエスが30歳の時であり、従って、キリストが地上で活動したのは3年間なのである。

 

 このことを理解して初めて、福音書の次の一節が真の意味を持つようになる。「あなたがたは、私の兄弟であるこれらの最も小さい者の一人にしてくれたのは、私にしたのである。」(マタイ26,40)

 確かに、私たちがキリストを外的に描き想像する仕方すら、未だ解かれていない問題です。外的表現は、驚き、共感、良心といった、キリストを包む衝動を表現するものでなければなりません。キリストの顔つきは、私たち人間を地上的なものにしているあらゆるもの、欲望や感覚に縛られた性質のあらゆるものが、克服され、霊化された形で彼の顔に現れるような、生きた方法で描かなければならないでしょう。彼の顔の顎と口は、良心の力の最も集中した展開の表現として、最大の力を明らかにしなければなりません...口は、食べるためにあるのではなく、人間がこれまで行使してきたすべての道徳と良心を表現するためにあると明確に感じさせるもので、さらに彼の骨格、歯、下顎は、これらの口の力が付与されて、形成されています。...... 一方、彼の目からは、目が他者を見つめることのできる最も強力な共感力が語られるはずです。それは、印象を受けるためではなく、他者の喜びや苦しみに全霊を注ぐために。その額は......目の前にあるものを理解し処理する「考える人」の額ではなく、対照的に、驚きを語る額、目の上に突き出し、頭の上に緩やかな後方にドームを形成し、世界の神秘に対する畏怖と呼ぶべきものを表現する額でしょう。キリストの頭は、肉体をまとった人間の間では出会うことができないようなものでなければならないでしょう。」

 

 最後に、ゲーテが『詩と真理』(第3部15巻)で語っているアハスヴェルスの伝説に触れたいと思います。

 ゲーテは、若い頃、この中世の物語に魅了され、この物語をもとに『ファウスト』に勝るとも劣らないドラマを書こうと思ったと述べています。ゲーテは、「さまよえるユダヤ人」アハスヴェルスを、単に「ユダヤ人」としてではなく、人間そのものを象徴する人物として捉えました。

 アハスヴェルスとは、特定の民族の特殊な性格との自己同一性を克服し、それだけが真の個性の経験をもたらしてくれる、人間の普遍的な側面に目を向けるために奮闘するすべての人のことです。彼は、キリストの前に生きているすべての人であり、キリストの後に生き始めることができるように、キリストが手を差し伸べている人です。彼は、(高次の自我において)人間性の代表者にどうしようもなく惹かれます。同時に(低次の自我において)最も深い反感と拒絶を感じるのです。

 中世では、ユダヤ人をこの役に据えるのはごく自然なことでした。このことは、キリスト教がまだ十分にキリスト教的でなかったことを示すものです。人々は、自分はすでにキリスト教的であるが、ユダヤ人はそうではないと考えていたのです。

 ゲーテはこの伝説を取り上げましたが、そのような狭い意味でのキリスト教的伝統な意味ではありませんでした。ゲーテにとってアハスヴェルスはすべての人間であり、人間そのものなのです。ゲーテのアハスヴェルスは、3年間、ナザレのイエスを、家族を持ち、適切な職業に就き、自分の力で何かを成し遂げること、そして混乱した理論で人々を混乱させかき乱すことをやめるよう説得するために全力を尽くしました。しかし、すべて無駄でした。そのため、ユダが玄関を通りかかり、たった今イエスが死刑になったことを告げると、さらに激怒します。この後しばらくして、キリストは玄関前で十字架の下で倒れ、キレニア人シモンが十字架を彼の代わりに担ぐことになります。

 ヴェロニカ(人間の魂のイメージ)【訳注】は、キリストの苦しむ顔の汗を布で乾かす。しかし、彼女がその布を頭上に掲げると、変容した表情がその上に現れます。人間の魂は、進化するにつれて、感覚的な知覚を通して、ロゴスの顔を下から歪んだ印象で受け取ります。世界の物質的な側面、物理的な性質のさまざまな要素、人間のエゴイズムの孤立化させる働きだけを経験するとき、私たちは不和と断片化だけを見ます。

 

【訳注】ヴェロニカとは、キリストの磔刑に関わる伝説的な聖人である。イエスゴルゴタの丘に赴く途中、エルサレムの街中で、イエスに汗を拭くように、ヴェロニカが自分のベールを差し出したところ、戻されたそのベールにイエスの顔が写されていたという伝説があるのだ。なお余談であるが、この伝説は、いわゆる「イエス聖骸布」に関連するとする者もいる。

 

 しかし、人間の魂が、内なる浄化と直感的な思考によって、霊の高みにあるロゴスの表情を知覚することができるとき、ルドルフ・シュタイナーが「エーテルの出現」と呼ぶものを体験することができるのです。尊敬、共感、良心という魂の力によって、直感的な思考において、変容したロゴスの表情を知覚することができるのです。低次の存在領域から、人間は純粋な普遍的でありまたユニークな個性の中に復活するのです。

ゲーテは次のような言葉で締めくくっています。

 

「愛に満ちたベロニカは、ある瞬間、布で救世主の顔を覆い、次の瞬間、布を取り去り、高く掲げる。そこにアハスヴェルスは主の顔をみた。しかし、それは現在の苦しんでいる顔ではなく、天国の生命で輝く、栄光に満ちた変貌した顔であった。このことに目をくらませた彼は、目をそらすと、言葉を聞いた。: 「あなたは、もう一度この姿で私を見るまで、地上をさまようことになる」。しばらくして、この強力なビジョンが過ぎ去り、アハスヴェルスは我に返った。その時、アハスヴェルスは、皆が裁きの場に集まり、エルサレムの街は閑散としていることに気づく。落ち着かない気持ちと憧れが彼を突き動かし、放浪の旅が始まる。」(『詩と真実』第3部15巻)

 この言葉は、キリストの再臨の体験を美しく表現しているのです。人の子の、苦しみに満ちた歪んだ顔を持ち上げ、それを「帰ってくる者」の変貌した顔、輝く愛に満ちた「人の子」の顔に変えるのは、人間の魂であるベロニカです。この無限の変容は、自由と愛の永遠の業なのです。

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 「キリストは、“太陽の存在”、“愛の存在”、“人類の代表”」であるとされたが、人類の代表ということには、説明が必要だ。

 シュタイナーの立場では、キリストは、三位一体の神のうちの子なる神であり(「正統派」キリスト教の理解とは異なるが)、宇宙ロゴスであるが、地上に受肉する前は太陽の霊であった。至高の霊的存在である。その神的存在が地上においてイエスの肉体に降ったのである。こうしてイエス・キリストが生まれたのだ。

 それは確かに人類の原罪を救うためであるが(これもまた、「正統派」キリスト教の理解とは少し異なる)、それによって人類は未来において霊的進化を遂げる力を与えられたのだ。「第10のヒエラルキー」で触れたように、人間は、今は進化の途上にあり、その進化の目的は、10番目の「天使」として神々の創造行為に参加していくことにある。その道しるべとなるのがキリストなのである。従って、キリストは、未来においてあるべき人類の姿を人間に示しており、ゆえに「人類の代表」なのである。

 シュタイナーは、ゲーテアヌムのためにキリスト像を制作したが、その名は、「人類の代表」である。

 上では、「本来のキリスト教」が論じられたが、勿論、伝統的諸キリスト教宗派を否定するものではない。当然にそこにも真実は伝えられてきている。ただ、それらは、歴史的、民族的制限もあり、必ずしも普遍的ではないのである(「本来のキリスト教」も時代の流れの中で発展していくものなので完成されたものとは言えないが)。
 今、このような伝統的キリスト教に対しても敵対勢力による攻撃が存在するように思われる。パリのノートルダム大聖堂が焼け落ちたとき、私はその思いを強くした。これらの大聖堂を実際に建築した人々は、本来の(言い換えれば秘教的な)キリスト教を確かに認識しており、大聖堂には、その秘密の知識が込められているからである。彼らは、それを否定、破壊したいのだ。
 その攻撃は、当然、伝統的キリスト教の教義にも及んでいる。既にブログで掲載した記事にも書かれているが、トマス・メイヤー氏など人智学派の一部は、カトリックの、近年になって導入されてきた教義の問題を指摘している。このような動きが、今、現教皇において強まっているようにも見えるのである。
 それは、ソロヴィヨフが預言した偽りの「世界宗教」に結びつくのかもしれない。しかしそれは、シュタイナーの語る「本来のキリスト教」に取って代わろうとするものに他ならないであろう。