k-lazaro’s note

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シェークスピアの暗号


 今回は、これまで「二人の子どもイエス」の関連で何度か紹介してきたデイヴィッド・オーヴァソン氏の、別の著作『シェイクスピアの秘密の書物 神秘的で薔薇十字的な暗号の解読』についてさらに紹介する(これについては先に少し触れている)。

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 この本は、以前述べたように、薔薇十字運動、特にイギリスのそれを論じたものなのだが、この本自体の宣伝文句を借りれば、次のようになる。

 「シェークスピアは世界的な天才として知られるが、彼の秘密の側面については余り知られていない。彼は、エリザベス女王とジェームズ1世治下の秘教文献に見られる秘密の暗号を使っていた。アヴォンの詩人【シェークスピア】はそのような暗号の名人であった。・・・しかし、シェークスピアはこの暗号の発明者ではなかった。これを用いた彼以前の秘密の作者の中には、フランスの大預言者、大学者ミシェル・ノストラダムスがいる。

 オーヴァソンが明らかにしているように、多くの指導的な秘教の作者-錬金術師、オカルティスト、薔薇十字団員-達が、この秘密の書物に貢献した。この暗号を用いた驚くべきイギリスの人物の中に、エリザベス女王世の神秘的なアドバイザーであるジョン・ディー、『錬金術師』の著者のベン・ジョンソ・・らがいる。エドマンド・スペンサーの『妖精の女王』は、この時代の最も有名な秘教的作品である。『シェイクスピアの秘密の書』は、地下を流れる注目すべき文芸運動を共に形成する文芸上の人物達-ヤコブベーメロバート・フラッドらを含む-の秘密を開示する。さらには、洗練された暗号の例に満ちた、薔薇十字運動の作品『化学の結婚』の作者とされる、シェークスピアの同時代人ヨハン・アンドレーエも。」

 

 このように、この本は、シュークスピア等の作品に込められた「暗号」の秘密を明らかにしていくのだが、その中心となるテーマは、本の表紙にも出てきている33という数字に込められた秘密である。

 上の著述家達の著作では、表紙や本文に33文字の文章、33行の頁などの形で33という数字が暗号として込められている。そして、33という数字の意味は、人間の(高次の)自我であるという。

 なぜなら、自我を代表する神的存在はキリストであり、キリストの生涯は33年であったからである。

 シュタイナーは、15世紀から意識魂の時代が始まったとしているが、この意識魂こそ自我の住まう場所であり、そして人間は、さらにアストラル体を浄化してより高次の自我(霊我)を形成していかなければならない。こうした自我の原像であり、苦難を伴う霊的進化の助力者がキリストなのだ。

 しかし、他方で、人類が自我を成長させるためには、物質世界と対峙しなければならない。それは、逆に物質世界に取り込まれ、唯物主義に陥る危険性を伴っている。人類は、この危機を乗り越えていかなければならないのである。

 薔薇十字運動とは、こうした霊的進化を取り巻く状況を見越して、秘儀参入者(マスター)達が背後で指導した運動であると人智学派は考えている。

 

 なお、真の薔薇十字運動の創始者は、クリスチャン・ローゼンクロイツであり(新約聖書にも登場する、キリストによって蘇ったラザロの後の姿。そしてラザロこそ福音書記者のヨハネである)、その霊統は、シュタイナーの人智学派にも流れ込んでいるという。

 また、ラザロの以前の地上生には、ヒラム・アビフがあり、このアビフこそ、フリーメイソンの神殿伝説に登場する人物である。従って、真のフリーメイソンは、薔薇十字運動の霊統とも関係するのである。

 過去、そして現在も、これらの名を冠する「同胞団」があるが、上の真の同胞団の霊統を引き継いでいるかどうかは吟味してみなければ分からない。その名を僭称する団体もあるからである。

 

 今回はこの本のジョン・ディーについて述べている部分を紹介しタイと思う。最初は、ジョン・ディーが創作した「モナス」というシンボルの解説で始まるのだが、それははやがて意外な事実につながっていくことになる(人智学派ではないと思われるオーヴァソン氏を今回取り上げる理由はそこにある)。

 

 

第4章 ジョン・ディーの聖なるモナスmonas

 

 先ず、オーヴァソン氏は、何世紀もの間、巡礼者を受け入れてきたサンティアゴ・デ・コンポステーラの内壁に刻まれたシンボルの意味を解説する。

 その意匠は、同じ長さの腕からなる十字と、それが作る4つの空間に他の4つのシンボルが配置されている。上部の左には三日月がある。右には、輝く太陽がある。下部の左にはアルファの文字、右にはオメガの文字がある。アルファベットの最初と最後の文字である

このシンボルは、十字架が形作る4つのスペースにまとまって、我々の探求に関連する二種類の重要なキリスト教思想をもたらす。

 上部のシンボル、太陽と月は、キリストの行いは宇宙的次元のものであることを明らかにする為にデザインされた初期キリスト教的象徴の名残である。キリストの死に際して日食があったという考えには天文学的にはいかなる根拠もないようだが、そうだとしても、それは一定のシンボリックな意味を持っていた。・・・

 キリストの磔刑に結びついた太陽と月の、あるいはこれらの天体の擬人化されたものであるシンボルは、3世紀の芸術作品にまで遡り、数千というキリスト教芸術作品の中に見ることができる。

 秘教学者は、月-太陽シンボル、地球自身の運命へのもっと興味深い関係、についての広範な探求を提供してきた。もし(空想的であるかそうでないとしても)日蝕という観念に結びつくと、私達は、2つが3つになるのを知る。地球がなければ日食は生じないからである。太陽あるいは月の蝕の時、3つの天体は3次元において、短時間であるが一直線に並ぶのである。

 磔刑のイメージでは、十字架の場所はこの宇宙的イメージに直接結びつかなければならない。それは、キリストは地球自身の衰退している活力を復活させるために死に、キリストの復活は太陽と月の将来に何らかの形で結びついている秘教的真実を訴えるものである。ここで詳細には触れないが、いかにシンプルなシンボルの配置が最深奥の秘教的教えを指し示しているかを見るだけで十分である。この十字の上半分は、霊的救世主という役割において、キリストが宇宙空間の中で地球に結びついていることを示唆する意図があることは明らかである。

 2つのつり飾りのギリシア文字のある十字架の下部分は、時間の流れにおけるキリストの役割を示している。このシンボルは、太陽と月のシンボルよりも古い。確実に紀元1世紀に遡る聖書の“啓示”に主に由来しているからである。実際、キリスト教シンボリズムにおいて、アルファとオメガは、ヨハネの黙示録に出てくるキリストの言葉に関係している。ここでキリストは、時の流れあるいは持続の中で自身の役割について明かす2つの言葉を論じている。

 

 私はアルファにしてオメガ、始まりにして終わり、最初にして最後の者である。(「黙示録」22:13)

 

  この言葉は、キリストが自身はこの言葉のすべてであると宣言していることから、多くの意味を含んでいる。・・・キリストは、全ての書かれ話された言葉を包含し、自分を時そのものの主、時間の始まりと終わりにおけるマスターであると主張している。・・・

 十字と太陽と月、ギリシア語のアルファベットの2つの文字の5つのシンボルは、合わさって一つの全体を構成している。十字の上半分は、私達が永遠のあるいは霊的世界と呼ぶことのできる、宇宙のより高次の世界に関連している。下半分は、人間の思考-言葉と共にあり、言葉によって表されるもの-の明白なシンボルに関連している。言葉は、持続あるいは時間の中でのみ発せられると思われる。即ち、私達が関わっている思索のレベルにおいて、ギリシア語のアルファベットの2つの文字は、神秘的に、時間のつながり-すべての人間がその中に住んでいる神秘的な初めと終わり-を表している。

 従ってこの十字は、宇宙的なそして永遠の世界から来て、下位の時間に縛られた世界を支配したという真実を表現している。」

 

 次に、オーヴァソン氏は、ディーが、この5つのシンボルを、彼のモナスに用いているとして解説を続ける。【下図参照】

 

「16世紀の最も学識のあった人々の一人が、まさにこの5つのシンボルから秘教的真実を宣言したに違いないとしても驚くべきことではない。1564年に、ジョン・ディーは、印、あるいはシンボルにまつわる24の定理からなる『モナス・ヒエログリフィカ』を出版したが、そのシンボルは、ディーにより創作され、「モナス」と呼ばれた

 

 モナスは、十字、太陽、月とオメガの4つのシンボルから構成される。この配置は、表面的には、最初の文字、アルファが無視されているように見える。しかし、ディーは、この本の分析的な文章において、彼のモナスの構造から巧妙に導き出して、第5のシンボル、アルファを登場させている。ディーの『モナス・ヒエログリフィカ』が、中世のキリスト論の、古代から引き継いだ多重構造のシンボリズムと16.17世紀に発展した秘教的教えを結び付けたことは驚きではない

 

 私自身としては、ジョン・ディーについて彼個人だけを考えることは不可能であると思う。彼の精神は、彼の人生と作品ではないとしても、彼のフランスの同時代人であるミシェル・ノストラダムスと結び付いていた。エリザベス女王の相談役であるディーは、フランス女王、カテリーヌ・ド・メディシスの相談役であるフランスの預言者と24歳若かった。秘教の歴史の観点のみからすると、この二人の人間は、彼ら自身の時代に巨大な影響を与えており、彼らの学者と占星術師としての評判は、今日に及ぶ。彼らが会ったことを示すものはないが、彼らは一つの注目すべき秘密を共有していた。彼らはそれぞれ、自分のホロスコープにおいて同じ働きをするディグリー(度)をもっている。・・・

 この二人の注目すべき人間が共有する一つの事柄は、巨蟹宮の想像的な性質を反映しているようである。なぜなら、彼らは共に洗練された暗号解読と未来の預言に興味を持っていたからである。・・・ディーのモナスの背後にある意味を探る中で、私達は、最も厳重に秘匿されてきた歴史上の秘密の一つに導かれる。」

 以下、ディーという人物についての解説が続くが省略するが、彼も、33の暗号を用いていたという。

 説明は、いよいよ彼の主著である「『モナス・ヒエログリフィカ』に向かう。

 

「彼の1564年の『モナス・ヒエログリフィカ』に見られる神秘学者としての彼の成果にのみある。そのような作品の通例として、この本は、数学と哲学からキリスト論に至る様々な深遠な主題を扱う秘教的な作品であった。その文章は、ディーがモナス-彼自身の創作による絵文字的図形-と呼ぶものの解説だと思われている(下図の一番左のもの)。

 最もシンプルな観点から見ると、この印は、16世紀の全ての占星術師達によく知られ、現代の占星術においてもまだ用いられている4つの印を組み合わせたものである。その中には、太陽を意味する円によって囲まれたドット、月を意味する三日月、白羊宮の印に似た形のもの【一番下の部分】、そしてディーが主に4要素と結びつけている4つの腕をもった十字-それぞれの腕が火、空気、水そして地の伝統的な要素を表す-を見ることができる。

 この印のディーによる分析は、24の定理の中に説明されている。それらは、この印の中心のドット(点)がいかにこの印全体の基礎をなし、そして時間と空間の本質のセミ幾何学的考察を導き出すに至るかを示す定理に始まる。秘教的な事柄にそのような深い関心を持つ人物について一般に考えられるように、それは簡単に理解できる本ではない-特にディーがその文章に多くの暗号化された引用を盛り込んでいるため。多くの現代の学者たちは、『モナス・ヒエログリフィカ』が錬金術についての本であるという意見をもっている。しかしそれは確実にそうではありえない。ある意味、この本は、明らかに彼の関心の一つであった錬金術よりも、ディーの占星術的関心により生まれ、創作されたものである。彼のモナスについての主張を真摯に受け取れば、その図形の結び付きは、全ての秘教的知識を包含しているとディーが信じていたことを受け入れなければならない。ディーがこの本で扱っているより深遠な素材は、既に見たように、ディー自身が生きた時代に発展の興味深い位相に至ったエゴ(自我)の本性である。」

 

 このように、従来のこの本の解釈がいかに皮相なもので、誤っているかを述べている。この本は、近代に誕生した「自我」の秘密を開示するものなのだ。

 ディーがこの本に込めた真理の中には、「人間と宇宙の本性についての考察がある。その作品からは、少なくともディーの目からすると、人間の霊的本性はモナスの中に象徴されているという考えが見られる。モナス(時々、モナド)は、一者、エゴであり、この本を自我に関する最初期の論文と見ることが可能である。このことが、現代の何人かの学者が、『モナス・ヒエログリフィカ』を錬金術の本と混同する理由を説明する。【訳注】

【訳注】一般に錬金術とは非金属を黄金に変える試みとみなされているが、その真の目的は霊的なものである。霊我を生み出すというような、人間の霊性の開発に関わることなのだ。

 

「(モナスという)言葉は、実際、『単一』を意味しており、実際の意味合いとしては、『一つのユニット』『一つのもの』を意味している。ディーのこの驚くべき本への理解が深まるほど、意識についての論文であり、彼が書いているモナスはエゴ-人間の魂の中の単一の実質、中心から無数の存在、創造世界を見ているもの-である。この本の最初の図形が、創造世界の全てのものが、いかに真実のモナスのシンボルである点に始まるかを表すものであるのは、偶然ではない。」

 

 以下、さらにモナスについての解説が続くが、今回のメインのテーマではないので、省略する。要点は、モナスは「人間存在におけるエゴを描こうとしている」ということ、また「人間は太陽霊キリストと直接結びついている」ということである。

 また、ディーと薔薇十字運動との関連が次のように語られる。

 

「秘密の学院は、まさに、それらは秘密である、ということにある。おそらくこれが、ジョン・ディーと薔薇十字運動-その活動と教えが非常に秘密に満ちている運動-の間に関係があることを証明することが学者にはできないということの一つの理由である。しかし、秘密の学院の真の優位性の一つは、それらは一般的に、復活させるために、それらが文明を通過した幾つかの痕跡を残しておくことである。ディーと、次の世紀の活動のために彼の時代に既にその基礎を構築していた薔薇十字学院との関係をそれにより導き出すことができる資料は残存していない。しかし、モナス印は、17.18世紀の薔薇十字の膨大な作品群につながっている-実際、自分たちを公にしようと試みた薔薇十字主義者達が共通して用いた秘密のサインであるように思われるという点で-ということは否定できない事実である(注)。

(注)その例は、後述の薔薇十字主義者ヤコブベーメの書物に見られる。」

 

 次に33の数字がこの本の中にいかに隠されているかが示される。

 

「モナスについての彼の本の中の最も重要な33についてのディーの言及は、私達が自分たちで見つけられないほどうまく隠れているとは言えない。もし94頁に掲載した頁全体の復刻のラテン語の行と、7と8の図を吟味するなら、そのページに正確に33行があることを見つけるだろう。更に、ディーの『モナス・ヒエログリフィカ』は、全ての頁で正確に33行を含むようにデザインされているのである。ディーはかなり長い間この33を保つことができていた。」

 

 更に説明は続くが省略する。

 なお、オーヴァソン氏は、ディーが暗号を使うのは、彼が秘儀に通じており、その知識を自分の書物に込めているからであるとする。そうした知識は秘匿すべきものであるが、秘儀に通じている人間には、ディーの本の中にそれを見いだすことができるのである。

 

 オーヴァソン氏は、続けてモナスとキリストの関係を示す。

 

「モナスの文章は、第2、第3の意味に満ちている。このことにより、学者たちが、ある文章の正確な意味について賛同できないということは驚きではない。ディー自身は、その文章は密儀に参入した者にのみ理解されると主張し、単なる学問性を無視する傾向がある。人がその文章を理解できるのは、密儀の教えの知識に根付く思索の助けによってのみであるので、まさにそれが当てはまる。それは特にこの本の定理23において真実であり、ディー自身より他の作者の観念を喚起するようデザインされた、ラテン語ヘブライ語そしてギリシア語の混合物である。16世紀にイングランドで生み出されたものの中で最も図表であるに違いない。この図表は何らかの説明文がなければ曖昧にとどまるように見えるが、下に採録しよう(『モナス・ヒエログリフィカ』23頁)。

 この図表は、当時ポピュラーであった階段状構造の一つによって表現された、モナスから導き出された3つの印で始まりまた終わる、縦に3つに並んだ12のセクションをもった1つの長方形として読むように意図されている【上の3段の右に下の3段が続く】。その本のフォーマットでは長い図表をそのまま載せることができなかったので、図表はカットされ、3段の区画は6段であるかのように表現されたのである。しかし、この頁に載せたその形を観察すると、ディーは単にそれを頁にフィットさせるためにだけではなく、聖書解釈学的なシステムを組み込むために図を分割したと見ないではいられない。例えば、掲載された上のブロックは、正確に33の言葉を含んでいる。これを数えるに際しては、最初の3つの印は無視しなければならない。何故ならこれらは原型であり、従って文字ではないからである。

 下の区画(即ち、Conceptusから始まるブロック)の文字を数えるとそれは30の文字を含んでいることが分かる。この数は私達に、3つの印の最後のブロックを、求められている33に達するために、「今や文字と同じものとなったものとして」数えるようディーが求めているという事実に注意を促すものである。これは、勿論、この聖書解釈学の本質的部分である。印の最後のブロックは、もはや原型とはみなされず、物質的世界に降下し物質化した言葉になったのである。従って、この数秘術は秘教的観念のキリスト教的あるいは薔薇十字的潮流を示しているが、この図表全体は、言葉の、元型的世界から物質世界への降下という観念を示すために、デザインされているのである。この後発見するように、この考えは、これらのブロック自身の内に込められたキリスト論的テーマによって確証される。数秘術的には、この図表には36のブロックがあるが、このうち3つは原型に関わるので、物質的領域において読むに際しては33のみが含まれているという事実においても確かめられる。この一見単純に見える木版画数秘術全体は、キリスト教的な33という数字に全く浸かっている。この数秘術のもう一つの例は、5つの区画の一番上の数を数えることの内に見られるようである。

 

  Existens  Adam  Mortify-  Adumbra‐  Natus in

 

 特に、文字のハイフンによる分割33文字を数えられるように、奇妙なやり方で行われているように見える。

 この33の四角の中の把握しようとするには、私達は、そのラテン語の幾つかをできる限り正確に翻訳しなければならない。ラテン語自体は特に曖昧ということではないが、ラテン語によって表現されている観念は非常に秘教的で捉えどころがないことは明らかである。私達の目的にとっては、全てのブロックを翻訳する必要はないことが分かるだろう。ディーの聖書解釈学的なプランを明らかにするには、6つのみを翻訳すれば足りるのである。

 

 Existens ante Elementa - エレメント以前の存在  これは部分的には、ギリシア文字に近似したものを作り出すために、モナス自身の要素を解体、再構築することによりディーが導き出したアルファの形における、言葉遊びである。彼がそれをどのようにして再構築したかを、簡単に見なければならない。以前に記したように、アルファは物事の始まりである。このように定義すると、物質がそれから作られたと考えられているエレメントの前にも既に存在していなければならないのである。1618年に錬金術師Daniel Myliusが、このエレメント以前の期間を描こうとした時、彼は、その説明においてinanis et vacua(形がなく空虚)で、Tenebris(暗闇の中にある)であった地球を表現している創世記1章2節に言及した。

 地球自体は暗闇の中にあるが、しかしそれは、神性の創造的な光に包まれているのである。

 

 Adam mortalis Masculus & Foemina -死を免れないアダム、男性と女性 

 これは、アダム創造(創世記1章27節参照)の前に神により創造された男⁻女両性具有の者への言及である。ディーは、聖書では男⁻女両性具有の者を述べるのにアダムの名を使っていないので、ここでアダムの名を使うのは誤っている。聖書の用語では、アダムは別の創造物である(創世記2章7節参照)。ディーは、このアダムをオメガに向いたラインで述べている。【訳注】

【訳注】秘教的聖書解釈では、人間の創造は2段階でなされた。最初の人間は、両性具有であり男女の別はない。その後、アダムが造られ、さらにエヴァが生まれて男女に分かれたのだ。創世記を注意深く読むと、これが分かる。創世記第1章26節で、先ず神々にかたどって人間が創造された(神々の似姿なので両性具有)。その後、2章7節になってアダムが造られたのだ。

 

 Mortificans  私は、幾らかの不安をもってこれを死ぬことができるという意味に訳す。しかし、私は、ディーが何らかの死に関連するおものを念頭においていたのではないかと思っている。Mortificansという言葉は、明らかに下の3段目にあるVivificansと対照をなすように意図された言葉である。

 

 Adumbrantus. 暗闇に包まれて これはおそらく、神により地の塵から作られた人類の流れへの言及である。(創世記2章7節参照)

 

 Natus in Stabulo 馬小屋に生まれて  これは、ディーが、この図表でイエス・キリストを扱っていることを示す最初の直接的な示唆である。この示唆は、ルカ福音書(2:7)に述べられているイエスの誕生に対するものである(注)。これは、ディーが、ルカとマタイの聖書物語の二つのイエス子どもに対応する二つの異なる誕生について詳しく述べることに関心を持っていることについての彼による、最初のほのめかしである。

(注)ルカのラテン語版は、praesepio(桶)における誕生を述べているが、ディーは、特別に、Stabuloにおける誕生を述べている。

 

 アルファに割り当てられた水平ラインの中に設定された発展のラインは、馬小屋で起きたとものとしてルカにより描かれたイエスに関連するものである。オメガに割り当てられた発展のラインは、マタイにより誕生が描かれたイエスに関連するものである。これは、イエスを彼らが崇めなければならないキリストであると認めた、東方から来た賢者たちがその場にいた誕生である。ヘロデ王の時代にベツレヘムで起きたとマタイ2:1で描かれている誕生による子どもは、王の中の王と見なされた。かくして私達は、羊飼いたちによって崇められた子どもの、馬小屋での質素な誕生をもっており、またもう一つの誕生を持つのである。それは、預言を成就することを運命づけられた子供、ベツレヘムに生まれ賢人たちに崇められたソロモン系統の子どもの誕生である。

 表における進行は、とてもほとんど宇宙論的である。私達は、エレメントの創造の前の時点にもう始まった。そしてアダムの創造前の両性具有の男女が神により創造された、人類の始まりの時点に達した。人類のこの流れは、死に従い、闇に包まれていることを記した。そして、私達は救済の物語の一つの頂点に達した。何故なら、この宇宙論の一つのつながりは、暗く質素な馬小屋でのルカ福音書のイエスの誕生で終わるからである。

 今や私達は、この図表に隠されている秘教的パターンの基本を解きほぐしたので、3つの原型の下にある33のすべての四角を翻訳する必要はない。私達は、ディーがこの図表に残した秘密のメッセージを明らかにするのに十分な情報を得たのである。

 この図表の3重の構造を十分に理解するには、一番上の区画を、(馬小屋で生まれた)ルカ・イエスと関連していることを理解しなければならない。これに対して、一番下の区画は、(ソロモン系統に生まれた。)マタイ・イエスに関連している-これが、Rex Regum Ùbique-「どこでも、王の中の王」である。第3の区画は、この二人のイエス子どもの産物あるいは統合-それは勿論、キリストである-を扱っている。この区画の様々な言葉やフレーズが明瞭に示しているように、キリストは、キリストの物質的系統の完成(Elementalis Genealogie Consumatio)である。彼の運命は十字架(Crux)。彼は、十字架上の虐殺に捧げられる(Holocaustum in Crux)。彼は、始まり(Principium)と終わり(Fins)の水平線上の間のみならず、彼の受肉の物質的道具として仕えた二人の子ども達の垂直線上に立っているので、中間者(Medium)である。彼は、十字架上の犠牲(Crucis Martyrium)に挙げられる。何故なら彼は地上的なものと神的なものの結婚(Matrimonium Terrestre Divinum)の産物-男と女の結婚であいあはなく、イエスとキリストの結婚である-であるからである。

 

 この33の区画から、ディーの更に驚くベき洞察を示す要素を引き出したいと思う。ディーは、イタリア・ルネサンスが隆盛だった時に活動していた指導的学者や芸術家たちに知られていた、秘教的伝承の一つに気づいていたように見える。この伝承は、キリストの受肉のために適した体を二人の間で提供した二人のイエス子どもがいたとする古代の教えに気づいていたことに関わっている(注)。このイエスの身体へのキリストへの受肉ヨルダン川での洗礼時に起きた。

 (注)この秘教的プログラムに関する参考文献一覧は、デイヴィド・オーヴァソンの『二人の子ども』(2001年)にある。

 

 二人の子どもの伝承は、本質的に、ルカとマタイ福音書に述べられている二つのイエス誕生の描写は、異なる状況というだけでなく、異なる時間、そして従って二人の子どもに明らかに関係しているという否定しがたい事実に基づいている。福音書に内在する証拠は、馬小屋で生まれた子どもは、マギ達の訪問を受けた子どもと同じ子どもではありえないことを示している。ディーの奇妙な構造の33の区画は、この伝承に関係する。以下において、私は、ディー自身の言葉をこの秘教的伝承に図像的に関連付ける試みをしたいと思う。

 先ず、ディーが大地との霊的な結婚(Matrimonium Terrestre Divinum)と関連付けた馬小屋の誕生(Natus in Stabulo)に関連するイメージを研究したいと思う。

 ディーによりアルファに付けられたイメージ(下)は、太陽の印を組み込んでおり、従って、馬小屋で生まれ、まさに輝く太陽存在として描かれているイエスに照応するものである。

 この木版画は、Franciscus de Retzaによる15世紀の作品から取られたものである(デイヴィド・オーヴァソンの『二人の子ども』(2001年)に収載)。子どもは、馬小屋の中で地面に寝せられ、光の輝くオーラに覆われており、牛とロバが傍にいる。既に見たように、この馬小屋の誕生はルカ福音書に描かれている。

 十字架における殉教とディーにより描かれたHolocaustumは、彼自身の図表で中間の区画にあるように、創造の中間地点である。この時の苦痛は直ぐに、キリスト教の、更に言えば、エゴの運命の中心的メッセージである復活に道を開くものである(図は、アルブレヒト・デューラー、1500年頃)。ディーが述べているように、この十字架における殉教は、始まり(アルファのPrincipium)と終わり(オメガのFins)の間の真ん中(Medium)であり、栄光と変容である。その間にキリストが死に埋葬されたとされる、アルファの期間の暗黒の暗闇(Adumbratus)は、オメガ期間の復活という最大の(訳者補足:栄光の)出現(Manifestissimus)を生じさせるのである。

 オメガ期間は、マタイによって描かれた、ソロモン王にまでその系図が遡ることができる子どもの誕生に関係する。これが、二人の子どもの物語の枠組みの中で、オメガが未来に関係する理由である。この王の系統に受肉したキリストは、「どこにおいても」王の中の王(Rex Regum Ùbique)となるのである。図は(『二人の子ども』(2001年)より)、マタイにより描かれた、ソロモン・イエスを訪れたマギ達を描いている。マリアとヨセフは、8本の光線をもった星がその上に昇っている、むしろ豪華な家の外に描かれている。王、あるいはマギたちは、連続的描写で、先ず星追っているところと次にイエスを礼拝しているところが描かれている。

 彼ら(訳注:ルカとマタイ)のイエスの血統の説明では、イエスの誕生の二つの聖書の説明は、一部分が一致するだけである。それは、アブラハムからダヴィデに終わる13世代である。しかしこのダヴィデのポイントで、二つのリストは極端に分岐する。マタイは、ダヴィデの息子であるソロモンに由来する血統を描いている。これに対して、ルカは、ダヴィデのもう一人の息子であるナタンに由来する血統を描いている。二人の子どもを扱う文献では、二人は、ソロモンの、そしてナタンの子どもとして区別されている。もしこの二つの系図を真剣に受け取るなら(実際私達はそうしなければならないのだが)、二つの系統は、イエスという名前の息子を持つ、二人のヨセフに関連するという不都合な結論が強いられることになる。ルカの説明は、イエスはヨセフの息子であると、単に「思われていた」と述べることにより、これを正当としている。以下の比較は、最後の7世代だけであるが、いかにこの血統が根本的に異なっているかを示すものである。

 

  ルカ       マタイ

  ヨナ       アキム

  メルキ      エルイド

  レヴィ      エレアザル

  マタト      マタン

  ヘリ       ヤコブ

  ヨセフ      ヨセフ

  イエス      イエス

 

 ディーは、彼自身のモナスの解釈として、33の四角の中にほぼ理解不可能な多くの言及を提示しようと試みているように、二人の子どもというこの考えを短縮した形で触れている。16世紀の何人かの芸術家たちは、それほど曖昧にしようという意図はなく、二人の子どもというこの異端的テーマを扱っていると思われる絵画について、幾つかの研究がなされている(注)。画家としてこのテーマへの関心を見せている芸術家達には、アルファベット順で、フラ・アンジェリコ、ヨース・ファン・クレーフェ、カルロ・クリヴェッリ、フィリッポ・リッピ、レオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロ、マルコ・ドッジョーノ、マールテン・ド・フォス、そしてラファエロである(注)。

(注)クラウゼ・ツィンマー『二人の子どもイエス』(1969年)。拙著『二人の子ども』は、芸術と系図を全般的に扱っており、このテーマに触れる芸術の一定の形式の研究を含んでいる(271-408頁)。

(注)私は、このテーマへの接近を示す彼らの絵を載せている、前述のこの主題についての私の著作に収録した芸術家のみをここで挙げている。

 

 ミケランジェロは特に、この二人のイエス子どもという異端説を彼自身の特別な主題としてようで、非常な冷静さをもって、このテーマをヴァチカン自身の心臓に持ち込んだ。驚くべき事実は、二人の系図の物語は、二人の子どもを描く関連するイメージと共に、後期ルネサンス期の最も有名であるに違いないキリスト教絵画-ローマのシスティナ礼拝堂の天井画-のメイン・テーマであるということである。

 かくして私達は、聖書解釈学的に表現された文章で二人の子どもを扱った、16世紀における最大の秘教学者-ジョン・ディー-を発見した。彼はこの発見を1564年-このテーマのイタリアにおける主唱者であるミケランジェロが死んだ年-に出版した。二人の子どもというテーマのミケランジェロの描写は、ディーと同じ意味で、隠されたものではない。ミケランジェロは、このイメージに、今までにない率直さと創意に満ちたシンボリズムで取り組み、これを、認識可能な図像学的ディテールと数秘学の枠組みの中に置いた。驚くべきことは、システィナ礼拝堂の天井画の真実の意味が芸術史家達に未だに理解されていないことである。同じく、ディーのモナス研究の真の意味もまた芸術史家達に未だに理解されていないのである。

―――――――――                      

 勿論、デイヴィッド・オーヴァソン氏の、二人の子どもイエスに関する以上の解釈が真実であるかどうかは私には分からない。しかし私が読んだ感想は、納得できるもので、かなり信憑性があるようだという事である。

 何より、彼は、既にこれをテーマとする『二人の子ども』という本を出版しており、かなりこのテーマを研究していると思われるからである。

 しかしそれにしても、あの一見何を表わしているのか分からない、ある意味ありふれた表から、このような「真実」を解読するとは驚くばかりである。

 他にこの本では、例えば、ヤコブベーメの難解な図についても謎解きがされている。私はその意味を全て理解できたわけではないが、見事な解説であると思う。一見すると、ベーメ個人の芸術的イマジネーションの産物にすぎないと思われるその図について、細部にわたり、論理的な筋のとおった説明がされているのだ。そこにも多くの秘教的知識が込められているのである。

 これは私の限られた知識の中での感想だが、このような秘教的文章や絵図をこれほどに明快にまた具体的に解説しているものを、私は他に知らない。普通は、深い秘教的知識が無いために、表層的であいまいな「推量、推測」に終わるようなところで、オーヴァソン氏の場合、知識に裏付けたれた奥行きのある説得力ある説明となっているのである。
 彼の著作には、世の中にあふれているいわゆる「オカルト本」や、もともと秘教的観点のない、まとはずれな歴史学者の本にはないリアリティが感じられる。全く次元が異なっているとさえ思われるのだ。それが正しいということが前提だが、では、彼が、秘教の知識に裏付けられた、このような解説が出来るのはなぜなのだろうか?

 考えられるのは、やはりオーヴァソン氏自身が、隠されてきた秘教あるいは秘儀参入の伝統に触れていたということである。
 オーヴァソン氏は、ノストラダムスの予言詩の解説本で、それらの予言は、古くから伝わる秘密の暗号「緑の言葉」を元に書かれていると述べ、それにそって予言の解読をしている。

キリストの再臨とアーリマンの受肉 ⑦ - k-lazaro’s note

 しかし、その肝心の「緑の言葉」について、それが誰により造られ、それまでどのように伝わってきたのかについては語っていない。それを示す根拠となる文書、出典についての情報を示していないのだ。このことが、最初この本を読んだとき、私には不思議だったのだが(氏は、他のケースではほとんどその出典を明らかにしている)、やはりこれは、「秘密の伝承」であり、部外者には秘匿されるべきものと考えれば、それも当然なのかもしれない。
 また、オーヴァソン氏の他の本にもこの点についてのヒントがあるのだが、いずれにしても、氏と秘儀との何らかの接触が考えられるのだ。

 やはり、オーヴァソン氏は、ただ者ではないようである。だが、実は、彼についての情報はあまり存在せず、その素性は不明である。彼の本は幾つか和訳されているが、普通であれば、訳者には原著者の情報があるはずなのに、それはないということで、訳者の解説でも、その素性は明かになっていない。私がもっている原書にあたってをみても、和訳書と同じような記述しかないのだ。
 彼は、一体何者なのだろうか? これについては、次回、関連記事を載せる予定である。